ベータは置いてないです

「ひええええ」


 リビングツールT号は悲鳴を上げてしゃがみこむ陽向の襟首をひっつかみ、後ろへ引きずった。


「逃げろ!」

「な、なにこれ?」

「後にしろ! 今は逃げるか戦うかしろ!」

「にに、逃げます!」


 敵に背を向け全速力で走る陽向。風のような速さで逃げるその姿から、戦う意志は微塵も感じられない。

 足を止めて振り返ると、敵の姿はお米粒ほどのサイズになっている。体感では50メートルほど走っただけだが、距離にして500メートル以上は離れたようだ。

 あとは現実世界へ帰るだけだが、なにか忘れ物をしたような気がする。しかし忘れたということは大したものではないはずなので、気にせず帰ることにしよう。


 おいこら、と叫びながらリビングツールT号が空を飛んできた。頭から扇風機のようなものが生えて回っている。


「ナビゲーターのおれを置いて逃げ出すとは思わなかった」

「ええと、一旦距離をとって……」


 忘れてましたと正直に言えない気の弱さは、時として誤解を生む発言を招く。


「戦うんだな?」

「へ?」

「距離をとって戦う作戦なんだな? その戦闘フォームをみれば分かる」


 その言葉に陽向は自分の姿に目を落とす。確か普通の部屋着だったはずだが。


「な、なんですか? これ」


 オレンジと赤と黒を交互に絡ませたファイアーパターンのセパレート水着が体を締め付けている。肩から背中に向かっているマントは銀色。控えめに言うと恥知らずな格好であり、ストレートに言うと


「ダダダダ、ダサっ! ヤカらもんさん、なんなんですか、なんですかこれ!?」


 な代物であった。


「お前の潜在的なセンスの発露だから、知らんわな」


 リビングツールT号は遠慮のない視線で陽向の全身を眺め尽くし、飽きたかのように急に首の向きを変えた。


「そろそろ奴がこっちに気づいて向かってくる。さっきのあれ、ほらなんつったっけ。おれを殺した……」

「罵倒拳?」

「そうそれ。やれ」


 陽向はためらいなく答えた。


「どうすれば帰れますか?」

「おれの話、聞いてた?」

「ええ、聞いているがゆえのやつです」


 赤面している陽向が欲しがってるであろう言葉をナビゲーターは考え、ポクポクチーンと最適解を導き出す。


「奴を倒せば帰れる。罵倒拳でやれ。それが切り札だ」

「罵倒拳じゃなきゃダメなんですか?」

「まず奴をこっちに向かわせる為、罵倒拳が最適なのだ。大声を張り上げろ!」


 先程まで名前すら覚えていなかった技を勝手に切り札に仕立て上げたリビングツールT号は、陽向の尻を張り飛ばして喝を入れた。


「お前が悪口を言う。怒った敵が向かってくる。そこにカウンターの炎。実に理にかなっている」


 戦闘経験どころかケンカの経験もない陽向が目を向くほどの適当なフローチャートを口に出したリビングツールT号は、頭の扇風機を回転させてふわりと宙に浮く。


「こちらに気づいた。合図を出したらやれ!」

「あ、あい……」


 飛べるのならそれでおびき出せば良いのでは、と陽向は一瞬考えたが、殺意を持った敵が襲ってくるという緊張の方が勝った。


「近づいてきた。準備はいいか!」

「バカ……アホ……まぬけ……とんま……」


 考えうる限りの悪口を小声でつぶやきつつ力を溜める。敵は約10メートルの位置まで近づいてきている。恐怖に耐えかねた陽向はリビングツールT号に問いかけた。


「あの、もういいですか」

「まだだ」

「私、危ないのでは」

「今だ!」

「え!? あ!? この色情魔!」


 あと5メートルほどのところまで迫っていた敵が、陽向の手から発せられた炎に包まれた。動きを止め、膝をつく。空中から指示が出された。


「トドメだ、もう一撃!」

「生ゴミくさーい!」


 さらに巨大な炎が立ち上がり、敵は消し炭となった。同時に、空中にいたリビングツールT号も悲鳴を上げながら地面に落下、まだ頭上の扇風機を止めていなかった為、のたうち回りながら頭頂部を中心とした正円形を高速で描き続けた。

 まあ空中にいればそうなりますよね、と陽向は同情の目を向ける。


「大丈夫ですか、ヤカらもんさん」

「大丈夫に見えるか、このバカ野郎!」


 半分焦げた様子のリビングツールT号がやっとの思いで立ち上がり、戦いが終わったことを示した。


「お前、悪口のセンスがない。なさ過ぎる。『フルメタル・ジャケット』くらい観とけ。87年の映画だから、まだレンタルビデオ屋に3本くらいはあるだろうよ。お前の家、VHSだろうな」

「だけど、悪口言わなくてもいいんじゃないかなって」

「ところでお前、おれのことをなんか呼んでたな」


 図星をつかれたか、話を急に変えた。


「あ、ヤカらもんさん……」

「それが俺の名か。まあいいだろう」


 ヤカらもんはおごそかに胸を張る。陽向は頭を下げ、礼を言った。


「ありがとうございました。助かりました。帰りたいのですが」

「わかった」


 あまりにもあっさりと帰宅の許可を出されたので拍子抜けした。気の緩みはそのまま服装に反映された。


「あ……」

「普段着に戻ったな。じゃあ行くか」


 陽向は首をかしげる。


「行くか、とは?」

「お前の家。これから何が起こるか説明しないとならんだろう」

「え? どうして? 来る? なんで?」


 気弱なババマギアは、口を開けたまま成り行きに翻弄されるのであった。

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