2章 神宮殿

 頭がかゆい。

 婚儀を終えアリステアの〝妻〟となって二日目の夜、メルは相変わらずそう思っていた。風呂に入らない歴すでに五日目、そろそろ色々と限界である。


 頭をかきつつ、舗装された道に至ったらしくなめらかになった車輪の進みにカーテンをちらりと捲れば、やっと視認できるくらいの距離に白い宮殿があるのが見えた。昼となく夜となく疾走を続ける馬車に揺られて二日半、ようやく一行はフォルベインの王都、ランプへ到着したようだ。


 ゆっくりと馬車の速度が緩まり、動きを止めた。街門へ着いたのだろう。


(いよいよ、か……)


 馬車は二台にわけられ、一台には兄弟が、もう一台にはメルが一人で乗っていたため、道程の間に心を落ち着かせることは出来た。王宮で何が起こるのかは知らないが、とりあえず〝妻〟という単語の意味と、それが自分であることは認めた。もう失神はしない。多分。


 椅子の背に深くもたれ大きく息をついた時、前触れなく馬車の扉が開いた。ノックもなしにずかずかと乗り込んできたのは、〝夫〟の兄であるエリアルだった。


「起きてっかー、舌噛んで死んでねえか、メリルローズ!」

「……起きてますし生きてますよ、今のところ」


 世継の王子のくせにチンピラじみた態度の男に、メルはため息を殺して返事を返す。


「そうか、そりゃよかった。ちなみにアリスはぐーすか寝てるぜ。のん気だよなあ、アリスは。そんな所も可愛いけどな」


 ああ、チンピラな上にブラコンなんだこの人。気持ち悪いなあ。

 やに下がった笑みを浮かべるエリアルを冷ややかに見つめ、メルは思った。


「で、何の用ですか」

「何だよ、俺は今やお前のお兄様だぞ、もっと愛想を振りまけ。俺は笑顔のかわいい女にだけは寛容なんだ」


 暗にそれ以外には心が狭いと言っているが、突っ込むのも面倒くさく、メルはただ重いため息をついた。


「生憎、俺は男ですから。それはご存知のはずでしょう」


 あくまで憮然と答えるメルに、隣に座ったエリアルはくつくつと喉を鳴らして笑った。


「なんつーか、ほんっとーに嫌なんだな、お前」

「当たり前です。体は女になったって、俺は男ですよ。何が悲しくて男の妻に……というか、どうしてこんな中途半端な呪い持ちを大事な弟さんの妻に選んだんですか、そもそも? いくら母があなた方の親族とはいえ、意味がわからないんですが」

「……中途半端なればこそ、だな。お前以外にアリスを救える可能性のある奴はいねぇんだ、残念ながらな」

「は?」


 眉をしかめるメルにも、エリアルはふてぶてしく笑うのみだ。彼の容姿は弟とよく似ているが、毛先の跳ねた短い髪のせいか軽い口調のせいか、彼の方が若干幼くすら見える。アリステアはメルと同じく十七と言っていたから、エリアルの年はせいぜい十八、九がいいところだろう。だというのに、彼の立ち振る舞いはやけに堂々として、交渉事にも慣れた風情だった。アリステアの無邪気さとは対照的だ。


「ま、とにかく、城に着く前に注意事項だ。お前は消息不明だったローズマリー姫の娘で、和解の証にアリスと婚姻を結んだってことになってる。いとことはいえ、ローズは爺さんの後妻の娘だから、血もそんな濃くなんねえしな。真実を知ってるのはこれから紹介する奴らだけだ。それ以外には女として接しろ。絶対に男だって悟られるんじゃねぇぞ、わかったな」


 エリアルは、メルの質問に具体的な答えを示すつもりはないようだった。

 一方的にそれだけ言うと、さっさと馬車を後にする。しかし降りる寸前に中を振り返った彼は、初めて迷ったような顔を見せた。なんだと思ったメルに、言いにくそうに告げる。


「体だけとはいえ女に向かって悪いけどさ。……おまえ、なんか臭えぞ。城についたら風呂はいれよ」

「………………はい」


 女でも、風呂に入らなければ臭くなる。

 女の子とは何となくいつでもいい匂いのするものだと思っていたメルが女になって最初に知ったのは、そんな物悲しい現実だった。




 街へ入った馬車はしかし、王宮の正門を迂回して、人目を忍ぶように裏門から敷地内へ入城した。そのまま静かにしばらく走り、もう一つ門を潜った後、やっと静かに停車する。


(城内の門を潜ったって事は、ここはまさか〈神宮殿サンクチュアリ〉か?)


 訪れたことはなくとも、メルは城の大まかな構造は把握していた。騎士を目指していたからというより単純に、小さな村の授業でも習うほどに、この宮殿は有名なのだ。


 授業だけはわかりやすかったシルバの滔々と語る声が頭に蘇る。


 ――僕達の生きる『神の在る世界エリュシオン』にはその名の通り、様々な神が存在する。神は大地から生まれ、その命の続く限り、各々の生まれた土地に恵みをもたらしてくださるんだよ。そして、このフォルベイン国の神は水を司るユニだ。彼は五区画に分かれた王城の中央、〈神宮殿サンクチュアリ〉にあるユニの泉の更に下、〈神へ至る階ロードステイル〉を降りた先に存在している。〈神宮殿サンクチュアリ〉は王族とそれに近しい者しか入れないから僕らには縁遠い場所だけど、テストには出すから覚えとこうね。


(騎士になったとしても〈神宮殿サンクチュアリ〉の中になんて入れなかっただろうな……。まさかこんな展開で入れることになるとは思わなかったぜ)


 喜ばしいことではないはずだが、好奇心を刺激され、メルは不覚にも少しわくわくしてきた。母が纏めてくれていた荷物を手に、なかなか開かない馬車から出ていいものか迷っていると、コンコンというノックの後で扉が開かれる。そこには起き抜けらしいアリステアが寝ぼけ眼で立っていた。


「おはよう、メリルローズ。遅くにすまないが、着いたらしい。紹介したい人達がいるから、ちょっと来てくれ」


 どこか幼い仕草で目を擦りながら言ったアリステアは、そこでメルに手を差し出した。意味がわからず瞬くメルに、アリステアも不思議そうに首を傾げる。


「……手を、どうぞ?」

「へ?」

「男は女の子に手を貸すものだろう?」

「で、でも俺はほら、あの……男ですから」


 分かっているのだろうか、このおとぼけ王子は。まさかとは思うが、チンピラの方の王子がメルの事情を伏せているのではあるまいか。

 疑惑を胸に改めて性別を告げたメルに、アリステアはううん、と困ったようにうなった。


「そうだなあ。それは知ってるが、でもほら、やっぱり私は男だし、君は女だし」

「……はあ」


 いまいち会話がかみ合っていない気がするが、事情はわかっているようだし、好意は好意なのだろうと手を借りて馬車を降りたメルに、アリステアはほっとしたように微笑んだ。


「よかった、これでいいんだな」

「……はあ?」

「おーい、行くぞー。いい加減疲れたろ、早く済まそうぜ」


 何となく抱いた違和感に首を傾げたメルを、先を行くエリアルが急かす。

 アリステアに手を引かれたままエリアルの背を追いつつ、メルはちらりと周囲を見渡した。


 有名な〈神宮殿サンクチュアリ〉の景観は薄闇に霞み、あまりよくは見えなかった。ただ、近くにあるのだろうユニの泉のから湧き出る水の澄んだ気配だけが、そこかしこに満ちていた。





「おかえりなさいませ王子様方~!」


 長い石段を登り、昼間なら輝いて見えるであろう白い石造りの建物に追い立てられるように足を踏み入れたメル達を玄関ホールで出迎えたのは、柔らかそうな黒髪を首筋で一つに束ねた文官風の優男だった。年のころは二十代半ば位に見える。


 まっさきにエリアルに駆け寄った彼は、年の割に落ち着きのない様子できょろきょろと周囲を見回したのち、どこか間延びした声で言った。


「無事にアリス様のお嫁さんは連れて来られたんですよねー? どちらです?」

「どちらって、そこに居るだろ、アリスの横に。アンバーてめえちょっと目ェ離した隙に頭のみならず目まで悪くなったのか? それ以上役に立たなくなったら毟るぞ?」

「やっ止めてくださいよエリアル様! 私はハゲませんよ、ハゲの呪いは父上の代で断ち切るんだ!」


 言われてみればよくハゲそうな細く量の少ない頭髪を持つ彼は、エリアルから守るように髪を押さえつつ、視線をようやくアリステアの影になっていたメルに定めて大きく笑う。


「初めまして、アンバー・マーチンです。マーチン内務大臣の息子で、エリアル殿下の側近をやっております。以後お見知りおきを」

「あ、はい、ご丁寧にどうも。メル……メリルローズ、です」


 頭を押さえたままぺこりと腰を折ったアンバーに、メルもぎこちなく頭を下げる。


「ローズ様とシェル殿のことは今でもよく覚えてます。逢引現場を殿下と覗いてローズ様に殴られたりしたのはいい思い出ですよ~。髪の毛五本抜かれて泣きましたけどね、あはは!」

「はあ」


 何だかガッカリな匂いのする人だなあと思いながら、メルは生返事をした。

 それに気付かず、ガッカリ予備軍は一人で盛り上がって話を続ける。


「ああ、懐かしいなあ! メリルローズ様はローズ様によく似てらっしゃいますね。とても元男とは思えない、尊敬します! 私にはとても真似できません!」

「いえ、俺も自力で変体したわけじゃないんでそこを尊敬されても」


 ああ、この人はガッカリだ、と確信したメルの突っ込みに、更にエリアルが口を挟む。


「はい間違え~、『俺』じゃねえだろ、『私』な。はい、もっかい」

「わ……『私』……」

「どう思う、アリス?」

「うん、なかなかいいと思う」


 何を指してなかなかいいなのか分からないが、エリアルは納得したように、ならよし! と頷いて傍らのアンバーに視線を移した。


「で、部屋の準備は出来たのか? シア殿はどこだ? 一応こいつを紹介しとかねぇと」

「部屋は今シェンナが最後の仕上げをしてますよー。シア様は……」

「――僕ならここに居るよ。最初からずっとね?」


 幼い声は正面にある階段の上から響いた。

 驚いて視線を上げると、声の主はぴょこりと手摺に乗り上げるようにして頭を見せる。思いがけず小さな闖入者の姿に、メルはぽつりと呟いた。


「こ、子供……?」

「言うに事欠いて子供とは、何とも失礼な小僧だね。いや、今は小娘か」


 手摺と同じほどの背丈しかない白いローブを纏った子供は、メルの呟きを聡く拾うと挑発するようにそう言って、乗り上げた手摺からぴょんと軽く飛び降りた。


「なっ、何してんだこのガキ!? あぶな――……ッ!!」


 中二階とはいえ、子供が飛び降りて無事ですむ高さではない。

 弾かれたように子供の着地点へ駆け寄ったメルは、焦りつつも小さな体を受け止めようと大きく腕を広げた。落下する子供は何故か「へえ」と感心したように呟き、にんまりと笑う。間に合うかという瀬戸際、子供はメルの目の前で、何かに守られたように落下の速度を緩めた。――ぴしゃん。小さく水音がする。


(浮い、た……!?)


 駆け寄ったメルの目の前で、白いローブをふわりと膨らませた子供は危うげなく床に降り立った。外で感じたのと同じ、澄んだ水の香りが、子供の周囲に一瞬漂う。


「なるほど、とっさに〝子供〟を助けようとする男気はあるわけだ。それに免じて今の失言は忘れてあげるよ、小娘」


 目深に被ったフードとその裾に連なる石に隠され、子供の顔は半分ほどしか見えない。だが、口元に浮かべた笑みは、その口調も相まって子供のものとは思えないほど老獪に見えた。


「お前は一体……?」

「――はいはい、ガキをからかうのはその辺にしといてやれよ、シア殿。あんたの自己紹介はいちいち悪趣味なんだ」


 呆然と呟くメルと子供の間に割って入ったのはエリアルだった。


「珍しく庇うじゃないか、殿下」

「いい加減夜だしな。紹介は直入にしてくれ」

「はいはい。じゃあ、改めまして、小娘――いや、メリルローズ」


 肩を竦め、フードからはみ出した長い金髪を揺らしながらメルを向き直った小さな子供は、半分しか見えない、髪と揃いの色の瞳を細めて不敵に笑んだ。


「僕はシア。ご覧の通り精霊ではないが、ユニの眷属として力の行使を許されている。まあ、君にわかりやすいように言えば〝魔法使い〟さ」

「シア殿はフォルベイン王家の守護者みたいな存在でな。有事の際、ユニとの橋渡しをしてくれるんだよ」

「そういうこと。ついでに言えば、僕はこれでも君の爺さんの爺さん以上に昔から生きているんだ、敬いたまえよ。具体的に言えば子供とか言うな」

「はあ……」


 ぽかんとしたメルに畳み掛けるように言った二人に胡乱な返事を返したところで、ホールにまた新たな声が響いた。


「皆さま、お話はお済みになりましたか? お部屋の準備は整いましたが」


 首筋で切り揃えられた黒髪をなびかせながら階下へ降りてきたのは、二十歳そこそこに見えるメイド姿の女だった。感情の読めない淡々とした声で言いながら、無表情にホールへ至った彼女を見て、アリステアは嬉しげに声を上げた。


「シェンナ! ただいま!」

「お帰りなさいませ、アリス様。初めての外出はいかがでしたか?」


 事務的な口調をわずかに緩ませて、シェンナと呼ばれたメイドはアリステアの元に歩み寄った。するとアリステアはためらいなく、すらりと背の高い彼女に飛びつくように抱きついた。


(なるほど、王子と年上メイドっていうのもなかなか絵に……って、あれ? なんかおかしくねえかこれ? 俺、たしかこの人の……?)


 抱擁を交わす二人をついうっかり凝視するメルに気付かず、彼らは親しげに話を続ける。


「楽しかったよ、景色も綺麗だったし。次はシェンナも一緒に行こう」

「エリアル様がご一緒でなければ喜んで」


 さらりと言ったシェンナにエリアルは笑う。


「はっはっは、いつも通りひでぇな、シェンナは。……それはともかく、そこで妬いてるお嬢さんにシェンナを紹介してやれ、アリス。あと、その癖は直せよ? 誤解されるからな」

「あ、うん……ごめん、兄上、シェンナ……それにメリルローズ」


 アリステアは素直にシェンナから体を離し、メルに彼女を示して言った。


「彼女はシェンナ・マーチン。ずっと私の世話をしてくれてる人なんだ。だから気安くて、つい……あの、そういうあれじゃないから、気を悪くしないでくれ。私の妻は君だけだから」

「は、はい……? って、あの別に俺も妬いてたとかじゃないですよ、大丈夫ですよ!? あのほら、俺は男ですから!」

「はい、また間違え~。だめだな、お前。要教育だな」


 あわてて手を振るメルの口調に再び駄目だしをしたエリアルは、そこで仕切りなおすようにパンパンと手を叩いた。


「ま、とりあえず一通りの紹介は終わったな。じゃ、各自解散~」

「は~い、おやすみなさーい!」

「じゃあね、小娘。早く寝なよ」


 エリアルの号令に従い、アンバーとシアはさっさと階上へと消える。


「あ、あの、俺はどうすれば……」


 メルを置き去りに自身も踵を返そうとしたエリアルの背に問うと、彼が振り返る前に傍らのアリステアが答えた。


「君の面倒はシェンナに見てもらう。事情を知らない者では困るだろう? 男と女じゃいろいろ勝手の違うことも多いし」

「それは、まあ……」


 戸惑いつつ答えるメルに、足を止めたエリアルが説明を追加する。


「そうだ、言い忘れてたが、俺たちは今はここ、〈神宮殿サンクチュアリ〉で暮らしてる。本来は住むための場所じゃねぇんだが、部外者の目が入らないからちょうどいいんだ。お前の部屋もここに用意した。〈神宮殿サンクチュアリ〉には今紹介した連中しか居ないから、ここの中でなら羽を伸ばして構わない。だが、外区画では気をつけろよ。バラしたりしたら襲うぞ?」


 非常にチンピラらしい言葉と黒い笑みを残し、エリアルも階上へ消える。

 襲うってどういう意味でだと怯え立ち尽くすメルの背中が、不意にぽんと軽く叩かれた。


「じゃあ、私たちも戻ろうか」


 見上げると、アリステアが笑っている。視線が合うと深い青の瞳を和ませて、すっと手を差し出した。戸惑いつつもその手を取ったメルに、アリステアはにっこりと笑みを深めた。





 中二階には三つの扉があり、アリステアはその左奥側にメルを誘った。

 両開きの重厚な扉を潜ったとたん、満ちるのは濃い水の香りだ。驚いて横を見れば、吹き抜けになった空間の下に、白い小さな花の散る芝生に囲まれた泉があった。


「これがユニの泉……?」


 想像したよりは小さいが水はどこまでも透明で、けれどどうしてか底は見えない。深い深い闇の深遠へ繋がっているような錯覚を起こさせる水面を、手摺に乗り上げ食い入るように見つめるメルの隣で、同じように泉を見下ろしたアリステアが頷く。


「ああ。残念ながらユニは出不精なようで、声は聞かせてくれないけどな。でも、綺麗な泉だろう。近くに行くと何故か落ちつく。君も気に入ったか?」

「はい。村の泉に似てます。稽古をしたらはかどりそうな――……」

「稽古?」


 ぱちりと瞬いたアリステアに、メルは己の失言を悟る。


「……いえ。何でもないです」


 言葉をにごしてごまかしながら、メルはまたしても自分の忘れっぽさに呆れる。


(俺はまた無意識に……)


 うんざり息を吐くと、手にした荷物の重さが増した気がした。母に渡された時から、この荷物の中に剣が入っているのはわかっていた。受け取らないと母は傷付くだろうからそのまま持ってきはしたが、やはり置いてくるべきだった。未練が形を成しているようでいたたまれない。


「そうか……?」

「はい。すみません、足止めして。行きましょう」

「うん……」


 数歩前で立ち止まり、メル達を待つシェンナの元へ歩む。不思議そうに首を傾げながらも、アリステアはそれ以上の追求はせず、メルに続いた。





「じゃあ、私は一人で平気だから。シェンナ、メリルローズをよろしくな」


 吹き抜けの脇にあった階段を登り三階へ至った時、アリステアはそう言った。どうやらメルの部屋はこの階に用意されているらしい。笑顔を残して上階へ昇ったアリステアの姿が階段の奥へ消えてから、黙っていたシェンナが口を開いた。


「では、お部屋へご案内させていただきます、メリルローズ様。先ほどアリス様からもご紹介いただきましたが、私はシェンナ・マーチンと申します。アリス様の身の回りのお世話係を勤めております。僭越ながら、これからはメリルローズ様のお世話も担当させていただきますので、よろしくお願い申し上げます」

「ああ、はい、メル……メリルローズです。ご丁寧に……って……マーチン?」


 さっきも同じ会話を誰かとしたなと思い返したメルは、そこでやっと気が付いた。


「あの……さっきのアンバーさんとは、ご兄妹で……?」

「……同じ男の種を得て同じ女の腹から生まれたものを兄妹と形容しなければならないのでしたらそういうことになりますね。甚だ不本意で舌を噛みたくなりますが」

「すごいこと言うなあんた」

「恐れ入ります」


 褒めてない。

 まあガッカリの身内にはいろいろとあるのだろう、とそれ以上の追求は止めたメルだがしかし、ということはシェンナは大臣の娘なわけだ。いくら王子のとはいえ、メイドの形をさせて傍仕えにするにはいささか身分が高すぎるのではないか。嫁候補とかならわかるが。


(まあ、俺に王宮のことはよくわからないからな……そういうこともあんのかもしれないけど)


 首を捻りながら赤い絨毯の敷かれた廊下を歩むことしばし、白く塗られた金縁あるの扉の前でシェンナはぴたりと足を止めた。装飾と同じ金の取っ手を捻り、先にメルを中へ入れる。


「こちらがメリルローズ様のお部屋になります。少々手狭ですが、おくつろぎいただけるよう整えたつもりです」

「手狭……って……」


 ふかりとした濃い茶の絨毯のしかれた部屋は、およそメルの住んでいた家と同じ位の広さがあった。居間なのだろうこの部屋は茶を基調としたしっくりと落ち着いた風情だが、小花柄のソファーと揃いのカーテンが愛らしい。どうやら二間あるらしく、内扉をくぐった先はこれまた父の営む仕立て屋と同じ位の広さの寝室だった。中央にでんと置かれているのはレースと絹が二重に襞を作る天蓋付きのベッドだ。メルは半ば呆れた気持ちで、大人が五人は眠れそうな広いベッドに歩み寄る。


「かえって眠れなくなりそうなベッドだな……」


 言いつつも、伸ばした手に触れるシーツのさらりとした心地に、メルは唐突に眠気を思い出した。出生の秘密を知り女にされて早五日、内半分は馬車の中だったのだから、疲れていて当然だ。肉体的にも精神的にも。


「案内してくれてありがとう、シェンナさん。じゃあ、俺、今日はもう寝るから」


 戸口に控えるシェンナを振り返り、欠伸をかみ殺しながら言う。するとシェンナは事務的な口調に呆れたような響きを含ませてこう返した。


「何を言ってらっしゃるんですか、寝る前に入浴です。この部屋は浴室も備えておりますから。そちらの奥です。行きましょう」

「はい?」

「お手伝いしますから、さあ、どうぞ」

「え? ちょ、お手伝いって、ちょっと待っておい、脱ぐ、自分で脱ぐから! マジでやめてそれはあの、ぎゃああああ!」


 ずかずかと歩みより、ぽかんとしたメルを寝室の脇にあった脱衣所に押し込めたシェンナは、メルの着ていた何の特徴もないシャツとズボン、あげくの果てに下着までもを細腕に似合わぬ怪力で強引に剥ぎ取った。その上、剥いだ下着をじっと見つめてぽつりと呟く。


「気持ちはわかりますが、服はともかく下着はきちんと女性のものを着けた方がよろしいですよ、メリルローズ様。男性と女性では防御する場所が違いますから」

「防御ってなんだよ……ううっ……もう婿にいけない……」


 すっかり剥かれた体を腕で隠しつつ、半泣きでうな垂れるメルに、シェンナは慈悲の欠片もなく言った。


「大丈夫です、嫁にはいけてます。さあ、お湯は張っておきましたから、お入りください。お背中を流します」

「えっ!? いやほんといいです大丈夫です自分で出来ますから! うわぁぁああ! たすけてお母さん!!」


 叫ぶ声にも頓着せず、全裸のメルを強引に浴室に連れ込んだシェンナは抵抗をものをもせずに全身を丁寧に洗い上げたのち、放心したメルを浴槽に投げ込んで部屋に戻って行った。





 ぴちょん、と髪先から落ちた雫が浴槽に落ちた音で、メルははっと我に返った。


「…………っ、やばい、遠くに行ってた……」


 頭を振って水気を飛ばし、つるつるとした浴槽に斜めにもたれる。久しぶりに清潔になった体は驚くほど軽く感じられ、そういう意味では気分がよかったが、精神面では短い時間でずいぶん汚されてしまった気がする。


「はあ……」


 複雑な気分でため息をついたメルは、無意識に湯の中で膝を抱えた。


 ――むにゅり。


 胸に接した膝に、どうにも形容しがたい感触のものが当たる。おそるおそる透明な湯の中を見下ろしたメルはしばらく固まったのち、すうはあと息を整えてから気合いを入れた。


「――……よし!」


 自分を鼓舞するように拳を握り、ざばりと浴槽から立ち上がる。そのままずんずんと勇ましい足取りで浴室を出て脱衣所に向かったメルは、そこにある大きな鏡の前で立ち止まって仁王立ちになり、一旦は瞼を伏せた。数拍の間の後、意を決してかっと目を見開く。


 鏡に映っていたのはほっそりとした、あどけない風情の少女だった。

 胸元までの金髪と目尻の吊った勝気そうな緑の瞳は男の時と同じだが、丸みを帯びた輪郭のせいかずいぶん目が大きく見える。細い手足は女の割には柔らかみが少なく筋肉質で、これは鍛えていたせいだろう。肉の薄い胸元はそれでも男ではありえない柔らかな膨らみを持ち、それはゆるやかな曲線を描く腹から腰にかけても同じことだった。

 思ったよりは色気がないが、そこにあったのは紛れもない、年頃の少女の裸だった。


「……な、なかなか、可愛いじゃないか、俺。うん。はは……は……」


 数度空笑いをしたのち、メルは糸が切れたように裸のまま床にしゃがみ込んだ。


「初めてみた女の子の裸が自分かぁ……人生ってわかんないもんだよなぁ……」


 しょっぱい呟きに目頭が熱くなる。

 気配を察したシェンナがタオルを持って脱衣所の扉を開けるまで、メルは何とも形容しがたい気持ちで静かに肩を震わせていた。





 なるほど女というのは面倒くさいものらしい。

 髪をとかされ香油を塗られ、顔と体に水やらクリームやらを塗られ、手足の爪を整えられて、髪が乾くころにはメルはすっかり全身をすべすべに、いい匂いにされていた。


 手伝いを固辞して夜着に自分で袖を通しながら、メルは深々と息をついた。一時間はかかったのではないかという諸々の手入れにすっかり疲れ果てていたのだ。


 用意された夜着は有難いことにネグリジェではなく、丸い襟の前開きの上衣と腰紐のついたズボンという簡素なものだった。やけにゆったりとした夜着は今の体に対しては大きすぎるような気はしたものの、清潔なそれを纏ってメルはようやくほっとした。感情的には二波乱ほどあったものの体はさっぱりしたし、ともあれこれでやっと眠れるのだ。


「じゃあ、何から何まで隅から隅までご丁寧にありがとう、シェンナさん」

「シェンナとお呼びください、メリルローズ様」


 若干の嫌味を込めた礼にもびくともしない。

 皮肉は諦めて、メルは素直に謝辞だけを伝えることにした。


「……ありがとう、シェンナ。よく眠れそうだよ」

「寝る? 何をおっしゃってるんですか? まだ仕事は残ってますよ」

「へ?」


 きょとんと瞬くメルの腕を引き、説明もなしに部屋の外へ連れ出したシェンナは階段を一つ上がると、メルに与えられた部屋と同じ仕様の扉の前で立ち止まり、コンコンと控えめなノックをした。間を置かず、どうぞ、と明るい声で返事が返る。


「アリス様。メリルローズ様をお連れしました」

「うん、ありがとう。疲れてるところ悪いな、メリルローズ」

「はあ……?」


 扉を開いたアリステアも風呂に入ったのだろう、濡れて色を濃くした銀色の髪を背中に垂らし、メルと同じ作りの夜着を纏っていた。こちらは大きさが合っている。どうやらお揃いらしい。そういう風習なのだろうか、王家は。


「では、私はこれで失礼します。おやすみなさいませ」

「うん、おやすみ。また明日な」


 頭を下げて扉を閉めるシェンナを手を振って見送ったアリステアは、残されてぼけっと立ち尽くすメルの手を取り、内扉の奥へ誘った。


「さて、じゃあ、さっそくだけどこっちへ行こう。ずっと座っていたから腰も痛いしな」

「は、あ? って、え……っと? あの、その……?」


 アリステアの部屋は、メルに与えられたものと同じ作りのようだった。ということは、内扉の奥は、もしや。


「私はどこでも寝れるのが特技なんだが、やはり横にならないと眠った気はしないな。君は枕が代わっても平気な方か?」


 どうでもいい話をしながら、アリステアはでかいベッドの淵にメルを座らせ、自分はそのまま中央まで乗り上げて胡坐をかいた。子供のような仕草である。だが、次に放った彼の一言はメルを恐怖の底へ叩き落した。


「せっかく夫婦になったんだし、今日くらい一緒に寝よう。兄上には内緒だぞ」

「…………え……っと……その……」

「ん?」

「………………で、す……」

「? 何だ? 聞こえない」

「ひっ!!」


 ずい、と顔を近づけられ、メルはベッドの端まで飛びのいた。


「メリルローズ?」


 きょとんとした顔でシーツに手をつくアリステアの顔はあくまで無邪気だ。だがしかし、メルにはそれがかえって恐怖である。たしかに自分たちは誓約を交わした夫婦で、アリステアは夫で、メルは妻であり、ということはこういう展開もあって然りだ。だがメルはそこまで思い当たっていなかった。想像もしなかった。だって。


 自分の鈍さに絶望しつつ、近付いてくるアリステアに大きく肩を震わせたメルは、手近にあった枕を盾のように構えて半泣きで叫ぶ。


「む、む、無理です!」

「……無理? なぜ?」

「だ、だって、だって俺、男ですよ!? お、おと、男と初夜とかほんっとうに無理です!!」

「しょや……?????」


 なにそれおいしいの?

 と言わんばかりにきょとんと目を瞠り首を傾げたアリステアは、追い詰められたメルの表情を見てようやく意味を悟ったのか、かっと頬を赤く染めた。


「っち、違う違う違う! 一緒に寝ようってそういう意味じゃない!! ただ単に並んで眠ろうって、その、お泊り会的な意味だ!!」

「お……お泊り会……?」

「そう、シェンナとはよく……って、違うな、これは誤解を招く。と、とにかく、私が君にその、何かをするとかそういうつもりはないから。……すまない、どうにも自覚が甘くて」

「……はあ……?」


 早口でまくし立てる言葉の意味はよくわからないが、慌てふためく様子を見るに、アリステアもメルとあれこれするつもりは微塵もなかったらしい。

 ほっとして警戒を解き枕を下ろしたメルに、アリステアは赤くなった頬のまま、照れ隠しのように頭をかいて笑った。


「とにかく、私は君と仲良くなりたいんだ。君の嫌がることはしないと約束するから、そうだな、まずは……友達になってくれないか?」

「は、い……」

 差し出された手をおずおずと握り返すと、アリステアは嬉しそうに笑った。





「私は生まれた時から体が弱くてな。だからずっとレグホーンの……母上の実家でもある隣国の田舎で療養してたんだ。この国に戻って、まだ一月も経ってない」

「そうだったんですか」


 広いベッドに並んで寝転がった後、アリステアはぽつぽつと話を始めた。


「体はもう大丈夫なんですか?」


 色も白く体も細いが、アリステアに虚弱な様子は特にない。だからその経歴は意外だった。

 瞬いてたずねるメルに、アリステアは少し困ったような微笑みを浮かべ、うん、と頷いた。


「一月前に、兄上がシアを連れてきてね。シアの魔法のおかげで、すっかり」

「へえ……いたずらだけじゃないんですね、あのガキ……じゃない、シア様の魔法は」


 メルの言葉に、アリステアは彼にしては珍しく苦笑じみた表情を作った。


「ああ。シアは凄腕の魔法使いだよ。よっぽどユニの気に入りなんだろうな。神が人間を眷属にするなんて、そうあることではないらしいから」

「ふうん……」


 神だの魔法だののことはよくわからないが、そういうものらしい。

 メルの生返事に気付いたのか、アリステアは話を戻した。


「とにかく、そんなわけで、私もまだ王宮のことはほとんど知らないんだ。この一月も貴族たちに対する顔見せだけで終わってしまったしな。……今は父上が具合を悪くして療養中で、母上もそれに付き添って王宮を離れているしで、兄上は忙しいんだ。でも私一人でうろうろすると心配するし、シェンナとは噂が立つから駄目だというし。だから、明日は一緒に王宮を探索しよう。君と一緒ならいいと兄上が言っていた」

「あのブラコン、じゃなくてチンピラ、じゃなくて、兄上が、ですか?」

「うん。君の噂を聞きつけて私の妻にすると決めたのも兄上だったし、兄上は君をずいぶん買ってるみたいだ」

「はあ……?」


 よくわからないが、そんなようなことを馬車で言っていた気もする。

 まあ、当てにされるというのは悪い気持ちでもない。王宮内とはいえ、貴人の護衛というのは割と心の躍る任務である。


(姫なら言うことないけど、王子でも悪くはないか)


 思いながら、メルはよいしょと身を起こし、寝そべるアリステアに初めて自分から手を差し出した。


「メリルローズ?」

「俺のことはメルと呼んでください。愛称ってことにすれば大丈夫でしょう? 出来れば本名で呼んでほしいんです。友達、ですし」

「……うん。わかった、メル。じゃあ、私からもお願いしていいかな」

「何ですか?」


 メルに合わせて起き上がったアリステアは、青い瞳をいたずらっぽく細めて言った。


「私のことはアリスと呼んでくれ。親しい人はそう呼ぶんだ」

「わかりました。……では、アリス。これからよろしくお願いします」

「うん。こちらこそ、メル」


 呼び合って、握手を交わす。

 アリステアは――アリスは、にっこりと大きく、今までで一番嬉しそうに笑った。


 それから先はとりとめもない会話を交わし、やがて、どちらともなく眠りに落ちた。




□□□


「――やれやれ、やっと眠ったみたいだね。間に合わないかと冷や冷やしたよ」


 宙に浮いた薄い水膜に映る青年と少女の寝姿を眺め、小さな魔法使いは芝居がかった調子で肩を竦めた。


「ネタばらしにはまだ早いからな。ま、とりあえずは仲良くなったみたいで何よりだ。いがみあってちゃ始まらねぇからな」


 水面のように波紋を描く〈水鏡〉を横目で見つつ、エリアルは留守にした隙に溜まっていた書類をさばく。留守居のアンバーはやはり何の役にも立たなかった。両親の隔離を頼んだハゲ親父の方を手元に残すべきだったかもしれない。


「冷静だね。こういう光景を見たら殿下は発狂するかと思ったけど」

「人が悪いな、シア殿。おもしろがるなよ。たしかに腸は煮えくりかえりそうだが、これもアリスのためだ。こらえるくらいの分別はあるさ」


 ペンを置き、椅子にもたれて伸びをするエリアルに、シアはくつくつと笑う。


「君も難儀な役目だねえ。したくもない縁結びに奔走しなきゃならないなんて」

「お兄ちゃんってのは損な役回りだよな、ほんと。誰かを守るってのは楽じゃねぇよ」


 子供の姿をした魔法使いのからかいを受け流し、肘掛に頬杖をついたエリアルの視線の先で、眠る二人の姿がゆらりとぶれる。同時に、それを映す<水鏡>がぱしゃんと爆ぜて、すぐにただの水に還った。水滴がぱっと部屋に降り注ぐ。――すべての魔法の解ける時、『神の眠る時ロードロス』の刻限だ。


 眠いはずだと行儀悪く欠伸をして、落ちかかる雫を払いながら、エリアルは誰にともなく呟いた。


「気は進まねぇけど、仕方ないさ。――〝騎士さま〟には絶対に、アリスに恋をしてもらわなきゃならないんだからな」

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