第7話 持ち越し

 オリーブ色のシートに身体を沈めた七海が、すやすやと寝息を立てていた。昨日、遅くまで今日のオーディションの確認をしていたのかもしれない。いつもはおちゃらけているが、七海は影ではしっかり練習をしているタイプだ。


 車窓からの景色は、のどかな住宅街から少しだけ賑わい始める。川西能勢口駅に到着するアナウンスが流れて、みなこはブレーキで身体がふらついている七海の肩をゆすり起こした。


「乗り換えやで」


「うーん」


 腑抜けた声を出しながら、七海はよろっと立ち上がった。同時に、電車がカーブに差し掛かり、寝ぼけた七海が再びシートに倒れ込むように座る。


「なにやってんの」


「いたーい」


「寝ぼけてるからや」


「うぅ」


 泣き真似のように喉を鳴らした七海だが、シートがふかふかのおかげで痛みはなかったはずだ。こうして七海に緊張感がないのは、ちょっとだけ救いになる。本番の彼女は見てられないけど。昨日の夜からみなこの心臓の鼓動はちょっぴりだけ早いままだった。


「目ぇ覚めた?」


「目ぇ覚めたー」


 電車が減速して七海が再び立ち上がる。スクールバッグからはみ出したドラムスティックがカラカラと音を立てて、静かな車内に響いた。土曜ということもあり、この時間はまだ人が少ない。扉の方へ向かうドラムスティックを目で追いかけて、みなこも立ち上がる。木目調の扉が開けば、早朝のひんやりとした空気がみなこの生足を優しく撫でた。


「朝はもう結構寒いなぁ」


「けど、昼は二十度くらいまで上がるらしいで」


 七海のくせに天気予報をしっかり確認しているらしい。きっと温度が上がるのは気温だけじゃないはずだ。コンボというそれぞれのセクションに一つしかない枠を争う戦い。白熱しないわけがない。それに、編成だってまだ決まっていないのだ。実力がないと判断されれば、その楽器は参加しないなんてこともあるはず。


 七海は気づいているのだろうか。ドラムが不参加という可能性は限りなく低いけど、ゼロではない。「冬服やと昼間は暑いかもなー」と呑気な声を出す七海の余裕は、半年間培ってきた実力による自信だろうか。それとも、ただの能天気か。


 乗り換えのために階段を降りていく彼女の背中は、以前よりも少しだけ大きく見えた。



 *


「それじゃ、はじめはドラムからねー」


 みちるに呼ばれて、七海が「はい!」と元気よく返事をした。前回と同様、オーディションの待機場所は部室の一つ下の階にある空き教室だ。


「七海、頑張ってー」


「うん! 頑張るで!」


 めぐの激励に、七海は両腕で力こぶを作って答える。ニッコリと緩めた口元から白い歯が覗いていた。


 やっぱり、オーディションの時の雰囲気はいつもと違う。緊張感で満たされた空気は、どれだけ換気しようとも入れ替わらない。ピリッと張り詰めた重たい空気が、自分の番を怯えながら待つこちらをあざ笑うように教室の中を巡回している。それに負けないように、みなこはビシッと背筋を伸ばした。


「気合入ってるやん」


「可能性は低いと分かっててもつい」


 声をかけてくれた大樹に、みなこは苦笑いを浮かべる。大会のオーディションということもあり、さすがの大樹も緊張しているらしい。こちらに向けてくれた笑顔は、いつもよりも固く感じた。


「謙遜して。ちょっとは自信あるから緊張が生まれるんやろ」


「そうですかね」


「もちろん、俺は負ける気はないけどな。でも、清瀬が勝つ可能性もあるわけで。部長たちの判断やからな。こればかりは結果発表まで分からへん。でも、後悔せんように、緊張とリラックスをバランス良く、メンタルをコントロールせなな」


「はい!」


「力入りすぎちゃってミスしたらあかんで」


 大樹の表情が先程よりも穏やかなものに変わる。大樹のリラックスをする方法。もしかするとこのやり取りがそうだったのかもしれない。いつもならここで里帆が大樹を叱咤しに現れるのだが、今日の彼女は美帆との言い合いで忙しいらしい。教室の隅で行われている二人の言い合いを遠巻きに聞いていると、どうやらコンビニスイーツの新商品の話題だった。


「それじゃ、次はギターセクションお願いします」


 みちるに呼ばれて、みなこは「はい!」という返事とともに立ち上がる。「みなこ、緊張しすぎやでー」とみちるの背後から顔を覗かせた七海の口端がつり上がった。


 *


 昼過ぎから始まったオーディションは、順調に進んでいき、残すはピアノセクションだけとなった。全員が参加するとはいえ、部員自体が少ないことと実力は普段の練習から分かっているために、それほど時間はかからない。


 しかし、めぐがみちるに呼ばれて部室へと向かってから既に二十分以上が経過していた。人数の多いセクションでも、十五分ほどだったことを考えると少々時間がかかり過ぎだ。


 めぐが善戦したために選考が遅れているのだろうか。彼女は今回のオーディションに向けてかなり練習をしていたし、実力が上がって来ている。でも、知子に勝てるかと言えば、やはり難しいものがあるのも事実だ。


 そもそも、その選考にめぐが帯同する理由はない。演奏が終了すれば、めぐは待機教室に戻ってくるはず。前回もそうだったように、この教室で結果発表を待つのがいつものパターンなのだ。


 ふと見た時計の針は、すっかり三時を過ぎていた。前回なら、結果発表が行われていた時間だ。


「ちょっと長ない?」


「そうだね。めぐちゃんが行ってからもうすぐ三十分かな?」


 七海と奏が、みなこの後ろの席でそんな話をはじめた。「確かにちょっと時間かかってるな」と教室の前方で二人仲良く楽器を吹いていた里帆と美帆がこちらを振り向く。演奏していたのは、『Fly Me To The Moon』だ。七海がみなこの肩に掴まりながら、身体を前に伸ばした。


「ですよねー。前はピアノなんて五分くらいで終わってませんでした?」


「織辺先輩に勝つのは中々難しいからな」


 トランペットのピストンをコトンコトンと鳴らしながら、美帆はしみじみとつぶやく。


「それじゃ今回はどうしてです?」


 不思議そうに首を傾げた七海に、里帆と美帆も真似したように首を傾ける。似た二人の顔は、サックスとトランペットに少し違った形で映り込んでいた。


「ピアノの不調とかじゃないですか?」


 話に割って入ってきたのは航平だ。みなこたちの斜向いで男子たちは固まって座っていた。椅子に腰掛けギターを爪弾いていた大樹が「あー、それはありそうやな」と同調する。


「アホ、さっきまで何の異常もなかったやんか」


 当たりの強い里帆に、「そうやけど……」と大樹は言葉尻を弱くした。里帆の言う通り、午前中の練習ではピアノに異常はなかった。知子の勝ちが濃厚なこのオーディションで、ここまで長引くのはやはり不可解だ。


 そう思ったタイミングで、教室の扉が開いた。現れたみちるを見て、何事もなくオーディションは終わったのだと部員たちからホッとした空気が流れる。みなこも安心したのもつかの間、少しだけ不安そうな顔をしたみちるが思いもしない言葉を放った。


祥子しょうこちゃん、中村くん、ちょっといい?」


 手招きされた三年生の二人は、不思議そうに互いを見つめ合った。二人もこの件を不可解に思っているらしく、「何?」と祥子の眉根がみちるを追求するようにシワを寄せる。みちるはおずおずとした挙動で言葉を返した。


「ちょっと、話があって」


「分かった」


 窓際で練習をしていた祥子は、肩をすくませて机の上にトランペットを置いた。健太も席を立つ。


 みちるが二人を連れて行って、さらに一時間、ようやく現れた知子とみちるから告げられたのは、オーディションの合格発表を翌日に持ち越すというものだった。

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