第1話 ~始まりの放課後~

「呼び出しの理由は分かっているわよね、不知火しらぬいくん?」


 凛とした鋭い糾弾が、静まり返った室内に響き渡る。

 西日によって赤く染まりつつある職員室は、放課後でありながら閑散としていた。まるで世界から隔絶されたかのような疎外感を覚える空間に唯一、唯二人で向かい合う。


 片や、椅子に座りながら不満気に目を細める女教師。

 片や、日々繰り返される問答に飽き飽きしている高校一年生。


 周囲に人はいないけれど、もしこの状況を目撃すれば俺が先生に説教を受けているように見えるだろう。

 しかし実際には倦怠期のごとき漫然とした、諦めに近い、形式だけの行為だった。二週間も同じことが続けば、誰だってこうなる。


「もちろん、存じ上げておりますとも。あかつき先生の考えは手に取るように分かります」


「敬う気が欠片も感じられない敬語は止めてくれない? 気分が悪いわ」


「それは悪かった。普段どおりがお望みだったか」


「違う! ちゃんと、心から、敬いなさいって言ってるの!」


 机を叩きつけて怒りを示すが、予想以上に痛かったようで目尻に涙を浮かべた。


「大丈夫か、陽姉はるねえ


「学校でその呼び方は止めてって言ってるでしょう!?」


「心配してくれた相手に、その言い草はどうかと思うぞ。それに、約束通り人前では呼ばないようにしているだろう」


 俺が振りかざした正論にぐうの音も出ないようで、恨みがましく涙目のまま睨んでくる担任教諭――あかつき陽炎かげろうこと陽姉は近所に暮らす従姉弟。


 本名である陽炎はかっこよすぎるから苦手らしく、物心ついた頃から陽姉と呼ばされていた。高校に入学し、教師と生徒という関係になってからは暁先生の呼称を強要されている。立場的にも当然ではあるのだけれど、彼女に関しては特に重要な問題だそうで。


「大体、気張って理想の教師像を演じるからいけないんだ。『クールでカッコいい女教師』なんて、時代物の時代遅れだろうに」


「うるさいなぁ! 教師ってのはね、舐められたらお終いなの。考えてもみなさい。クラス中がはやてで埋め尽くされた状況を」


 教室内が俺で満たされたら……か。


「いいんじゃないか? 全員が黙々と講義に取り組むなんて、願ったり叶ったりな環境だと思うが」


「……そうだった。あなた、勉強に関しては優等生そのものだったわね」


 『勉強』に関しては、ね。まあ現状を鑑みれば、その枕詞をつけざるを得ないか。ただの優等生は放課後、職員室に呼び出されたりはしない。多くの場合は問題がある生徒だろう。

 すなわち問題児。そこにカテゴライズされた人間が素直に教員の住処へと足を踏み入れるかは分からないけれど。


「その優等生の貴重な勉強時間を削っているんだ。早々に本題を済ませてくれないか」


「まるで自分だけ被害を被っているような言い方しないでよね!? わたしだって暇じゃないんだから! 後にも面談が控えているの!」


「だったら俺のことは放っておけよ。どうせ、いつも通りの確認なんだろう?」


「……まあね」


 ヒートアップしていた感情を落ち着けて、陽姉はため息まじりに呟いた。

 いつも通り――この二週間、毎日設けられた時間で俺と陽姉は同じ問答を繰り返している。つまり、結果は不変で平行線。


 けれど、それも今日までだ。お互いに主張を譲らなくても今日が――四月が終われば勝敗は決する。俺の勝利で。


「やっぱり、気持ちは変わらない?」


「ああ。俺は自分で部活動を選ぶつもりはない。学校側の指示に従う」


 文武両道の武。すなわち、部活動。

 文において優等生と称される俺が問題児として扱われているのは、ひとえにこのためである。


 俺が通う峯ヶ崎みねがさき学園は学力的には上の下に位置する進学校で、文武両道を校風として掲げる、よく言えば伝統を重視する学校だ。


 それ故に、在学する生徒には部活動に所属する義務が課せられる。なんとも受験生から敬遠されそうな規則だけれど、学校行事の盛大さや在校生の評判が影響して、それなりに人気を集めている。


 部活動への強制所属に関しては学校紹介、願書提出、入学手続きの時、再三アナウンスされるので、知らずに入学する生徒はいないはずだ。よっぽどの問題児以外は。


 もちろん俺は規則について把握したうえで入学し、そして部活動の選択を放棄している。自主的に選ばなければ、入学から一か月――五月になった時点で学校側の決定に従わなければならないのだ。


 多くの学生は自分で入部先を申請する。陽姉いわく、学校から部活を指定された生徒は数えるほどしかいないらしい。全くと言っていいほどにメリットが無いので、当然と言えば当然だ。


 それでも俺は、自分の身の振り方を決められずにいる。


 ――否、何にも興味を持てなかった。


「はぁ……あなたなら、もっと上の学校にも入れたでしょうに。わたしへの嫌がらせとしか思えないんだけど?」


「心外だな。陽姉と一緒に高校生活を満喫したかっただけなのに」


「あのね、そういう台詞は羽美うみちゃんに言ってあげなさい。せっかく同じクラスになったんだし、いい加減仲直りしなさいよ」


「……ほっとけ」


 向こうから離れていったんだ。俺からのアクションなんて、あいつは望んでいないに決まっている。


「羽美ちゃんが受験するから、この学校を選んだくせに。ほんと、お互いに素直じゃないんだから」


「俺は通学時間を重視して近場にしただけだ。色惚けるなよ、アラサー」


「女の子に年齢で攻撃するな! あなた、いつか刺されるわよ!?」


「今のは正当防衛だ」


 女の子って歳じゃないだろう、と突っ込みたかったが追い打ちをかけると発狂しかねないので踏みとどまった。この後にも面談があると言っていたしな。


 親しき中にも礼儀あり、とはやや異なる気もするが、何事にも適度がある。


「さて、用件は済んだだろう。もう帰っていいか?」


「あ、最後にもう一度だけ確認させて。『不知火しらぬいはやては所属部活動に関して学校側に一任し、特別な事情がない限りは退部しない』で、いいのね? どうなろうと、文句は言わないのね?」


 陽姉はこの二週間で最も真摯に、一切の遊びなく、最終確認をする。


「ああ。決定に従う。反論はしない」


 だから俺も簡潔に、それでいて完璧に、己の意思を示した。

 どこに入部させられようと、きっと何も変わらない。一つだけ、関わりたくない競技があるけれど数年前、廃部になっているのを確認済みだ。ぬかりはない。


「了解。あーあ、今年に限って問題児が三人も、しかも全員がわたしのクラスだなんて運がないわ」


「豊作じゃないか。むしろ恵まれてるんじゃないか」


「馬鹿言わないで。来る日も来る日も、教頭から嫌味ったらしく追い立てられてるのよ。最近、わたしがどれだけ胃薬のお世話になっているか、教えてあげましょうか?」


 本当に疲れている様子で、虚ろなジト目を向けられてしまった。言われてみれば、化粧で誤魔化しているものの、顔色が良くないようにも見える。


「……悪いな。迷惑かけて」


「いいわよ。面倒事もこみこみで教師やってるんだから」


 事も無げに言ってのけるあたり、陽姉の人の良さが滲み出ていて。

 別に気張らなくても、多少舐められたとしても、素の彼女こそ教師に相応しいと思わされる。伝えたところで反論されるだけだろうけど。


「それじゃ、俺は帰るよ。入部先が決まったら教えてくれ」


「待ちなさい」


 今度こそと踵を返したものの、再び呼び止められた。


「まだ何か用か? 心当たりはないけれど」


「所属先を決めたから、もうしばらくここに居なさい」


「……てっきり、教員での話し合いで決定されるとばかり思っていたが」


「一生徒のために、そんな時間を割くわけないでしょ。あなたの入部先については、わたしに一任されているわ」


 教職の存在意義を根本から疑うようなことを言うな。さっきの感情を返せ。


「なんとも納得はしがたいが理解はした。それで、しばらく待てってのは何故だ?」


「それはね――」


「暁先生! お待たせしまし――へぶッ!?」


 陽姉が俺の疑問に答えようとした瞬間、静けさに満ちていた空間を切り裂く女子の声と鈍い音。職員室の入口から届いたそれは、俺達の注目を引き付けるには十分すぎた。


 視線を向けた先には、女子生徒らしき人物がうつ伏せにぶっ倒れていた。それはもう見事に大の字で。


 人形のごとく微動だにしない様子を心配して、俺と陽姉は急いで彼女へと接近する。それほどに強烈な音だった。


「おい、大丈――」


「な、なんですか!? 誰の巧妙なトラップですか!?」

 

 救命マニュアルよろしく、意識確認を行おうとしたが、俺が言い切るより先に飛び起きて後ろを見やる女子。峯ヶ崎学園は忍者養成学校ではないので、当然ながら罠なんて張り巡らされている筈もなく。


 強いて言えばスライド式ドアのレールが廊下と部屋を隔ててはいるが、まさかあれに引っ掛かって転んだのか? だとしたら逆に器用な奴だ。


白雪しらゆきさん、みっともなく騒いでいないで落ち着きなさい。罠なんてどこにもありはしないわ」


 さっきまで俺と話していたテンションはどこへやら、直ちに教師モードへと切り替え、冷たい声で言い放つ陽姉。内心は無事を安堵しているだろうに、これっぽちも心配している風に聞こえない。本当に不器用な従姉弟である。


「わかりました! って、そこに居るのは不知火くんじゃありませんか。どうしたんですか? 職員室に呼び出されるなんて、何か問題でも起こしたんです?」


 マシンガントークという形容が相応しいほどの早口で捲し立ててくる女子。不思議そうに小首を傾げる姿をじっと見つめる。


 ボブカットにされた大人しめの茶髪は片側だけ編み込まれており、小柄な体躯のせいか高校一年生とは思えない幼さが残っていた。


 ――間違いない。


「君は誰だ?」


 確実に見覚えがなかった。


「わたしのことを舐めまわすように見ておきながら、第一声がそれですか!?」


「不快に思ったなら謝る。だが安心しろ。俺は君が顔見知りかを確認したかっただけで、君の容姿には欠片も興味がない」


「それはそれで納得いかないんですけれど!? わたし、これでも発育は良い方です!」


「そうか。で、君は誰だ」


「男子にあるまじき興味のなさ! あと、わたし同じクラスですからね!? それどころか、席も前後なんですけど」


 全く記憶になかった。まあ、彼女に限った話ではないのだが。


「わたしは白雪しらゆき奏音かのんです。思い出しましたか?」


「いや全く」


「即答ですか!? 誠意を見せて下さいよ!」


「頑張るほどのことじゃないだろ?」


「どうして、さもわたしが間違っている風なんでしょうか。クラスメートの名前を憶えていないのは不知火くんなのに! いっそ清々しいです」


「分からないことは知ったかぶらない。それが俺の信条なんだ」


「か、かっこいいです! 実際には名前を忘れているだけなのに!」


 何故だか尊敬の眼差しを向けてくる白雪。彼女と出会ってまだ数分だが、人となりはなんとなく理解した。

 確実にめんどくさい奴だ。


「そこまでにしてもらえるかしら。わたしも暇じゃないの」


 努めて低い声で陽姉が言い放つと、白雪は居住まいを正した。そうだ、このタイミングで職員室にやってきたのは偶然なんかじゃない。彼女こそが次の面談相手――二人目の問題児なのだろう。


「あ、あの……やっぱり二人じゃダメでしょうか?」


「その確認をするということは、見つけられなかったのかしら」


「うぅ……あと一か月……いえ、一週間あれば――ッ!」


「あなたたち以外は既に入部先が決まっているのよ。それでも見つけられるって思って……いいえ、思い上がっているの?」


「それは……」


 白雪は厳しい言及を受けて、さっきまでのテンションが嘘のように押し黙ってっしまった。おそらくは部活動に関する話なんだろうが、背景を把握していないからイマイチ要領を得ない。


「そんなあなたに朗報よ、白雪さん」


「……ふぇ?」


 虚を突かれたように、素っ頓狂な声を上げる白雪。そして何故か俺を一瞥する陽姉。……もの凄く嫌な予感が全身を駆け巡る。


「不知火くんが入部してくれることになったわ。これで部員数は三人」


「そ、それって――」


「ええ。あなたの申請を受理します」


「や、や……やった~~~~~~!!」


「ちょっ……」


 いきなり飛びついてきた白雪を何とか受け止める。背中に回された両腕の強さが、彼女の喜びを物語っていて。

 というか、とても痛かった。小柄なくせに、どこにそんな力を隠していたんだよ。


「白雪、痛い」


「おっと、すみません。嬉しさのあまりに胸を押し付けてしまいました。幸せのおすそわけですね」


「それで何の話だ?」


「……不知火くんが本当に男子なのか疑わしくなってきました」


 どうにも白雪は日本語が通じないようなので、俺は追及の矛先を陽姉へと変更する。自身へと向けられた視線の意図を汲み取ったようで、陽姉は淡々と説明を始めた。


「不知火くん、あなたには白雪さんが新設する部活動に所属してもらいます」


「……なんだって?」


 新設――つまり白雪は新しく、既存以外の部活動を作ろうとしていたのか。

 俺が平等に興味を持てないものではなく、新規の部活を。

 

「……そういうことか」


 向こう二年間は所属することになる、まだ伝えられていないその名称を、俺は問わずとも悟る。何故ならば、陽姉の表情が物語っていたから。

 

 本当にこれでいいのかという、躊躇。

 俺が嫌悪するんじゃないかという、恐怖。

 果たして意味があるのかという、疑念。


 ――そして、すべてを抑え込む決意が、ありありと溢れ出していて。


「察しの通り、あなたには『FB部』の一員として活動を命じます」


 あくまでも口調は機械的に、陽姉は告げる。


 俺が唯一、そして永遠に逃れようとしていた存在の名前を。

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