第2話 定例セッション

「定例セッション?」


 部室を目指し階段を上がっている途中、みなこが発した言葉に七海が首を傾げた。


「最初の日の帰り際、織辺先輩が言ってたやろ」


「そうやっけ?」


「確か、毎週金曜日は定例セッションやっけ? 一年の私たちは初めてやな」


「ほぉー」


 めぐの説明に七海は感心しているが、知子が説明していたその時も同じような反応をしていた。要するに彼女の記憶にはないらしい。歩くスピードを緩めたみなこたちに反応して、ベースを背負った奏が踊り場でこちらを振り返る。


「私たちはまだアドリブも出来ないし、見学になるかもね」


「えー、うち演奏したいわー」


「ドラムはおらんねんから、七海の参加はなくもないんちゃう?」


「あーたしかに」


 めぐの推測にみなこは相槌を打った。演奏出来るかもしれない。そう聞かされた七海は無邪気に喜び、軽く弾みをつけて階段を登っていく。スクールバックからは、ドラムスティックがはみ出しカラカラと音を立てていた。七海の性格をもう十分に理解しているのか、めぐはやれやれと肩をすぼめる。


「とはいえ、文化祭くらいまでには私らもしっかり演奏できるようになりたいな」


「そうだね、定例セッションに早く参加出来るように頑張らないと」


「その通りやぁ」


 奏のやる気に共感した七海が、踊り場で奏に抱きついた。照れる奏の首元に頬をすり寄せて、七海はくんかと鼻を鳴らす。


「いい匂い。なんのシャンプー使ってんの?」


「匂いは嗅がないで」


 奏の手のひらが、七海の顔を突っぱねた。


 *


 毎週金曜日の放課後に行われる定例セッション。この日はいつもの個別練習ではなく全員でセッションする日と決まっている。もちろん別の曜日にセッションをすることもあるのだが、ジャズ未経験者が増えるこの時期はなるだけ個人練習に時間を割く方針らしい。


 曲を決めて演奏することもあれば、コード進行だけを決めてアドリブのみで通す、広く言うジャムセッションみたいにすることもあるらしく、まだ入ったばかりでジャズの演奏に慣れていないみなこたちが参加するには少々ハードルが高い話だった。もちろんアドリブを入れずに、譜面通りの演奏で参加は出来るだろうけど。それでも先輩たちの演奏を聴ける貴重な機会なのである。


「おはようございます」


 部室の扉を開けば、優しいピアノの音が流れてきた。知子が弾いているのだろうか、とみなこが音の鳴る方へ視線を向ければ、椅子に座っていたのは佳奈だった。


「井垣さんピアノも弾けるんや」


 ポニーテールをふわりと揺らしながらピアノを弾く姿が美しく、みなこは思わず感嘆の声を出してしまう。こちらに気づいた彼女はそっと鍵盤から指を離した。


「小さい頃習ってたから」


 そう言って、彼女の視線はめぐの方へ向き、「ごめん伊藤さん、邪魔やった?」と続けた。


「ううん。大丈夫やで。井垣さんピアノも上手やねんなぁ」


 スクールバックを隅に置きながら、めぐが甘い声を出す。佳奈はピアノの椅子から立ち上がり、そっと鍵盤の蓋を閉めた。


「全然やで。伊藤さんや織辺先輩の方が上手やから」


「そりゃそうかもしれんけどー、私はサックス吹けへんし。織辺先輩も他の先輩もやけど、井垣さんも色んな楽器が出来てすごいわぁ」


「昔とった杵柄ってやつやから……」


 照れているのか謙遜しているのか、佳奈は表情を変えることなく、めぐから視線をそらした。床に置いていたペットボトルの水を口に含み、少しうつむく。ドラムのセッティングに向かう七海が部室の様子を見ながら佳奈に問いかけた。


「あれ、そういえば上級生の人たちは?」


「トランペットセクションの人らは小スタジオで個人練してたで。東先輩は、来月のイベントのことで先生と話があるからって清瀬さんたちが入ってくる直前に出てきはった。他の人らは、ホームルームが遅れたり、委員会とかあって忙しいちゃうかな?」


 先生というのは顧問のことだろうか。入部して一週間、思えば顧問の姿は見てればセッションが始まる。それまでに少しでも練習をしておきたかった。

 

 三十分ほどして、部員が全員集まった。楽器を広げていることもあり、大スタジオでも全員が集まれば少し窮屈だ。音楽室を使えれば広いのだろうけど、吹奏楽部が使用しているためそれは叶わない。みんなの視線は、ピアノに座る知子の方を向いている。


「みなさん、おはようございます。今日は金曜日ということで定例セッションの日です。新入生はセッション初めてということで見学――」


「部長、大西には入ってもらったらどう?」


 知子の話を遮ったのはトロンボーンの建太だった。ジャズ研にはこれまでドラムがおらず、新歓ライブでは彼がドラムを演奏していた。その提案に知子は少し驚いた様子だったが、建太がさらに言葉を続ける。


「もちろん、ずっととは言わんけど。ちょっとずつ練習していかんと。ドラムは大西一人しかおらんねんから」


「そうやな……ほんなら、大西さんも参加してくれる?」


「はい!」


 スティックをぐっと握り込み、七海は急いでドラム椅子に腰掛けた。建太が七海に指示を出す。


「難しいこと意識せんでも俺らが合わせるから、ハイハットで裏取りながらライドシンバルで4ビート刻んで」


「時々、スネアとか入れます?」


「うん。自由にしてええよ。細かい注意があれば曲が終わってからするから、楽しんで演奏して」


「はい!」


 自由奔放な七海にはジャズは案外合っているのかもしれない。「楽しそうやねぇ」とみちるがほっこり笑みを浮かべた。


「それじゃ早速始めよか。一年生は申し訳ないけど始めは見学でお願い出来る? 自由に椅子に座りながら聴いてて」


 知子の指示に見学組の四人は部室の隅に置かれた丸椅子に腰掛けた。隣に座ってきた航平の顔をみなこはちらりと見やる。


「なんで隣?」


「ええやろ別に」


「なにそれ」


 カタンと音が鳴った。航平は椅子を少し持ち上げ、みなこから距離を取る。なんだか、少しだけ腹が立つ。なんやねん、とみなこは心の中で小さく舌打ちをした。 


「ほんなら、新学期一回目の定例セッションを始めます。始めはコンボから……途中で、楽譜ある簡単な曲を使ってビッグバンドで練習してみよか? そしたら一年も入れるから」


 誰に問いかけるわけでもなく知子は長い髪を揺らした。知子はピアノに座っているだけで絵画のような美しさがある。あんな風になりたいな、とみなこは貧素な自分の胸の辺りにそっと触れてみる。


 彼女のつぶやきに反応する役目はみちるらしい。


「ええと思うよ。見学してるだけやとみんなつまんないやろしね」


「そんなことないです。先輩たちの演奏楽しみしてますよ」


「ありがとうね、みなこちゃん」


 みちるはいつも優しい。その物腰はプレイにも現れていて、彼女のサックスには確かな温もりがあった。誰か大切な人をそっとその両手で包み込むような、そんな毛布のような音色をみちるは奏でる。


「ほんなら今日は、高橋くんにテーマ取ってもらおか。一曲目は、トランペット久住さん、サックスみちる、トロンボーン中村くん、ピアノが私。ソロも今の順番で」


「分かりました。テンポゆっくり目の方がいいですよね?」


「うん。これくらいがいいかも」


 そう言って、知子が指でカウントを取る。それに合わせて、大樹が短いフレーズを演奏した。このフレーズを曲のテーマとして何度も繰り返しながら、各楽器がセッションに加わっていく。それから順にソロを回していき、またテーマへと戻って来るのだ。


 二小節繰り返さえたところで、七海のドラムが加わった。合図は建太が出してくれたようだ。少しぎこちないが、七海は無難に役割をこなせている。


 トランペット、サックス、トロンボーン、ピアノと順に加わっていき、曲は次第に厚みを増していく。その中でも知子のソロパートは圧巻だった。


 大樹の作ったテーマをしっかりと踏襲しつつ、その場の空気を完全に自分のものに支配する。それでいて次の奏者のための流れを決して壊さない。真面目な知子の性格がそのまま音に現れていた。


「織辺先輩は私と一緒で中学までクラシック習ってはったらしい」


「そうなん?」


 耳打ちをしてきためぐは、ピアノの練習で知子と距離をつめているのかもしれない。あざとくも可愛らしく懐にもすっと入っていく性格は知子にも有効らしい。彼女の場合、慣れとともにその仮面は剥がれていくのだけど。


「真面目な性格やし、アドリブを演奏するのは苦労したらしいで」


「ふーん。でも、なんでジャズを始めはったんやろうな」


「さぁ、そこまでは聞いてへんけど」


 みなこに近づけていた顔を離して、めぐの意識は演奏へと戻っていく。ピンク色のカーディガンに垂れたツインテールは、肩の上で乱雑に広がっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る