白い煙

 静かな流れの川べりに建つ平屋で、静江は誰にともなく言った。


「もう、やめにしないかえ」


 顔から生気が抜け落ちている。

 隆が亡くなってから一週間ほどたったある日、一通の書類が届いた。大家の都合による立ち退き通知書だった。抵抗するつもりもない静江は、宗二の家に住まわせてもらうことを決めた。荷物もすでにまとめつつある。

 少しだけ、この立ち退きすらも香の企みかと思ったが、今となってはどうでもいい。


「家族を守る為にやるって言ってたけど、病気で死なれちゃあね」


 独白かと思われる言葉に応じる者がいた。


「それは困るよ。シズヱほどのババマギアは他にいないんだ。やめるのはまだ早い」


 リキューは姿を現し、考えを改めるように迫る。


「もう、あたしには関係がない。この家にいるのもあと一週間くらいだ」

「ソウジやリョウコの身に何が起きてもいいのかい?」


 脅迫にも等しい言葉に、静江は首を振って答えた。


「そもそも、あたしがどうにかできるもんじゃないんだ。涼子に会うのも次はあたしの葬式だろうよ。来てくれるかどうかはわからんがね」

「今度はシズヱ以外の人間が、すきかいで戦うことになる。けどシズヱより強い個体はいないから、ヒトの犠牲は出ることになるよ。それでいいのかい?」


 切り口を変えて詰め寄るも、静江の考えは変わらなかった。


「……今更他人がどうなっても……」

「……」

「……子供一人守れない人間が……」

「そうか、わかった」


 体をくねらせたリキューは、静江の真正面に座りなおした。


「けど、一つだけお願いがある。僕と一緒に隙魔界に来てほしいんだ。シズヱのことを心配していた主様に会ってほしい」


 リキューは後ろ足で立ち上がり、器用にテレビのスイッチを入れてチャンネルをガチャガチャと2へと合わせた。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 



 有無を言わせずといった様子で隙魔界へ連れてこられた静江。いつもは赤銅色の大地を見て寂しさを感じていたが、今はもう何も思うことはない。ただ早く帰って、宗二の家へ引っ越すための荷造りをしたかった。


「どこにいるんだい、あんたの主様は」

「あそこだよ」


 リキューは鋭く尖った尻尾で3時の方向を指した。最初隙魔界に来た時にも確認した建造物がある。以前よりも高さを増し、完成へと近づきつつあるようだ。


「ああ、あんたらの根城だったね」

「うん、肩に乗ってもいいかい? 静江なら小走りですぐに到着するよ」


 リキューは静江の肩に乗り、出発を促した。風を受けながらリキューは話しだす。


「静江が敵を沢山やっつけてくれたおかげで、あそこまで製造をすすめることができたよ」

「別にやりたくてやったわけじゃない」

「最後に確認するよ。静江はもうババマギアにならないんだね?」


 異常な力を持ち、縦横無尽に動き回るのは楽しくもあった。誰も信じないだろうが、若返ることができたのもいい経験だった。現実世界でも自分の体調はどんどん上向いていった。

 なぜか良かったことばかりが思い浮かんできたが、静江の答えは既に決まっていた。


「ならん」

「そうか」


 静江の腹部から、リキューの尻尾が飛び出ていた。背中越しに刺された、と気づく間もなく静江は大地に倒れた。


「さよならだ、シズヱ。君は本当に最強のババマギアだった。ここでの記憶は残らないし、現実世界では人形みたいになるけど、仕方ないよね」


 静江の体はチリのように消えた。リキューはそれを確認した後、一度も振り返ること無く泰然たる態度でその場を去った。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 



 静かな流れの川べりに建つ平屋で、静江は誰にともなく言った。

 もう暗くなりつつある夕方の6時過ぎ。灯りはついていない。


「なんで荷物がまとまってるんだえ?」


 乱暴に荷をほどき、灰皿を取り出す。ピンク色の包装紙が目に入ったが、それが何かは思い出せなかった。きれいな包みだったから、誰かの大事なものなのだろう。

マイルドセブンに火を点け、深く息を吸い込んだ。柔和な表情で煙を吐き出す。

 7時になると隆が電話をくれるのだ。毎日タカシは電話をくれるのだ。

 それまでの間には、たかしという人物が誰だったのか思い出すだろう。

 首を上げる。

 壁の上に遺影が見える。

 乾いた目尻から涙が少し零れ落ちる。

 静江は目を閉じた。考えにふけるように。疲れに沈んだように。

 薄暗闇の中、柔和な表情のままの老婆が吐き出す白い煙だけが、命の存在を映していた。



ババブラ・アイデンティティー 完

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