翌日

「兄貴から電話が来たんだけど、市民病院に入院したって」


 風の四天王カッツォーネと会話をした日の夜、次男の宗二から電話があった。


「すっげえ苦しそうな声で『心配するから母ちゃんには伝えるなって』言ってたけど……」

「それほど悪くはないし、入院先もまだ決まってないって言われたよ、あたしは」

「誰に?」

「香さんに」


 重苦しい沈黙が答えを物語っているようだ。宗二は電話を切る前に、隆の病室を静江に伝えた。



 翌朝、静江はタクシーで市民病院へ向かった。悪い想像で頭がいっぱいだった。

 受付へ向かうと、病室が移動したことを伝えられる。移動先は、集中治療室だった。


 窓越しに映るのは、人工呼吸器をつけて苦しそうに呼吸をしている隆だった。心電図の波形も弱々しく感じる。静江は、膝と肩を震わせながら窓に額を押し付け、声を出さずに泣いた。


「ご家族の方ですか?」


 看護師から声をかけられた。振り向いた先の待合室にいたのは、医者と香、泣きじゃくる涼子と、背広を着た見知らぬ男だった。


「どういうことだえ」


 静江は涙を袖で拭きながら香に強い口調で問うた。


「心配なさると思いましたので……」

「騙してまで黙っていることか、これが!」

「お母さんをいじめないで!」


 涼子が香をかばい、静江は言葉を詰まらせる。

 医者が全員を診察室へ案内し、病状を説明した。


「一週間前に入院なさってから、ここまで悪化してしまいました。先日お話ししましたように、肺ガンです」


 静江の目の前が赤くなる。血圧が急上昇し、錯覚を起こしたのだ。医者は沈痛な表情で話を進めた。


「残念ですが、もって一週間です。ここまで進行してしまうと、手術でもどうにもなりません……」


 全員が無言で診察室を出た。静江が人形のようにソファへ腰を下ろすと、背広を着た男が話しかけてきた。


「弁護士の高梨です。隆さんの遺産の件で、遺言状を用意しております」


 今言われたところで何も頭に入らないが、もしかしたらそれも想定していたのかもしれない。高梨は話を一方的に続けた。


「遺産の全てを、妻の香さんに相続させる、とのことです」


 高梨は勝ち誇ったような表情で遺言状を静江の眼前に広げた。静江はそれを確認することもなく手で追いやった。


「ああ、そうかい……」


 ガラガラの声を出しながら静江は香に向き合った。香は目を逸らさない。


「アンタが隆の病状を一言もあたしに言わなかったのは、そういうことだったんだね」

「いえ、ただ単にご心配をかけたくないと」

「本当は隆が死んでから報告するつもりだったんだろう?」

「お母さんは悪くない!」


 涼子の叫び声に、静江の感情が爆発した。


「黙ってな!」


 初めて見る祖母の激昂に涼子は怯え、泣き出した。


「あんたねえ、子供をダシに使えば、あたしが困ると思ってたんだろ」

「それ以上の言葉を言われると、法廷で争うことになりますが」


 高梨が半笑いを隠さずに立ちはだかる。今までこういう現場を何度も体験し、顧客を勝利に導いてきたのだろう。殺してやろうかと思うが、現実世界では静江にそんな力はない。


「かあちゃん!」


 作業着姿の宗二が到着し、静江に声をかけた。高梨の姿に気づき、声を荒げる。


「なんだ、てめえは」

「弁護士の高梨です。隆さんの遺産の」

「病室に来て遺産の話する弁護士なんて聞いたことねえよ。本物か?」


 高梨は半笑いから笑顔になり、弁護士バッジを見せつけながら肩をすくめた。


「コレを連れてきたのは、あんたか。香さん」


 宗二は、今にも殴りかからんばかりの勢いで香に歩を進める。


「は、はい、高梨先生から打診されまして」

「なんて言った?」

「高梨先生が、同席した方がいいと」

「あー。ハイエナの言葉はわからんな」


 帰れ、と宗二は香たちに手とあごの動きのみで命じた。

 涼子が泣きながらガラス窓に顔を押し付け、病室の父を見ようとしている。その手を香が引いた。


「おばあちゃんたちが帰れって言うから帰ろう」

「いやだ! まだいたい!」

「またおばあちゃんに怒られるよ!」


 静江は声をかけるつもりで涼子に近づいた。小さい瞳が、怒りで燃えている。


「おばあちゃんのせいだ! おかあさんと仲良くしてくれないから、おとうさんは困ってたんだ!」


 絶句する静江に、無垢な攻撃は続いた。


「私がカニ玉嫌い、甘い卵嫌いって言ってもいっつも出てくるし、おばあちゃんが私とおかあさんのこと嫌いなの知ってるんだから!」


 静江は唇を震わせ、何かを言おうとして口を開いた。だが、その口から言葉が出てくることはなかった。

 香たちが帰ったあと、宗二は兄の様子を見て嘆息し、静江は魂が抜けたように床を見つめていた。

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