第4話 ドーナッツ

 宝塚南高校は丘の上という立地のためか、自転車で通学している生徒は極めて少ない。帰りは楽だろうけど、登校時の上りの坂を電動でもない自転車で登るのはもはや修行でしかないからだ。


 ちらほらと運動部員らしき男子生徒が自転車で颯爽と坂を下っていく。ギターケースを抱えたみなこは、帰りは羨ましいかもしれない、とその背中をぼんやり眺めていた。


「疲れたわぁ」


「セッションで合わせるのと、一人で練習してるのとはちょっと違うね」


「もう先輩たちの演奏についていくんで必死やぁ」


 奏がコンビニの袋菓子を一つ摘んで七海に渡した。大きな口を開いて、七海はそれをパクりと加える。


「行儀悪いで」


「みなこって意外とそういうとこ真面目やんなぁ」


 めぐが指先にツインテールの毛先を巻きつけながら、横目でこちらを見やる。アーモンドの形をした目は少し細くなって、ほんの少し大人っぽく色っぽい。気が付かないうちに、めぐはみなこたちの前でわざとらしいぶりっ子をしなくなった。親しみの現れだとみなこは密かに思っている。


「にしても、オーディションかぁ。みんなはどうなん?」


「どう、って何が?」


 こちらを見やり、七海は首を傾けた。彼女の口からドーナッツのかけらが飛ぶ。


「オーディションの経験っていうか。そういう勝負ごと的なの。七海も経験ないやろ? 私はちょっと怖い」


「あー、なるほどなぁ」


 口元についたドーナッツの粉を拭き取りながら、七海は大袈裟に相槌を打つ。あまり行儀が良くないぞ、とみなこは目を細めた。


「めぐちゃんはピアノ習ってたなら経験ありそうやな?」


「私はピアノの発表会とかに出てたからそういうんには、ちょっとは慣れてるけど」


「やっぱ、めぐちゃんはそういうの出てたんや」


「まぁ小中の部やし、そんなピリピリしたんはなかったで」


 大会やイベントがあり成績を重視しているならば、オーディションや選抜は仕方のないことだと思う。それも団体戦ならばなおさらだ。どんな空気感であれ、勝ち負けのある世界に身を置くことへの覚悟をみなこはまだ出来ないでいた。

 

「東先輩は堅苦しいものじゃないって言ってたよね?」


 奏はドーナッツを頬張りつつ、口元に手を添えながら話す。歩きながら食べている生徒、いわゆる買い食いをしている生徒は珍しくない。「私にも頂戴」と可愛い顔を作り、めぐが奏の腕にひっついた。奏からドーナッツを受け取り、めぐの目線はこちらへ向く。


「ビッグバンドは人前に出せるかどうかが物差しってことやろ? 東先輩の説明通りなら、ある程度のレベルに達していればいいってことなんちゃう?」


「そりゃ、めぐちゃんの言う通りかもしれんけど」


 気になっているのは、ギターやピアノといったセクションでは上級生と楽器が被っていることだ。果たしてビッグバンドの形式に、これらの楽器は複数必要なのだろうか。サックスやトランペットなどは複数人で演奏しているが、帰り際に動画サイトで検索したビッグバンドの動画には、ギターやピアノは一人だけだった。


 つまり、ビッグバンドの編成を組むにしても、ポジションからあぶれる人がいるかもしれないということになる。


「なんなん、みなこはコンボの心配してんの?」


「まぁそれもあるけどさ」


 みなこの曖昧な返事をさほど気にする素振りもなく、七海は奏が持っている菓子袋からドーナッツをもう一つ摘み上げ、身体を空に向けて伸ばした。宝塚南高校ジャズ研究会にはドラマーは七海しかいない。スクールバックからはみ出したスティックが、カランカランと音を立てる。


「でも、結局んとこ、コンボは上級生がやるんちゃう?」


「七海ちゃんはどうしてそう思うの?」


 ふわふわとした柔らかい奏の髪が春の風に靡いた。ほのかにシャンプーの香りが春の空気に混じり合う。


「やってさ、その方が揉めんでええんちゃう? 三年生がコンボ、みんなでビッグバンド!ほんなら揉めんで済むし。それに基本的には上級生の方がうまいやん」


 七海らしい単純な思考だけど、問題点がある。


「やけど、ドマム叩けるのは七海だけやで?」


「建太先輩が叩けるやん」


「ほんなら、中村先輩は肝心のトロンボーンが吹かれへんやんか」


「あ、そうか」


 ようやく問題点に気がついたようで、七海は顎に手を当ててうーんと唸る。ドーナッツを持った奏の手が、そっとみなこの口元に伸びてきた。


「みなこちゃんは先輩からポジションを取るのが嫌なの?」


「そうじゃなくて、大樹先輩と一緒に演奏したい気持ちはあるんやけど、ギターは一人の可能性が高いし、そうなったら一緒に演奏は出来んのかなぁって。それに私の方が大樹先輩よりもずっと下手やから。ポジション奪うなんてことはないと思う」


「そっか。確かに私もベースの鈴木先輩と同時に演奏は出来ないのかもしれないね」


 どこか安心したような表情の奏から、みなこはドーナッツを受け取った。口の中に頬張れば、ほんわりと甘い香りが口の中に広がる。


「めぐちゃんはどう思うん?」


 めぐのツインテールがくるっと揺れて、こちらを向いた。その顔は少し真剣だ。


「ビッグバンドに入られんかったら大会に出れんかもしれんもんなぁ」


「なら、めぐちゃんは織辺先輩からピアノのポジションを取りたいってこと?」


「うん。みんなそういう姿勢で望んだ方が良いとは思う。やって、秋のジャパンスクールジャズフェスティバルでは、最優秀賞を目指してるんやろ? やったら、上手い人が演奏した方がええやん。そりゃ、織辺先輩の方が私よりも何倍も上手なんやけど」


「そうかもしれないね」と奏の視線がコンクリートに落ちた。


 かすれた白線には「止まれ」と書かれてある。その歩みを遅くしためぐが、言葉を続けた。


「でもさ。その場合、堅くはないオーディションって矛盾してると思わへん?」


「そっか、私が引っかかてたんはそれやわ。全員で出ようっていうなら、最優秀賞って難しいかもしれん」


 うまく言葉に出来なかった胸のモヤモヤをめぐが綺麗にまとめてくれた。顔を上げた奏が、自信なさげに反論する。


「でも、めぐちゃん。ギターもベースも二人体制になる可能性はあるんじゃないかな?」


「うん。奏の言う通り。ギターとベースはありかもしれんな。けど、ピアノ二人はキツイって。それに来年、ドラムが入って来たら? ピアノ希望が二人いたら? そもそも最優秀賞を取りたいならうまい人達で出るべきやろ。たとえ、本番の時に、私が出れんくても織辺先輩が出てくれるなら納得するわ」


 めぐの言葉に、奏の握ったお菓子の袋が音を立てた。ぐしゃっと潰れた袋を見て、みなこは咄嗟に話題をそらす。


「でも、次のイベントでは七海は選ばれる可能性あるんちゃうかなー、ドラム一人ってことはそういうことやで」


「まぁーたしかに、あくまで次はイベントやし、七海がビッグバンドに選ばれることで中村先輩がトロンボーン吹けるんやからそっちのがええかもな」


「あれ、でも私は秋の大会はコンボにも選ばれるんか? そしたら下手な私のせいで評価が下がる? それじゃ、建太先輩がドラムを……そしたらトロンボーン出来んのか……もー、どっちやねーん」


 七海が頭を抱えて、ぐしゃぐしゃに髪をかき乱した。奏が慌てた様子で「もう髪が大変だよ」と七海の髪を整え始める。


 結局のところ答えは出ない。どういう選考基準なのか直接聞いてみればいいのだけど、その勇気はみなこになかった。自ら積極的に動くタイプではないのだ。昔からそういう役割は七海だけど、彼女はこういう細かいことを考えて動くタイプではない。思いつきの行動で、猪突猛進に突き進むタイプだ。だからみなこは、いつも小さな悩みを抱えながら、自然と答えがやって来るのを待っている。 


「あれ、井垣さんかな?」


 奏の手ぐしを抜けた七海の毛先がピンとハネた。二人の視線は、駅とは違う方向に続く路地を向いている。みなこも同じ方へ視線を向けると、佳奈がトボトボと一人で歩いていた。


「ホンマやな」


「佳奈ー」


「もー、七海声でかいって」


「そう?」


「近所迷惑」


 佳奈に向かって上げられた七海の手を、みなこは制止する。彼女を止めたのは、本当にそれだけだろうか? 不意にした自問自答は、胸のこそばゆいところをチクリと痛めた。


「あ、でも気づいてくれたみたいやで」


 押さえた手を七海はスッとくぐり抜けた。みなこは、その反動でよろつく。顔を上げれば、目の前に佳奈がいた。綺麗にまとめられたポニーテールがふさっと揺れる。 


「清瀬さん、大丈夫?」


「う、うん。井垣さんどうしたん?」


「呼ばれたから来たんやけど?」


「そ、そうやんなー」


 明らかに自分はテンパっていた。カーブミラーを見れば、反転した自分は苦笑いを浮かべているに違いない。まさか彼女が七海の呼びかけで寄って来るとは思わなかったのだ。


「ごめんね、見つけたからつい声かけちゃった」


 奏が、へへっと可愛らしく笑みをこぼす。表情を変えずに、佳奈は目元に掛かった髪を耳殻の後ろへと押し上げた。


「うん。それは、全然ええねんけど」


 明らかに困っている雰囲気だ。用事もないのに呼び出すとは、みなこは七海の無神経さを久方振りに恨んだ。


「そっち駅とは違う道やけど、井垣さんは家どこなーん?」


 少し高くなっためぐの声。作られたそのぶりっ子キャラは、不慣れな相手への対応の証だ。あなたはまだ友達じゃない。もしかすると、そういう敵対心の現れなのかもしれない。


「私の家この近くやから」


「そ、そうなんや、近くなの羨ましいわー」


 なんとか白けそうな場の空気を盛り上げようと、みなこは無理やり言葉を絞り出す。カラカラの雑巾から垂れた一滴のような内容は、「そう」となんともあっけなく返されてしまった。    


「えーとっ、井垣さんもどう? ドーナッツ」


「ありがとう」


 奏も同じ空気を感じているのだろう。指先で摘んだドーナッツを佳奈の口元へ運んだ。ドーナッツを頬張り膨らんだ佳奈の頬は可愛らしい。


 その甘さのおかげか佳奈の表情が緩まった。そこへこの空気感を何も感じていないであろう、この件の主犯である七海が声を発する。


「そうや、オーディションの話しててん。セッションの時、佳奈はめっちゃうまかったやんな! やっぱり経験者はすごいわぁー。佳奈やったら次のイベントと言わず、コンボでも選ばれるかもしれんよな!」


「でも、沖田先輩も東先輩もおるから」


「えー、なんかうちには佳奈のサックスが一番うまく聞こえたけどなぁ」


「そうかな。他の先輩もうまい思うけど……?」


「そりゃ、先輩らもうまいけどさ。なんやろ、佳奈のサックスが一番ビビッと来るっていうか! まぁー、いうてうちはジャズ素人やし、よぉ分かってないんかもなぁ」


 分かってないのは、ジャズのことだけとちゃうわ。そう七海の頭を叩いてやりたかったが、みなこはなんとか踏みとどまる。これ以上、場の空気を乱したくなかった。明らかに佳奈の表情は曇っているのに、七海は全く気づいていない。


 ズケズケと呼び捨てにされたことを怒っているのかもしれないし、特に用もないのに呼び止めたことがまずかったのかもしれない。どの道、悪いのは七海だ。へへ、と頬を掻く七海の腕をみなこは掴む。


「えーっと、それじゃ私たち電車の時間もあるからもう行くなー。井垣さんまた明日ー」


「うん。また明日」


 七海の腕を引き、少し早足で坂を下っていく。少ない一年生部員、その中で嫌な空気になるのはゴメンだ。互いが嫌な思いをしない適切な距離を見つける。人付き合いとはそういうものだと思うのだけど、七海はどうも違うらしい。


 彼女らしいといえばそれまでだが、いつか起きるかもしれない衝突の片鱗を見た気がした。だけど、それを咎める気にはなれない。悪く言えば、先回し。みなこは、そうやって小さな悩みを抱えたまま日々を過ごしてきたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る