第29話 D少年の物語
「帰りたいな……みんなのところに……」
ぽつりと呟く。
窓の外には
教都リーシャンの中心部にある大神殿。そのなかにある
一介の信徒に
調度品も寝台もおそろしく立派で、かえって落ち着かないくらいである。
連れてこられて、すぐにこの部屋に通された。
周囲の司祭たちの態度も、へりくだったもので、デイジーは不思議に思いつつ時を過ごした。
説明を受けたのは翌日のこと。
なんと自分が次期総大主教の候補に抜擢されたという。
びっくりするやらなにやら。
大変に名誉なことではあるが、戸惑いの方が大きかった。
むしろ喜びはなかった。
豪奢な絹の服を身にまとっても、高価な宝石で飾り立てられた錫杖を渡されても、たくさんの司祭や女司祭にかしずかれても。
心はまったく躍らなかった。
不思議と。
そんなものより、洗いざらしの木綿の服の肌触りの方が心地良かった。
ユリオプス司祭が作ってくれた錫杖の方が嬉しかった。
仲間たちと焚き火を囲み、夜通し馬鹿話をしている方が楽しかった。
ガルの語るおかしげな武勇伝に笑い転げ、ミアがうたうエルフの歌に聴き惚れ、フレイが披露する軽業に喝采し。
宝石のような時間。
「会いたいよ……みんな……」
「デイジーさま? いかがなさいましたか」
呟きを聞きとがめたのか、控えめな声とともに側仕えの女神官が入ってくる。
心配顔だ。
少女と見まごうような美貌の少年が物憂げに思い屈していれば、そりゃあ気にもなるだろう。
「……なんでもありませんよ」
微笑してみせるデイジー。
儚げに。
「ですが……」
「しばらく一人になりたく思います。入らないでいただけますか?」
「ですが……」
「命令です」
ごく柔らかく命じる。
言いたいことは山ほどあるに違いないが、逆らうことなくしずしずと女神官が退室した。
目を伏せるデイジー。
「おかしいでしょ。ボク、こんなえらそうなこと言ってるよ……」
紡がれる自嘲。
ぽたりほたりと雫が落ちる。
「笑ってよ……みんな……お願いだよ……」
教都リーシャンに潜入したフレイたちは、ユリオプス司祭の
シャガ。
総大主教候補たる大司祭である。
デイジーが登場しなければ、とくに問題もなく次の総大主教になっていたであろう、二十代半ばの青年だ。
凡庸で特徴がない、と、ユリオプスは評していたが、対面したフレイの印象は異なっている。
理知的な瞳、物静かな為人、柔らかい物腰。
穏やかで、敵を作らないタイプの人のように思えた。
なんというか、尖った部分がないのだ。
あるいは、だからこそ周囲の人間は、物足りなく感じるのかもしれない。
たとえばデイジーみたいな強烈な
「彼には悪いことをしたと思っております。
「なるほど……」
後継者の第一候補たる地位をデイジーに奪われたことについて、という、いささか
この言葉だけでも、彼の人間性を
むしろこういう人こそ、トップに相応しいんじゃないかって、フレイなどは思ってしまう。
「デイジーの様子はどうですか?」
「ずっと私室に籠もり、ふさぎ込んでいるようてすね。修行のとき以外は外に出ることもなく、他の司祭たちと
「そうですか……」
様子がありありと目に浮かぶようだ。
あの
頼るべき人もおらず、友達を作ることもできず、口を閉ざし目をふさぎ。
「……助けよう」
数瞬の沈黙が挿入された言葉は、仲間たちに向けたもの。
ミアとカルパチョは静かに、ガルとパンナコッタは大きく頷く。
態度の差こそあれ、四人には、ここがデイジーにとって心地の良い場所だとは絶対に思えなかった。
彼らは、マリューシャー教団みたいに、デイジーとその家族にとんでもない富貴を与えることなどできない。
名誉を授けるなんて、もっとずっと無理だ。
「けど、これからも一緒にやってきたいと思う」
淡々と語るリーダー。
くすりとミアが笑った。
そんな大仰な理由をつける必要はない。
「友達を助けるのに、理由なんか必要なのかい? フレイさんや」
子供の頃にデイジーを助けたとき、
どこらへんに、ご大層なお題目があったのかって話だ。
「あんたはそうすべきだと思った。だからそう動いた。それだけでしょ」
「……そうだったな」
一本取られた、という顔をするフレイ。
ゆっくりとシャガ司祭に向き直る。
「協力してもらえますか? 貴方に地位をお返しできるかと思います」
持ちかけるのは取引。
フレイの瞳に宿る
友を助けるための、一世一代の
さあ、
総大主教の後継者として、デイジーのお披露目が迫るある日のこと。
アンキモ伯爵の使者が教都リーシャンを訪れた。
新たな総大主教に挨拶を、という目的である。
気の早いことだ、と、教団幹部たちは思ったが、爵位を持つ貴族からの使者を
マリューシャー教団だって人間の集団である。
まして、使者が
ど素人が見たって、もんのすげー高価そうなのは丸わかりなのだから。
使者にこんなもん着せてるアンキモ伯爵という人物は、どんだけ金持ちなんだって思われるし、この使者はものすごい信頼されてるんだなってのも一目で判る。
じつのところ、まず見た目の部分から外交ってものは始まっているのだ。
物語などで、わざと貧相な服装をして臨み、相手の油断を引き出す、みたいなシーンが描かれるが、あれは文字通り物語だから。
最初からきちんとした手順で、きちんと話を進めた方が良いに決まっているのだ。
奇をてらうとか、そんなしょーもない策略をもてあそぶ必要なんて、地平の彼方まで探しても存在しないのである。
まるで
腰の左右には、これまた一目でわかる
撫でつけられた金髪。氷水晶のような青い瞳。精悍な顔立ち。
美丈夫だ。
居並ぶ女神官たちが感嘆の吐息を漏らす。
その瞳に微笑をたたえ、正面の椅子に座るデイジーに一礼。
「お初にお目にかかります。総大主教
聞き覚えのある名前、見覚えのある顔。
不思議に思ったにせよ、デイジーは表情に出さなかった。
ただ柔らかく微笑して、
「ボクはまだ総大主教ではありませんよ」
と、応えたのみである。
「これは失礼を。どうかご
丁寧に頭をさげる使者。
もちろんデイジーは怒ったりしなかった。
「長旅でお疲れでしょう。ごゆるりと滞在なさってください」
「過分なお言葉、感謝に堪えません」
微笑。
我が意を得たり、とでもいうような。
ごく軽くデイジーが頷いた。
茶番劇の、始まりである。
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