第36話『美玲(みれい)』
乙女と栞と小姫山・36
『美玲(みれい)』
今日は、カタを付けなければならない……車窓を飛んでいく景色を見ながら、乙女先生はため息をついた。
ほんの五日ほど前のことである。『美玲友の会』から手紙が来ていた。宛名は佐藤正一、つまり亭主のことである。いつもなら亭主の机の上にそっと置いておく。いつもなら……。
『美玲友の会』とは、前々任校から続く教師仲間の親睦会で、数か月に一度泊まりがけで、青臭いというか阿呆くさい話題を種に飲み明かす会である……と、亭主の正一は言っていた。封筒も大判の定形最大のもので、表には会の名前から「事務局」の先生の住所や、メルアドまで緑のインクで印刷されていて、宛名もパソコンで打ち出したシールで貼ってあった。そして、それはいつも月の初めに来ることが決まりのようになっていた。
それが、四月の中旬過ぎ、それに宛名もいつものシールではなく、幼いといっていいような女の子の字で書かれている。ピンと来た乙女先生は、封筒のお尻に蒸気をあてて中身を取りだして読んでみた。
そして、長浜行きの快速に乗り、近江八幡を目指している。
その子は、タクシー乗り場の近くに自転車に跨ったまま乙女先生を待っていた。
乙女先生を見つけると、自転車を降りて深々と頭を下げた。悪戯な春風がスカートをなぶっていき、「あ」と、その子は小さな声を上げた。
「お久しぶり、大きなったわね」
満面の笑みで、乙女先生はその子を見た。母親似の小顔が愛くるしいが目に光がない。でも、怯えの色がうかがえないので、とりあえずは成功だと思った。
「今日は制服で来たのね……」
「伯父さんには部活だって言ってあります」
駅前の甘いもの屋さんに入って、最初の会話がこれであった。
「奥さんから、直接電話もらったときは、びっくりしました」
「わたしは、全てお見通し……というか、あんな時期に手紙が来るのは初めてやし、宛名が、美玲ちゃんの字やねんもん。大丈夫、今日はわたしが全部話をつけたげる」
「あの、おと……佐藤先生は?」
「仕事、この春から教頭先生やさかいに。それに、これは定時連絡と違うから本人にはなんにも知らせてないの。それから、お父さんて言うていいのよ。正真正銘、美玲ちゃんのお父さんやねんさかい。あ、言いそびれるとこやった。お母さんのことは、ほんまに……ご愁傷様でした」
美玲の目から、大粒の涙がホロホロとこぼれはじめた。
「いやあ、お別れっちゅうことになると、送別会ぐらいしてやりたい思いますねけんど」
「いや、ほんま、急なお話やよってに。これ、あんたら表で遊んどいで!」
「はーい……と、小遣い」
「もう、こんなときに」
「そやかて、美玲ちゃんは、たんとお父さんから小遣いもろて……」
そのとき、父親の平手が飛んだ。
「もう、これで、夕方まで帰ってきたらあかんで!」
母親は、平手を上手にかわした年かさの男の子に千円札を隠しながら渡した。
「おー、みんないくぞ!」
賑やかに、男の子ばかり五人が飛び出していった。
「すんませんな、てんごばっかりしくさってからに」
「それでは、ひとまずこれで美玲さんをお預かりしてまいります。手続きなどは仕事柄慣れてますんで、わたしどもの方でさせていただきます。ほんなら、美子さん……お参りさせてもろてよろしいでっしゃろか」
乙女さんは、そう言いながらバッグの中から、分厚いご仏前の袋を取りだし仏壇に向かった。
「ほんまに、長い間、正一のスカタンが……ごめんなさいね、美子さん……」
ゆっくり手を合わせ振り返ると、いっしょに仏壇に向かっていた美玲の後ろに、学校のサブバッグが置かれていた。
「当面の着替えとか、入れといたさかい。あとの荷物はまたゆっくりと、改めてお話させていただくおりにでも」
義伯母は、にこやかに念を押した。
「はい、それはそれで……ほなタクシーを」
「あ、もうおっつけ……来ました来ました」
「あ、あれ……!」
タクシーのドアが閉まる寸前に美玲は、義伯母を突き飛ばすようにして、家の中に戻った。
「すみません、これだけ、持って行かせてください」
「なんや、アルバムかいな。かんにんな気いつかんで」
そして、タクシーが走り出すと、美玲はアルバムだけを握りしめ、一度も後ろを振り返らなかった……。
電車の中でも、美玲は一言も口をきかなかった。
大阪が近づくにしたがって、乙女先生の心の中にも溜まっていた澱が浮き上がってくるように、怒りとも寂しさともつかぬ感情が湧いてきた。
「これ、よかったら使ってください」 「え……」 「マスカラが……」
窓ガラスに映る自分の顔が狸のようになっていることに初めて気づいた。
「ありがと」
そういうと、乙女先生は、渡されたティッシュで化粧を直した……。
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