二幕「オーディション」
第1話 教室にて
チャイムが鳴り響き、緊張感に満ちていた教室にざわめきが戻って来た。六時間目の授業を終えた生徒たちからは、安堵よりも疲れに近いため息が漏れる。
「もう時間か。最後の一問は宿題にしておくから、来週までに解いてくるように」
そう言って、教卓の上で教科書を整えたのは、怖いと噂の数学の川上先生だ。生徒指導も請け負っている川上は四十代の女性教師。目元には年相応のシワがあるが、清潔感もあり実年齢より若く見える。スラッとした体躯は歳の割に引き締まっているところを見ると、何か運動でもやっていたのかもしれない。科目のせいか威圧感のせいか、彼女の授業は普段の他の授業よりも疲れる気がした。
「もー数学、難すぎ」
机に突っ伏した七海が、誰よりも大きいため息を漏らした。黒板に書かれていたのは、初歩的な因数分解の数式だ。日直のめぐが小さな背を懸命に伸ばし、その板書を消していた。
「七海ちゃんは数学苦手なの?」
「Xが括弧の中でひっついたり離れたり。意味わからん」
不機嫌にそう言う七海の頭を奏が優しく撫でる。
「中学の時から七海は数学苦手やったな」
「数学得意なみなこには気持ち分からへんよ」
「みなこちゃんは得意なんだ」
「まぁ他の科目よりかは。公式を覚えて当てはめるだけやし。奏ちゃんは得意科目ある?」
「私は国語かな。本読むのが好きだから」
「へぇ、奏ちゃん読書家なんや」
「へへ。でも引っ越しで友達がいない時期とかもあって自然と一人で過ごすことが増えたからかも」
緩んだ口端から寂しさが漏れ出た気がした。吐息と一緒に出てきたそれは少しだけひんやりとしていて、みなこが触れようとすればチクリと痛みを伴った。
「でも高校ではこうやってちゃんと友達出来たし、最後まで残るって決めてるから」
取り繕うように顔の前で手を振って、奏はさらに口角を上げた。みなこは自分の歯がゆさを押し殺すために、なるだけ明るい声で返す。
「私は逆に読書が苦手やから、面白い本あったら教えて!」
「分かった。みなこちゃんが好きそうなお話持ってくるね」
友達がちゃんと出来るだろうか。という誰もが経験するだろう不安を、奏ではきっと人より多く経験しているはずだ。それが今の彼女の性格を形成していて、空気を壊さないように周りに気を使って笑い誤魔化している。そういう振る舞い方をみなこは痛いほど理解出来た。
「ええなー。うちの本も選んでぇや」
「七海は本なんか読まんやろ。小学校の読書感想文も背表に書いてるあらすじの丸写しやったし」
「奏が選んでくれたやつならちゃんと読みますぅー」
「ほんまかなぁ」
突伏していた身体を持ち上げて、七海は教科書をかばんに仕舞い始める。七海の無邪気で真っ直ぐな性格にみなこは良く救われていた。きっと、奏と仲良く慣れたのも七海のおかげだ。
「ちなみに七海ちゃんは得意な教科ある?」
「うちは体育と音楽!」
「体育と音楽か、七海ちゃんらしいね」
「ほんまあんたらしいなぁ。ちょっとバカっぽい」
真新しい制服ついた白いチョークの粉をハンカチで払いながら、めぐがこちらに近づいてきた。今日も彼女はピンクのセーターに身を包んでいる。
「めぐやって苦手な教科くらいあるやろ!」
「私はそんなにないけど?」
「もしや、めぐって意外と頭いい?」
「意外とはなんや。賢くて可愛いって中学では評判やったんやで」
人さし指を頬に当て、めぐは可愛らしくウインクしてみせる。そのあざとい動きに、クラスの男子の視線がちらほらとこちらを向いた。
「めぐは頭ええんか。みなこもそれなりやし、奏も賢そう……これは中間テストの勝負が見ものやなぁ」
「なんで見物人気分なん? 七海も勉強せんと」
「ひゃー」
七海はまた机に突っ伏す。そこへ、ちょうど終わりのホームルームをしに担任の先生が入ってきた。「早く席につけ」先生にそう急かされて、みなこは自分の席へ戻る。机にはソフトケースに入った自分のギターが立て掛けられていた。
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