4章 騎士の誓い

 それからの一週間、メルはダンスと剣の稽古の合間を縫って、北宮殿アルクトスの片隅にある書宮殿ライブラリに詰めていた。『災厄の子』とは何なのか、本当にそんな伝承が存在するのか、まずはそれを確かめたかったからだ。


 さしてよくもない頭で小難しい書物を読み続け、それらしい区画をようやく漁り終えた夜半、メルは木目の浮いた机に腹立たしい気持ちで突っ伏した。


(『災厄の子』なんて記述……どこにもないじゃないか)


 ユニが人間に何かを知らせる際には雨が降ること、力が弱まると水が枯れ始めることなど、断片的な情報はちらほらとあったものの、脇に積み上げた幾冊もの本の中に『災厄の子』とみなせそうな確たる単語は出てこなかった。それにまつわる伝承も。


 燭台に立てた蝋燭がじっと音を立てる。今にも燃え尽きそうな長さしか残らないそれに深く息をついたメルは、寝不足で重い体を起こして背もたれのない角椅子を立った。


(とにかく、今日はもう戻ろう。ここでこれ以上のことはわかりそうにない)


 全ての情報が隠匿されているという可能性もないではないが、こうして調査を終えたメルの中では今、『災厄の子』などというものはそもそも存在しないのではないかという考えが幅を利かせていた。となればやはり他にあるのだ。アリスが〝姫〟であってはならない理由が。


「調べてわからないなら、聞くしかない、か……」


 聞いたところでエリアルが素直に答えるとも思えず、また今の今まで語っていないということはおそらく、メルにも、そしてアリスにも、知られたくない事情があるのだろう。メルが疑惑を抱いていることがエリアルに知れていいものなのか迷う気持ちはあるが、動かなければ事態は変わらない。虎穴に入らずんば虎子を得ず、ともかく特攻してみれば何かは変わるはずだ。良きにしろ、悪しきにしろ。

 そう腹をくくり、書宮殿ライブラリの重い扉を潜ったメルは通り道、訓練場へ続くアーチの前で、宿舎に戻る途中らしいスノウとばったり鉢合わせた。


「あれ、メル? どしたの、こんな時間に」

「お前こそ……訓練か? 夜中まで、お前が?」


 訓練着のスノウに尋ねれば、彼はうんざりともげっそりともつかない調子で肩を落とした。


「そうそう、先輩あんなすました顔して熱血指導でさぁ……俺がメルから一本もとれないからってさぁ……ていうかそう、メルのせいだよメルの。先輩最近いらついてるっていうかそわついてるっていうか、おかげで俺とばっちり」

「何で俺のせいなんだよ。ネイプルスどっかおかしいか? 普通じゃないか?」


 首を傾げるメルに、スノウは大げさに顔をしかめた。


「えー気付かない? ……ああ、そっか、そもそもメルがおかしいんだよな最近。なんだか上の空っていうか、考え事してる? 夫婦生活に悩みでも?」

「う、うるさいな、別に何もねーよ。大体、何で俺が上の空だとネイプルスがいらつくんだよ」


 妙なところで鋭いスノウにぎくりとしつつ誤魔化すと、スノウはそりゃあ、と肩を竦めた。


「気になるんだろ? メルの夫婦生活が。でも王子の嫁じゃうかつなこと聞けないしさ、そもそも先輩たぶん自分で気付いてないし」

「だから何の話をしてんだお前は」


 スノウが何を言わんとしているのかわからず、いらいらと問うメルに、スノウもまたじれったそうに答えた。


「だから先輩がメルに惚れてるってそういう」

「………………は?」


 斜め上からの返答に、メルはぽかんと目を瞠ったあと、スノウの襟首を掴み上げて素っ頓狂な大声を上げた。


「な、ななな何言ってんだお前、俺は男だぞ!? なんで男が男に惚れんだよ!?」

「わっ、ばか、しっ!! まだ先輩そのへんにい」

「――メル様が……おとこ…………?」

「うっわぁ先輩なんでこういう時ばっかタイミングばっちりなのかなぁこのすっとこどっこい!! 空気よめよ!!」


 闇に紛れた茂みの脇に彼らしからぬ間抜け面でぼけっと突っ立っているネイプルスはスノウの暴言にも気付かず、ただじっと驚いた目でメルを見つめている。己の失言にやっと気付いたメルは、手元のスノウをネイプルスに突き出すようにして解放すると、ほほほと口に手を当てて普段の倍は高い声でまくし立てた。


「いえあの男勝りって意味です決して男ってわけじゃないのでそのへんはよろしくお願いしますほほほほほではあの夜も更けてまいりましたので失礼しますね! ごきげんよう!」


 オペラを真似てできるだけ優雅に礼をするなり踵を返したメルは、ネイプルスの返答を待たずに闇の中をすたこらさっさと逃げ帰った。ネイプルスは、それをぽかんとしたまま見送り、ものすごく長い沈黙の末にもう一度呟いた。


「おとこ…………?」





 〈神宮殿サンクチュアリ〉へ逃げ帰ったメルが寝支度を整えベッドに潜ろうとしたちょうどその時、居間の扉が遠慮がちに叩かれた。時計を見れば、刻限は『神の眠る時ロードロス』にほど近い。この時間の来客など一人しか思い当たらず、扉を開けば予想通り、燭台を手にしたアリスが立っていた。


「夜分にすまないな。まだ起きてたか?」

「はい。大丈夫ですよ。アリスこそ、こんな時間まで何を?」

「うん、ちょっと君に見せたいものがあって。せっかくだから、泉で話さないか?」


 手に持った分厚い本のようなものを示してアリス言う。はいと頷き、一度部屋に引っ込んだメルは肩掛けを引っつかんで先を歩くアリスに続いた。

 前回と同じく泉の淵に並んで腰を落ち着ける。ちらりと見えた水面は、心なしかこないだ見た位置より低い。


(ユニの力が弱まると水が枯れる……か)


 ふと、ここ数日で読んだ本の文言が頭を過ぎり、メルは無意識に顎に手を当てる。


「いろいろ考えてたらすっかり遅くなってしまって。いい加減にしないと間に合わないってシェンナに叱られて、形だけは決めたんだ」


 考えこむメルに気付かず、アリスははしゃいだように手にしていた本を開いて見せた。分厚い表紙のそれは本ではなく見本帳だったようで、様々な色や質感の布が貼られていた。それらを示しながら、アリスは言う。


「結婚披露だしやっぱりちょっと大人っぽくして、上半身と正面はシンプルに、でも後ろにドレープをたくさんつけて裾を長く流すってデザインにしようと思うんだけど、君の好みは――」

「え、ちょっと待ってください、アリス。何の話ですか?」


 見本帳から取り外した布を貼った紙をメルに当てながら何色がいいかな、と首を捻るアリスに、物思いから覚めたメルが問うと、何を今更、という顔でアリスは言った。


「何って、ドレスだよ、君の。パーティーはもう一週間後だし」

「あ……ああ、そういえば、そうですね。すっかり忘れてた」


 この一週間はダンスの稽古も剣の修行にも全然身が入っていなかった。特にオペラなどはパーティーまであと何日と毎回毎回言っていたというのに忘れていたということは、なるほど、さっきスノウに言われた通り、メルは上の空だったのだろう。


「本当は近い色味のを着てみた方が早いんだけど、君は最近いそがしそうで全然つかまらないから――……っ、と……ああ、しまった、もうこんな時間か」


 言葉の途中で視界がぶれる。目を上げると、低くなった位置で困ったように見本を翳しているアリスが見えた。細くなった肩に布をかけてやりながら、細い指の持つ布見本をそっと取り上げ、きょとんとしたアリスに向かって翳す。


「……メル?」

「うーん、あなたは色が白いし髪の色も銀だから、どの色でも映えますね。かえって難しいな。何色が好きとかありますか?」

「何を言ってるんだ? それじゃまるで私が着るみたいじゃないか、着るのはき」

「あなたのドレスにしませんか?」


 困ったように笑うアリスの言葉を遮って言うと、え、と呆けたような声が返った。


「俺はドレスとかよく分からないし、着たいとかもないですから。幸いアリスと女の時の俺はサイズも同じくらいみたいだから、出来上がったらあなたが着てください。あなたに着てほしいドレスなら思いつく気もしますし」

「着るって……だって、無理だろう。私は夫で妻は君なんだから」


 心底不思議そうなアリスに苦笑して、だから、と言い直す。


「パーティーでは無理ですけど、ここでなら着れるでしょう? 観客は俺だけですけど」

「………………」


 ぱちぱちと瞬いてメルをぽかんと見つめたアリスの深い青の瞳が、不意にその輪郭を滲ませた。思った途端、ぼろぼろと大粒の涙が落ちる。


「うわあアリス!? どうしたんですか俺なにか悪いこと言いましたかごめんなさい!?」

「ちっ違う、違うんだ、これはその――だめだ止まらないちょっと待って」


 頬を流れる隙もないほどぼたぼたと落ちる涙にメルは狼狽したが、アリスも相当あわてているようで、すっかり大きくなった夜着の裾でごしごしと乱暴に目をこする。その手をとっさに掴んで留めたメルは、濡れた瞳で瞬くアリスを、混乱の末にえいやと胸に押し付けた。


「……め、メル?」

「す、すみません。その……平らな胸ですが、ハンカチのかわりくらいには、なるか、と……」


 我ながら意味のわからないことをむにゃむにゃと呟くメルに、アリスはぶふっと吹きだしてから細い肩を震わせた。


「わ、笑ってます!? 笑ってますよね!?」

「いや、うん、ごめん、笑ってな……いや、笑ってるけど、おかしいからじゃなくて、いやおかしいんだけど」

「意味わからないですアリス」

「ごめん、私もよくわからない。ただ……嬉しくて、つい。だめだな、私は。女の体は捨てたつもりだったのに。……口ばかりだな」


 囁くように言って、アリスはメルの背中に手を回した。細い肩はまだ震えている。


(……アリスはやっぱり〝女の子〟でいたいんだ)


 震える背中をぽんぽんと、幼い頃に両親がしてくれたようにできるだけ優しく撫でる。


(それでも、〝アリステア〟として生きることを選んだんだ。家族のために、国のために何かしたいって思って)


 騎士になれないからと拗ねて、一度は剣を捨てたメルとは大違いだ。

 メルの腕の中で震える背中は小さい。後ろに回された腕も、まるで壊れ物のようにか弱く、細い。それでも。


「――……はあ、よし。落ち着いた。ごめん、驚かせて」


 しばらくそうしていた後で、アリスはゆっくりとメルの胸から顔を上げた。

 赤い目で、くぐもった声で、それでもすっきりしたようにメルを見上げて、笑う。


「ありがとう、メル」


 照れたような、それでもまるで曇りのない無邪気な笑顔に笑い返しながら、メルは強く思う。


(強いな、アリスは)


 見つめあい、二人して顔を赤くして笑った後で、アリスは大きく息をすって、よし、と照れ隠しのように言った。


「じゃあ、どの色が私に似合うか、教えてくれ」


 その顔は、ひどく嬉しそうだった。





 ドレスの色も決め終わり、『神の眠る時ロードロス』が終わったのをきっかけに部屋に戻ったメルは、居間にある小花柄のソファにちょこんと、しかし堂々と座る、白い小さな人影にビクリと肩を震わせた。


「うわっ、し、シア、様……!?」


 狼狽するメルに、しかしシアはあっさり手を上げて軽く挨拶する。


「や。遅かったね。子供があんまり夜更かしをするものではないよ、小娘。殿下が知ったら笑いながら激怒するよ? 筋金入りのシスコンだからね、あのバカ殿下は」

「……その口ぶりだと、気付いてたんですね。俺がアリスは姫だと知ったこと」


 投げられた言葉に、メルの頭はすっと冷える。


「まあね。千里眼とまでは言わないが、大方のことは把握してるよ、僕は魔法使いだからね。だから、君がこの数日間、ずっと何かを調べていたのも知ってる」

「じゃあ、何をしに来たんですか。忠告ですか? 邪魔ですか?」


 挑むように小さな影を睨んで問えば、影はくつくつと肩を揺らせて笑った後に短く言った。


「いいや、手助けさ」

「……手助け?」

「迷える若人を導くのも魔法使いの務めだからね」


 今だ戸口に立つメルを仰ぎ見るように、魔法使いはソファに背をつけた。フードに連なる石がしゃらんと澄んだ音を立てる。


「……っう、わ……!?」


 半分だけ見える金色の目が一瞬だけぎらりと光った。

 それと同時に、メルの目の前にぶわりと丸い透明な球体が現れる。ぱしゃ、と涼やかな水音を立てるそれは、すぐに一冊の本の形になり、おそるおそる上げたメルの腕におさまった。


「これは……?」

「この国の〝記録〟だよ。色々と事情があってね、僕が管理させてもらっている。本当は国主にしか見せないものなんだけど、君はある意味当事者だからね。特別さ」


 ぴょんとソファからおりた子供の姿の魔法使いはそう言い置いて、紺色の表紙の古びた本を手に立ち尽くすメルの横を通り過ぎた。


「……シア様!」


 はっとしたメルが廊下を振り返った時にはもう、小さな背中はどこにも見えなかった。


 一人残されたメルはしばらく無人の廊下を眺めていたが、やがて諦めて部屋に戻った。テーブルに燭台を起き、魔法使いの座っていたソファに腰かけ、シアの言う〝記録〟を開く。


 蝋燭の細い明かりでそれを読み進めたメルは、そこに記された思いがけない真実に、呆然と目を瞠った。





□□□


「――……様、メリルローズ様!! 聞いてらっしゃいますの!?」

「っ、は、はいっ!?」


 きんきんとした大声で怒鳴られ、メルはびくりと肩を震わせて我に返った。

 夢から覚めたような顔をしていたのだろう。瞬くメルを見て、オペラは眩い金の巻き毛を揺らし、大きなため息を吐いた。


「……何もお聞きでなかったようですわね、メリルローズ様。まったく、数日前のお言葉は聞き違いだったのかしら? あれ以来、あなたはずっと心ここに在らずといったご様子ですけれど、一体どうなさったのかしら」

「す、すみませ」

「謝っていただかなくて結構ですわ」


 メルの謝罪を、オペラはぴしゃりと跳ね除ける。


「パーティーはもう数日後、私も準備がありますから、これが最後のレッスンでしたのに、よりにもよって一番の上の空ですもの。……あなたはせいぜい恥をかけばよろしいけれど――アリステア様がお気の毒ですわね」


 言葉の最後で、オペラはふっと目を伏せた。

 基本的には嫌味と怒りの言葉しか口にしないオペラだが、最後の言葉にだけは違う感情が込められている気がして、メルはオペラに申し訳なくなった。メルに対する感情はどうであれ、アリスに恥をかかせたくないという気持ちが彼女にはあって、だからこそ最後までメルを指導してくれたのだろう。多少の鬱憤晴らしもあったにせよ。


「本当に、すみま――」

「メル、ここに居るのか? ドレスの採寸をするから上の部屋に――……っと、まだ稽古の最中か」

「あ、アリステア様!?」


 メルの言葉の途中で扉を開けたのはアリスだった。


「こんにちは、オペラ。すまない、もう終わる時間だと思ったから、つい」

「い、いえ……あの、採寸、って……?」

「ああ、メルのパーティー用のドレスのな。色々と考えていたら遅くなってしまってこれからなんだ。……じゃあ、メル。終わったら来てくれ、それまで待っててもらうから。それじゃあ」


 笑顔で言って、アリスは返事を待たずに扉を閉めた。


「…………あなたのドレスは、アリステア様が見立てているのね。さては、それで浮かれていてレッスンに身が入らなかったのかしら?」

「え、えっと、いえその……」


 長い沈黙の末に静かな声で言われ、メルは背筋を震わせた。

 ――こわい。ふだん怒鳴ってるひとが静か怒ると余計にこわい。

 そうですとも違いますとも言えず、ただひきつった笑みを返すしかできないメルを、今までで一番の憎しみを滾らせた目でぎりりと睨みつけてから、オペラはくるりと踵を返した。


「あ、あの、オペ――……」


 追いすがるメルの鼻先で、バン、と乱暴に扉が閉められる。

 振動すら残っていそうな扉にごんと額をつけて、メルはあーあ、と肩を落とした。


(これはもう……完全に誤解されたな……)


 レッスンは今日でしまいとはいえ、一つ二つの報復はありそうな予感がし、メルはもう一度、深々と肩を落として息を吐いた。


(……まあ、仕方ない。それはそれとして、とりあえずアリスの所へ行くか)


 頭を振って気持ちを切り替え部屋を出たメルは、アリスの待つ上階へ行こうと、螺旋階段のある玄関ホールへ足を向ける。しかし、庭に面した廊下の途中、草陰からよく知った声に呼び止められた。


「メル、メルー。ちょっとちょっと」

「……スノウ? なんだお前、東宮殿アナトレイに居るなんて珍しいな」

「あーうん……ちょっと事情があって……お前に用があるんだ。こっち来れるか?」

「? ああ……つか大丈夫かお前? なんか隈すげえぞ?」


 庭にメルを手招くスノウは、いつもならば無駄に元気にやかましい彼に似合わずひどく憔悴した様子だった。


 丈夫だけが取柄のガッカリなのにと心配になり、メルは言われるままにひょいと胸元までの手摺を乗り越え、スノウの近くまで歩む。隣に立つと、スノウははあ、と大きく肩を落として息を吐いてからもう一度吸い、メルを腕を背後からがしっと掴み上げ拘束した。


「は!? おいてめェなにすんだスノウ! 離せ!」


 じたばたと暴れるが、今のスノウはメルより大きく力も強く、振りほどけない。

 そんなメルに、スノウは彼らしからぬ悲痛な声で叫ぶように言った。


「――ごめん、メル! でももう俺問い詰められるの限界なんだ、夜中まで人のベッドの横でずーっとずーっと同じこと聞き続けるんだよ!? 俺の鋼鉄の精神も一日にしてばっきり折れたさ!! だからごめん――先輩、さあ、どうぞ!!」

「先輩って――え? ね、ネイプルス……!?」


 スノウの声に導かれ、草陰の奥からゆらりと姿を現したのはネイプルスだった。黒い切れ長の目でメルをじっと見つめる彼は一見いつもと変わりないが、その瞳だけがどこか暗く虚ろに見えて、メルはぴくりと頬をひきつらせた。


「ネ、ネイプルス……? どうしたんですか、なんだか様子が……」

「――まずはお詫びをします、メル様。騎士としてこんな暴挙に及ぶことは私も本意ではありません。しかし……もしあなたが自分を偽っているのであれば、累は王子殿下にも及ぶことになる。それは是が非でも止めなければならない」

「な……なにを……言ってるんです? 俺は別に何も――」


 腕を掴まれたまま、ぎくりと体を固くしたメルの声を遮り、ネイプルスは平坦に続けた。


「その口調、物腰、そしてあなたの剣の腕。やはり私は疑惑を捨てられません。――……失礼!」


 言うや否や、ネイプルスはメルの襟首を強く握った。

 ――殴られる。

 思い、とっさに歯をくいしばったメルの予想に反し、彼はしばしの逡巡の後、握った手を左右に思い切り引いた。ぶちぶちぶち、と布を引き裂く鈍い音がする。


「――うぎゃあ!? な、ななななに!?」


 予想外の展開に、メルは素っ頓狂な悲鳴を発した。


「な、何これ!? 何だこの事態!?」


 豊満でもない胸はビスチェに包まれ半分ほどしか見えていない。そもそも男である以上、男に裸を見られても別段の羞恥はないが動揺は隠せず、あわあわと口を開け閉めしながらメルは叫ぶ。しかし、メルの声など耳に入っていないらしいネイプルスは、食い入るように胸元を見つめた後、安堵とも後悔とも羞恥ともつかない感情を宿らせた声で搾り出すように呟いた。


「……じょ……女性、だ……!」

「――へ?」

「はい、とりあえずお痛はそこまでなークソガキー」

「がっ!?」


 ぽかんと口を開けたメルの視線の先、ガンという鈍い音と共に、ネイプルスの体が地面に沈んだ。倒れた彼の背後で苦笑しているのは、跳ねた銀の髪を持つ、チンピラの方の王子だった。


「エ、エリアル様……?」

「色気のねぇ悲鳴が聞こえると思って来てみりゃ、まさかお前が襲われてるとはなぁ? メリルローズ。なかなかの女っぷりじゃねえか」


 呆れたように肩を竦めて皮肉に言ったエリアルは、メルが何かを言う前に、背後のスノウへ顎を向けて問う。


「で、後ろのそいつは? 強姦魔の共犯か?」

「うひぃ!? いえ強姦魔は先輩だけっす俺は無実っす! 殺さないで!」

「いやお前それはさすがにひどいだろスノウ」


 メルの腕をばっと離し、あっさり先輩を売るスノウを半眼で睨むメルに、エリアルは一瞬不思議そうな顔をした後でああ、と納得した声をあげた。


「そいつ、お前の同郷の奴か。そういや見たような気がするな。……ということは、メリルローズの正体も知ってるんだな?」

「は、はい。先輩が何か微妙に気付いちゃって、それで、その、苦肉の策で……」


 なるほど、と頷いたエリアルは、地面に突っ伏すネイプルスをつま先で小突き、顔を青くしているスノウに命じる。


「バラさなかったことに免じてお前は見逃してやるから、こいつ持ってさっさと宿舎に戻れ。沙汰は追って出す。で、メリルローズはこっちだ。その形じゃ外歩けねぇだろ」

「わぷっ!?」


 マントを脱ぎ、乱暴にメルに被せたエリアルは、メルの返事を待たずにさっさと踵を返して先を歩いて行ってしまった。


「…………」

「…………いてっ!」


 ぽかんとしているスノウと無言で顔を見合わせたメルは、とりあえずスノウの頭を一発殴り、ごめんってばーと喚く幼なじみの声を背にエリアルの後を追った。





「エ、エ、エリアル様――――――!? いくらいま彼女いないからってまさ、まさ、まさかアリス様の妻であるメリルローズ様にあんなことやこんなこ」

「うるせぇアンバー黙れ毟るぞ。さっさとこいつの着替えとって来い」


 東宮殿アナトレイの最上階の角部屋までメルを誘ったエリアルは、メルの乱れた服を見るや否や大声で叫んだアンバーを廊下に蹴り飛ばすと、バタンと乱暴に扉を閉めた。


「とりあえずバカが戻るまで座って待っとけ、メリルローズ」


 ソファを示して言ったエリアルは、自分は窓際の書き物机に備えてある椅子に座った。書類の積まれた机とソファ、着替えのための衝立が一つあるきりの小さな部屋は、おそらく東宮殿アナトレイでのエリアルの居室なのだろう。きょろりと室内を見渡してそう判じたメルは、言われた通り、革張りの白いソファに腰をかけた。


 積み上がった書類の一枚を手に取り、目を通し始めたエリアルをしばらく見守ったメルは、彼が二枚目の書類に手を伸ばしたのを見計らって静かに口を開いた。


「エリアル様。あなたがアリスを〝弟〟にしたのは、アリスをユニに捧げる生贄にしないためですか」

「……ずいぶんと直入だな? メリルローズ」


 書類から目を離し、ゆっくり視線を上げたエリアルを、メルは睨むように見つめる。


 核心に触れる言葉にも何ら動じた風のない彼は机にだらしなく頬杖をつき、口元に不敵な笑みを刻んで、メルの視線を真っ向から受けた。


「シア殿に聞いたのか。ずいぶん焦ってるみたいだな、あの人も」

「――どういうことですか? アリスは自分を『災厄の子』と言った。でもシア様の〝記録〟は、アリスをユニの生贄と――『神に所望された娘サクリファイス』と記述していた。どっちが本当なんです? ユニは一体、アリスに何を望んでるんですか?」


 シアに渡された〝記録〟にまず記されていたのは三百年前、フォルベイン王家と、ユニの始まりについてだった。


〝記録〟はこう始まっていた。神官の血を持つ一人の少女が、枯れた大地に生まれたばかりのユニの声を聞いた。ユニは少女にこう問うていた。――枯れたこの地を水で癒し、緑溢れる祝福された大地とするために、我に命を捧げる覚悟はあるか、と。


 少女はユニの言葉を受け入れ、その身を彼の神に捧げた。力を得たユニは少女との契約通り、枯れた大地に水脈を生じさせ、フォルベインは神の加護を得て豊かな土地となった。


 以来、遺された少女の一族は王家となり、ユニの守人となった。ユニの力が弱まる時、『神に所望された娘サクリファイス』は王家に生まれる。豪雨によって予告を受けた娘は、やがて訪れる使者に導かれ、〈神へ至る階ロードステイル〉の果てに眠るユニに、その身と覚悟を捧げなければならない。


 そう締められた〝記録〟の後には、幾つもの女の名前があった。おそらくは、ユニにその身を捧げた『神に所望された娘サクリファイス』の――歴代の姫たちの。そしてその末尾には、アリスの名が記されてあったのだ。


「……神ってのはさ、生きてるんだよな」


 エリアルはひとり言のように呟いた。


「生きてる以上は飯を食う。糧を必要とするのは人と同じだ。神の加護を失えば土地は急速に衰退する。この世界に生きる以上はさ、人間は神と共存しなきゃならねぇんだよ。神のためじゃなくって、自分らのためにさ。皮肉なのは、そのために捧げなきゃならない糧が、自分らと同じ人間だって所だな」

「でも、あなたはそれを受け入れるつもりはない。その犠牲がアリスである以上。そうでしょう?」

「お前の予想は正しいよ、メリルローズ。なんだよ、お前、案外鋭いな」


 軽く笑ったエリアルは、次いで口調を静かにして言った。


「アリスは確かに『神に所望された娘サクリファイス』だ。『災厄の子』なんて嘘っぱちさ。もっとも、俺だってそれを知ったのはつい最近だけどな」

「どういうことですか?」


 体を起こしたエリアルは、今度は椅子に深く背を預けた。


「そもそもの嘘つきは親父なんだよ。親父はアリスが『神に所望された娘サクリファイス』と生まれた時から知っていた。ま、そりゃそうだな、国王なんだから。でも、親父はそれをアリスに教えはしなかった。つーか、誰にも言わなかったんだな。両親以外で知ってたのは立ち会ってたマーチンだけで、ガキだった俺は蚊帳の外だった」


 エリアルはそこで苦笑じみた表情を浮かべた。


「親父は生まれたばかりのアリスを息子と偽った。ユニにすらな。欺けると思ったのか――一縷の望みを託したのかもな。ちょっと小腹は減ってるけど我慢しようかな、ってユニが数十年でも眠ってくれりゃ、アリスの命は助かるってさ。まあでも、世の中そんなに甘くはなかった。二……もう三ヶ月近く前か。ユニの使者として、シア殿が現れたんだ」


 家族の前に現れたシアは慄く王にこう告げた。――時は来た。ユニは『神に所望された娘サクリファイス』を所望している、と。エリアルが『神に所望された娘サクリファイス』という言葉を知ったのもその時だったそうだ。


「そんで親父は悩んで胃をやって血ィ吐いて倒れた。でもぶっ倒れた後で言ったよ。アリスをユニに捧げる、ってさ。父親としてより国王としての務めを全うしようとしたわけだ。だから俺ははいわかりました後は私にお任せをっつって親父とお袋を療養地へやってから考えた。どうやったらアリスも国も犠牲にせず、このクソガキとユニを黙らせられるかってな」

「方法はあったんですか?」

「ねえよそんなん」


 間髪入れずにエリアルは言った。どこまでも態度はでかい。


「ユニの〝食事〟の条件はいちいち細かい。神の声を聞ける力のある神官の末、まあつまりそれなりに濃い王族の血を引く、しかも命を捧げる覚悟がある娘を食らうことでしか、ユニは命を繋げないらしい。候補はどこを見たってアリスしかいなかった。さすがに焦ったし絶望しかけたが、シア殿はそんな俺に言ったんだ」


 ――妹を助けてやろうか? 僕も彼女をユニの元へ導くのは本意じゃないんだ、と。


「――ま、そんなわけで、とりあえずアリスを本当に男にしちまえばユニの飯候補からは外れるしユニもすぐさま飢え死にするわけでもないから当面はそういうことにしとこうと――」

「いや、それ、すげえその場凌ぎじゃないですか!? そんな行き当たりばったりな感じでアリスを男にしたんですか、あんたは!?」


 最後はえらく適当になったエリアルに思わず叫ぶと、彼は拗ねたように唇を尖らせた。


「しょうがねぇだろ、人間追い詰められると行き当たりばったりになるんだよ、俺だって人の子なんだよ。それにまあ、今はもう手は打ってるさ」

「手は打ってる……って、どんなです?」

「それはお前が自分で気付いてくれねぇと」

「は?」


 眉をしかめたまま首を傾げるメルに、エリアルは逆に問いかける。


「なあ、メリルローズ。アリスのことは気に入ったか?」


 唐突な問いを訝しく思いながらも、メルは思うままを答えた。


「……そりゃあ、アリスはいい子ですから。優しいし強いし……えーとその、かわいいし」

「だろーやっぱそうだよなーふっふっふ中々見る目があるじゃねぇかメリルローズ! 調子こいて手ェ出したらしばくからなこのやろう!」

「はぁ」


 めんどうくさいなこの兄、と胡乱に返事をする。

 しばらくやに下がった笑みを浮かべていたエリアルはやがて、口元の笑みはそのままに、目だけに真剣な色を宿らせた。そして静かな声で言う。


「でも、好きになれよ、アリスのこと。頼むからさ」

「……はぁ?」


 彼らしからぬ懇願めいた言葉に、メルは傾けた首の角度をますます深める。そんなメルを見て、エリアルは笑った。


「お前には期待してんだよ、俺は。シェルから継いだであろう、お前の騎士の魂に、な」

「……こんな体じゃ騎士にはなれないですよ。大体、親父だって騎士失格だったじゃないですか。任務を放棄してすたこらさっさと逃げたんですから」

「そうか? 俺はそうは思わねぇけど」

「……どういう意味です?」


 メルの問いに、エリアルは懐かしむように青い目を細めて続けた。


「主君を守るのが騎士の本分、なんだろ? シェルはちゃんとローズを守ったと思うぜ。あのままどっかのバカ貴族かなんかと結婚させられてたら、ほんとにローズは死んでたと思うもんな。体はともかく、心がさ」

「そうですか……って、何でエリアル様そんな昔のこと知ってるんですか? 生まれてたんですか? だとしたって赤ん坊じゃ」


 しみじみした気持ちで頷いたメルは、ふと疑問を感じてエリアルを見上げる。エリアルは呆れたように眉を寄せた。


「何言ってんだお前。だってあいつら逃げたの俺が七つだか何だかの時だぜ? 覚えてるさ」

「へ? あれ、でも……エリアル様って、今、お幾つです?」

「二十五だけど」


 あっさり言われてメルは目を剥く。


「何だそれ!? オペラどこじゃねえ若作りですねいっそ気味悪い!?」

「うるせぇな童顔なんだよ。気にしてんだから言うなよ」


 頬を染めるエリアルを気持ち悪いなぁと思ったその時、メルの背後でバタンと乱暴に扉が開き、慌てふためくアリスがバタバタと入ってきた。


「メ、メ、メルを兄上が襲ったっていうのは本当か!? うわぁメルほんとに服が……! ひ、人の妻になんてことするんだ!! 兄上のけだもの!!」

「てっめぇアンバーよりにもよってアリスに何て説明しやがったんだ!? さあ毟るぞ今すぐ毟るぞそこへ直れそして禿げろ!!」

「だだだだって私はただ見たままをお伝えしただけでうわぁいたいいたいいたい!! ごめんなさい!! 髪だけは、髪だけはーーー!!」

「だ、大丈夫か、メル!?」


 アンバーの襟首を掴み壁に叩きつけて髪を引っ張るチンピラと、必死に謝るハゲ候補を横目でみやりつつ、メルは心配そうにこちらを見てくるアリスの、何も知らない瞳に努めて笑顔を作って言った。


「……大丈夫です」





 何とか誤解を解いた末、すっかり待たせてしまった仕立て屋に謝りつつドレスの採寸を終えたメルが衝立から顔を出すと、ソファで待っていたアリスが嬉しそうに顔を上げた。


「出来上がるのはぎりぎりになりそうだけど、何とかがんばってくれるそうだ。楽しみだな」

「そうですね。俺も楽しみです。あなたが着るのが」

「……えへへ」


 最後はアリスだけに聞こえる小さな声で言ったメルに、アリスは照れたように頬を赤くして笑った。


(……やっぱかわいいな、うん)


 その顔はさっき気持ち悪いなぁと思ったエリアルによく似ているはずなのだが何故か素直にそう思い、そんな自分に自分で戸惑う。――好きになれよ。エリアルの言葉が頭に蘇り、なおさらメルは照れてしまった。けれど、頭はすぐにすっと冷える。


(アリスは自分が『神に所望された娘サクリファイス』であることを知らない。知れば、きっとアリスはユニに自分を捧げるって言うだろう。そういう子だから)


 無邪気に笑い、髪飾りはどれがいいかなと考え始めたアリスの隣に腰を下ろしつつ、メルは考える。


(手は打ってあるってエリアル様は言った。でも、それが何かは俺が気付け、と。どういう意味だろう。俺は必要な駒ってことか? アリスを守るために出来ることが俺にあるのか?)


 真珠と銀細工のティアラで迷っているらしいアリスをそっと、気付かれないように見つめる。真剣に金髪との相性を考える無邪気さに笑いながらも、メルは強く思った。


(俺にできることがあるなら、何だってやってやりたいけど)


 自然と胸に生まれた言葉に、メルは自分ではっとした。


(――騎士の魂、か……)


 祈りのような感情の正体は何なのか、メルはそれからしばらくの間、考えることになる。





□□□

 それからの数日は平穏に過ぎた。

 オペラのレッスンも終了し、「いろいろ面倒くせぇから」というエリアルによりネイプルスがしばしの謹慎を命じられたため、剣の稽古もひとまず休暇となったメルは、ほとんどの時間をアリスと共に過ごした。胸に生まれた感情に、何かをしなければと思うのに、それが何かを見つけられず、ただ隣で笑うアリスの笑顔を守りたいという気持ちだけは募っていった。


 そして、一週間ばかりが経ち、ついにパーティー当日の夜。

 〈神宮殿サンクチュアリ〉に届けられたドレスは、見るも無残な有様だった。



「これは――……」


 恭しく箱に納められていたドレスを見たシェンナは、珍しく狼狽したような声を出した。


「どうした、シェンナ? ……って、これ……」


 ひょいと後ろから箱を覗き込んだメルも、続く言葉を持てずに黙り込む。

 それはもう、ドレスの体を成してはいなかった。中心が大きく裂かれ、修復できないようにだろう、他にも数箇所に刃が入れられている。腕を伸ばし取り上げてみれば、解けた糸が指に絡んではらりと崩れた。


「一体誰がこんなことを……!」


 静かな怒りの篭った声で呟くシェンナに反し、メルはふっと静かに息を吐いた。心当たりはあった。けれど犯人であろう彼女にどうしてか怒りはわかず、それよりも、思い当たる節がありながら何の警戒もしなかった自分に対する失望があった。


「……謝らないと」


 箱にドレスだったものを戻し、メルはふらりと扉に向かった。


「メリルローズ様!? そんな格好でどちらへ――」


 呼び止めるシェンナの声も耳に入らず、メルは〝彼女〟の待つ東宮殿アナトレイへ走った。とにかく早く――謝らなければ。





「初めまして、アリステア様。ご機嫌麗しゅう」

「まあ、エリアル様によく似て凛々しくていらっしゃること。お体が癒えて何よりですわ」

「この度のご結婚、国王様も王妃様もさぞお喜びでしょう。何でも奥方様はローズマリー様のご息女とか。早くお目にかかりたいものですな」

「――ご祝福ありがとうございます。嬉しいです」


 煌びやかなシャンデリアの光に照らされた大広間で、次々に挨拶に訪れる貴族たちに作り笑顔で応じつつ、アリスはふっと密かに息を吐いた。


 ようやく途切れた挨拶の隙をついて壁際に移動したアリスは、ひだの大きいカーテンに隠れるようにして、着飾った紳士淑女に溢れた広間をぼんやり見渡した。少し離れた場所でやはり祝いの言葉を延べる貴族たちに囲まれている兄は、普段のがさつな振る舞いはどこへやら、非常に爽やかな、かつ堂々とした笑顔と物腰で快活に応じている。


(やっぱり場慣れしているな、兄上は。……私ももう王子なんだし、がんばらないといけないんだけど)


 思うものの、大勢の人間に囲まれることに慣れていないアリスはもうすっかり気疲れしていた。社交の術もろくに知らず気の利いたことも言えない。無力さばかりが身にしみる。


(メルはまだかな。メルがいれば、もう少しがんばれると思うんだけど)


 メルが現れるであろう螺旋階段の上をちらりと窺って思う。こういう場所に慣れていないのはメルも同じで、きっと彼も疲れて失敗して、困ったりするのだろう。それでも二人なら、このつまらないパーティーも、つまらないねと笑い飛ばせるものになる気がする。


「もう、来ていい時間のはずなんだけどな……」


 あまり長く人前に出すとボロが出るだろという何とも失礼な兄の計らいにより、メルの出番は宴もたけなわの頃、ダンスの始まる直前に設定されていた。客に酔いも回り始めた様子の今はまさに、その辺りの時間のはずだ。


「――奥様はいらっしゃいませんわ」


 つい口に出して呟いたひとり言に、傍らから答えが返った。

 驚いて振り向くと、そこには綺麗な赤いドレスを纏ったオペラがちょこんと立っている。


 いつの間に、と驚くアリスに、オペラはもう一度同じ言葉を口にした。


「メリルローズ様はこのパーティーにはいらっしゃいません。どのみち、あのダンスでは皆様の失笑を買うだけでしたもの。……大人しくしてらっしゃるのが、一番よろしいんですわ」

「オペラ? 一体君は何を……?」


 アリスの疑問を遮り、オペラはすっと手を伸ばした。


「私と踊っていただけませんか? アリステア様。……今更、妻になりたいとは申しません。でも、こういう場であなたのお役に立てるのは――あの方よりも、私の方だと思いますけれど」


 どこか思いつめた顔で挑むように言うオペラを訝しく思い、困惑に眉を寄せたその時、背後からざわっとしたどよめきが起こった。大きなそれにメルが到着したのかと階段を振り仰ぐ。だが、段上に見えた予想通りの人物の予想外の姿に、アリスは目を見開いた。


「メ――メル……?」


 呆然と自分を見つめる観客たちの視線にも気付かぬように階下を見渡したメルは、窓の近くでぽかんと己を振り仰ぐアリスを見つけたのだろう、ぽてぽてと階段を下り、道を開ける貴族の間を通ってアリスの元へ歩んできた。ひどく消沈したように肩を落とし目を伏せたメルは一回り以上も小さく見えて、アリスは思わず駆け寄り、むき出しの華奢な肩を強く掴む。


「どうしたんだ、メル。そんな格好で、ドレスは――」


 ――小さく見えて当然なのだ。メルは細い肩紐の、膝上までの丈しかない、薄いシュミーズしか着ていないのだから。おまけに足は裸足である。どこから歩いてきたのか、小さな足はすっかり黒く汚れていた。


 アリスの問いに、メルの肩はぴくりと強張った。薄い唇を震わせたメルは、小さな声で言う。


「……すみません。俺、ドレス、駄目にしちゃって」

「へ?」


 思いがけない謝罪にアリスはつい間抜けな声を上げた。

 見下ろしたメルは萎れたまま続ける。


「アリスはあんなに一生懸命だったのに――あなたに着てほしかったのに、俺、守れなくて」

「メ、メル? どうしたんだ?」

「……ごめんなさい」


 謝り続けるメルにおろおろとマントを着せ掛けつつ周囲を見渡すが、周囲もまた困惑も露に遠巻きにこちらを眺めていた。一番近くに立つオペラも、信じられないものを見るような目で呆然とメルを見ている。


「……何ですの? このひとは。公衆の面前に下着で――それに、着てほしい、って……?」

「……っ、そ、れは……」


 聞きとめられてしまったらしい呟きに身を固くしたアリスの肩を、ぽんと誰かが叩いた。

 はっと振り向けば、いつの間にか近くに兄が立っている。


「メリルローズを連れてとりあえずここを出ろ、アリス。ここは俺が治めるから」

「ご、ごめん、兄上。――メル、行くよ」


 耳元で囁くように言った兄に小さく詫びて、アリスはメルを抱えるようにして大広間を抜け出した。




 メルの腕を引き東宮殿アナトレイの再奥の噴水まで走ったアリスは、像の後ろにメルを押し込むと、その場にどさりとへたりこんだ。


「も、もう、だめだ、こんなに走ったのは初めてかもしれない……な、情けないな、男なのに」


 地面に座り込み荒い息をつくアリスに反して、像の影に立ったままのメルは全く呼吸を乱しておらず、汗もかいていない。やっぱり鍛えているんだな、と頭の隅で思う。


「……で、どうしたんだ、メル。そんな格好で、裸足で……ドレスがどうとか言ってたけど」

「さっき届いたドレスが――破れてて、もう直せないくらいになっちゃってて、それで」

「――そう、か……」


 ふと、さっきのオペラの様子が頭に過ぎる。オペラがどうしてかメルに厳しい様子なのには気付いていたが、まさか自分にそういう感情を抱いている故のこととは思わなかった。悪いことをしてしまったな、と思う。メルにも、オペラにも。


「でも、何も下着でこなくてもよかったのに」

「だって……あなたに謝らなくちゃって、急いでて、それで」

「謝る? 君が? 何故?」


 意味がわからず瞬くアリスに、メルは萎れた声で続ける。


「あのドレス、着たかったでしょう? アリス」

「それは……うん、そう、だけど」

「俺も着て欲しかったんです。あなたが着れば、きっと、誰より綺麗だったのに」


 ごめんなさい。

 もう一度そう言って、メルは泣きそうな顔で細い指を強く握った。

 アリスはぱちぱちと瞬きをする。つまり。


(――私に着せたかったって、それだけで、メルはこんなにしょげてるのか? 何だか泣いちゃいそうっていうかもうほとんど泣いてるけど、こんな、泣くくらいに本気で? 私が着たがってたからって……それだけで?)


 驚きの後、ふと胸の奥に暖かいなにかが生まれる。どうにもこそばゆい気持ちになって、アリスはふっと息をもらした。するともう止まらない。込み上げる感情をおさえきれず、くすくすと肩を揺らし始めたアリスを、メルはぽかんと眉尻を下げたまま、裏切られたような顔で見下ろした。


「ど、どうして笑うんですか、アリス。俺、俺は、あなたに」

「いや、ごめん、でもだって、メルが本気で悲しそうだから、つい」

「それでなんで笑うんですか。ひどいじゃないですか」

「だってさ、だって――……ああ、もう。いい奴だなあ、君は」


 笑いながら言うと、メルは口角をへにゃりと下げてますます悲しそうな顔をした。


「いい奴でもなんでもないです。あなたのささやかな願いすら守れない」

「何言ってるんだ? 守ってもらった」

「え?」

「今、君が私のために悲しんでくれてる。それで充分だ」


 明るい緑色の目を潤ませてきょとんとこちらを見るメルに、立ち上がったアリスは手を差し出した。


「アリス……?」

「踊ろう。パーティーだし」

「……俺、けっきょく、上手く踊れませんよ。男パートしか」

「実は私も女パートしか踊れない。しかもそれすら下手くそなんだ」


 白状すれば、メルはやっと笑顔を作り、そっとアリスの手を取った。





 大広間から漏れ聞こえてくる音楽に合わせ、手を取り合ったメルとアリスはぎこちなく踊った。リードするのはメルで、されるのはアリスだ。頭一つの身長差で、踊るパートも逆であれば、ステップもターンも上手くはいかない。おまけに自分で言った通り、アリスのダンスは下手くそだった。


 何とか一曲踊り終え、ふらふらと礼をする。上げた顔を見合わせて、僅かな沈黙の後、どちらからともなく吹きだした。やがて二人して地面にしゃがみこみ、大きな声で笑い合う。


「あっはっはっは、何だこれ、ずいぶんと無様だったな!」

「ほんと、はは、これダンスっていうか、ダンスじゃなかったですよね、よちよちしてただけですよね! あっはっは、ていうかもう、アリスほんと下手でしたね」

「最初に言っただろう、それは! ははは、はあ……しかし、あれだな。見る人が見れば、ずいぶん不気味な光景だっただろうな」


 ようやく笑いをおさめ、目尻に浮かんだ涙を拭ったアリスは、笑いの気配の残る声で言った。息をついたメルも、同じく目を擦りながら言う。


「大丈夫ですよ。誰も見てませんし、俺には可愛く見えましたから」

「……え?」


 不思議そうな顔をしたアリスに、メルはよいしょと立ち上がり、近くの茂みに落ちていた長めの枝を拾って戻る。


「何してるんだ?」

「ちょっと立ってください、アリス。はい、これ持って」

「へ?」


 質問には答えず、アリスの腕を引っ張って強引に立たせたメルは枝を手渡す。きょとんとしたまま枝を手に立ち尽くすアリスの前に跪いて言った。


「アリス、俺の肩にそれ置いてください。先で触る感じに」

「え? こ、こうか?」

「はい。それでいいです」

「そうか、よかった……って、これ、何なんだ? メル」

「叙任式ですよ」


 なんとなく、わかった。この数日、胸の内に燻っていた感情の正体がようやく掴めた気がした。どんな時でもまず笑う、優しく強い、女の子。


(俺の役目が何なのか、それはまだわからないけど)


 なんであれ、誓おう。――忠誠を誓うなら、この子だ。


「俺は、アリス・フェルト・フォルベインの騎士として、あなたに親愛と忠誠を誓います」

「へ?」

「叙任を」

「……あ、あなたを私の騎士とします。これでいいか?」

「名前を呼んでください」

「……メル・ターナーを、私の――アリス・フェルト・フォルベインの騎士に、任じます」


 ダンスごっこの続きと思っているのか、驚きから覚めたアリスは、楽しげに笑いながら言った。それでいい、とメルは思う。ごっこでも冗談でも、アリスが認めてくれた以上、メルはたった今から、彼女の騎士だ。


 顔を上げ、微笑むアリスを仰ぎ見る。仰向けに手を差し出すと、しばしきょとんとした後でメルの意を察したアリスは、ためらいがちにメルの小さな手に長い指を乗せた。華奢で骨ばった手の甲に、メルはそっと口付けを落とす。


「――……」

「これで儀式は終了です。俺は今から、あなたの騎士です」


 唇を離し、顔を上げる。

 立ち上がり、繋いだままだった手を離すと、アリスははっとしたように傍らのメルを見下ろした。月明かりに照らされたアリスの頬は、どうしてか少し赤い。


「……アリス? どうしました?」

「え? えっと、うん、その……」


 疑問に思い問いかければ、アリスは誤魔化すように視線をさまよわせてから、赤い頬のまま、照れたように笑って言った。


「……なんでもない!」



 それから間を置かず、代わりのドレスを抱えてやってきたシェンナに発見され、叱られつつもきちんとドレスを身に纏い、アリスと共に大広間へ戻った。





□□□


 オペラはむしゃくしゃと東宮殿アナトレイを抜けるアーチを潜った。もう一秒だってあの空間には居たくない。細い靴の踵が折れそうなほどに乱暴な足取りで、白煉瓦の敷かれた道を進む。


(何なのよあの人……! ドレスがあんなになったんだもの、来れるわけがないと思ったら下着で現れてしかもその後また平然とむしろ元気に再登場よ!? どれだけ面の皮が厚いの!?)


 しかもオペラを責める素振りもなかった。オペラの仕業と気付いていないわけはないのに、広間の隅に隠れるオペラを見止めたメリルローズは、憐れむような顔すらして見せたのだ。腹立たしい。そしてひどく悲しい気持ちだった。


(でも、アリステア様はあの人のことが――……)


 行き当たった答えに、オペラはぶんぶんと頭を振る。認めたくなかった。金で血統のいい母を買い爵位を手に入れた平民上がりの成り上がり。オペラの父は王宮でそう蔑まれている。娘のオペラも例外ではなく、表では可愛らしいと持ち上げられても、品のない成り上がりの娘がと陰口を叩かれている。王宮に訪れるようになって三年近く、オペラはもう、そんなことには慣れていた。けれど、二月前。長期の療養からやっと王宮に戻ったアリステアだけは、オペラにも裏表なく接してくれたのだ。そんな人は今まで一人もいなかった。だからこそ、諦めたくない。


(……でも、あのお二人には、二人にだけ通じる何かがある。それは確かだわ)


 絆のような、何かの符号のような――そう、まるで秘密の共有のような、何か。

 さきほどのよくわからない会話もそうだ。ドレスを着てほしい、とかなんとか。


(一体あれはどういう意味なのかしら。まさかアリステア様が女装趣味……いえ、そんなはずはないわよね!? まさかね!?)


 もやもやと考えつつ道を進むオペラの耳に、前方の壁際でもみ合っている見張りの騎士らしい二人組みの、なにやら騒いでいる声が届いた。つい足の速度を緩め、聞き耳を立てる。


「――輩、先輩、まじ困るっす! ここ俺の持場なんですからぁあ謹慎中の人を入れたなんて知れたら隊長に怒られる! ほんともう帰ってください不審者め!!」

「誰が不審者だ! 大体『そんな疑うなら確かめてみればいいじゃないすか』とか適当なことを言って俺をそそのかしたのはお前だろう! メリルローズ様をよりにもよって男と疑い、俺はあ、あんな、あんな真似を……!! と、とにかく、侘びの一言くらい告げないと気がすまないんだ!! このままじゃ俺はメル様の中で変態のままだろうが!!」

「大丈夫っす! よりによってメルに目を付ける時点で先輩は歪みねぇ変態っす!!」


(え……?)


 やかましく叫びあう二人組みの男の言葉に、オペラはふと眉を寄せた。


(メリルローズ様を……男と疑った?)


 ――あなたに着てほしかったのに。

 メリルローズの言葉が頭に蘇る。何だか奇妙な符号を見つけたような気になって、オペラは壁際の騎士二人組みにずんずんと歩み寄った。オペラに気付き、ぎょっとしたように姿勢を正す二人に、オペラはなるべく大きく見えるよう、尊大に胸を張って口を開いた。


「――ちょっと、あなたたち。お話をお聞きしたいのですけれど、よろしいかしら?」

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