四天王、風のカッツォーネ
「大したことじゃないんですけど」
電話口の香は、いたって平静な声で言った。
「隆さんは入院することになりました」
「そうかえ」
言いたいことは山ほどあるが、隆の家庭の事情に口を突っ込むのもためらわれる。
「どこの病院だえ?」
「まだ決まっていません。それほど悪くはないですので」
「あのな、それはな、香さんが決めることじゃないだろ」
笑いながらの一言ではあるが、口調は硬い。入院先が決まったらまたご連絡しますので、という事務的な言葉で電話は切られた。
腰を下ろしマイルドセブンに火を点け、いつもより深い呼吸をする。指先でちゃぶ台をコツコツと叩いた。
ふと仏壇に目をやる。最近はそれが癖になってしまっている。どういう意味かは自分でもわかっているつもりだった。
位牌の前に置いていたピンク色の包装紙が目に入る。早いところ涼子に渡したいものだが、なかなかその機会がない。隆の病室で会った時に渡すとしよう。
腰を上げ、静江は散歩にでかけることにした。赤黄色や橙色のキンモクセイがあざやかに咲く、素敵な通りが近所にあるのだ。今は、その香りにこのざわついた心を委ねたい。
少し風が冷たいので、はんてんを着込む。そのタイミングでテレビがチカチカと瞬き始めた。
「あーくそっ! ちょっと待っとくれ!」
我知らず険しい声が出る。
「急ぎの用事かい?」
静江は声がした方に一瞥もくれず、サンダルを履きながら返答した。
「キンモクセイを見に行くんだ」
「緊急事態だから自粛を要請するよ。不要不急の外出は控えるんだ」
「自粛は要請されるもんじゃない。もとはといえばお前らの世界の話だろう。30分ほど待たせておきな」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
いくぶん表情をほころばせた静江が
「我は風の四天王、カッツォーネなんだけど。なんで? なんで相手待たせて平気でキンモクセイの香りさせてんの? バカにしてんの?」
「すまんね、かつおさん。どうしても見ておきたくて」
「死ぬ前に見ておきたかったってことか」
それなら仕方ないとカッツォーネは頷いた。
「別にそういうわけでは」
静江が言い終える前に、猛烈な風が吹いた。秒速30メートル以上の風で家が倒されるというが、これはそんなに生易しいものではない。実に秒速50メートルの狂風が静江に襲いかかった。
「ひょえぇぇぇぇっ!」
悲鳴を上げながら顔を抑える。呼吸が出来ない。特殊な力を得た静江の脚力を持ってしても抗う術はなく、鉄棒選手さながらのきれいな縦回転を描いて後方に飛んでいった。
3秒ほどで風は止み、静江は幸運にも足から着地。だが強化されたとはいえ、加齢により衰えた三半規管しかもたない老婆が連続で高速バク宙しながら100メートル近く飛ばされたらどうなるか。
「おぼぼぼぼぼぼぼ。ぼ。うろろろろろ。ぼぼ」
「うわ、汚いな」
ひざまずいて吐瀉物を景気よく吐き出す静江の真横の地面から、リキューがひょこっと顔を覗かせた。
「お。ぼ。ぼぼぼぼぼぼ。ぼろろろぼ」
「そうだね、3秒くらいしか風を出せないんだろうね。うん、シズヱが通れるトンネルなら10メートルくらい掘れる。シズヱが言うようにマキシマム幅の反復横とびをしながら近づけば狙いはつけられないだろう。うんうん、そうだね。ひたすら体力を使うしんどい作戦だけどそれしかなさそうだ。向こうの気力切れとの勝負だね」
「ぽ。うろろ」
「え? ステータス画面を開け? 何バカ言ってるんだいそんなバカみたいに人の能力をバカ数値化できるバカなものなんてあったらこっちの能力も見られてバカ同士でどん詰まりになるだけじゃないか。敵対してるバカがお互いにバカ手札を晒し合うってバカすぎてバカ負けするよ。バカなのかい」
会話のフリをした一方的な作戦会議を終え、リキューは再び地面へ消えた。おそらく静江は何も言っていないし、考える気力もない。
かたや風のカッツォーネ。こちらも先程の攻撃で全ての気力と体力を使い果たしていた。ヒザがガクガクと生まれたてのロバのように震えている。さっきの一撃で死んでくれてないかと淡い期待を込め、静江がすっ飛んでいった方向に目を凝らした。
何も見えない。想定していたよりも遠くに飛んだのかもしれない。近くにあった岩に腰を下ろし、ホッとした表情でショートホープに火を点けた。
どれほど時間が経ったか。岩の上でうたた寝をしていたカッツォーネの肩を叩く者がいた。静江である。若返ったレオタード姿で荒い息を吐いている。一向に攻撃が始まらないため、20メートル幅の反復横とびをしながら近づいてきたのだ。
「さ、さすがに眠っている相手を、ブスリってのも、ね、寝起きが悪いから」
息を整えつつ、状況が飲み込めていないカッツォーネの首に手刀を当てる。
「割烹着より風を受けないと思って」
「あ、あんた
静江は、自分が敵陣営からどう呼ばれているかを初めて知った。
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