3章 彼と彼女の出会い
チュンチュンと囀る小鳥の声に促され、メルはゆっくりと瞼を持ち上げた。霞む目をこすりながらのそりと起き上がり、寝ぼけ眼で周囲を見渡す。
「あれ……えっと、ここは――……」
呟いたところで、乱れた布団に埋もれる銀色の頭が下の方に見えた。そういえば、昨日は彼と同衾したのだ。いや、単に並んで寝ただけだが。
広いベッドの上をもぞもぞと移動し、どうやら寝相の悪いらしいアリスの近くへにじり寄る。天蓋の向こうはすでに日が高く昇っているようだ。ずいぶんよく寝てしまったらしい。
(起こしていいもんかな……)
迷いつつ、布団を少し持ち上げる。そこには気持ちよさげに目を閉じた邪気のない寝顔があった。印象の強い瞳を閉じるとずいぶんあどけない。
(睫毛長いな。きれいな人だ)
婚儀の際にも思ったことを改めて思う。
「まあ、男だけど」
全てを無意味にする呪文のような現実を呟き、メルはアリスの肩にそっと手をかけた。
「あのー、アリス。朝ですよー。起きませんかー」
「そんな生易しい起こし方では駄目ですよ、メリルローズ様」
「うわぁシェンナ!? おはよう!?」
前触れも気配もなく天蓋を捲ったのは昨夜と同じくきっちりとメイド服を纏ったシェンナだった。彼女は素っ頓狂なメルの挨拶に驚くでもなく淡々と応じ、頭を下げる。
「おはようございます。昨夜はよくお休みになれましたか?」
「あ、ああ、うん。久しぶりにぐっすりだった。アリスとも初めてちゃんと話せたしな」
「……そうですか」
アリス、と口にしたメルに、シェンナは淡々とした声を僅かに緩ませる。それに気付いたメルが表情を窺うと、すぐに元の調子に戻って言った。
「アリス様はあまり寝起きがよろしくありません。私が起こしますので、申し訳ありませんが、メリルローズ様は先にお部屋にお戻りください。朝食はご用意してありますので」
「ああ、うん、わかった。ありがとう」
頷き、ベッドを降りてアリスの部屋を後にする。寝起きで服も髪も乱れているが、人目もないしいいだろう。
白い扉を閉めたとたん、何かの落ちる大きな音と鈍い悲鳴が聞こえた気がしたが、気付かなかったことにして、メルは素直に階下へ戻った。
なるほど、女というのは身支度も大変なものらしい。
夜着のままのんびり朝食をとっていたメルの元へ間を置かずに戻ったシェンナは、メルが食事を終えるやいなや、やれシュミーズやらパニエやら挙句の果てに体をぎりぎり締め付けるコルセットやらをメルに次々と着せ付けた。
「し、死ぬ……マジで死ぬ……くるしい、で、出る……! 飯くわなきゃよかった……っ」
「死にませんから出さないで耐えてください。女はみんな耐えています」
ぜえぜえと脱力するメルに袖の膨らんだ若草色のドレスを着せつけ、最後に華奢な作りの踵の高い白い靴を履かせたシェンナは、次いで長い金髪を梳かしながら言った。
「せめて髪が長くて良かったですね、メリルローズ様。カツラは重いし蒸れると父がいつもぼやいておりますから」
ハゲの呪いを患う父親の秘密をあっさりばらしたシェンナに、呼吸を浅くすればまだ圧迫に耐えられると気付いたメルは、否応なしに細くなる声で応じる。
「ああ、金髪は高く売れるから伸ばすことにしてるんだ」
「売る……んですか?」
不思議そうに反芻され、やはりその辺りはお嬢様なんだなと思いながらメルは続ける。
「うん。そのカツラ用にな。そろそろ伸びたから切って売ろうと思ってたんだけど、その前でよかったよ。これ以上の苦痛には耐えられそうにない」
「じゃあ、髪は結わずに飾りをつけるだけにしておきますね。結い上げると疲れますから」
「うん、ありがとう」
結局、小一時間ほどかかってようやく支度を終えた頃、コンコンと扉がノックされた。どうぞと答えると、こちらも支度を終え、しゃっきりとした顔をしたアリスが入ってきた。ドレスを纏ったメルを見て、わあ、と嬉しげに声をあげる。
「すごい、可愛いじゃないか、メル! やっぱり君にはふわふわが似合うな!」
「はあ、ありがとうございます。……って、やっぱり?」
「そのドレスや靴は昨晩、メリルローズ様が浴室で長時間打ちひしがれている間に、アリス様が選んだんです」
「水色のドレープドレスと悩んだんだけどね、まずは可愛い感じがいいかなって」
「はあ……?」
きゃっきゃと話すアリスはやけに楽しそうだが、貴人というものは男でも女の衣服に通じているものなのだろうか。
どうにも妙な違和感を抱き、メルははて、と首を傾げた。
それに気付かず、無邪気に笑うアリスはメルの腕を引く。
「じゃあ、せっかく可愛くなったし、外区画へ行こうか。私は兄上と一通り歩きはしたんだが、メルは初めてだし、まずはぐるりと一周回ってみよう」
「そうですね」
深く考えずに同意したメルは、数時間後、それを後悔することになる。
(い……痛い……)
王宮の外区画を見物すること数時間、メルの心は今や一つのことで占められていた。
(足が……とてつもなく痛い……!!)
靴擦れである。
ぐるりと一周。アリスは軽くそう言ったが、王宮はやはり広かった。
フォルベインの王宮は、中心にそびえる〈
まずは正門に近い
「
「そう……ですか……」
触れることが申し訳なく思えるほどに白く輝く大理石の壁に遠慮なく爪を立てて縋ったメルは、前を歩くアリスに胡乱な返事を返した。午後の日差しを眩く弾く白亜の宮殿はたしかに美しく、華やかな花々が咲き乱れる庭も、通常ならば食えないものに大した興味のないメルでさえ見惚れるほどに鮮やかな輝きを放っている。しかしメルは今、尋常でなく足が痛かった。ぶっちゃけて言えば建物も花もどうでもいい。早くこの靴を脱ぎ捨てて座って足を冷やしたい。生理的欲求は時に何物にも勝る。
(でもなあ……)
足が痛い。
そう訴えれば、アリスは即座にこの見学会を中止して、メルの望む通りにさせてくれるだろう。気付かなくてごめん、こんな靴を選んでごめん、と謝りながら。
(そういう展開は避けたい……気がする)
やっと自分の案内できる区域に来て嬉しいのか、はしゃいだようにあちこちを示して説明するアリスの無邪気さに、メルはついやせ我慢をして引きつった笑みを返してしまう。ずきずきともじんじんともひりひりともつかない痛みを発する足は、美しい靴のなかでおそらくすごいことになっている気がしたが、できればアリスには気付かれずにやり過ごしたい。
どうしてかそう思い、メルは結局、
「メル、ここが一番奥だ。この噴水はほら、後ろに回ると像が邪魔になって前からは見えなくなるだろう? だからよく逢引に使われて、もしここで秘密の恋を見止めても、その恋人たちのことは口外しないのが
「うっぎゃああああ! あああ足! 足ふんでますアリス! どどどどけて!!」
くるりと振り向いたアリスは、ドレスの裾からのぞくメルの足を軽く踏んづけた。通常なら足を引いて終わりなそれも、今のメルには耐え難い激痛だ。
「わあごめん、大丈夫か……って、メル? どうした!?」
「うおえあ……え、ええ、その、なんでもないですだいじょうぶですちょっとおどろいて」
「大丈夫って顔じゃないぞ!? ものすごく青い! 汗もすごいし!」
跪き足を抱えて涙目で呻きながらも誤魔化そうとするメルだったが、合わせてしゃがみこんだアリスにあっさり靴を脱がされてしまう。
「これ……ひどいじゃないか!」
「…………え、えっと……」
靴の中は、思った通りの有様だった。
赤く擦れた踵には血か滲み、圧迫された指はほとんど紫色になっている。靴に当たっていた部分の皮は擦り切れて、こちらも踵と同じく出血していた。
アリスはおろおろと辺りを見渡した末、メルを前から抱くようにしてさっき言った像の影に連れて行った。噴水の淵に座らせ「水源は湧き水できれいだから」と前置きした上で、メルの足を水に浸す。自分の手も水に突っ込み、血に塗れたメルの足をそっと洗ってくれるアリスに、メルはおずおずと声をかけた。
「あ、あの、大丈夫です。自分でやりますから」
「……どうして黙ってたんだ」
メルの言葉を無視したアリスは、初めて聞く固い声を出した。とまどいつつも、メルはええと、と答える。
「く……靴擦れなんてかっこ悪いじゃないですか、田舎者丸出しで」
「田舎とか都会とかそういう以前に君は今までこんな靴はいたことないだろう、男だったんだから」
「そ……それはそうですけど、その……」
「……そうだ、こんな靴、履き慣れてるはずはないんだ。ごめん。最初に気付くべきだった。久しぶりに女物の服とか靴とか選べる機会だったから、つい浮かれて」
「いえ、そんなに落ち込まないでください、アリス。あなたのそういう顔が見たくなかったから、俺がついやせ我慢を……」
久しぶりに女物をとかつい浮かれてとかいう言葉に微妙な引っかりは覚えたものの、目に見えてしゅんとしてしまったアリスに焦ったメルはついいらないことを言ってしまった。しまったと思うが時すでに遅く、メルの言葉を拾ったアリスはきょとんと伏せていた顔を上げる。
「私を気遣ってくれてたのか? 足がそんなになってるのに?」
「いえ、その……ええと……」
直入に聞かれて口ごもる。
すると、アリスは下がった眉尻はそのままに、申し訳なさそうな、それでもどこか嬉しそうな何ともいえない表情で少しだけ微笑み、こう言った。
「……ありがとう。君は優しくて――なんだか、格好いい人だな」
「え……?」
思ってもない褒め言葉だった。
こんな姿になって、まさかそんな言葉をかけてもらえるとは。
「えっと、その……。……あ、ありがとうございます」
妙に照れてしまい、しどろもどろ礼を述べたメルは、今度ははっきりと微笑むアリスから目を逸らして無意味に顔を上へ向けた。そこにふと、視線を感じる。
「…………?」
訝しく思い首を巡らせれば、白亜の宮殿の三階あたりだろうか、空に張り出したバルコニーから、小さな人影がこちらを見ているようだった。ドレスを纏った若い女のようだが、顔かたちまでは視認できない。
メルが見ていることに気付いたのか、人影はさっと室内へ消えた。
(……ここは逢引場所だってアリスも言ってたし、そうだと思われた、かな……?)
まあ、後ろ暗いことはないからいいのだが。形式上は夫婦だし。
首を傾げつつもそう思い、メルはすぐにそのことを忘れた。
しばらくそうして足を冷やしていたが、日が翳り始めたのを合図に、二人は〈
「客間から室内履きを借りてきた。これで大丈夫か? 歩けるか? 負ぶった方がいいんじゃないか?」
「大丈夫ですよ、単なる靴擦れですから」
大げさに心配するアリスに苦笑して、室外で履くには間抜けなふわふわのスリッパを引っ掛けたメルは、アリスの先に立って歩き出した。冷やしたおかげで足の痛みはだいぶ引いたし、さすがに負ぶわれるのは恥ずかしい。
扇模様に白煉瓦の敷かれた広い道を歩んでいると、
「…………」
努めて考えないようにしていたが、憧れていた騎士の姿を目の当たりにすると、やはり胸が軋むように痛む。
未練がましいと思いつつも目が離せず、足を止めて騎士たちを見やるメルに、アリスは不思議そうに問いを投げた。
「メル? どうしたんだ?」
「……っ、いえ、何でもないです。すみません、ぼーっとして」
かけられた声にはっとしたメルはごまかすような笑顔を作った。だが、アリスはどうしてか眉尻を下げ、困ったような顔をする。
「何でもないことはないだろう。騎士を見てた。どうしてだ?」
「いえ、その。……本当に、なんでも」
「嘘だ。何でもない顔じゃなかった。……さっきもだけど、私に気遣って何かを我慢しているなら、止めてほしい。私たちは夫婦だし――それに、友達なんだろう? 君がそんな顔をしているのは寂しい。理由がわからないなら、尚更だ」
「…………」
本当に寂しそうな顔をされ、メルはまいったなと頭をかいた後、しぶしぶ口を開いた。
「……俺、騎士になりたかったんです。子供の時からずっと」
「騎士……?」
「でも、それを両親に言ったら無理だって言われて、それで初めて二人のことを聞いて……やけになって剣を泉に捨てたら精霊を怒らせたみたいで、こんな姿に」
驚いたように瞬くアリスに、メルは肩をすくめて笑う。
「何にしろ、もう叶わない夢ですから、いいんです。すみません、俺、未練がましくて……なかなか吹っ切れなくて。って、ドレス着て言うことでもないですよね、騎士になりたいなんて」
「……ごめん」
「へ?」
思いがけない言葉に、今度はメルが瞬いた。
「君を巻き込んで、こんな場所に連れて来てしまって、ごめん」
「え、いや、アリス? あなたのせいじゃないですよ、そもそもは無責任な両親とか泉のじじいとかチンピラ兄貴とかその辺のせいで、アリスは全然悪くないですよ!?」
うなだれたアリスにぶんぶんと手を振って否定を返す。だが、アリスは顔を上げずに弱々しく頭を振った。
「いや、私のせいだ。だって、君を妻にしたのは私だから。君の気持ちも知らずに、君と夫婦になれて喜んでたんだ、私は。だから私のせいだ。君がそんな気持ちでいるなんて気付きもしないで」
「あ、アリス……?」
俯いているせいで顔は見えないが、アリスの声は震えていた。その声のまま、彼は続ける。
「考えてみれば当然だ、君は今はそんなに可愛いけど、本当は男なんだから。大きくて固くてごつい、ドレスも着れない私の妻になって嬉しいわけないのに、私は一人で浮かれて……本当に、ごめん」
萎れた声で謝られ、メルはついとっさに足の横で固く握られていたアリスの手を掴んだ。
「メル……?」
やっと顔を上げたアリスは、潤んだ深い青の瞳をきょとんと瞬いた。
「すっ、すみません、いきなり」
自分の行動に気付き、ぱっと手を離したメルは、ごまかすように頬をかきながらも、頭一つ高いアリスの目をまっすぐ見つめる。
「そんなに謝らないでください、アリス。俺がこうなったのはあなたのせいじゃないし……たしかに望んで妻になったわけじゃないですけど、あなたと友達になれたことは嬉しいです」
「……本当に?」
「本当です。あなたでよかったですよ。チンピ……エリアル様の妻とかだったら今頃舌噛んで死んでますよ、俺は」
軽口を叩くと、アリスはようやく下げていた口角を上げてうん、と微笑んだ。
それに安堵して、メルは逆に自分の抱いていた疑問を問いかける。
「俺も気になってたんですが、あなたこそ、こんな中途半端な男女でいいんですか? あなたなら血筋も教養もある本物の女の子が選び放題でしょうに、何だって俺なんかを」
「……ううん。普通の女の子は、さすがにちょっと、無理だからな」
「へ?」
「普通の女の子では、ちょっとその子が気の毒すぎる。だから、君がいい。君でよかった。君はほら、かわいいけどそれ以上に格好いい、男の子だからな」
「はあ……?」
それだけ言って、アリスは照れ隠しのようにメルに背を向けて歩き始めた。それを追い、夕陽に染まりはじめた風景の中をスリッパで歩きながら、メルははて、と首を捻る。
(男だし、ってどういう意味だ? それがいいって……? ……まさか!?)
閃いた回答に、しかしメルは呆然と目を見開く。
(まさか――……アリスは男が好きとか、そういうことか……っ!?)
王宮生活一日目。
新たに生まれた疑惑にメルは、未来への不安をいっそう深めることになった。
□□□
王宮生活二日目の朝、メルはばかでかい自室のベッドで目を覚ました。今朝は一人である。
アリスとは、昨日〈
窮屈な服を脱ぎ初日のショック療法で抵抗もなくなった風呂に入り、その辺りで現れたシェンナに足の手当てと食事の給仕をしてもらってベッドに潜り、目覚めたのが今である。ばかでかいベッドは寝心地がいいようで、またもやメルはぐっすり眠った。
もぞもぞとベッドを抜けて居間へ行くと、そこにはすでにシェンナが控えていた。
「おはようございます、メリルローズ様」
「おはよう、シェンナ」
欠伸をかみ殺しながら挨拶を交わし、朝食の準備の整った窓際の丸テーブルに座る。すっと差し出してくれた熱い紅茶を一口飲んだメルは、パンに手を伸ばそうとしたが、ふと思い当たって動きを止める。
「メリルローズ様? 召し上がらないんですか?」
「いや……腹は減ってるんだけど、今日もあれ、着るんだろ? コルセットとか。だったらあんまり食わない方がいいかなって……」
うっかり色々出しそうになった昨日の教訓を活かそうと虚ろな目で言ったメルに、シェンナはいいえ、と首を振った。
「今日からはドレスもコルセットも着けなくて結構です。アリス様が昨夜、エリアル様に直談判して許可を取りました。正式な場でない時は動きやすい格好の方がいいだろうと。とはいえ、さすがに男物というわけにはいかないので、これを着てみてはとアリス様が」
シェンナはそこで、壁に備えられたクローゼットへメルを導いた。
中を見ると、そこには数着のワンピースが納められている。一着を手に取ったシェンナは、ぽかんとしているメルの夜着に手をかけつつ言った。
「せっかくなので今着てしまいましょう。この服なら下着もビスチェだけで平気ですから」
「へ?」
あれよあれよという間に夜着を脱がされ、紺色のワンピースに着替えさせられる。素材は柔らかい綿で、袖と襟が大きく、腰の後ろでリボンを結ぶ可愛らしいデザインだ。丈は脛の真ん中くらいで、これなら裾を踏む心配もない。
ドレスに比べれば、着替えはあっという間に済んだ。胸を覆う下着は多少窮屈なものの、コルセットとは雲泥の差である。とりあえず、朝食は腹いっぱい食べられそうだ。
テーブルに戻り、それではとフォークを持ち直したメルに、冷めた紅茶を入れなおしながらシェンナは尋ねた。
「着心地はいかがですか?」
「男物よりは窮屈だけど、ドレスに比べればすごい楽だよ。……でも、昨日の今日でどっから持ってきたんだ、これ?」
自身の纏う服を見下ろし、メルは首を傾げる。しっくりと体に馴染むところからしてどうやら誰かのお古のようだが、可愛らしいとはいえ村娘の一張羅といった趣のワンピースは、城に訪れるお嬢様が着るような代物ではないだろう。借り物にしろ、よく用意できたものだ。
「それは――……」
「メル、起きてるか? 入っていいか?」
珍しく言いよどんだシェンナの背後で、ノックと同時に明るい声がした。アリスだ。
言葉を止めたシェンナが扉を開けると、転がるように部屋に入ったアリスは、挨拶もそこそこにメルの近くに来て言った。
「食事中すまないな、ああ、そのまま食べててくれ。足は大丈夫か?」
フォークを置こうとしたメルを止めて尋ねるアリスに、言葉に甘えて食事を続けることにしたメルは焼いた卵を突きながら頷いた。
「はい、痛みはすっかり引きました。シェンナの手当てが上手くて」
「そうか、よかった。じゃあ、この靴ならはけるかな? 荷物の奥に入ってて、捜すのに手間取ったんだが」
「はあ……?」
言われてみれば小脇に何やら抱えている。最後に残った卵を口に入れ食事を終えたメルは、アリスがいそいそと開いて見せた箱を覗き込んだ。
「ブーツ……ですか?」
「うん。お古で悪いが、これなら動きやすいから。布を当てたままでも履けるし」
中に入っていたのは、膝の下あたりまであるなめし皮の編み上げブーツだった。言われた通り新しくはないようだがつやつやとしたそれは踵も低く、とても歩きやすそうだ。
どうしてアリスが女物の靴を、と首を捻りながらも促されるまま足を入れ、紐を結んで立ち上がる。誂えたようにぴったりだった。
「どうだ?」
「ぴったりです。これなら走れますよ。ありがとうございます」
片足ずつ跳ね具合を確かめながら礼を告げると、よかった、と笑ったアリスは次いで、これも持ってきていたらしい可愛らしい小物入れのような箱を、やはりいそいそと開いた。何だと思い覗いてみれば髪飾りがたくさん入っている。その中から長い、服と揃いの紺色のリボンを出したアリスは、メルというよりはシェンナに向けて尋ねた。
「メルの髪を結ってもいいか?」
「……どうぞ」
呆れたようなため息をついてから許可を出したシェンナは、てきぱきとブラシや櫛を用意して化粧台の前に並べる。
「メルの髪はきれいだから、触ってみたかったんだ。いいかな?」
「はあ……???」
疑問符を飛ばしながらも頷くと、アリスは嬉しそうに破顔した後、メルを化粧台の丸椅子に誘った。すぐに楽しげに髪をとき始める。
(……男が好きとかじゃなくて、あれか。自分が女寄りの趣味とかそういうことなのか……?)
別の方向へ疑惑を深めるメルの困惑も知らず、鏡に映るアリスは相変わらず無邪気な顔だ。
(きれいな人だし、女装も似合いはするだろうけど……いや、何を考えてるんだ、俺は)
思わず頭に描いてしまった女装姿のアリスを頭を振って追い払う。
「メル、動かないでくれ」
「……すみません」
怒られつつも数分後、メルの頭には紺色のリボンが蝶々結びで結ばれていた。長いリボンの残りはそのまま後ろに垂れており、それはメルの髪と同じ位まであった。
「よし、かわいい。リボンはひらひらがいいな、やっぱり。似合ってるよ」
「……ありがとうございます。アリスも結構似合ってましたよ」
「え?」
「あ、いや違いましたすみません妄想の話でした! あの、ほら、もしアリスが女になったらきっと俺よりずっとかわいいだろうな、と」
満足そうに頷くアリスについうっかり脳内の女装姿の感想をもらしてしまい、メルは慌てて手を振ってごまかした。するとアリスはきょとんと瞬いた後、どうしてか眉尻を下げて寂しげに微笑んだ。
「……そうかな。そんなこともないぞ」
「へ……?」
意外な返答に今度はメルが瞬くと、アリスは気持ちを切り替えるように大きく息を吸ってから、元の通り明るく笑った。
「よし、支度もできたし、足も大丈夫ならちょっと出よう。連れていきたい場所があるんだ」
アリスがメルを連れて向かった先は
昨日はさらりと前を通っただけの宮殿の奥へ足を進めたアリスは、蔦の絡むアーチを抜けた先に見える、石造りの無骨な建物へ迷いなく入っていく。
「あの、アリス? ここは……」
「いいから、ほら、早く」
重そうな両開きの扉の脇に置かれているのは甲冑を着込んだ騎士の石像だ。非常にわかりやすい。ここは騎士の訓練場なのだろう。
戸惑うメルの腕を引き、薄暗い廊下を進んだアリスは、個人の練習場なのだろう奥まった一室の前で足を止めた。扉は開いており、アリスの背中越しに中に二人の男がいるらしいのが見て取れた。
「クロム隊長、ですね? アリステアです。入ります」
一声かけて部屋に入ったアリスを、クロムと呼ばれた壮年の無骨な男と傍らの若い男は揃って膝をついて迎えた。
「わざわざのお越し、ありがとうございます、アリステア殿下」
「いえ。わがままを言ってすみません。どうぞ、立ってください」
「は、では失礼して」
アリスの言葉にクロムは立ち上がるが、若い方の男は頭を下げたままだ。それに気付き、アリスは男にも声をかける。
「君も立ってくれ。お願いしたのはこちらだし」
「……失礼いたします」
立ち上がった後、胸に手を当てて一礼した男は、そこでようやく顔を上げた。
青みを帯びた短い黒髪に切れ長の目を持つ男は、思ったよりも若かった。ちらりと目をやった肩章に飾りはなく、ということは階級は九位。つまりは新人ということだ。おそらくメルとそう年も変わらないだろう。
「ご用件はエリアル殿下から伺っております。こちらはネイプルス・スカラー、若輩ですが、腕は新入りの中でも確かです。年も近いですし、奥方様の稽古のお相手はこのネイプルスに務めさせようかと」
「……お……いや、わ、私の稽古、ですか!? アリス、これは一体どういう」
「足は問題ないか? メル」
「へ? は、はい。大丈夫ですけど」
つい正直に答えると、アリスはそうか、とにっこり笑った。
「じゃあ、さっそくだけど打ち合って見せてくれ。君が剣を使うところが見たい」
「は、はい……?」
いたずらを成功させた子供のような顔をして、隅に立てかけられていた訓練用の模擬剣を手渡してくるアリスに疑問符を発しながらも、メルはつい頷いてしまった。
「では、君……ネイプルスも。二人とも怪我はしないように気をつけてな」
「恐れ入ります、殿下」
差し出された剣を恭しく受け取ったネイプルスは、いまだ困惑したまま胸の前で剣を抱き抱えるメルをうさんくさそうに一瞥した後、それでもきっちりと頭を下げて礼をした。メルも慌ててそれに倣う。
「では、僭越ながらお相手を務めさせていただきます」
「……よろしくお願いします」
唐突な展開だったが、顔の前に剣を掲げると、心はすっと静まった。
腰を落として剣先をネイプルスの顔に向ける。ネイプルスも腰を落とすが、まずはメルの剣を受けるつもりのようで、動く気配はない。
(それなら甘えさせてもらうか……!)
睨みあいながらじりじりと距離を詰める。ネイプルスが瞬いた一瞬に、メルは床を蹴った。右足を強く踏み込んで腰を捻り、体重の全てを剣に乗せるようにして、まずは横から一撃を繰り出す。
「……!」
ギン、と刃の擦れる鈍い音がした。
メルの攻撃を剣の腹で受けたネイプルスは、女の身から繰り出されるにしては予想外だったのだろう重い一撃に黒い瞳を瞠ったが、すぐに眦を鋭くした。しばしそのまま刃を合わせるが、力比べではやはり勝てずに弾かれる。押し負けて後ろに飛んだメルが床に足をついた瞬間を狙い、今度はネイプルスが切りかかった。何とか弾くがバランスを崩し、膝を深く折ったメルが体勢を整える前に、間近に迫ったネイプルスが大きく剣を振りかぶる。
「メル!」
「だ、いじょうぶですよ、アリス」
頭上から襲った一撃を顔の前で何とか受ける。だが、ネイプルスの力は強い。このままではまた押し負けると判断したメルは、腕からすっと力を抜いて体を横に流した。じゃっと刃の擦れる音がする。
「――……っ!?」
力を受けるメルが消えたことで、ネイプルスは前につんのめるようにバランスを崩した。たたらを踏み膝を折った彼の首に、背後に回ったメルが返した剣先を突きつける。ネイプルスが黒い瞳を見開いた。
「……参りました。奥方様、あなたの勝ちです」
ぱちぱちと数度瞬いた末、彼はきっぱりと言った。その言葉にメルは剣先を下ろし、つめていた息をゆるゆると吐き出した。
「ありがとうございました。はあ、緊張した……」
いつの間にかかいていた汗を拭いながらほっと肩を落とす。
(力はないけど小回りはきくな。この体。……油断も誘えるし)
しかし、数日間稽古を行わなかっただけで、体の感覚はずいぶん鈍っていた。数分たらずの試合ですっかり息があがっている。
無意識に自分の体を分析していたメルは、不意に鳴りだしたパチパチという音で我に返った。音の方へ目を向けると、手を叩いていたのは驚いたように目を瞠ったアリスだった。
「すごいな、メル、かっこいい。本当に騎士みたいだった」
呆けたようだったアリスは、言葉を言い終わる頃にはすっかり笑顔になっていた。
「いえ、その……きっと、手加減してくださったんですよ、そちらの……」
「ネイプルスです」
「そう、ネイプルスさんが……って、え?」
いつの間にか近くに来ていたネイプルスは、何故かメルに手を差し出した。
意味がわからず、ぽかんして差し出された手と顔を見比べるメルに、ネイプルスは鋭い眦を少し和らげて言った。
「か弱そうな女性でしたからたしかに油断はありましたが、手加減はしてません。私の負けです。いい腕をお持ちですね」
「え……っと、その……あ、ありがとうございます!」
新人とはいえ現役の騎士に褒められ、メルの心はにわかに舞い上がった。
深く頭を下げて向けられた手を両手で握ると、ネイプルスは驚いたように目を瞠った後でふと微笑んだ。笑うと途端に雰囲気が柔らかくなる。もてそうな男だな、羨ましい。高揚した頭の隅でメルは思った。そこに、愉快そうに笑うクロムの声が響く。
「なるほど、シェルの娘御なだけはありますな。剣筋が似ております。稽古はシェルに?」
「はい、おや……父に、母には内緒で。……クロム隊長は、父をご存知なんですか?」
メルの問いに、クロムは懐かしむように目を細めて頷いた。
「シェルは私の後輩でしてな。何かにつけやかましい男でしたが、裏表のない良い奴でした。今も元気にしておりますかな? ローズ様も」
「父は今もいらんぐらいやかましく元気です。母とも仲良くやっています。いい年こいていちゃいちゃと幸せそうに」
「そうですか、それは良かった。では、あなたも幸せでしたかな?」
「……はい」
頷いたメルに笑みを深めたクロムはぽんとメルの頭に手を置いた。見上げると、うやうやしく頭を下げる。
「殿下の奥方様に対して失礼でしたな。申し訳ない、シェルに似て見えたものですから」
はっはっは、と笑ったクロムは、ネイプルスを向き直って命じる。
「では、お前は今日から奥方様のお相手を務めよ。訓練に優先して構わん。お前の鍛錬にもなろう。奥方さまも、それでよろしいですかな?」
「は、はい、よろこんで! よろしくお願いします!」
礼をするネイプルスに、メルも頭を下げる。
「明日からこの訓練室は空けておきます。そのうち私とも手合わせください。それでは、今日はこのあたりで」
「失礼いたします」
礼をして去る二人の騎士の背中を高揚した気分のままぼんやり眺めるメルの背が不意にぽんと叩かれる。目を上げると、アリスが嬉しそうに笑っていた。
「格好よかったよ、メル。明日からもがんばってな」
「はい、ありが……って、アリス! いきなりこんな試合とか、びっくりしたじゃないですか! 最初に言ってくださいよ!」
「ごめん。説明したら、君は来てくれない気がして。そうじゃないか?」
「それは……」
困ったように眉を寄せたアリスの言葉に、メルは俯く。たしかにそうだったろう。剣を握ったところで今更どうなるわけでもない。そう思い、メルは剣を捨てたのだ。
「でも、今の君は格好よかったし、楽しそうだった。訓練、するんだろう?」
「……はい」
騎士にはなれないし、そのうえ体は女だし、鍛えても無意味なことに変わりはない。それでも今の試合は楽しかったし、褒められて嬉しかった。誤魔化しようがないくらいに。
「アリス。やっぱり俺、剣が好きみたいです。あなたのおかげでわかりました。……ありがとうございます」
「…………」
ようやく知った自分の本心に半ば呆れた気持ちで笑ったメルは、気付かせてくれたアリスに深く頭を下げる。しかし返事は返らない。
訝しく思い顔を上げると、ぱちりと目を瞠ったアリスが微かに頬を染めてメルを見ていた。
「……アリス?」
「っ、ああ、ええと、うん。……どういたしまして」
はっと肩を揺らしたアリスは戸惑うように視線を周囲にめぐらせた後、赤い頬のまま照れくさそうに笑った。それを見て、どうしてかメルの鼓動は跳ねる。
(……なんだこれ。かわいいぞ)
はにかんだ笑顔にうっかりそう思ってしまい、メルはぶんぶんと首を振った。何を考えている。たしかにアリスはいい奴だが、無邪気で思いやりがあって顔もきれいだがしかし、男だ。
「ほだされるな、ほだされるな、俺……! 脳まで女になるつもりか……!」
「…………???」
壁に向かってぶつぶつと呟くメルを、アリスはやはり邪気のない顔できょとんと眺めていた。
「よう、アリス、メリルローズ。仲良くやってっかー」
「げ」
〈
山のように大量の書類を抱えたハゲ候補の側近を先に行かせたエリアルは、心のままに渋面を作ってしまったメルの頭をぐりぐりと乱暴に撫でながら言う。
「げ、とはなんだこの野郎、体が女じゃなきゃ毟ってんぞ」
「いたいいたいいたい」
「兄上、乱暴はだめだ」
「おっ優しいなあアリスは。じゃあお詫びにお兄ちゃんが優しくハグしてやろうメリルローズ! そうか嬉しいか、よーしよしよし」
「とか言いながらどこ触ってんだー!!」
ついに叫んだメルにハハハと爽やかに黒く笑ったエリアルは、65のBだなと何を示すのか分からない単語を呟いてからメルを解放した。ぜえはあと肩で息をするメルを横目で見やり、しかし、と呆れたように苦笑する。
「アリスの頼みだから聞きはしたが、剣の稽古とは雄々しいな、メリルローズ」
「ああ……はい。すみません」
「私が勝手にしたことだから、メルが謝る必要はない。兄上だって結局は協力してくれたんだし、問題ないんだろう? メルが稽古をしても」
「男ってことがバレなきゃな。あーべつに怒ってるわけじゃないからそんな顔すんなって、アリス。ほーらお兄ちゃんがハ」
「あ、そうか、チンピラ……じゃない、エリアル様がクロム隊長に話をつけてくださったんですね。ありがとうございます」
「いいタイミングで割り込むなこの野郎、あと今チンピラって言わなかったか?」
ぺこりと頭を下げたメルを軽く睨んだエリアルだったが、弟の視線を受けて続く文句は飲み込んだようだった。
「まあいいや。とにかくあくまでお前は女でアリスの〝妻〟だ、それだけは忘れんなよ、メリルローズ。あ、そうだあと、さっき日取りが決まったんだが、一月後にパーティーやっから。お前らの結婚披露の。国内の貴族向けの内輪のだけど、衣装とかはちゃんと作っとけよ」
「パーティー……ですか……衣装…………」
きらびやかな言葉に対する憧れよりも、昨日のドレスの苦しさが思い起こされ心を重くするメルに反して、アリスは浮き立ったような声を出した。
「じゃあ、メルの衣装は私が見立てる。いいか、メル?」
「ああ、はい、どうせ俺わからないので、てきとうに」
「適当じゃだめだ、ちゃんと可愛くしないと。どんなのがいいかな。メルは可愛いのが似合うけど、結婚披露だし、少し大人っぽいほうがいいかな……?」
もう衣装を考え始めたらしいアリスにメルは苦笑する。よくわからない趣味だが、まあ、楽しそうなのはいいことだ。
ふと、心の狭そうなチンピラは弟のこういう趣味をどう捉えているのかと気になったメルは、斜め前を歩くエリアルの顔をちらりと窺った。呆れて苦笑しているか、単にかわいい奴めとやに下がっているかのどちらかだろうというメルの予想とは裏腹に、エリアルは彼に似合わない静かな表情を浮かべてアリスを見ていた。困ったような憐れむような、すまないと謝るような顔だった。
驚くメルの視線に気付かぬまま、エリアルは横を歩く、ほとんど背丈の変わらない弟の頭をぽんと叩いた。そして何かをぽつりと呟く。それを聞いたアリスは、困ったように笑って首を振った。――兄上のせいじゃない。小さな声が漏れ聞こえる。
「……?」
兄弟の一歩後ろを歩きながら、メルは小さな疑問を抱く。
口を挟める雰囲気ではないが、この兄弟は一体、何を話しているのだろうか?
首を捻るメルを唐突に振り向いたエリアルは、こそこそ見ていたのがバレたのかと思い、ぎくりと肩を揺らしたメルに向かい、思い出したように告げた。
「あ、そうそう。で、パーティーに向けて、要教育のお前に教育係つけたから」
「きょ、教育係?」
思いがけない単語に瞬くメルに、エリアルは元の通りに人の悪そうな笑みを浮かべた。
「だってお前ダンスもマナーもなんっも知らねえだろ? 田舎者だし」
「悪かったですね、田舎者で。でも、ダンスは踊れますよ、母に仕込まれましたから。……男パートですけど」
「だろ。ま、そのへんひっくるめて面倒みてもらえ。ペンティルちゃんっつー、お前の正体知らないお姫様が先生だからな、気をつけて猫かぶれよ」
エリアルの発した名前に、アリスが意外そうに瞬く。
「ペンティルって……オペラか? シェンナじゃだめなのか、兄上?」
「俺はシェンナでいいんだけど、ペンティルちゃんがわざわざ立候補してきたからさ。うまい断りも浮かばなかったから、まあいっか大変なのは俺じゃねえしと思って頼んじまった。ま、そういうわけだから明日からがんばれよ。ダンスに剣に大忙しだな、若人よ!」
「はあ……」
背中をばしんと叩いて笑うエリアルに、なんだかまた面倒くさそうなことになったなあと思ったメルは、冴えない声で返事を返した。
□□□
翌朝、またもやぐっすり眠り爽やかに目覚めたメルが身支度を整え朝食を摂っていると、突如、扉の外からガンガンガン! とすごい音がした。
「なっ、なんだ!? 火事が!?」
「……もう来てしまったようですね。まったく、朝っぱらから落ち着きのない……」
ビクリと肩を震わせて席を立ったメルとは逆に、傍らのシェンナはうんざりしたように息を吐いた後、ばかでかい音を立て続ける扉に足を向けた。珍しく感情むき出しの背中は、えらく迷惑そうだった。
ぽかんと見守るメルの視線の先で、脇に体を避けるようにしたシェンナが扉を開くやいなや、きらきらしい塊が勢いよく部屋に飛び込んできて、すぐさま派手にすっ転んだ。
「い、痛いじゃない、何をするのよあなた!?」
「何もしてません。あなたが勝手に私の足に引っかかって転んだだけでしょう、オペラ。むしろ足に触れたことを詫びてほしいくらいです。謝りなさい」
「な、何わけのわからないことを言ってるのよ、相変わらず腹の立つ女ね! 大臣の娘だからって、メイドのコスプレしてアリステア様に侍って喜んでるような下品な女が偉そうにするんじゃないわよ!?」
「あなたこそ、金を積んで地方伯の奥様を買った成り上がりと誉れ高いペンティル卿の姫なのですから、コスプレとかいう意味のわからない下々の言葉を使ったりしては駄目ですよ。奥様の御前なのですし」
「っ……、覚えてなさいよ!」
憎々しげに唇を噛んでシェンナを睨んだ少女は次いで、憎しみを宿らせたままの大きな瞳でメルを睨み上げた。
「あなたがアリステア様の奥様になったっていう、メリルローズ〝様〟ですわね。私はオペラ・ペンティルと申します。どうぞ、お見知りおきを」
「はあ……というか、大丈夫ですか? どうぞ、つかまってください」
金の巻き毛と明るい青い瞳の色彩が鮮やかな、絵に描いたように可愛らしいお嬢様はしかし、いまだに床にはいつくばったままだった。となれば、つんけんした態度も挑戦的な口調も睨みつける瞳も全て意味を成さず、逆に心配になったメルはオペラと名乗った少女に歩み寄り、手を差し出した。
「け、結構です! 自分で立てます!」
予想通りの答えを返したオペラはよろめきながら立ち上がり、乱れた服と髪を手早く整えると、仕切りなおすようにもう一度メルを睨み上げた。その背丈は、女としては標準的であろう今のメルより頭一つ近くは小さい。態度は高飛車だが、年も幾つか下なのだろう。
「エリアル様からお聞きとは思いますが、念のため申し上げますわね。今日から結婚披露パーティーまでの約一月、主にダンスとそれに伴う作法について、私が指導させていただきます。よろしいわね? メリルローズ様」
「はあ、よろしくお願いします。ところでオペラさんはお幾つですか? 小さくてかわいいですけど、十五歳くらいですか?」
気になって尋ねると、オペラはかっと頬を赤くして恨みがましい目でメルを睨んだ。
もっと下だったのかなと瞬いたメルに、淡々とシェンナが告げる。
「オペラはこんなに小さな形ですが十八歳ですよ、メリルローズ様」
「えっまさかの年上!? 見えねえ!! 小さい!!」
「しっ、失礼な人ね、あなた! おまけにその言葉遣いは何!? 遠慮はしなくていいとエリアル様から許可はいただいてますから、びしばし行かせていただきますわよ! ほら、まずはテーブルマナーからよ!」
「へ? あの……」
「早くいらっしゃい!」
言って踵を返すオペラを呆然と見送ると、廊下から大きな声で怒鳴られた。
戸惑ってシェンナを見ると、ふうと息を吐いた彼女は珍しく慰めるように言う。
「……まあ、オペラは性格も悪いですが頭も悪いですから、多少はボロを出しても大丈夫です。何を言われても右から左に聞き流すつもりでいけばきっと耐えられます。バカの相手は大変でしょうが、エリアル様よりましと思ってがんばってください、メリルローズ様」
「…………行ってきます」
きゃんきゃんと急きたてる声に肩を落としながら、メルはとぼとぼと部屋を出た。
「なってない……全く全然これっぽっちもなってないわ!!」
「はあ、すんません」
胡乱な返事をするメルに、オペラは愛らしい青い瞳をぎっと険しく吊り上げた。
「何なのよその返事は!! あなた、マナーとか何とか言う以前に女性としての嗜みが全くないわ!? ローズマリー様にどういう教育を受けてらしたの!?」
「はあ、まあ、母さんには適当に野放しにされてましたけど……」
「野放し!?」
ますます大きくなる声に、メルは誤魔化すように視線をさまよわせて言葉を探す。
「ああ、ええと、親父は過保護でしたよ?」
「親父とは何よ!」
「父親のことです」
お嬢様には聞きなれない単語だったかと説明すると、オペラはバンと机を叩いた。
「意味を聞いてるんじゃないわ!? まったく――いくら村娘として育ったって言ったって限度があるわ、あなたの態度や言葉遣いときたらもう、まるで男じゃないの!」
「恐れ入ります」
「褒めてないわよ! ああもう、こんな人をどうやって教育しろっていうのよ……!」
一際大きく叫んだ後で、オペラはばたりと白いクロスのかかったテーブルに突っ伏した。
(……やれやれ、やっと静かになった)
とりあえず訪れた沈黙に、メルはほっと息を吐く。
オペラにここ
最初のうちは「あらこんなことも知らないの王族の名が泣きますわね」などと型にはまった嫌味を洋々と披露していたオペラだったが、シェンナの助言通り適当に右から左に流していたメルのあまりの適当っぷりに次第に苛立ちはじめ、呆れ、ついには嘆きだした。そして力尽きたのが今である。
(まあ、やかましい子だけど、たしかに何かとおちょくってくるエリアル様よりはましだな。見た目はかわいいし)
やかましいのは父をはじめとする村のガッカリ達で耐性がついているし、何よりオペラは小さく可愛い女子である。騎士を志す者として、メルは女性には寛容だった。けっして女好きというわけではなく。
そう思えば、打ちひしがれたように顔を伏せるオペラは何とも気の毒に見えた。
仕方なく、いまだ動かない小さな頭におずおずと声をかける。
「まあ、道は険しいでしょうががんばってください、オペラさん。お……私も応援していますから。成せばなる、ですよ」
「何で他人事っぽい言い方をしているのよあなたは!? そもそもの原因はあなたでしょう! まったく、こんなに応えない人なら、教育係なんて申し出るんじゃなかったわ……!」
「そういえば、なんで私の教育係に立候補なんてしたんですか? めいわ……いえ、ありがたいとは思ってますが」
「さりげなく迷惑って言おうとしなかったかしら今……!?」
ようやく顔を上げたオペラはじろりとメルを睨んだ。テーブルに触れていたのであろう額が赤くなっている。
「……まあ、いいわ。この際だから正直に申し上げますけれど、あなたに興味がありましたの」
「えっ興味ですか!? お……私に!?」
「なんで赤くなってらっしゃるのかしら? ……一月前、やっと王宮にお戻りになられたアリステア様が突然奥様を娶られたというから気になって、はしたないですけれど、先日こちらにいらしたアリステア様とあなたのこと、少し観察させていただきましたの。そうしたら、靴も満足に履きこなせないような予想外に鄙びた奥様でしたので、つい心配になって」
「……ああ、なんだ、そういう興味ですか」
中身はともあれ外見は可愛い女子にまぎらわしいことを言われて少し喜んでしまったメルは、がっかりした気分で言った。
「つまり、あなたはアリスに気があったのに当のアリスはいきなり結婚してしまって、しかも連れてきた女が問題外の田舎者だったのでついいびってやりたくなって教育係になった、と」
「……おおむねその通りだけれど、そういう分析は心の中に留めておかれた方がよろしくてよ、メリルローズ様」
「はあ、ご丁寧にどうも」
ぺこりと頭を下げると、オペラは疲れたようなため息をついた。
「……とりあえず、今日はここまでに致しましょう。明日からは、下の小さなホールを一つ借りましたから、直接そこにおいでになってください。ダンスのレッスンをしますから」
「ダンス、ですか? テーブルマナーは合格ですか?」
きょとんと問うメルに、オペラは半眼で告げる。
「そんなわけはないでしょう。時間がないですから、省略ですわ。考えてみれば、披露パーティーはダンスがメインの立食ですもの、テーブルマナーは特に必要ありませんでしたわね」
ずいぶん無計画である。
「それでは失礼いたしますわね、メリルローズ様。あなたがアリステア様にふさわしい方ではないとわかって、有意義でしたわ。また明日、同じ時間に。――手加減はいたしませんから、そのおつもりで」
そう言い置いて、メルの返事を待たず、オペラは巻き毛を揺らし部屋を去って行った。
(……今のは、ライバル宣言、か……?)
思わぬところから現れた〝恋敵〟らしき少女に、メルはどうしたものかと頭をかいた。
部屋に戻り簡単な昼食を取ったメルは、迷ったあげく自分の剣を持って
アーチを抜け、昨日と同じ訓練場の一室へ向かうが、そこには誰の姿もない。耳をすませてみれば、なにやら外から訓練中らしい掛け声が聞こえる。
「……まあ、ちょっと、呼びにいくだけなら」
今は女である以上、あまり堂々と姿を見せない方がいいことはわかっているが好奇心が勝ち、メルは声を頼りに石造りの無機質な廊下を歩いた。外に面した廊下から石畳の敷かれた道に降り少し歩くと、大きく開けた四角い空間に突き当たった。クロムの号令のもと、若い騎士たちが列を作って素振りをしている。
「うわ男くせぇ」
身も蓋もないことを呟きながらも目を離せないでいると、端にいた騎士の一人と目が合ってしまった。ぎくりと身を固くするメルに驚いたように瞬いた彼は、次の瞬間素振りをやめ、周囲に大声で叫んだ。
「アリステア殿下の奥方様がいらしたぞ! 一同、礼!」
「へっ!?」
号令のもと、騎士たちはメルに向かって一斉に膝をついた。
わけがわからず、助けを求めて歩み寄ってきたクロムを見ると、彼ははっはっは、とたくましい双肩を揺らして笑った。
「よくぞおいでくださいました、奥方様。ここに居る連中はみな若い新入りですから、奥方様のお越しを楽しみにしておりましてな」
「はぁ……?」
なるべくこそこそしようというメルの気遣いとは裏腹に、すでに騎士たちにメルの訓練は触れ込み済みだったらしい。脱力するメルのもとに、動きやすそうな訓練着を着たネイプルスが駆け寄ってきた。
「お待たせして申し訳ありません、奥方様」
「い、いえこちらこそ、訓練中にすみません。あの、終わってからでも全然。よければ見学させてもらってますから」
頭を下げるネイプルスに慌てて手を振ると、クロムが笑いながら言った。
「お気になさないでください、奥方様。あなたの視線があればこやつらも張り切るでしょうが、新妻のあなたを見世物にしてはアリステア殿下に叱られますからな」
「にいづ……まあいいや。では、すみませんがよろしくお願いします、ネイプルスさん」
「はい、では参りましょう」
ぺこりと頭を下げると、生真面目に礼を深くしたネイプルスは、メルの先に立って歩き始めた。騎士たちにも一礼したメルが踵を返すと、少しの間の後でどよっとどよめきが起こる。剣術やるとかどんな女かと思ったらかわいいじゃん! 新妻かー新妻いいなー! ってかネイプルスまじ役得だよなくっそー交代制にしようぜって俺提案したのにーとかなんとか口々にわめく騎士たちと「早く訓練に戻れ色ボケ小僧どもがー!!」というクロムの怒号を背に、メルはネイプルスを追った。建物の中に戻ると、ネイプルスはすみません、と頭を下げる。
「ここに女性が訪れることは滅多にないので、浮かれているんです、あいつら」
「はあ、まあ、たしかに予想よりチャラかったですけどそんなもんですよ、男なんて。俺だってあそこにいたら絶対ああ言ってましたもん」
「……俺?」
「いっいえ、あの、私でも!」
ついうっかり素で喋ってしまい慌てるメルに首を傾げつつ、少し待っていてくださいと言い残したネイプルスは更衣室らしい一室に入っていった。着替えるのかな、と思い待っていると、手に訓練着を持ったネイプルスが間を置かずに戻ってきた。
「どうぞ。新しいものですから」
「へ? 私に、ですか?」
「スカートではやはり動き辛そうでしたので、僭越ながらご用意しました。男物ですが、一番小さいサイズですので」
「……ありがとうございます。嬉しいです!」
好意が嬉しく、差し出された訓練着を胸に抱くようにして笑って礼を言うと、ネイプルスは面食らったような顔をした後、照れたように頬をわずかに赤くした。
「いえ、そんなに喜んでいただくことでは……と、とにかく、訓練です。行きましょう」
歯切れ悪く言ったネイプルスは、ごまかすように先に歩き始めた。はいと応じつつ、メルはぼけっと思う。
(……ひょっとして照れ屋さんか? この兄ちゃん)
一人の青年をたらしつつあることに気付かないまま、メルはきょとんと首を傾げ、気の毒な彼の後を追った。
□□□
「メルはまだ戻ってないのか?」
食事を乗せたワゴンを押して食堂にやってきたシェンナに尋ねると、彼女はいえ、と首を振った。
「戻ってはいらしたのですが、稽古が長引いたようで、騎士宿舎の食堂で食べてきた、と。顔を出そうかと言ってくださいましたが、お疲れのようでしたので結構ですと申し上げてしまいました。やはりお呼びしますか?」
「いや、だったらいいんだけど。……今日は会えなかったな、と思って」
しょんぼり呟くと、横に座ったエリアルが、食卓に肘をついてアリスの顔を窺ってくる。
「なんだ、寂しそうだな、アリス。メリルローズとずいぶん仲良くなったみたいだな?」
「うん。いい人だよ、メルは。やさしいしかわいいし……格好いいし」
「そうかそうかーそれはよかったなーあーあのガキ殴りてえー殴ってもいいかなー」
「本音がぼろぼろ零れてるよ、殿下」
呆れたように言うのは、正面に座るシアだ。
背が小さいため、肩から上しか見えない子供の姿の魔法使いに、アリスは先日から考えていた疑問をついに口に出した。
「ねえ、シア。メルは精霊の呪いであの姿にされたって言ってたけど……シアの魔法で元に戻してあげることはできないのか?」
「何言ってんだ、アリス。お兄ちゃんとしては認めたくないが、仲良くやってんだろ? 男に戻ったりしたら一緒にいれないぞ」
説き伏せるように言うエリアルに、アリスはでも、と目を伏せる。
「……でも、メルは男に戻りたいんだよ。私は鈍いけど、それくらいわかる。わかるようになった。私はもっとメルと居たいけど、そのためにメルの気持ちを踏みにじるのは嫌だ。だから、もし、シアに治してあげられるなら――」
「残念ながら、精霊の魔法は精霊にしか解けないよ」
アリスの言葉を遮り、魔法使いはきっぱりと言う。
「魔法の根源たる力は同じでも、精霊と魔法使いじゃその使い方が違う。それに、性別の逆転なんて大掛かりな魔法は、僕だってひとつで限界さ。小娘の面倒まで見れないよ」
「……でも……そうだ、精霊に私たちからも頼んでみれば、もしかしたら」
「いい加減にしろ、アリス。どのみちもう遅い。お前たちはユニの名の下に誓約を交わした。メリルローズは名実ともにお前の〝妻〟だ。今更なかったことにはできない。それに」
視線を落としたアリスの頭をぽんと撫で、エリアルは声を和らげた。
「お前の苦しみを分かち合う奴だって必要だ。お前はそうやって人のことばっか考えるから、心配なんだよ。メリルローズはあれでタフそうだ。あいつの心配はいいから、自分のことをまず考えろ、頼むから。な」
「兄上……」
いつも強気な兄の懇願めいた声と表情に、アリスはそれ以上の言葉を飲み込んだ。
心配してくれるのはわかる。兄も父も母も、マーチン大臣の一家も、厄介な〝呪い〟を抱いて生まれたアリスを、本当に大事にしてくれる。それが有難くて嬉しくて、だからこそ申し訳なく思い、アリスはシアの提案を受け入れた。アリスにとって、シアの魔法は喜ばしいものだった。自分を偽り続けなければならないとしても、何もできないお荷物でいるよりはましだ。これで少しは自分も役に立てる。家族のためにも、国のためにも。
――そうしてこの王宮に来て、家族の確執を除くためと言われたから、父の妹の子であるメルとの婚姻も二つ返事で引き受けた。事情をよく知らなかったから、彼もきっと同じような気持ちなのだろうと思ったからだ。だが、それは違った。彼には彼の夢と目標があり、それを諦められずに苦しんでいるのだと、アリスはもう知っている。
黙りこみ、シェンナの給仕してくれた食事をとりながら、それでも、とアリスは思う。
(私は仕方ない。私はユニの嘆きと共に生まれた『災厄の子』だから。でも、メルは違う。精霊にちょっと怒られただけだ。謝っていれば、いつかは許してもらえるはずなのに……この先ずっと、私に縛られて不自由な思いをさせるのは、申し訳ない)
全て承知で傍に居てほしいと思うのはわがままだろう。何とかしてあげたいが、アリスに出来ることなどあるのだろうか。
「…………」
兄に悟られないよう小さくため息をつくアリスを、物言いたげなシアの金色の目がじっと見ていた。だが、物思いに沈むアリスは最後まで、その視線に気付かなかった。
□□□
「おはようございます、メリルローズ様」
「おはようございます。いいお天気ですね。今日もお勤めがんばってくださいね」
「は、はい! ありがとうございます!」
通りすがりの兵士の挨拶ににっこりと笑顔で応じれば、まだ若い彼は顔を赤くしてぺこりと嬉しそうに一礼した。振り返りつつ去ってゆく彼をしとやかに手を振り見送ったメルは、笑顔の奥ではたと気付いた。
(……って、何で爽やかに男に愛想ふりまいてんだ、俺は!!)
アリスの妻として王宮に連行されてから、いつの間にやら二週間が経過していた。
思った以上に順応力のあったらしいメルはとりあえず、とっさに投げかけられる挨拶に可愛らしい言葉と笑顔で対応できるようになる程度には、女であることに適応していた。男心を掴むのは存外簡単で、今や気さくで可愛らしいと評判の王子殿下の愛妻である。
「男のときはもてなかったのになー……俺、女のほうが才能あるのかなー……ハハハ……」
「――メル!? メルか、メルだよな!?」
手摺にもたれ、遠い目をして乾いた笑いを発するメルの耳に、不意に懐かしい声が届いた。
驚いて顔を上げると、そこには襟足で揃った赤毛と丸い薄茶の瞳を持つ小柄な少年が、驚いた顔で突っ立っていた。
「ス……スノウ!? おまえ、あれ、ええ……!? どうしてここに!?」
懐かしいその顔にぽかんと口を開けたメルはしかし、すぐに周囲をはばからぬ大声で叫んだ。
「うわっ、やっぱりメルだ! どうしたのそんな可愛くなっちゃって!? マジで女の子みたいじゃないかせっかくだからちょっとおっぱいさわらし」
「ぶっ殺すぞてめェ」
半月ぶりに見たスノウの髪はさっぱりと短くなっていた。襟のつまった濃紺の騎士装束のぱりっとした印象も相まって、女らしさを磨いたメルに反して少年らしい凛々しさを増してはいたが、中身は相変わらずガッカリのようだった。
間髪入れず低く返したメルに、スノウはあははと能天気に笑った。
「やっぱそんなに変わってないみたいだな、安心した! 中身まで可憐になってたらもう本当に逆玉ねらって口説くしかないかと……ああでも人妻か、しかも王子様のかー、口説いちゃったらちょっと大変なことになるなー」
「俺がこの先ほんとうに可憐になろうが記憶をなくそうが、いきなりおっぱいもませろとかいう男には絶対に口説かれないから安心しろ、スノウ」
うんうん悩むスノウに平坦に告げてから、気を取り直したメルはしかし、と改めてスノウを見つめる。
「お前、そんな形してるってことは、騎士団入団試験、受かったんだな?」
ここ数日、
「おう、まだ見習いで、叙任式は半年後だけどな。絶対に受かって王宮にもぐりこんでメルを見守るんだって親父さんに死ぬかと思うくらいしごかれたおかげで何とか受かった! 心なしか背も伸びた気がする! 女の子にもモテモテ! すげえや親父さん!」
「いやそれは気のせいだろうけど……まあ、ほんとによかったな、スノウ。おめでとう。お前だけでも騎士になってくれて嬉しいよ」
手摺を挟んだまま、スノウの肩に両手を乗せてメルは笑った。男の時は小さく見えていたスノウだが、今のメルよりは頭半分背が高い。新鮮なような寂しいような、複雑な気持ちだった。
祝いの言葉に目を丸くしたスノウは、やがて困ったように眉を寄せた後、メルにがばりと抱きついて言った。
「そんな諦めたようなこと言うなよ~、メル! お前今だって剣の稽古してるんだろ? 俺の教育担当の先輩が相手してるって頬染めながら言ってたから知ってるんだからな! 俺ともまた一緒に稽古しようよ~、俺よりお前のが強いんだから諦めるなよ~」
「スノウ――……っておまえどこに顔を乗せている」
「あーおっぱいやわらかい」
「ふざけんな死ね!!」
どさくさに紛れて胸に顔を埋めるスノウの頭を思いっきりどついた所で、がさりと草を踏む音が聞こえた。慌ててスノウの頭を放り投げるように離すと、不思議そうにこちらを見つめて瞬く、黒い瞳と目が合った。
「……奥方様? このバカとお知り合いなのですか? 何やら話していらっしゃいましたが、ご無礼はなかったでしょうか?」
「へ? あ、ああ、はい、あの、おっぱ……いえ、大丈夫です。こいつ、いや彼とはその、えーと」
「メルと俺は同じ村の出身で幼なじみなんですよ~、ネイプルス先輩。俺もメルの父さんに一緒に稽古つけてもらってたんです」
どうやらスノウの教育担当とはネイプルスのことだったらしい。
慌てふためくメルに代わって能天気に応じたスノウの言葉に、ネイプルスはぴくりと眉を動かした。
「メル……?」
「あっ愛称です! アリスもそう呼んでますし!」
「ああ、そう言えばそうでしたね」
納得したようなネイプルスに、メルはこくこくと忙しなく頷いた。
「そ、そうですそうです。よければ、ネイプルスさんもそう呼んでください。そっちの方が嬉しいです、奥方様というのはやっぱりまだ、慣れなくて」
笑って畳み掛けるように言えば、ネイプルスは生真面目に首を振った。
「いえ、それは恐れ多いので」
「そんな堅苦しいこと言わなくて平気ですよー、先輩。どんなに可愛くなったってメルなんてしょせんメルですから!」
「いやお前はちょっと黙ってろスノウ頼むから」
「お前……?」
「うわあ何でもないです! とにかくあの、じゃあ俺もネイプルスって呼ばせてもらうのであなたもメルって呼んでください! あとスノウはバカなので何を言っても気にしないでください! では、あの、俺はダンスの稽古があるので、失礼します! ほんと余計なこと言うなよスノウ!」
一息にまくし立て、逃げるように去ってゆくメルの小さな背中を見つめながら、ネイプルスはぽつりと呟いた。
「俺……?」
「あー、あの、メルはほら、男勝りなんです。俺と一緒に騎士を目指すくらいに」
人にどうこう言いながら自分で爆弾を落としていったメルの失言を仕方なくごまかすと、ネイプルスは更に訝しげな目でスノウを睨んだ。
「……女性が騎士を? フォルベインに女騎士はいないぞ? 叙勲も受けられないだろう」
「そりゃあメルはこないだまでおと……じゃない、ええと、……バカなんですよ、メルは」
「奥方様をバカとは何だ、スノウ。わきまえろ」
「メルって呼んでやってくださいよ、先輩。わきまえるより喜びますから」
逸れはじめた話にほっとしたスノウはアハハと笑いながら言った。するとネイプルスはどうしてか頬を微かに赤く染める。
あれ? と思い笑顔を凍らせたスノウの横で、彼はひとり言のようにしみじみと呟いた。
「メル……様、か。まあ、命令とあらば仕方ない。従おう」
「…………うっわあわかりやすいなあこのひとー。どうしようメル罪作りー」
「? 何か言ったか?」
「いえ何でも。はあ、メル、村ではもてなかったのに……」
「???」
きょとんとするネイプルスを横目に、スノウは無意識に男をたらしている幼なじみにむけて、大きなため息をついた。
□□□
「……だめ。やっぱり全くもってぜんっぜん駄目よ、あなた!」
小さな胸を精一杯はり、腰に手を当てたオペラは、床にうなだれるメルをキンキン声で叱り付けた。
「なんでターンの時にいちいち動きが止まったあげく逆に回ろうとするの!? あと先に動こうとするのはやめなさい、リードは男性に任せるの! あなたが踊るのは女パートよ!?」
「まあ、私はリードされるのも嫌いじゃないですから。あんまり怒らないであげてください、オペラ」
「あなたは黙りなさいマーチン兄! だいったいあなたもダンス下手くそなのよ、それでも高位の貴族なの!? だからあなたの家系はハゲなのよ!」
「ひ、ひどい……! 仕事を抜けてまで協力してるのにハゲなんて理不尽すぎる!! お前いても役にたたねえから稽古につきあってやれよって自分で命令したくせに、仕事してねえから今月給料なしでいい? とかいうエリアル殿下と同じくらい理不尽ですよ、オペラ!?」
割って入ったアンバーに攻撃の矛先が向いた隙に部屋の隅まで這いずったメルは、ぜえぜえと肩で息をしながら拷問器具のような踵の高い細い靴をこっそり脱ぎ、床でふくらむドレスの中に隠した。もう一秒だって耐えられそうになかったのだ。できれば体を締め付けるドレスもコルセットも脱ぎ捨てたかったが、それをするとオペラにしばき倒されそうなので何とかこらえる。
「もういいわ、今日はここまで! さっさとチンピラ殿下のもとに戻って仕事でもお給料の無心でもしてきなさい、マーチン兄! メリルローズ様はお一人で反復練習なさってからお戻りになってくださいね。わかりましたか!?」
「はい、コーチ……ありがとうございました……」
やっぱりみんなチンピラって呼んでるんだなあと思いつつも沈んだ声で返事をする。
背中を向けたままうなだれるメルの消沈具合に溜飲を下げたらしいオペラは、お疲れ様でした~という軽い挨拶と共に部屋を去ったアンバーに続いて足音も荒く部屋を出ようとした。背後で軋む扉の音を聞きながら、やれやれと足を伸ばしたメルだったがしかし、扉が閉められる寸前に聞こえた意外な声に驚き、うっかりそのままの格好で後ろを振り向いた。
「やあ、こんにちは、オペラ。稽古は終わったかな? メルはどうだ?」
「あ、アリステア様!? そ、その……」
明るい声と共に部屋に入ってきたのはアリスだった。
午前中はオペラのレッスン、午後は騎士団で稽古をするのがメルの日課となってから、アリスとは別行動が多かった。彼も彼で、慣れない夜会に向けての社交術を仕込まれているらしい。都合がつく日は夕食を共にしたりはしていたものの、チンピラ兄貴の目があるため大した話はできない。そのせいか、アリスはちょこちょこと空いた時間に訓練所を訪れ、メルの稽古を見物するようになってはいたが、オペラのレッスンに顔を出すのはこれが初めてだった。シェンナに聞くところ、最近は夜更かしをしており朝が遅いらしい。夜更かしの理由は教えてもらえなかった。そのうちわかると言っていたが、なんだろうか。
部屋の片隅にメルを見つけたアリスは笑顔のまま歩み寄ってきた。しかし、ドレスから覗くメルの素足を見ると、その表情は一気に曇る。
「メル、どうしたんだ、その足!? また靴擦れか? ダンスの稽古って言ったって、靴なんて履きやすいものを履けばそれで――」
「そういうわけには参りませんわ、アリステア様。パーティーでは正装で踊るのですから。ただでさえ、メリルローズ様はこういう装いでの作法をご存知ないんですもの。きちんと慣れておかなくては、恥をかくのはメリルローズ様ご自身ですわ」
「でも、こんな無理をさせなくたって」
「いえあの、大丈夫です、アリス。オペラの言うとおり、お……私は、正装に慣れてないので。あなたに恥をかかさない程度には、何とかしないといけませんし」
庇ってくれるのは有難いが、オペラの怒りを煽るのは目に見えているので、引きつった笑みを浮かべながらもアリスを止める。しかし、時はすでに遅かったようだ。眦を鋭くしたオペラは、メルの足元を顎で示しながらきつい口調で言った。
「……お志はご立派ですけれど、それではそのお行儀はどういうことなのかしら? メリルローズ様」
「え……あ! これはあの、ええと……」
指摘されてようやく足を投げ出したままだったのに気付き、メルはあわててドレスに素足を押し込んだ。そのはずみで中に隠していた靴が転がり出てしまい、それを見たオペラは更に深々と呆れたため息を吐いた。
「私は復習なさってくださいとお願いいたしましたのに、靴まで脱いでしまわれて。口ではなんと仰られても、そんなご様子ではとても奥様としての責任を果たそうとしているとは思えませんことよ」
「す、すみません……」
返す言葉もなく頭を下げたメルを一瞥し、オペラは意地の悪い笑みを浮かべた。
「まあ、仕方のないことかもしれませんけれど。王女としての責任を捨て、騎士の本分を忘れてお逃げになったお二人のお嬢様ですものね。上に立つ者の責任なんて――」
「いい加減にしてくれ、オペラ」
アリスの前でメルを貶めるいい機会とばかりにまくし立てるオペラを、アリスの静かな声が止めた。
「あ、アリステア様……?」
声を眼差しも静かだが、冷たい水のようなぴしゃりとした響きを持った声に、オペラはきょとんと目を瞬く。ふっと息をつき、メルのもとに跪くように座ったアリスは、オペラに背を向けたまま静かに言葉を続ける。
「ご両親のことでメルを責めるいわれはない。それは彼らの責であって、メルには関係ない。君だって、お父上のことで貶められるのは不快だろう? 君はそういう気持ちを知ってるはずなのに、どうして同じことをするんだ?」
「それは……その……」
「たしかにメルは、君みたいな生まれながらの淑女ではない。でも、足がこんなになったって弱音も吐かずにがんばってるんだ。未熟を責める前に、それを認めてあげてくれないか」
「……はい。つい、言いすぎましたわ。ごめんなさい」
しょんぼりと俯いて、悲しそうにオペラは言う。
ただでさえ小さな肩が更に小さく萎れて見えて、ついかわいそうになったメルはええと、と口を挟む。
「あの、お……私が未熟なのも根性がないのも本当ですから。オペラには迷惑をかけてしまってますが、明日からもよろしくお願いします」
「……寛大なお言葉感謝いたしますわ、メリルローズ様。では、また明日――よろしくお願いいたしますわね……?」
何故か疑問系でそう言い残し、メルにはとても真似できない優雅な礼をして、オペラはホールを去って行った。
(あー怒ってた……あれは怒ってたなー……明日からが怖いなー……)
どうしてか冷静にそう思い、虚ろな目で怒りのオーラを放つ小さな背中を見送ったメルの足に、不意にアリスが触れた。小さな痛みに、メルはぴくりと肩を揺らす。
「ごめん」
「いえ、そんなに痛くはなかったですから平気ですよ」
「そうじゃなくて……ごめん。差し出がましいことを言った。ご両親の責を認めるようなことを言ってしまって、ごめん」
「いえ……庇ってくれたんでしょう? 嬉しいですよ。ありがとうございます」
オペラには少し気の毒ではあったし、明日からの稽古が恐ろしくはあるものの、アリスが自分のために怒ってくれたことは嬉しかった。
「アリスが怒るのを初めて見た気がします。いつもにこにこしているから、怒るとかえって怖いですね、アリスは」
「……だって、君が怒らないから」
くすりと肩を揺らすメルに、拗ねたように眉を寄せてアリスは言う。それを見て、メルは更に笑った。
「まあ、うちの両親が無責任なのは本当ですから。俺だって呆れましたし、責める気持ちもありましたよ、馴れ初めを聞いたばかりの時は」
自分たちばかりサーガのようなことをしておいて、そのせいでメルは夢を諦めなくてはならなくなり、あげくの果てには王子の〝妻〟だ。彼らの元に生まれなければと、一度でも思わなかったかと言えば嘘になる。
「でも、まあ、あの人たちは、いつだって幸せそうだったので。王女や騎士としては失格で、全部を捨てて逃げたことは正しいことじゃなかったんだろうけど……間違ってもいなかったんじゃないかと、今は思います」
「――君は……」
ぱちぱちと瞬いた後、呆けたような驚いたような声を出したアリスは、やがてメルをまっすぐ見つめて破顔した。
「うん。そうだな。……メルはやっぱり、格好いいな」
「っ、あ、ありがとうございます……」
今の発言のどこが格好いいのかよくわからないが、直球な褒め言葉はやはり照れる。それに。
(だからもうほんと、そういう顔をするのは止めてほしいんだよな……)
きらきらした目で、頬を少し赤くするアリスはやはり妙にかわいく見えてしまい、メルはぶんぶんと首を振った。ほだされるな。忘れるな。メルは男だ。そしてアリスも男だ。
(そうだ、忘れるな、思い出せ。男だ、男だ、こいつは男なんだ……!)
現実を呼び戻す呪文を脳内で何度も唱えつつ、アリスから目を逸らしたメルは、肩を落として深々と息を吐いた。
――眠れない。
その日の夜、寝心地のいいはずのベッドで、メルはもう何度目か知れない寝返りを打った。
(別に昼間のあれで興奮……じゃなくて高揚してるとかそういうんじゃないぞ、違う、断じて違うからな!)
誰にともなく言い訳をして強く目を瞑るが、眠気の訪れる気配はない。
やがて諦めたメルは、のそりとベッドを抜け出し、時計を見るために広い窓のカーテンを捲った。月明かりが差し込み、壁に掛かった時計の文字盤が見えるようになる。針が示す時刻はすでに深夜二時近くだった。やれやれ、とメルは細い肩を落とす。
(『
深夜二時から三時にかけての『
とにもかくにも『
(こんな時間に外で――体も弱かったらしいのに、大丈夫なのか?)
妙に気にかかってしまい、メルは椅子の背にかかっていた肩掛けを掴んでそっと部屋を出た。見間違いならそれでいい。どっちにしろ、確認しないことには眠れない。『
暗い階段を苦心しながら下り、メルはユニの泉の上階である吹き抜けに至った。壁に点々と松明があるため、この場所は他に比べて多少は明るい。手摺に乗り上げ、下を見ると、泉の淵に白い人影が見えた。アリスだ。
小さな懐中時計のようなものをちらりと見たアリスは、泉の淵ぎりぎりへにじり寄り、水面をじっと見つめる。まるで何かを待つような仕草に首を傾げたメルは、どうしてか急くような気持ちで泉へ下る階段へ回り込む。静かに湧き出す水の微かな音しかしない空間に、室内履きをパタパタと鳴らして石段を下るメルの足音は存外大きく響いたようで、まだ距離のあるうちに、アリスははっとメルを振り仰いだ。
「メル――……!? こ、こんな時間にどうして」
慌てたように声を上げ腰を浮かせたアリスにぱたぱたと駆け寄りながら、メルは苦笑する。
「それはあなたもでしょう、アリス。あなたが見えたから降りて来たんです。夜中にどうして一人で――……?」
言葉の途中で、ぐらり、と視界がぶれた。
縦に揺すられるような感覚の後、足元から力が抜ける。
「メルっ、大丈夫か!? 君はまだ慣れてないから――……」
がくりと膝をついたメルに、アリスが慌てたように駆け寄ってきた。その声の最後の音が、妙に高く澄んで聞こえる。
「だ、大丈夫です。ちょっと立ちくらみみたいな……? あれ? 声、が……」
対する自分の声は、妙に低い。
違和感に数度咳払いをして、肩に細い手を置くアリスを見上げ――……いや、見下ろした。見下ろす視線の先で瞬くのは少しだけ目尻の吊った深い青の瞳。音を立てそうなほど長い睫毛。見慣れたはずのそれはしかし、かえってメルの目を瞠らせた。
「………………………………――ア、リス?」
長い沈黙の末に掠れた声で呟いたメルに、目の前の〝少女〟はためらう素振りを見せた後、観念したようにこくりと小さく頷いた。
少女の大きな瞳に映るのは、ぽかんと口を開いた間抜け面の若い、よく知っているはずだがひどく懐かしい気がする金髪の〝男〟だった。少女とその男の両方を呆然と見つめつつ、メルはほとんど無意識に口を動かしていた。
「も……戻った? 俺、いま、男ですか?」
「うん」
「アリスは、いま、女の子ですよ?」
「うん、そうだろうな」
「…………も……戻ったんですか?」
「うん、そうだな」
「…………アリスという名は……本名ですか?」
「――うん。そうだよ、メル」
こくりと、アリスはもう一度頷く。
〝彼女〟の瞳に驚きはすでなく、あるのはどこかすっきりしたような淡い微笑みだけだった。
「え……ええと、え……えええ!? つまりあれですか、あれですね、あれでしょう! アリスは、あなた、あなたは――……」
がしりと細い肩を掴み叫ぶように言ったメルの言葉はしかし、言葉の最後には呟くように弱々しくなった。抱いていた違和感の欠片が組み合わさり、きれいに枠に嵌って消える。驚いているのか納得しているのか、はたまた安堵しているのか。自分でもわけのわからない混濁した感情のまま、ただ脱力したメルは細く吐息に乗せて呟いた。
「あなたは――〝姫〟だったんですね」
銀色の髪の、陶器のような白い肌を持つほっそりとした美しい少女は、くっきりと大きな青い瞳を弧を描くようにすっと細めて照れくさそうに頷き、笑った。
「アリス・フェルト・フォルベイン。それが私の本当の名前だ」
泉の淵に二人で並んで腰掛けた後、メルがやっとのことで落ち着きを取り戻したのをきっかけに、アリスはぽつぽつと語り始めた。
「私は豪雨と共に生まれたらしい。川が氾濫して橋が三つ流されたそうだ。知らないか?」
「ああ……俺が生まれる何ヶ月か前に、そういうことがあったと聞いたような」
「なんだ、私の方が君より早く生まれたんだな。お姉さんだ」
「はあ」
どうでもいいことに嬉しそうに笑ったアリスは、それで、とすぐに話を戻した。
「王家には、稀にそういう子供が生まれるそうだ。ユニの嘆きのような豪雨と共に生まれる、『災厄の子』と呼ばれる女児が。それで、そういう時は一度、生まれた娘を殺さなければならないらしい」
「こ……殺す!? でもアリス、あなたはこうして生きて――」
「ああ、殺すといっても、形式上な。名前を付けて血を少しだけ採って、葬送の儀を行う。これで娘は死んだことになる。そうしておいて、もう一度、殺した子供に名前を付ける。でも、その子はもう娘じゃなくて、息子として扱わなければならない」
「どうしてですか?」
アリスはさあ、と首を傾げた。
「神様の考えることはよくわからないな。とにかく、そうして人に知られないようにして、〝息子〟は隠しておかなければならない。だから、私もそうだった。病気なんて嘘なんだ。田舎の屋敷で人目に着かないように暮らしてた。屋敷の使用人は深く事情を知らなくて、年単位で入れ替えられて、長く傍に居てくれたのはシェンナだけだったな」
本来なら、アリスはそうしてずっとひっそり、王都から離れた屋敷で生涯を過ごすはずだった。しかし、一月と少し前。エリアルと共に現れたシアは、アリスにこう問いかけたそうだ。
――ユニの怒りをかわす魔法を僕が持っているとしたら、君はどうする? と。
「私はね、二つ返事で話を受けたよ。単純に嬉しかった」
「そう――なんですか? 俺は女になった時、泣きましたよ。正直なところ」
傍から見れば笑い話でも、性別がひっくり返るということは、なかなかどうして大変なことなのだ、本人にとっては。築いてきた自分の基盤が全てひっくり返されるのだから。
身にしみてそれを知っているメルは、だからこそ、喜んで魔法を受けたというアリスに驚いた。こんなにきれいな女の子が、例えきれいな男になるにしろ、今の姿を捨てることを自分で選んだというのは信じがたい。というか、素直にもったいない。
泣いたのか、とからかうように笑ったアリスは少しの間の後、考えるように視線を宙に浮かせてううん、と唸った。
「そうだな。私も普通に育っていたらそうだったかもしれない。でも、私は『災厄の子』だ。両親や兄上やシェンナは、本当に私を大事にしてくれたし、愛情を注いでくれた。でも、だからこそ申し訳なくて。男になって王宮に行けば、私にだって出来ることはあると思ったから」
「……えらいですね、アリスは」
「いや。っていうのはもしかしたら建前だったのかもしれないなって最近思い始めたところだから、褒められると困る。君に会ってから気付いたんだけど」
「……何にです?」
瞬くメルを見て、呆れないでくれよと前置きしてからアリスは続けた。
「心配かけたくないとか、荷物になりたくないとか、役に立ちたいとか……そういうのは嘘じゃない。でも、私が魔法を選んだ一番の理由はきっと、寂しかったからだな、って」
ふふ、とアリスは苦笑した。まるで自嘲するような笑みに、メルは無意識に眉を寄せる。
「メルと夫婦になれて嬉しかった。誰かと毎日一緒に居て、色々なことをするのは楽しいな。……でも、申し訳ないとも思ってる。精霊の怒りが解けたら、ちゃんと君を解放すると約束する。だから、それまでしばらくは、私の〝妻〟でいてくれないか?」
「……あなたは……女の子として生きたいとは思わないんですか?」
問いで返したメルに、アリスはゆっくりと首を振った。
「――あんまり多くのことを望むと、ユニに怒られそうな気がするんだ。私は自分が『災厄の子』であることを忘れてはならない。ここには兄上もシェンナも居るし、病が癒えれば父上や母上も帰ってくる。それに何より、君に会えた。もうしばらくは一緒に居られる。それでもう、私は充分幸せだよ」
自分に言い聞かせるように呟いて、アリスはそっと微笑んだ。その表情に、メルは顔を伏せ、悟られないよう唇を噛む。悔しかった。楽しい話をしているわけではないのに、アリスはさっきからずっと、
(……笑ってばっかりだ)
無理をしている。それはわかる。
だが、無理をしないでくれ、本心を見せてくれと言える根拠を、メルは持っていなかった。慰める言葉も、どうにかしてやる力もメルにはない。わかった上で、メルは強く思った。
(それでも、俺はこの子を……この子のために、何かがしたい)
胸に生まれた出所のわからない感情のまま顔を上げると、メルを見ていたらしいアリスが照れたように肩を竦めてまた笑った。それに努めて笑みを返そうとしたメルはしかし、大変なことに気付いてびしりと体を硬直させた。――どうして今まで気付かなかったのか。いや、アリスの話に真剣に耳を傾けていたからだが、いやしかし、これは。
(……胸が半分みえている……だと……!?)
しかも前かがみで膝を抱えるように座っているため、なかなか際どい感じに谷間になっている。正直言って眼福である。自分の胸を自分で見る空しい心地とはわけが違う。一度目を背けたにも関わらずもう一度視線を戻してしまうくらいには眼福であるが、しかし。
「アリス、その……な、夏とはいえ、夜は寒いですから。これを」
そういえば持ってきていた肩掛けを、視線をあさってに向けつつそっとアリスにかける。夜着が妙にでかかったのは『
「ありがとう。……ふふ。なんだか照れるな」
騎士道精神、騎士道精神を忘れるな、と必死に自分に言い聞かせるメルの心中も知らず、アリスはきょとんとした後で、今度は本当に嬉しそうに笑った。どくんとメルの鼓動は跳ねる。
「なあ、メル。初めて会った時、君は私の想像以上に可愛らしかったんだけど、あれだな。男の君は、想像以上に格好いい。私はいい奥さんをもらったな」
――やばいかわいい。かわいすぎる。
打たれるように強く思ったメルは無意識に、照れたように頬を赤くしたアリスの細い指をがしっと掴んでいた。驚いたように瞠られた青い瞳をじっと見つめて告げる。
「アリス。俺は、あなたの傍にいますから!」
「……メル?」
「そりゃ、俺の呪いは適当なじじいがかけたものだし、いつか解けるかもしれません。この姿に戻ったら、俺はあなたの妻ではいられませんけど、でも、それでも傍には居ますから。何もできないかもしれないけど……それだけは出来ますから」
一息に告げると、アリスは瞠った目をぱちぱちと瞬いた。やがてその目がくしゃりと歪む。
「本当に――……っ、あ……」
「……っ……戻り……ましたね」
言葉の途中で視界がぶれた。
目を瞑ってくらむ体に耐えた後、もう一度開いた視線の先には、見慣れた〝男〟のアリスが呆けたように座っていた。
「……っ、あ、ありがとう。嬉しい」
はっとしたように目のあたりを擦ったアリスは、低くなった声で慌てたようにそう言って、何かをごまかすように微笑んだ。
それから間を置かず、アリスが小さなあくびを漏らしたのをきっかけに、その夜は別れた。
部屋に戻り、ベッドに膝を立てて座ったメルは、じっと闇を見つめて考える。
(――とは言ったものの、何もできない、で済ませるわけにはいかないよな、やっぱり)
傍にいるだけでは、何もしないのと同じことだ。それではアリスの苦しみは取り除けない。何かしたい。彼女のために。彼女が〝彼女〟として生きられるようにするために、何かを。急きたてられるように強く思う。
(だって、アリスは何も悪くないんだ。どう生まれたって、それはアリスのせいじゃない)
何も悪くないのに、ただ豪雨と共に生まれたというつまらない理由で、彼女の人生は歪んでしまったのだ。
(『災厄の子』ってのは一体、なんなんだ? それがそもそも胡散臭いだろ。迷信じみた伝承で自分の娘を閉じ込めたりするか? ……いや、するのかもしれないけど)
ユニの加護により枯れた大地に水脈が生まれ、豊かな土地に変わったとされるフォルベインにおいて、ユニの機嫌を損ねないようにするのは王族たるものの大命題だ。しかし。
(今、王様は不在なんだ。その隙を狙うようにしてアリスを王宮に連れてきたのは、あのチンピラ兄貴。あの人が、神の機嫌を伺うなんて殊勝なタマか……?)
むしろ鼻で笑いそうだ。『災厄の子』が、本当に迷信だったなら。
しかし、エリアルはアリスを〝男〟にした。王が不在の隙を狙って正体を明かすなら、女のままの彼女を皆に明かせばよかったのに。彼が本当に伝承を信じていないのならそうしたはずだ。だとしたら信じているのか? ……いや、違う。『災厄の子』の伝承をそのまま信じているのだとしたら、彼といえど、アリスをここに連れてはこなかっただろう。
(あの人は『災厄の子』の話を信じているわけじゃない。でも、信じてないわけでもない。それはつまり……どういうことだ?)
そして、そんなややこしい状況の中で、あえてメルを王宮へ連れて来た真意はなんなのだろう。親族だからか? 同じような境遇にあるアリスの慰めのためだろうか? ――それもあるにしたって、それだけと考えるのはやはり、不自然だろう。
(だが、俺に何かを要求してくる様子はない。何を告げるでもない。それはどうしてだ?)
袋小路に入り始めた思考に、メルは大きくため息をついた。
ベッドに倒れこみ、自分の小さな手をぼんやりと見つめながら思う。
「この姿で、俺にはなにか、成すべきことがあるってことか……?」
メルの小さな呟きは、しんとした闇に溶けて消えた。
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