第3話 歴史の時間
定例セッションの後半は、定番のジャズの曲を使い、見学組も参加をして演奏を行った。少人数時に大樹が演奏しているようなスケールを用いたアドリブではなく、大人数で演奏する場合、ギターはカッティングが主となり、リズム隊としての役割が強くなる。求められていることを、上手くこなせているか分からないけれど、トランペットやサックスのソロを支えている感じがして楽しい。演奏する楽しさを感じつつ、シンコペーションやスイングといったジャズに不可欠なリズムを実際の演奏の中でしっかり吸収していく。
演奏しては休憩、休憩してはまた演奏と、大人数と少人数のパートを変えつつ、上級生が一年生に指導を行いながら練習は続いていった。
「今日はこのへんにしよか」
時計を見やったみちるがそう呟いた。時計の針は、一八時を少し過ぎところで、宝塚南の完全下校時間は一九時だから練習を切り上げるには少々早い。
「みちる、先生来るまでまだ時間あるんちゃう?」
まだ練習し足りない様子の知子が不満そうにぼやく。
「知ちゃん、今日はイベントの話もせなあかんから、しゃーないやろ」
「そうやけど」
ピアノは一台しかなく、めぐと知子が交互に演奏していた。まだ弾いていたいと少しだけ拗ねた顔をしつつ、知子は渋々、鍵盤蓋を閉める。案外可愛らしい知子の一面を見て、みなこは少しだけ恥ずかしくなった。
「イベントってなんのことですか?」
両手にスティクを持ったまま七海が立ち上がった。その表情は少し興奮気味だ。部室に来た時、佳奈がイベントのことを言っていたがそのことだろうか。確か来月だったはず。ストラップを外し、みちるはサックスをスタンドにかけた。
「五月下旬に校外イベントがあるんよ。今日は最後にその説明。せっかくの定例セッションやけど、個人練やとバラバラのタイミングになって揃わんこともあるからね。えーっと、とりあえずみんな楽器片付けて座ろか」
部員たちは、それぞれの楽器を仕舞い、丸椅子を中央付近に並べて座った。自然と学年単位で固まる。
「ほんなら、さっそく来月のイベントの説明をします」
前に立った知子が部員たちをぐるりと見渡した。彼女が話し始めると、少しだけ部員たちに緊張が走る。無駄話をしていると注意されてしまいそうだからだ。
「二、三年は去年も出たので分かっていると思いますが、今年も我が宝塚南高校は、『花と音楽のフェスティバル』に参加することになりました」
知子の口から告げられたイベントに、みなこは聞き馴染みがなかった。おそらく宝塚市内のイベントなのだろう。川西市に住んでいるみなこは、あまりこっちの地域のことに明るくない。そんなみなことは対照的に、前に座っていためぐの肩がピクリと反応した。
「あ、それ知ってます。市役所近くの公園で毎年やってるやつですよね?」
「そうそれやよ。めぐちゃん行ったことあんの?」
めぐの隣に座っていたみちるがころっと首を傾けた。今日も赤いリボンが揺れている。
「はい。綺麗なお花が展示されて屋台なんも出てて、小さい頃に家族でよく行きました」
「私も小さい頃、よくおばあちゃんに連れて行ってもらっててん。めぐちゃんは、市役所から家近いん?」
「はい、武庫川を渡らんとダメですけど」
「ほんなら、
「もー、みちる。私語厳禁。説明の途中やで」
「ごめん、ごめん」
へへ、怒られちゃったとみちるは可愛らしくおどけてみせた。呆れたようなため息を漏らして、知子は手に持ったプリントに視線を落とす。
「日程は、五月下旬、中間テスト明けの土曜日。場所は、宝塚市役所そばの宝塚
知子が前列の生徒にプリントを手渡していく。めぐから回って来たプリントをみなこは、後ろの佳奈に手渡した。
「ありがと」
「あ、うん」
不意にお礼を言われて、なんとも半端な返事をしてしまう。悪印象を与えてしまっていないだろうか、とモヤモヤしながら、みなこはプリントを眺めた。
イベントには高校生だけでなく一般参加もあるようで、ロックバンドやクラシック、吹奏楽の演奏など多岐にわたっていた。会場では、多くの花が飾られ、フリーマーケットや屋台が軒を連ねるらしい。
「何か質問はありますか?」
「はい! ビッグバンドってなんですか?」
こういう時に質問をするのはいつも七海だ。ジャズの経験がないみなこにとっても七海の質問はかゆいところに手が届くようでありがたい。みなこにとってみんなの前で手を上げて質問をするというのは少々苦手な部類に入る。
「ビッグバンドは、新歓ライブを思い浮かべてもらうと分かりやすくて、大人数で構成されるバンドを指す言葉。つまり、花と音楽のフェスティバルにはあーいうメンバー構成で出場することになります」
「なるほどです。でも、わざわざビックバンドって言うからには、そうじゃないバンドがあるってことですか?」
ごほん、空咳を飛ばしてみちるが立ち上がった。クッと小さな胸を張って、知子の横に並ぶ。
「お姉さんが説明してあげよう」
わー、と楽しげな声を出しながら七海とめぐが拍手をした。
「みちる初めからその説明するつもりやったやろ?」
「やって、しなあかんことやろ? 歴史の勉強も大切なんよ」
「そうやけど」
不服そうな知子の顔をあえて見ないように、みちるはさっと正面を向いた。穏やかな笑みを作り、ぱんと一つ手を打ってみせる。きっと知子のマネだ。
「まずみんなにはジャズの成り立ちについて知ってもらう必要があるんよ。七海ちゃん、ジャズっていつどこで生まれたか知ってる?」
「えーっと、外国?」
「そりゃそうやろ。あんたホンマにアホやな……なんでこの高校受かってんの?」
鋭く棘の生えためぐの言葉に、七海はべそをかくようにみなこにもたれかかってきた。
「ひどい、そこまで言わんでも」
「あんたがトンチンカンなこというからやろ」
わずかに持ち上がっためぐの口端には嫌味は込められていない。きっと彼女なりの愛情表現なのだろう。顔を近づけた七海がみなこに耳打ちしてきた。
「めぐって私にあたり強くない?」
「あはは、ツンデレってやつかな?」
そもそもめぐは誰に対しても人懐っこい。七海へのぞんざい態度は、彼女の素の現れだろうか。揺れるツインテール越しに見えためぐの瞳は、少しだけこちらの様子を気にしていた。
「ちなみに、みなこちゃんは分かる?」
「えーと、アメリカですかね? 時代は、1960年代とか?」
「そうやね。聞き馴染みがあるジャズの曲は、それくらいの時代の曲が多いかも。でも、ジャズのルーツは19世紀末のアメリカ南部、ニューオリンズって街やと言われてるんよ」
ニューオリンズ。名前くらいは聞いたことがあったが、街の雰囲気は想像できない。そんなみなこの隣で七海が声を上げる。
「わー、確かになんかジャズっぽい街並みですね!」
七海がスマートフォンでニューオリンズの街並みを検索していた。石やレンガ作りの家々はとてもカラフルで、花やガラスで装飾された街並みは古きアメリカのノスタルジーを感じる。昼間は燦々と太陽が照りつけている一方、夜の街並みはネオンが賑わうバーが並び、七海がいうジャズっぽさが伺えた。ちなみに、授業中を除いて、構内で携帯電話を触ることはそれほど咎められない。規律さえ守れば自由を与えられる。それが宝塚南の校風だ。
「それじゃ、次にどうやってジャズは生まれのか。これは歴史的な背景やけど、当時のアメリカにはアフリカから連れてこられた黒人の人らが生活してたんよ。そんな彼らの民族音楽、ブルースやったりラグタイムやったりという、いわゆるブラックミュージックがヨーロッパの音楽理論と混ざりあったのが、ジャズの始まり」
その辺りの時代背景は、世界史の授業でやったので記憶している。アメリカには奴隷として連れてこられた黒人の方がたくさんいたはずだ。まだまだ差別が激しかった時代、彼らはどのような気持ちで音楽を奏でていたのだろうか。
「そこからジャズが音楽の一ジャンルとして確立されていった背景があるんやけど。佳奈ちゃんは知ってる?」
「禁酒法ですね」
「キンシュホウ?」
漢字がとっさに浮かばなかったのか、七海がおかしなイントネーションで発音した。みちるは、ふふっと小さな口元から笑いをこぼす。
「お酒、禁止。で禁酒法やよ」
「おぉ、その禁酒か」
クスクス、と周りから笑い声が聞こえて来た。七海は平気そうだが、こっちが恥ずかしくなってくる。
「1920年から始まった禁酒法の元、アメリカではお酒の製造、販売が禁止されたんよ。それでも、シカゴやニューヨークといった一部の街ではお酒を密売する酒場が営まれていて、そこで演奏されたのがジャズ。お酒を飲みながらダンスをするためにスイングを盛り込んだ軽快なジャズが発展していったんよ」
「確かにジャズは身体が揺れるというか、踊るにはピッタリかもしれないです」
「みなこちゃん、私たちのセッション中に踊ってくれてもええんよ」
「遠慮しときます……」
みちるはどこまで冗談なのか、「残念」と眉根を下げた。それからね、と脱線した話を元に戻す。
「その後、30年代になって、徐々にバンド編成が膨らんでいって、スイングジャズが確立されていくんよ。このスイングジャズは、アドリブやソロというよりも、楽譜に起こされた曲を演奏して、バンド全体のサウンドを重視するっていう、どっちかというとクラシックに近い音楽っていうんかな。こうして大人数になったバンド編成をビッグバンドって呼ぶんよ」
楽譜が決まっているということは、聞き馴染みが多い曲が多いということだ。みなこが知っているジャズの有名曲はほとんどが、このビッグバンドの演奏によるものらしい。新歓ライブで知子らが演奏していたのもビッグバンドによる楽曲だった。
「それに反発して生まれたのが、ビバップ。かつての即興がメインだったジャズを愛する演奏家たちが閉店した酒場で夜な夜なセッションをする中で生まれていったとされるジャンルで。はじめにテーマを取って演奏していくんよ。著作権でメロディが規制され始めて、コードだけを真似て演奏したのが始まりらしいんやけど……定例セッションの時、少人数でやっているのがこの流れの汲むジャズ。技術と音楽知識が必要で、このビバップの確立を機にジャズはどんどん芸術性を高めていったんよ。ほんで、この小編成のバンドの呼び方がコンボっていうんよ」
「みちる先輩先生みたいですごいです……」
感心した七海があんぐりと口を開けている。今のみちるの話を七海はいつまで記憶できるのだろうか。きっと三歩と歩くうちに忘れるに違いない。へへ、と照れながらみちるは赤いリボンの辺りを撫でた。
「私なんて全然やよ、先輩に教わったことを言っただけやから」
「でもこうやって歴史を知ると、ジャズへの向き合い方が変わる気がします」
「みなこちゃんもありがと、そうならうれしいわぁ。ねぇ、知ちゃん」
「うん。音楽は歴史の中で作り上げられていったものやから。その時代の瞬間の思いが込められてる。それを私たちも受け継いで演奏してるんやと思う。だから、過去を知るのはとても大切」
知子の口が一文字にぐっと閉じられた。時代の瞬間を感じる。なんとも真面目な知子らしい。だけど、その表情は少し可愛らしかった。
「ほんなら結局、ビッグバンドじゃないのがコンボってことですか?」
「そう、ジャズのバンド形態は、ビッグバンドとコンボの二つ。ちなみに秋にあるジャパンスクールジャズフェスティバルでは、二つの形式で演奏することになるんよ」
七海は、おぉとまた感嘆の声を漏らした。その姿を横目で見やりつつ、みなこはみちるに対して疑問を投げかけた。
「それじゃ、大会に向けてビッグバンドとコンボの二つバンドを作るってことですか?」
「うーん。そうなんやけど、ちょっと違って。ビッグバンドはなるだけ全員が参加。コンボは厳選したメンバーで毎年挑んでるんよ」
「なるだけ全員?」
「そう。花と音楽のフェスティバルでもそうなんやけど、メンバーはオーディションで決めることになるから」
「オーディションですか」
「と、言っても、そんな堅苦しいものやなくて、ビッグバンドは人前で演奏できる最低ラインに達しているかを見るテストくらいに思って。一度通ればその後、オーディションはないから。でもコンボの方は、しっかりとしたオーディションをする。アドリブの上手さや演奏技術を見て、よりすぐりのメンバーを決めるんよ」
手に汗を掻いているのが分かった。緊張だろうか。実力で何かを勝ち取る。そういう世界に身を置いたことのないみなこに取って、オーディションという言葉は少しだけ恐ろしかった。
「花と音楽のフェスティバルのオーディションはいつやるんすか?」
質問をしたのは航平だ。高校に入ってトランペットをやり始めた彼にとって、その時期というのは重要なのかもしれない。背筋を綺麗に伸ばした知子が答えた。
「ゴールデンウィーク明けの予定です」
「ほんなら、今から二週間くらいか……」
その期間で合格するのか厳しい。航平の顔にはそう書かれていた。みちるもそれを読み取ったのか、表情を緩くする。
「とはいえ、花と音楽のフェスティバルは、毎年二、三年が中心で出てるんよ。航平くんは楽器初心者やし、しっかり練習してそのあとのイベントを目指して。一年生の子らも秋の大会までは半年あるから焦らず地道に練習してね」
「はい」
一年生が揃って返事をした。その姿勢に知子とみちるは互いに満足げだ。「ほんなら、ええ時間やし、そろそろ先生来るかな……」と知子が時計に視線をやったところで、部室の扉が開いた。
「おはようございます」
扉が開いたのを合図に、上級生はすぐに立ち上がり挨拶をする。それに遅れてみなこたちも慌てて立ち上がった。
「おはよう」
スラッとした細い体躯に、目元の僅かなシワ。白いシャツの上に、黄色いカーディガンを羽織っている。その教師が誰なのかすぐに分かった。
「え、川上先生っ」
驚きを言葉にしたのはやはり七海だ。少し緊張感が張り詰めた部室内で、明らかにその声は浮いている。
「今年度になって部室に来るのは初めてやったなぁ。とはいえ、一年生は授業やってるから自己紹介の必要はないか」
そう言って、視線がこちらに向いた。短い髪越しの目がほんの少し垂れている。その目は、七海を見ているはず、と信じたい。
「ちょうど、イベントの説明が終わったところです」
「ならええタイミングやったな。織辺、今年の指導係は足りてんの?」
「はい。ドラムの大西さんは中村くんが教えています。経験者なので中村くんの指導で足りるかと」
「ほんなら私は必要なさそうやな」
川上は腕時計に視線を落として言葉を続けた。
「今日は、もうすぐ下校時間か。明日も少し顔を出せそうやけど……まぁ足りてるなら必要もないか。イベントのオーディションはいつ頃になりそう?」
「ゴールデンウィーク明けに予定してます」
「分かった。また時間決まったら知らせて。ほんなら気をつけて帰ってな、サヨナラ」
そう言って川上は部室をあとにした。ふぅ、と全員からわずかに息が漏れる。
「やっぱり上級生も川上先生のこと怖いんかな」
「ど、どうやろな」
他に聞こえないように、七海と小声で言葉を交わす。確かに上級生を含め部室に緊張感が走った。だけど、川上が怖いと言われる所以は生徒指導という立場のせいだ。自由な校風の宝塚南では余程のことをしないと怒られるようなことはない。全校集会などで川上が放った言葉は、高校生活を良いものにするためのもので、そこには厳しさというよりも優しさが込められていた。それを怖さと受け取る人がいても不思議ではないけど。少なくとも、入学してから川上が誰かを怒鳴りつけたなんて話は聞いていない。
だからか。部員から感じる緊張感は、もっと別のものな気がした。
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