第7話 ギターと先輩
「よろしくお願いします!」
みなこがハキハキと声をかければ、ギターのシールドを繋いでいた大樹が、手を動かしながらこちらを向いた。短く切られた髪は清潔感があり、優しそうな雰囲気だ。大きなアンプの上には、ペットボトルやチューナーが置かれていた。
「えー、名前は?」
「あ、清瀬みなこです」
「オッケ、清瀬な。ギターの経験は?」
「中学校から少し。ジャズの経験はないです」
「ふーん。経験者か。軽音部?」
「いいえ、部活動とかではなく、自主的に家で練習してただけで」
「ってことは独学か。教室とかにも行ってへねんな?」
「はい。でも、父が学生時代にギターをやっていたので基本的なことは教わりましたけど」
大樹がアンプの電源を入れると、ピックアップが空気の音を拾って生じるジリジリとした細かなノイズが流れてきた。まるでスタジオの中を薄いベールが一枚、僅かなノイズに靡いて波打ちながら漂っているような。全身を脈打つみなこの血潮が鼓膜を揺らすたび、スタジオに満たされたベールと共鳴して、音楽に包まれている気分になる。
「腕試し……って言うたら大袈裟やけど、どんなもんか弾いてみて」
そう言われて、みなこは大樹からエレキギターを受け取った。ストラトモデルの真っ赤なギターだ。
「弾いてみてって言われるとなんか難しいですね。何を弾けばいいですか?」
「弾きなれた曲でええよ。家で良く弾いてるやつとか。簡単なリフでもええから」
「分かりました」
みなこは、中学校の頃に練習していた好きな女性ミュージシャンの曲を演奏してみることにした。手に馴染んでいるリフを緊張しながら披露する。
「うん。思ったよりも弾けてる」
「あ、ありがとうございます」
「独学で一年半? それにしては随分上手やと思うで」
「へへっ」
自宅に友人を呼んだ際に弾いて聞かせたことはあるが、こうして面と向かって経験者に聞いて貰うのは父を除けば初めてのことだった。直接、褒めてもらうのはやはり嬉しい。
「こんだけ弾けてたら、ギターの基礎で教えることはなんもないわ」
おみそれしました、と大樹はイタズラに口元を緩める。
「いやいや、私は先輩に色々教わりたいです!」
慌てるみなこを見て、ケラケラと笑いながら大樹は、「ほんなら」と続ける。
「スケールは覚えてる?」
「いえ、その都度、タブ譜を見ながら弾いてるって感じで。それに一発で弾くというのも中々ハードルが……」
タブ譜とはギターを演奏する際に使う楽譜のことだ。六本の弦の何フレットを押さえればよいのかを記したもので、いわゆる音符が並ぶ五線譜とは別のものである。
「ジャズギターは、音楽理論やスケールもしっかり覚えなあかんから、」
大樹は小棚から一冊本を取り出した。随分ボロボロのそれはギターの教本らしい。みなこがギターを始める時に買ったものと同じメーカーのものだが、発行された時期はみなこのものよりもっと前のものだった。
ペラペラとページをめくりながら、大樹は教本の後半に見開きで書かれているスケールについてのページを開いた。
「とりあえず、メジャースケール。これが基本」
スケールを直訳すれば音階。端的に言えば、演奏する曲のコードによって鳴らしていい音階が決まっているため、ギターのフレットのどこにその音が存在するのか、配置を覚えなくてはいけない。メジャースケールは、いわゆるドレミファソラシド。そこからキーを半音ずつずらしていったものだ。
「頑張ります」
「それと、うちで使う楽譜はこれなんやけど」
大樹が取り出したのはいわゆる五線譜だった。
「五線譜で演奏するんですか?」
「タブ譜はギターの演奏を簡単にしてくれるもんやけど、アレンジやアドリブを入れるには適してへんから。五線譜を見ながらの演奏は慣れれば……まぁどんなもんでも慣れって話なんやけどな。すぐには無理でも徐々にやな」
「想像するだけで大変です……」
「始めは何事も大変やからなぁ。清瀬がギターを始めた頃だって、押さえられんコードがあったり……そもそも弦に当たる指が痛くて音が出んかったりしたやろ?」
「そうですけど」
「さっき弾いてくれたリフなんかスラスラ弾けてたやん。練習していくうちに気づかん間に弾けるようになるもんなんやて。はじめのうちは俺がタブ譜に起こしたるから」
くしゃりと大樹は笑ってみせた。中学では部活には入っていなかったため、先輩後輩の関係性に少し怖さもあったのだけど、とても雰囲気が良くて優しい人だとみなこは安心する。
「私、今まで以上に頑張ります!」
両手を握りしめ、みなこは荒々しく鼻から息を吐く。絶対ステージに立ちたい。その強い思いはしっかりと手のひらの中に握り込まれていた。
「楽譜が読めるようになるのと同時に、ジャズで良く使われるスケールもどんどん覚えていこうな。メロディックマイナースケールにホールトーンスケールやブルーノートスケールなんかも……」
「今は色々言わんといてくださいー」
両手で耳を押さえ込み、みなこは「あー」と聞こえないフリをする。いっぺんに言われても、覚えられるわけがない。困惑するみなこを見て、大樹はまた楽しげにケラケラと笑った。
「まぁゆっくり覚えていこうや。ギターは、自分のやつを使いたかったら持ってきて練習してもええし、持ち運びがめんどかったら、ここに置きっぱなしにしてもええで。ちなみに、持ってるのはエレキ?」
「はい。私はテレキャスですけど。……これは先輩のですか?」
「清瀬が今使ってんのは備品のギター。俺のはそれ」
大樹はみなこの後ろを指差した。みなこが振り返ると、そこにはサンバーストカラーのフルアコギターが立てかけられていた。
「かっこいいギターですね」
「入部した時に買って貰ってん。ジャズと言えばフルアコやしな」
「そうなんですか?」
ギターは、アコースティックギターとエレキギター、大きくその二つに分けられる。主に木製のボディに空いた空洞の中で音を反響させるのがアコースティックギターで、ピックアップと言う電子板で音を拾うのがエレキギターだ。この二つはギターを全く知らない人でも見た目で判断がつきやすい。
一方、フルアコやセミアコと言われるギターは、総じて箱モノと呼ばれ、ボディ内部が空洞になっている。その上、ピックアップで音を拾うので、アコギとエレキの中間のような存在と言える。エレキギターでは出せないような、柔らかく温もりのある音が出るのが特徴的だ。
「もちろん清瀬が持ってるエレキでも問題はないで」
「でも、先輩のギターかっこいいです」
「そんな目で見てもあげへんで」
「そんなつもりちゃいますよ」
よほど羨ましい顔をしていたのか。そんなつもりはない、とみなこは頬を膨らませて抗議する。からかってやったと上機嫌に大樹はコロコロと喉を鳴らした。
「弾けるようになってきてから親にねだってみるとええかもな。お父さんもギターやってたなら気持ち分かってくれるやろうし」
大樹は大事そうにギターのストラップを肩にかけた。フルアコのボディは大きく、175センチ程度の身長がある彼が抱えてもずっしりとした圧迫感があった。
「なんか弾いてくださいよ!」
「なんか弾いてみてって言われんのは難しいなぁ」
そう言って白い歯をのぞかせながら、大樹はギターを爪弾いた。
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