ヨガを身代わりに

 ある日の朝、静江は病院の待合室にいた。


「あら田之倉さん、どこか悪いの?」


 どこかが悪いわけではない。むしろ悪くないから病院に来るのだ。いつものようにおばあちゃん仲間と月並みな挨拶を交わしつつ、診察室に呼ばれるのを待つ。


「悪くないね。川瀬さんはどうだい?」

「リウマチがね、良くならんね」


 川瀬さんと呼ばれた老婆は両手をこすり合わせた。その様子を見た静江は、持病の冷え性が収まっていることに気づく。これは向こうの世界と何か関係しているのか。

 そんなことをぼんやり考えていたところ、川瀬さんが静江の顔をまじまじと眺めていた。


「田之倉さん、顔色がやたらと良くない?」

「そうかえ?」

「しわも減ってるみたいだよ?」

「そうかえ。気のせいだよ」


 聞き出したい川瀬さんとできれば話したくない静江の間に、小さな緊張が走った。静江は心の中のベルリンの壁に立てこもり、知らぬ存ぜぬを貫く。


「なんか運動してるのかい? 教えとくれよ」

「あーっと、えーと、なんだっけ、そうだ、ヨガ。最近ヨガを始めてね」

「ヨガってなんだっけ?」


 まだビデオも普及しておらず、テレビのリモコンも主流ではないこの時代、ヨガの用途や効能は正しく伝わっていない。インドの方の不思議ななにか、くらいの認識である。


「なんか体操じゃなかったかね。柔軟みたいな」


 自分で言いだしたことに責任を感じていない静江は、両手を組んで頭上に伸ばした。ポキポキと軟骨から小気味よい音がする。

 まだ何か聞きたげな川瀬さんだったが、静江がタイミングよく診察室に呼ばれた為その話は終了となった。


 なお、まったくの余談ではあるが、1969年にニューヨーク州で3日間開催された音楽の祭典「ウッドストック・フェスティバル」の様子を収録したフィルム内で、若者たちがヨガの効能をこのように語っている。


「ヨガをやると、ドラッグと同じ効果が得られるんだ」


 と得意げに語るボギーとエミリー(名前は想像)の瞳は大きな花丸を差し上げたくなるほどそれはもうワンパクにガンギマっており、筆者が「吸ったり打ったりしながら柔軟すりゃあ、そりゃキマるわな」とうらやま、もとい苦々しく感じたのも致し方ないことと言える。偏見込みで言いきってしまうが、観客の大半はそんな理由でベリーハッピー。その為、運営がグダグダだったり雨が降ったり出産がおっ始まったり食べ物がなくなったりしても争い事は起きなかったとされている。まあウソである。吸うものや打つものを巡るバトルとか、悪い方に入ってしまった奴がウエポン化するとかあったに決まっている。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 



 診察室の中で、若い医者は首をひねりながらカルテを眺めていた。


「血液、内蔵ともに異常無いですね。それどころか、ものすごく良いです。良くなってます。どんな生活送っておられるのか、逆に聞いてみたいですよ」

「若返ってからヒロポン打って根性焼きでたつおをぶっ殺したらこうなりました」


 他人に話せる要素が一つとして存在しない為、静江は真実のかわりにまたもうろ覚えの柔軟体操をいけにえに差し出した。


「あー、ヨガとかやってますわ」

「そんなに効果があるんですか! すごいな、今度の研修会で議題に上げようかな」

「まー、そうですな。体に良いんでしょうな」


 お礼を言って診察室から退却する。しばらくこの病院には来ないほうが良さそうだ。歩いて家との間にある公園へ向かう。通りを見渡せるお気に入りのベンチには誰もいない。よっこいしょと腰を下ろし、足元に語りかけた。


「あれが適度な運動とは思えんがね」

「けど、老人に対する恩恵としてはもってこいだろ?」


 姿を現したリキューが応える。


「まあ、な。けどお前、そんなこと一言も言わなかったじゃないか」


 聞き慣れたスクーターの音がし、見慣れた姿が通る。隆が静江の家に向かっているようだ。静江は腰を上げ、足早に歩き出した。

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