第5話 定期入れ

 ブレーキと同時に、七海のスクールバッグに突き刺さっているドラムスティックがカラカラと音を立てた。バッグのポケットから定期入れを出し、みなこはオリーブ色のシートから立ち上がる。


「あれ、みなこ定期入れに変えたん?」


「あー、これは――」


 手に持っている定期入れに視線を落とし、みなこは言葉を詰まらせる。七海の指摘の通り、みなこは先週まではスマホケースに定期を入れていた。小さなうさぎの刺繍が入ったピンク色の可愛らしい定期入れは、誕生日に航平がプレゼントしてくれたものだ。


 みなこの誕生日は七月。それなのに、どうしてこの間まで定期入れを使っていなかったかと言うと、ただ単純に恥ずかしかったからだ。男の子からプレゼントを貰うなんて経験は初めてだった。それが航平相手でも、やっぱり照れる。今まで、そんなことしてこなかった癖に。心の中で唇を尖らせて、愚痴をこぼす。


「誰かからのプレゼント?」


「なんでそう思うん?」


 少し焦り顔で言葉を返してしまうが、定期入れに注視して、目頭に寄った七海の瞳には映らなかったらしい。「だって、みなこが選びそうなやつじゃないから」と七海はため息混じりに答える。


 こんな時にだけ名探偵になって。定期入れをスクールバッグの影に隠して、みなこは七海から視線をそらす。電車を降りれば、強く冷たい風が吹き付けてきた。今日は、近畿地方に少しだけ早めの木枯らし一号が吹いたらしい。


「私がこのデザイン持ってたら可笑しい?」


「別に可笑しくはないけど。可愛いと思うし」


 確かに航平がくれた定期入れは可愛らしい。自分には似合わないかと思ったが、そう思うのは選んでくれた相手に失礼だろうか。ウグイス色の駅舎の向こうに見える秋枯れ色の木々に、みなこは定期入れを重ねて見た。


「あれ、同じ電車やったか」


 背中から駆けられた声に、みなこは慌てて振り返り定期入れを背中に隠す。自分より随分高い位置にある顔を見上げた。


「同じ時間に部活終わってるんやから!」


「まぁ、そりゃそうやな」


 ケラケラと笑う七海に、航平も笑い返す。だけど、七海の言う通りだ。下校するタイミングが同じなのだから、乗っている電車も同じはず。別に貰ったものを使っているのだから隠す必要なんてないけど。無性に恥ずかしいのはどうしてだろうか。


「そういや、来週にはオーディションやけど、二人はどうなん?」


「どうって?」


「手応え」


「あー。まぁコンボの方は難しいかな。大樹先輩のギターは上手やし。それに勝つんは至難の業かも」


「俺らの学年で先輩に太刀打ちできんのは井垣くらいか」


 佳奈のサックスは本当に上手い。プロになる覚悟を決めて数ヶ月。彼女の腕は更に磨きがかかった。表現力、音の美しさ、なによりもアドリブの幅。実力の無い自分では、彼女の演奏に文句をつけるところがない。今の彼女を指導できるのは、本当にプロ並みの実力を持った指導者だけだろう。


「奏もええ線いってるんちゃう?」


「あー、谷川か」


 七海の言葉に、航平は納得して頷いた。ピピピッ、とICカードが音を立てる。みなこは二人の後ろに着いて、定期入れを使うタイミングを見られないように改札を抜けた。


「奏ちゃんも全然選ばれる可能性あるやんな」


「夏休みはずっとウッベ頑張ってたもんな」


 ウッベはウッドベースの略だ。奏は元々、電子ベースを弾くことが出来たが、ジャズでは多くの場合、ウッドベースを使うことが多い。電子ベースでも問題は無いのだが、演奏の深みや雰囲気の幅を考えると、ウッドベースを習得して損はないと言うわけだ。


「杏奈先輩も奏ちゃんに勝って欲しいって言ってたわ」


「ふーん。まぁ文化祭であんなことあったもんな」


「でも、手を抜くつもりはないみたいやけど」


「それはなによりやな」


 ふっと、吐いた航平のため息が強い風にさらわれる。男の子の香りが、みなこの鼻をかすめた。同じ空気を吸っているはずなのに七海と自分のリアクションは違う。なんとも無い顔で空を見上げる七海と、少しだけ照れている自分。俯瞰的に見て、これはどういうことなんだろうか。


 大きな航平の背中がすっと前に進んで行く。それを追いかけようとしたタイミングで、踏切が鳴り止み自動車が流れて来た。車一台分、航平との距離が開く。こちらを待つように、彼はその場で立ち止まった。


「あ、大西はあっちか」


「ううん。今日はみなこの家で勉強教えてもらうからそっちから帰るで」


 先に七海が航平の方へ駆け寄っていく。その光景が妙に胸に痛い。この痛みを以前もどこかで感じたことがある。思わず開いた心のアルバムに収められていたのは、中学時代に航平がサッカー部のマネージャーと遊びに行っているのを聞いたあの時だった。


 すごく単純で、恥ずかしくて、定期入れみたいな色の言葉が頭を踊る。ドキドキと弾む胸の鼓動を説明できる言葉は一つしかない。どうして自分は、航平にそんな感情を抱いているのだろう。問いかけた答えは一向に返って来ない。


「どうしたんみなこ? 早く帰ろうや」


「う、うん」


 また踏切が鳴り響いた。右に左に動く赤いランプを横目に、みなこは坂を登っていく。航平がくれたプレゼントはどういう意図のものだったのだろうか。ただの友人としてのものなのか、それとも。高校になって大人びただけ。もしかすると、幼馴染に上げるプレゼントに深い意味など無いのかもしれない。だけど、航平の誕生日にはお返しを上げても良いかもしれない。そんな風に思った。

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