深い水の中のような出来事

 静江たちが病院で告知を受けてから3日後、隆は亡くなった。

 45歳という短い生涯だったが、大手生命保険会社の所長ということもあり、その遺産は大きなものだったようだ。だが全額を把握していない静江には関係のないことだった。

 葬儀は市内の会場で行われた。


 喪主挨拶時に後ろに若い僧を立たせ、香はマイクで言った。


「夫は亡くなる前日、こちらのお坊様の元へ現れたそうです」


 一体何を言い出すつもりかと会場がざわつく。


「『遺産の全額を香に』と言っていたそうです」


 冷ややかな笑いすら起きたその挨拶で葬儀は締めくくられた。

 出棺までの全てが、現実でない、深い水の中のような心持ちで進んでいた。

 棺が火葬炉へと入れられ、扉が閉まった時、涼子の大きな泣き声が響いた。


「おとうさん! おとうさん! ……おとうさん!」


 静江と宗二、隆の部下や後輩、同僚たちは皆涙を流していた。その場で泣いていなかったのは喪主だけだった。

 先程は変なことを言っていたが、やはり気を張っているのだろうと静江と宗二以外の誰もが好意的に解釈していた。


 収骨が終わり、静江は宗二を連れて川べりの家に帰った。しばらくの間黙りこくったままだったが、静江は壁を見上げ、ぼそりとつぶやいた。


「隆の写真、飾っておかないと」


 宗二は無言で亡父の遺影を見上げ、静かに涙を流した。遺影と言えないところに母の心情を感じたのだ。


「絶対に仕返ししてやるよ、あいつらに。おれの会社も弁護士入ってるし」

「やめときな」


 しゃがれた声で静江は宗二の計画に釘を刺す。


「あれとは二度と関わりたくない」


 あれとは香のことだろう。仏壇においてあるピンク色の包装紙が目に入った。


「まあ、いつか涼子と会うかもしんないけどね。もしあたしの葬式に涼子が来たら、あのおもちゃを渡してやっとくれ」

「ふざけたこと言うな。自分で渡せ」


 少し笑って静江は続ける。


「お笑い草だよ。あの女、ずっと涼子の嫌いなものをあたしには大好物って言ってたんだ。そこまで憎まれるいわれがあるかね」


 更に笑みを深くして言葉を絞り出した。


「なんて用意周到なんだろうか! 弁護士に加えて売僧まいすまで雇ってたなんて誰も信じやしないよ! 一生懸命考えたんだろうけど、あの時の会場の雰囲気ったらなかったね! 隆の霊魂が遺産の心配だって! どんだけあたしの息子を貶めれば気が済むんだい、ハッハッハ!」

「かあちゃん、ちょっと落ち着いて」


 不安になった宗二がお茶を入れようと立ち上がる前に、静江はタバコをくわえていた。火をつけようとして思いとどまった。


「大丈夫、狂っちゃいないよ。ただね」


 言葉を探しているような、もしくは何も考えていないような目で静江は続ける。


「隆は最近、よく家に来てた。家に居づらい、なんてことも言ってた。雰囲気で感じてたんだろうね。ゆっくり話を聞いてやれば良かった」


 老婆はただ静かにため息をついた。


 明日の仕事があるから、と宗二は帰り、一人家に残された静江はちゃぶ台に座って何をするわけでもなく目の前の空間を眺めていた。

 潮時という言葉が脳裏をよぎる。隆も言っていたように、宗二の家で暮らすという考えを捨ててはならない。一人で死んだら宗二に迷惑がかかってしまう。


 なにかの気配を感じて目を床へ走らせる。リキューがそこにいた。もう二度と現れないだろうと思っていたが、自分を騙す新しい手立てが浮かんだのだろうか。けれど今は、そんなことに考えを巡らせる気力はなかった。


「どうしたんだいシズヱ。ひどく消耗してるようだけど」

「よくもまあ、おめおめと出てこれるもんだね。そもそもアンタには関係ないことだよ」


 静江の膝下に近づいたリキューは、そこでとぐろを巻くように寝転がった。ぬめりとした黒い体にふと触れた静江は、その暖かさに驚いた。いや、自分の手と心が冷え切っていただけなのかもしれない。気づけばその手は、猫を撫でるような優しいものに変わっていた。

 リキューの頭に水滴が落ちた。耳を振って拒否の姿勢を見せたリキューは静江の顔を見上げた。そして何か言いたげな顔になったが、何も言わず撫でられるままになっていた。

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