第6話 集中

「桃菜がさー」


 そう話しはじめた美帆の口元を、桃菜が慌てて両手で塞ぐ。その様子を里帆が呆れた様子で見つめていた。


 修学旅行から二年生が帰って来て、部全体が本格的にオーディションの緊張した空気感に包まれると思っていたのに、想像したよりもずっと穏やかだ。三日後に控える運命の日を、誰もがなるだけ意識しないようにしているようにも思えた。


「それで、桃菜先輩がどうしたんですか?」


「マーライオンの近くで迷子になってもうてー」


 七海の問いかけに、桃菜の腕から抜け出した美帆が答えた。珍しく、恥ずかしそうに顔を赤くした桃菜が美帆の腕を力なくはたく。


「桃菜が嫌がってるやろ!」


「桃菜がはぐれたのは事実ですぅー」


「それをわざわざ後輩に知らせなくてもええやんって言ってんの」


「だって、その時の桃菜の慌てようったら、面白いし可愛かったし」


「まぁそれはそうやけどさ」


 今度は納得した里帆の肩に桃菜の手のひらが飛んだ。「ごめん、ごめん」と謝る里帆に桃菜はすねたように頬を膨れさせている。


 その様子を眺めながら、みなこの視線はふと部室の隅でベースの調整をしていた杏奈の方へ向いた。仲良く話す三人とは明らかに距離がある。里帆、美帆、杏奈では仲が良いが、桃菜と杏奈は共存出来ないらしい。なんとなく、嫌な空気が流れそうなものだが、本人たちが割り切っているせいか、妙な緊張感や嫉妬心は無いように思えた。だけど、それは決して大人な対応ではない。もっとネチネチとしてどんよりとした幼稚なにかだ。


「清瀬ちゃん、清瀬ちゃん」

 見つめていたこちらに気づいて、杏奈は頬を緩めた。ガサガサ、とカバンを漁りはじめたのを見て、みなこは彼女のそばに近づく。「ふふ、お土産買って来たで」と杏奈は可愛らしい小包を取り出した。


「ありがとうございます。中身はなんですか?」


「開けてみてよ」


 ピカピカと光るリボンを解いて、みなこは包装を剥がす。中に入っていたのは、小さなギターのキーホルダーだった。ずっしりとした重厚感は安価なものには思えなかった。


「わー、ありがとうございます。でも、これってシンガポー、ル関係あります?」


「えー! 別にシンガポール、関係なくても良くない?」


「せっかく行ったんやから、関係あるものに越したことはないでしょ」


「なんでもええって言ったやん!」


「まぁそうですけど。……でも、気に入りました! ギターケースに着けておきます」


「へへっ、ありがとう」


 照れを隠すように、杏奈はみなこから視線を外して、少し離れたところにいた奏にも声をかけた。みなこが渡されたものと同じ包装のものを彼女にも差し出す。


「キーホルダーですか! ありがとうございます」


「谷川ちゃんにはベースな」


 満面の笑みを浮かべながら、奏はベースのソフトケースにキーホルダーを取り付ける。それを見て、杏奈が自身のベースケースをくるりとその場で反転させた。


「実は、谷川ちゃんとはお揃いやねん」


「ほんとだ! とっても嬉しいです」


 素直に喜ばれたことが恥ずかしかったのか、頬を指先で搔きながら、杏奈は「ははは」と下手くそな笑みを浮かべた。



 *



 オーディションを翌日に控えた日の練習は、午前中のセッションが終わると、個人練習の時間に当てられた。部員たちは最後の調整に余念がない。今回のオーディションでは本戦で演奏するコンボのメンバーの選定がされるはずだ。


 演奏する曲は、ウォルター・グロスの作曲でジャズのスタンダードナンバーである『Tenderly』。「優しく」とその曲名にあるように、柔らかく切なく穏やかなメロディは、恋人たちの甘く大人な物語になっている。


 手元にある楽譜は、大樹がタブ譜へと起こしてくれたものだ。本当は、五線譜のまま弾ければ一番いいのだけど。今のみなこには難しいものがあった。当面の課題は、タブ譜から楽譜へと移行することだ。出来れば、来年の春までに。その思いでみなこは手書きのタブ譜を、そっと五線譜の後ろへと隠した。


 エレキギターを構えて、ふと息を吐く。みちるから演奏する曲を伝えられてから何度も聞いて、メロディはすっかり頭に入っている。手渡された音源にギターがなかったことは残念だったが、本番の大会ではちゃんとギターのあるアレンジがされるはず。それに、この曲で求められている技術は分かっているつもりだ。おそらく、柔らかく繊細なタッチ。曲が持っている悲壮感と優しさ、曖昧なその境界線をフラフラと歩くようなイメージで、みなこはギターを紡ぐ。


 ジャズの面白いと思うところは、曲が作られたその時代と対話をしながら、アドリブで「今」を衝動的に音楽に変えていくところだ。自分が今、どこにいるのか分からなくなりそうなくらい、曲の世界に没頭出来れば、どれだけ楽しいだろうか。


「みなこー、休憩せんの?」


 ふと、七海に声をかけられ、みなこは時計に視線を向けた。かなり集中していたらしい、さっきお昼を食べたばかりだと思っていたのに、短針は十六時を少し過ぎたところにあった。部室の外は少しだけ日が傾いているはずだ。


「詰め過ぎは良くないでー」


 七海の背後からめぐがひょっこりと顔を覗かせる。その後ろには佳奈と奏、さらには航平までいた。


「ほんまに集中してたみたいやわ」


「みなこちゃん頑張ってるね」


「……コンボに受かりたいから。大樹先輩を倒すのは難しいだろうけど、でも諦めたくない」


 そう語気を強めたみなこに、めぐが微笑ましそうに表情を緩めた。ツインテールの毛先を指に絡めながら、「私たちも気持ちは同じやって」と息を吐く。


「めぐちゃんも頑張ってるよな」


「織辺先輩倒すのは、何か奇跡でも起きてくれな厳しいけどな」


 肩をすくませためぐに、「めぐならやれる!」と何の根拠もなく七海が拳を突き上げる。おどけた七海の態度に、突っ込むこともせず、めぐはこちらを向いて小首を傾げた。


「それはそうとして、意気込んでるとこ悪いけど、最後の一時間は来週の練習に当てたいんやけど大丈夫?」


「うん。ごめんごめん、一人で集中してて」


「まぁ、オーディションは明日やしな」


 両手を後頭部に据えて、七海がケラケラと笑みをこぼした。ジャズ研の専門のドラマーは、七海しかおらず、コンボのオーディション合格はほぼ決定的だ。七海が余程の怠慢なミスをしない限り、彼女の実力ならば選ばれることは間違いない。


「通しで練習する?」


 そう訊ねた航平に、めぐが「うーん」とうねり声を出しながら少し熟考して答えた。


「それがええかもなあー。MCのところもちゃんとやりながら、本番を想定してやってみよか」


「台詞も考えといた方がええよな。休憩中にぱぱっと考えとくわ」


「ほんまにぃ、ありがとう」


 久しぶりに見るめぐのよそ行きの顔に、みなこは苦笑いを浮かべる。ぶりっ子なめぐの挙動は、主にまだ親しくない人物に向けられるものだ。その様を見なくなったということは、めぐが自分たちに心を開いてくれている証拠。それを知ってか知らずか、航平はめぐの反応に少しだけ困り顔を浮かべていた。


「休憩するなら飲み物でも買いに行く?」


「ええなー、ほんなら自販機行こうや」


 七海が肩にぐっと乗っかって来た。「ギター持ってるんやから危ない」とみなこが叱咤すると、「ケチー」と愚痴をこぼしながら、七海の手がみなこの首元に伸びてきた。どうもギターのストラップがブレザーの襟を噛んでいたようで、それを正してくれているらしい。


「そうだ! 今朝、お菓子買ってきたからみんなで食べようか」


「やった! ありがとう奏ー」


 手放しに喜ぶ七海の顔を見ていると、明日のオーディションの緊張を忘れることが出来る。緊張しない方法を身に着けろ。それは今年の初め頃に、里帆と大樹から教わったことだった。

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