不安への一歩
隆の顔色が悪い。咳も止まらないようだ。
「仕事、休めないのかい」
「仮にも所長のおれが休んだら、現場の士気に関わるからね」
大手生命保険会社の支所長を務めている隆は、大柄で後輩の面倒見もよく、多くの人に慕われていた。だが今はその評価が足かせとなっているようだ。体調が悪くても病院に行けないなど、まるで戦時中じゃないかと静江は思う。
「『進め一億火の玉だ』なんて煽ってた奴らも、人には不眠不休を強いておいて自分は休んでたんだよ? なんでお前が休めないんだい」
隆は静江の淹れてくれたお茶を一口飲んで、静かな口調で言った。
「だけどさ、『風邪でも休めない人へ』とか薬のコマーシャルでもあるじゃん。やっぱ、ああいうの見るとね、休もうって雰囲気にならないんだよね。会社っつーか社会が見張ってるていうか……」
「あたしはあんたのこと見張ってるけどね、病院に行くべきだよ」
強く主張し、精一杯の気持ちを込めて語りだす。
「あんたじゃなきゃできない仕事なんてない。良くなったら、あんたの代わりをできる後輩を育てておくんだね。それとね、社会なんてそんなに気にする必要はないんだ」
「……分かってるんだけどな」
「いや、分かってないね。あんたより年取った人たちは言うだろうよ。『自分は点滴を打ちながら仕事した。最近の若者は甘えてる』って。それはね、点滴しながらでもできる仕事ってだけなんだ。自分にしかできないって酔ってるだけなんだよ。そんな奴らがのさばってる社会とやらの目を気にする必要はない。病院に行きなさい」
どちらかというと普段は寡黙な母に、隆は気圧された。ここまで強く言われると想像していなかったのだ。ふと、父の遺影を見上げた。幼い時に亡くなったのでほとんど記憶に残っていないが、仕事熱心な造船技師だったと聞いている。
視線に気づいた静江は、諭すように言った。
「そうだね、この人も何が何でも休まなかったね。だから宗二が生まれるのを待たずに死んじまった。病院さえ行っとけばよかた……よかっ……よかた……ちょっとあたしは買い物に。おまえも病院行きなさい」
ちかちかと瞬き始めたテレビを背中で隠しながら、静江は隆を追い出した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
目の前の男は四天王の一人だろう。「我はしてん」とか言っていた気がする。だが名前は分からない。前口上が終わる前に喉元への空手チョップを決めてしまったので勝負は済んだのである。いまや横たわっている相手にとどめを刺すばかり。
いつものようになんとも言えない表情をしながら、静江はマイルドセブンに火を点けた。
「律儀に一人ずつ登場してもらってるのに、不意打ちして悪かったね」
「そいつは火の四天王みたいだからね、やっぱり火に強いんじゃないかなヒャハハハーッ」
「火に強い、と。どうするかね」
「僕がとどめを刺すよ。めった刺しにするから、そいつをうつ伏せにしてくれないか」
静江が火のなんとかをうつ伏せにするやいなや、リキューの尻尾と思しき部分が鋭さを増し、かえしがついた槍のような姿になった。
「ヒャハーッ! し、死ね、苦しんで死ね!」
叫びながら火のなんとかの臀部に何度も何度もそれを打ち込む。血を吐き痙攣している敵を絶命までいびり倒す様子に静江は顔をしかめた。
「よし、この辺にしておこう。息を吹き返したらまた楽しもう」
「いいかげんにしな」
リキューの頭をつかみ、地面に叩きつける。ずも、という異音を残して狂った有機物は姿を消した。そして「すまん」と小声でつぶやき、静江は火のなんとかの首を手刀ではねた。塵となって消えていく敵の亡骸に手を合わせたのち、めり込んだリキューを引きずり上げる。
「何をするんだい」
「言いたいことは色々あるが」
タバコを取り出し、その火を近づけながら静江は言った。
「止めを刺せるんなら、お前が戦え」
「僕にできるのは動かない敵をメッタメタに刺すくらいだよ。静江は家族を守るために戦うんでしょ? なら僕が戦う必要もない」
「そもそも、お前らの敵だろ」
「いや、穏健派か急進派かってだけで、僕らの世界の敵は、人間だよ?」
「敵の敵は味方ってわけかい」
静江は初めてリキュー、得体のしれない黒い有機物に恐怖を感じた。
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