別れ
すべての授業が終わり、部活へ帰宅へと生徒が去っていく中、陽向と氷翠は夕焼けに染まった教室で声を潜めて話し合っていた。
「覚えてるよね?」
「うん、はっきりと」
最初に頭を掴んで陽向の向きを強引に変えたもの。
「あれは、人の手だったと思うよ」
「私の頭をガツンとやったのも、なんかゲンコツっていうか、チョップっぽかった」
「誰だろう。なんか知ってる?」
「見当もつかないよ」
「だよねえ」
分からないものを話し合ったところで、憶測以外は生まれない。話を切り替え、これから降りかかるであろう不幸について考える。
「一番考えたくないのが……」
言い淀んだ氷翠は視線を空へと泳がせた。
「そうだよね、言葉にしたくないよね」
「うん、陽向のお父さんとお母さんに被害が行くのもいやだけど、私の親にくるのもやだ」
「どうしたらいいんだろう」
今はもう、ヤカラもんもユニっちもいない。恐らく
「とりあえずさ、気にしてもどうにもならないから、一旦帰ろう? 何かあったらすぐに電話するよ。メールも入れておく」
陽向は無理に明るい表情と声音をこさえて言った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
2日後の夜11時。
陽向は自宅近くの公園で、静かにブランコを漕いでいた。夜8時頃、氷翠から電話があったのだ。ひどく落ち込んだ声を出していた。何があったのか聞いても、「後で話す」の一点張りだった。
「ごめんね、こんな時間に」
部屋着のまま現れた氷翠は、荒い息をつきながら陽向に詫びを入れた。周囲に目をやる。何かを気にしているようだ。
「どうしたの、一体」
「長くいると迷惑かかっちゃうかもしれないから、手短に話すね」
ブランコから降りた陽向の真正面に氷翠は立った。
「お父さんが借金作ってたみたいで、なんか昨日から家がすごいことになっちゃって。これからお母さんと実家へ帰るの」
「え、学校は?」
間の抜けた質問に対して、氷翠は大真面目に答えた。
「お母さんは黙ってなさいって。どこに行くかも知られたらいけないし、実家からもすぐに出ないと」
「え? 氷翠も一緒に行くの? 授業は?」
あまりの現実味のなさに、陽向の問はピントのぼけたものばかりになっていた。
「落ち着いたら連絡してもいい? メールなら安全かも。電話回線引けるのかどうかわからないけど……。もう行くね」
「え? 行くって今から? 明日は学校で遠足の班決めがあるよ?」
疲れ切った目で乾いた笑いを浮かべた氷翠は、陽向の手を握る。
「いつか、また会おうね。現実で無理なら、例えまたあんな感じになっちゃうとしても、
背を向け走り去る氷翠の背中を呆然と見送る陽向は、気を抜かれたように深夜の公園に立ち尽くした。風がブランコを揺らし、小さくきしむ音を立てた。
翌朝、陽向は学校へ行く前に、氷翠の家に立ち寄った。どうしても現実とは思えなかったからだ。
五十嵐家の前には、大きなトラックが停まっている。扉は開け放たれており、次々に荷物が運び出されていた。
どうしていいか分からずうろたえているところ、背後から声をかけられた。
「お嬢ちゃん、ここの家の子?」
白いスーツにサングラス、パンチパーマの男はタバコを吸いながら陽向に近づいてくる。
「い、いえ、違います」
「そうか、そりゃそうだよな。いるわけねえな」
男は頭をかきながら、底光りする目で陽向を上から下まで遠慮なく眺めた。
「じゃあ、娘さんの友達かな? どこ行ったか知ってる?」
昨晩氷翠が言った「迷惑かかっちゃうかもしれないから」という言葉の意味を、陽向は飲み込んだ。そして心が張り裂けそうになるのをこらえ、言葉を絞り出したのだった。
「友達じゃ、ないです」
「そうか、なら作業のじゃまだからどっか行け」
踵を返し、学校へ向かう。涙が溢れ出そうになるのを必至にこらえた。
教室へ着く。一日中待ったが、氷翠は学校へ姿を現さなかった。
終業のホームルーム後、担任が陽向に声をかけた。
「
「すみません、何も聞いてません」
うつむき、消え入りそうな声で陽向は答えた。教室を出てトイレにこもり、声を押し殺して泣いた。
私はなんて薄情者なんだろう。あれだけ仲の良かった友達を裏切ってしまった。
その後悔ばかりを繰り返し、いつまでも泣き続けた。心に強く刻まれた傷は、まぎれもなく不幸そのものだった。
ババブラ・アルティメイタム 完
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