1章 メリルローズ誕生秘話
騎士になる。物心ついた時にはすでに、それがメルの夢だった。
今は村でハサミを握り仕立て屋を営んでいる父だが、若い頃は王都で騎士団に所属していたらしい。幼いメルが物置で見つけた立派な剣を手に問い詰めると、父は村の人には秘密だぞと言いながらも、どこか誇らしげにそう教えてくれた。きっとそれが、メルが騎士を目指すきっかけだった。
剣を譲り受けたメルは、それから毎日欠かさず稽古を行った。同じく騎士に憧れる友人と共に、母の目を盗んで父にこっそりと稽古をつけてもらい、十五を越える頃には父からも一本取れるまでに腕を上げた。
そして三日前。
入団試験を受けられる十七になったメルは、ついに両親に温めていた夢を打ち明けた。
「母さん、俺、王都へ行く。騎士になりたいんだ」
「えっメル騎士になりたかったの!? 強くなりたいだけって言ってたじゃん!」
「店を手伝えないのは悪いけど、試験に受かったら仕送りもするから許してくれ、母さん」
「父さんは!? 父さんには聞かないのかい、メル!?」
騒ぐ父は無視して、メルと同じ、明るい緑色の瞳を丸く見開いた母の顔をまっすぐに見つめて頼む。活発で明るい性格ながら、母は何故か目立つことを好まず、人の多い場所を嫌い、小さな村でひっそりと暮らすことを望んでいた。メルがいつかお嫁さんをもらって一緒にお店をやるのが楽しみ、と常々語っていた母はきっと、メルが村を出ることに反対する。そう思ったから、剣の稽古も夢の話も、母には秘密にしていた。けれど時は来た。ここで反対されても諦めるつもりはないが、やはり、出来ればわかってほしかった。
だが、驚いた顔をした後で、母は悲しげに、ゆるゆると首を振った。
「……メル。それは、だめよ」
「何でだよ? 母さんには秘密にしてたけど、俺、剣の稽古は毎日してた。今じゃ親父にだって負けないくらいの腕はあるし、試験だって受かる自信はある」
「そうじゃなくて。……あなたが稽古をしてるのは知ってたわ。だから言えなかった。母さんだって、あなたの夢は応援してあげたい。でも、だめなの」
「だから何で――」
「その話は俺がするよ、ローズ」
「シェル……」
口を開きかけた母の肩に手を置いて、珍しく真面目な顔をした父は、珍しく真面目な声で、メルの想像もしなかった二人の過去を語った。
「父さんは、昔……メルよりちょっと年上ぐらいの時かな、騎士になった。それは話したよな」
「……ああ」
テーブルの対面に座った父は、指を組んで考えるようにしながらぽつりと言った。
「母さんと出会ったのはその頃だ。父さんは城で開催された園遊会の警備の任務についてた。そこに暴漢が現われたんだ」
「つまり……その暴漢が母さんだったのか!?」
「ちょっと、なんでそうなるのよ、メル。母さんのどこが暴漢なのよ」
茶を運んできた母はメルの頭を軽く叩くと、自分も父の隣に座った。
「いや、罪人の子だから王都に行っちゃいけないのかと……」
王都の前には関所があり、罪人は門をくぐることを制限される。子供まで累が及ぶことは少ないだろうが、可能性もなくはない。
頭をさすりながら呟いたメルの言葉に、両親は困ったように顔を見合わせた。
「――そうだな。ある意味、そう言える。俺は、罪を犯した」
「そういう言い方はやめて、シェル。連れていってくれなきゃ死んでやるってあなたを脅したのは私よ」
「君こそそういう言い方はやめろよ、ローズ。君を連れて逃げるって決めたのは俺で、強制されたわけじゃ――」
「……よくわかんねえけど、のろけてるのか? 親父と母さんは」
いい年をして仲がいいのは結構なことだが、聞きたいのは話の続きである。
半眼で続きを促した息子に、両親は照れたように顔を赤くした。ごまかすように咳払いをひとつして、父は逸れた話を元に戻した。
「その暴漢に、母さんが襲われた。それを父さんが助けたんだ。それがきっかけで、父さんは母さん付きの騎士に任命された」
「ああ、そうだったのか……って、え? 母さん『付き』……?」
暴漢の正体が母でなくてほっとしたのもつかの間、思ってもみない単語が飛び出した。
疑問に瞬くメルに、父はああ、と頷いた。
「現国王で在らせられるアレックス・ルース・フォルベイン陛下の異母妹――ローズマリー・レイト・フォルベイン姫の騎士に、な」
「………………は?」
意味がわからず、ぽかんと首を傾げたメルに、目を伏せた母が言う。
「……私たちは、ほどなく恋に落ちた。でも、当然ながら、お父様にもお母様にも反対されたわ。諦めろと言わんばかりに私の結婚が決まって、シェルは騎士団を除隊させられた。だから、私が頼んだの。私を連れて逃げて、って」
「アレックス様だけは、俺たちに協力してくれた。その甲斐あって追手にも捕まらずにこうして平穏に暮らせているわけだ」
「でも、やっぱり、私たちがしたことは、罪よね。お兄様は認めて下さっているけれど、その事実は変わらないわ。……お父様もお母様も今は隠居して地方の城にいらっしゃるそうだけど、まだしぶとくお元気みたいだし、私たちを許すつもりもないみたい」
「ローズ……その言い方はちょっと……」
苦笑して母の物騒な発言をいさめた父は、唖然としたメルを向き直ると、神妙な顔で頭を下げた。母もそれに倣う。
「そういうわけなんだ。――本当にすまない。俺たちの子供である以上、お前はこの国で騎士にはなれない」
「……ごめんなさい、メル」
両親に揃って頭を下げられ、メルは呆然としたまま席を立った。
「メル!」
呼び止める両親の声も耳に入らず、メルは無言のままに家を出た。
ふらふらと歩むメルが行き着いた先は、村の背後に広がる森の中にある、小さな泉だった。
小さいが深いこの泉には、フォルベインの土地が生んだ神、ユニの化身たる精霊が棲んでいる。おかげでメイズ村には地下から湧き出る潤沢な水資源があり、草もよく繁り家畜も健やかに育つ。精霊に守護された、小さいながら豊かな村だった。
「……わけわかんねえよ」
高い木立に囲まれた、誰もいない静かな泉の淵に膝を抱えて座ったメルは、ようやくぽつりと呟いた。怒りも悲しみも浮かばないほど、途方に暮れている。
母が王女で、父はそれを攫って逃げた元騎士で、なんて、とんだサーガが身近にあったものだ。逃げた二人は今も小さな村で平凡だが幸せに暮らしている。結末も完璧だ。……彼らにとっては。
「でも、俺は……駄目なんだな」
いつか、騎士だったと誇らしげに告げた父が、ずっと羨ましかった。いつも母の尻に敷かれている父が格好よく見えた、最初で最後の瞬間だった。
(……十七年、だぞ。俺が騎士になりたいと思ってから)
――いや、さすがに生まれてすぐ思ったわけじゃないからそれは盛りすぎかもしれないが。
とにかく、少なくとも十年以上、メルは騎士になりたいと思ってきた。なろうと思い、努力もしてきた。でも、それは全て、無意味だったのだ。抱いてきた夢は、あまりにもあっけなく潰えてしまった。
ただ、メルが彼らの元に生まれたというだけで――メルのせいではない理由で。
遣り切れない気持ちで繁った草の上に背中を倒すと、木立の一本が目に留まった。傷の多くついたその木は、メルの一人稽古の相手だった。家の手伝いで、森に薪やら染料の元となる花やら草やらを取りに来るついでに、メルはいつもこの泉で、この木を相手に打ち込みの練習をしていた。泉の傍はいつでもしんと冷えていて、清涼な空気が心地よく、体の声が聞こえるようで集中できた。時折、空気を読まずに茶々を入れてくるじじいが鬱陶しいと感じる時もあったが、じじいのおかげで心地よい泉なのだと思えば我慢もできた。
様々な思い出が頭を過ぎり、目尻にじわりと熱い雫が浮かぶ。
「――ああ、もう! なんなんだよ、くそ!」
怒りなのか悲しみなのかわからない気持ちで、メルは叫んだ。浮いた涙をごしごしと服の袖で擦る。
(泣いてどうする。かっこわりい)
止めようとしても、涙は滲むように沸いて出る。どうにも涙腺が弱いのは、男として克服しなければならない短所だ。すぐ泣く騎士なんて格好がつかない。ああ、でも、もう騎士になんてなれないんだから、いいのか。そう思えば、ますます泣ける。
「――なんじゃ、どうした、坊主。泣いとるのか? また振られたんか?」
「振られてねえよ! 振られて泣いたことなんかねえよ! 二回ぐらいしか!」
がばりと体を起こしてとっさに反論したメルに、やはり空気を読まずに現われたじじいは大げさに肩を竦めた。
「おお、こわいこわい。年寄り相手に声を荒げるでないわ」
泉の上にぷかりと浮き出たじじいは、長い髭をふかふか動かし、枯れ木のような外見に反して張りのある声で笑った。
この空気を読まないじじいは水の神たるユニの化身であり、この泉に棲む精霊だ。
通常、精霊の声を聞くことができるのは修練を積んだ神官だけだが、何故かメルには幼い頃からこの精霊の声が聞こえ、姿も見え、あげくの果てに会話もできた。
初めて泉を訪れた際、両親に「変なじじいがいるね」と伝えたところ、「精霊が見えるなんてメルは神官の素質があるのねー」「すごいなーでも皆には秘密にしとこうなーじゃないとシルバの弟子にさせられるぞー」と脅されたため、彼ら以外の誰にも言ってはいないが、今にして思えばそれは、メルが自分の出自に感付かないようにするための嘘だったわけだ。
――フォルベイン王家の始祖は、三百年前、生まれたばかりのユニを見つけ育んだ神官の一族だ。だから王家の血を引く人間には、神と交信する能力が生まれつき備わっているんだよ。
両親から神官の素質云々の説明を受けていたメルは、神殿でシルバが行う授業でそれを学んだ際も「へー俺王族みたいじゃんすげーかっこいー」と軽く思うだけだったのだが、まさかそれが真実だったとは。自分の素直さと鈍さを呪う。
怒鳴ったおかげで涙は止まったが、両親の話が真実である証拠のようにくっきりと目に映る精霊に、メルの心は尚更重くなる。
濡れた目を拭い、湿った息を吐いたメルに、精霊は訳知り顔で指を立てて言った。
「そう落ち込むな。よいか、坊主。お主は見た目だけならまずまずイケておる。振られるのはおそらく開けっぴろげすぎて深みが無いからじゃ。若い娘は単純明快な小僧より悪ぶっている格好付けを好むもの、思い切って盗んだ荷馬車で走り出すちょい悪路線を目指してみたらどうじゃ? 年を取った後は『俺も昔はやんちゃをしたものさ……』と語れるし一石二鳥じゃ」
「だから振られてねえよ、精霊が若人に悪路線すすめんな! 俺は清く正しく生きるんだよ、だって騎士に――……」
――ああ、そうだ、俺は騎士にはなれないんだった。
あっという間に忘れる自分が恨めしい。おかげで何度も思い知らされる。
言葉の途中で黙りこんだメルに、精霊はふぉっふぉっふぉ、と声を上げて笑った。
「お主は二言目にはそればかりじゃな。色恋に現を抜かすのはまだ早かろうて。今日も鍛錬に来たのじゃろう?」
「……いや。もう、修行はしない。剣は止める」
どうせ騎士にはなれないのなら、続けても意味はない。
地面を睨むようにして言うメルに、精霊ははて、と不思議そうに首を傾げた。
「だったら何で剣を持っておるんじゃ?」
「……っ!?」
腰元を示され、メルはそこで初めて、自分が腰のベルトに剣を差していることに気がついた。
(……呆然としてたのに)
メルはあの状態でも、玄関先の壺に隠してある剣を律儀に腰に差していたらしい。無意識に――いつもの通りに。
そう思った瞬間、かっと頭に血が上った。
ガチャガチャと乱暴に止め具を外し、鞘ごとベルトから引っこ抜く。無言のまま立ち上がったメルは、騎士を目指すきっかけを作った剣を、静かな水面に叩き付けるように投げ込んだ。バシャンと派手にしぶきが上がる。
「……この剣は、こうするために持ってきたんだよ」
吐き捨てるメルを驚いたように見つめた精霊は、しばしの間の後、ふう、と呆れたように息をついた。すると、一度沈んだ剣が、不自然に波立った水面に浮き上がってきた。
「一時の感情に振り回されるでないわ、坊主。後悔するぞ。第一、泉にものを投げ入れるなどけしからん――……と、そうじゃった、忘れるところじゃった」
足元まで運び寄せた剣を拾おうと曲がった腰を更に屈めた精霊は、そこでぴたりと動きを止めた。そのままううむ、と唸る。
「……じいさん? ぎっくり腰か?」
飄々としているばかりの精霊が初めて見せた困ったような顔に、つい心配になったメルはおずおずと声をかけた。やっと剣を拾い上げた精霊は、髭を撫でながら言いにくそうに続ける。
「いや、そのな。ちょっと頼まれごとをしておったのを思い出してなぁ。ううむ、お主も何やら傷心のようじゃし、わしもそんなに無体なことはしたくないんじゃが……仕方ないのう。じいさん、かわい子ちゃんには弱いからのう」
「何言ってんだじじい」
元の調子に戻った精霊は、ふぉっふぉっふぉ、とまた笑った。拾い上げた剣をメルに投げ渡しながら言う。
「その調子なら大丈夫そうじゃの。とりあえずこれは返しておくわい。よい剣じゃ、大事にせいよ」
「……? ああ……?」
うっかり素直に受け取ったメルに、精霊はうむ、と頷いて大きく息を吸った。
「さて、では始めるぞ。……うぉっふぉん!」
仕切りなおすように咳払いをした途端、精霊を中心に水面が大きく波立った。強く弱く緩急をつけながら、妙におどろおどろしくさざめく水面と宙に舞う美しい髭を呆然と眺めるメルに、精霊は初めて聞く厳しい声で叫んだ。
「水の神ユニの化身たる精霊の泉に血に濡れた鉄塊を投げ入れるとは――……神をも恐れぬ所業の報い、とくとその身に受けるがよい!」
「うわ――……ッ!?」
声と同時に高く昇った水がメルの体にざばんと降りそそいだ。
「………………、げほ」
わけがわからない。ただ冷たい。
ぽたぽたと雫を垂らし立ち尽くすメルに、元の通り飄々とした声音に戻った精霊は、一抹の後ろめたさを含ませた調子で言った。
「と、まあ、理由立てはこういうことにしておくぞ。ポイ捨てはダメ、絶対、じゃ! ……悪く思うなよ、坊主。お主ならきっとこの呪いも乗り切れる。では、達者でな」
早口でそれだけ告げた精霊は、そそくさと泉の奥へ消えた。
「な、なんだったんだ……? おい、じじい! 今のはなんだ!? 呪いって!?」
しばらくぽかんとしていたメルだが、ようやく精霊が何かしたらしいことに気付き、泉を覗き込むようにして叫んだ。だが、水面は先ほどの波が嘘のようにしんと静かなまま、なんの答えもない。緑色の吊り目を不審そうに瞬かせ、首で一つに束ねた金髪から雫を落とすずぶ濡れの若い男が――メルが映っているだけだ。
「……なんなんだよ、じじい……――へっくし!」
全身が濡れているせいで、さわやかなはずの初夏の風すらひどく冷たく感じる。
ぶるりと体を震わせたメルは、怒ればいいのか悲しめばいいのかすらもよくわからず、もう一度小さくくしゃみをした。
「へくしっ」
しばらく粘ったが、体が乾き始めるだけの時間が経っても無反応な精霊に痺れを切らし、メルは泉を後にした。じじいが意味不明なのは今に始まったことではない。
ひどく疲れた心地でとぼとぼと森を歩き、村道に至ったメルは、道の先から大きく手を振る友人に気付いて足を止めた。
「おーい、メルー! やっと見つけた! どこ居たんだよ?」
「スノウ……」
メルの元へと走ってきたのは、肩までの明るい赤毛と薄茶の目を持つ少年だった。とはいえ彼もメルと同じ十七歳なのだが、少女じみた可愛らしい顔と小柄で華奢な体躯をしており、年より二つ三つは幼く見えるため少年と形容したくなる。彼はスノウといい、メルの家の斜向かいに住む羊飼いの息子だ。騎士を目指し共に修行をしてきたのも彼で、いわゆる幼なじみの間柄である。
メルを見上げたスノウは、息を切らしながら急くように言った。
「親父さんとお袋さんが捜してるぞ。親父さんに至っては『全部俺が悪いんだうわぁぁぁーーーーーーー!』とか叫びながら号泣してその辺を走り回っている! 正直うるさくて迷惑! 羊も怯えている! スグカエレ!」
「うっわぁ……」
泣き叫ぶ父が容易に想像できてしまい、メルはうんざりと呟いた。
そんなメルに、息を整えたスノウは丸い目をにんまり細めて、さては、と笑う。
「入団試験受けるの反対されたな? メルのこと大好きだもんなー親父さん。お袋さんのことも大好きだけど。でもま、がんばって説得しろよー。一緒に騎士になるんだもんな!」
「……その分だと、お前は許可をもらえたみたいだな」
「おう、うちは五人兄弟だからなー。食い扶持が減ってラッキーみたいな感じだったさ。ついでにお嬢様でも引っ掛けて逆玉にのれってさ。俺も乗れるなら乗りたい! だから王都に行ったらお前の顔でおっぱいのでかい女を釣ろうぜ! でも喋るなよ、バカがばれるから!」
「お前にだけは言われたくないな、それ……」
黙っていればそういう趣味の輩にもてそうな可憐な見た目に反して、スノウはメルの父に負けずとも劣らないアホであり、メイズ村三大ガッカリ人間の一人に数えられている。ちなみにもう一人は父で、残る一人はシルバである。
「……ま、女漁りはお前一人でやってくれ、スノウ。俺は王都はだめみたいだから」
「え? 何で? ちょっと反対されたくらいで諦めるなよ。『お父さんなんて大っ嫌い!』って泣き叫べばきっと親父さんだって許してくれるさ、たぶん二十倍ぐらい泣き叫ぶけど」
「俺は思春期の娘か……?」
アホだけあってスノウと話すと疲れる。ただでさえ精神的にも肉体的にも打ちのめされているのだ。森を出たあたりから、強い疲労感を感じている。うっすらと寒気もするし、鼓動も少し早い。風邪をひいたのかもしれない。
「あ、れ……?」
自覚したとたん、視界がぶれた。頭が上下に揺すられるような感覚の後で、足からがくりと力が抜ける。
「お、おい、メル!? どうした!?」
慌てたように差し出されたスノウの腕を掴めたのかもわからないまま、メルの意識は唐突に深い闇に沈んだ。
次に目を開いた時、メルは神殿のベッドの上にいた。
見慣れない天井に戸惑ったのもつかの間、ベッドの両脇に座ったスノウとシルバがものすごく近い位置で自分を覗き込んでいることに気付き、メルは起き抜けの体をびしりと硬直させた。
「……な、なに。何なんだ、スノウ、先生」
何となく声がおかしい。寝起きだからか、やはり風邪をひいたのだろうか。
尋ねても、普段はやかましいガッカリの双璧は今に限ってうんともすんとも言わない。ただじっと目を見開いて、おずおずと身を起こすメルの一挙手一投足を凝視している。
「ちょっと、こえーんだけど、何。ほんと何なんだ、お前ら」
「…………メル」
「な、何」
「……………………メル?」
「だ、だから何だよ!?」
左右から交互に聞かれ、メルは半ば怯えつつ叫んだ。
メルの叫びに、限界まで見開いていたはずの目を更に開いた二人は、黙って顔を見合わせた後で、同時にメルに飛びついた。
「メ、メ、メメメメ、メル———? ほんとに——————!?」
「うわははははは何メルなんでこんなんなっちゃったの!? あははは柔らかいやばいこれやばい、僕聖職者なのにあんまり触るとまずいんだけど柔らかい、あはははははやばい!!」
「うわちょっと先生ずるい俺にも触らしてまだ気付いてないうちにちょっとだけ!!」
「ちょ、な、なに、くすぐってぇやめろ気持ち悪い!! 何なんだお前ら⁉︎」
何がなんだかわからないまま男二人にもみくちゃにされ、メルは全力で抵抗した。しかし、どうしたことか振り払えない。二人がかりとはいえ片方はチビで片方はモヤシである。痩せ気味で肉は薄いが、鍛えているメルが全力で抗えば逃れることは簡単なはずだ。なのに、どうしてこいつらはびくともしない?
混乱し動きを止めたメルの耳が、ばたばたと廊下を走るやかましい音を拾った。部屋の前で止まった荒い足音と共に、バタンと乱暴に扉が開く。
「先生、メルが倒れたって本当ですかぁぁァァって何してるんだ貴様らァァ!! そこにはみ出してる金髪はメルのか———!!」
「お、親父……!?」
ガッカリが三人勢ぞろいしてしまったようだ。
ものすごい勢いで距離を詰めた父がチビとモヤシをあっさり突き飛ばしてメルを救出する。しかし、今度は父がぽろりといってしまいそうなほどに大きく目を見開いた。
「メ、メル!? どうしたんだちょっと見ない隙にそんなに可愛くなって、まるで二十年前の母さんじゃないか———! 母さんは今でも綺麗だけどね———!」
「ぐえっ」
何故かのろけも交えつつ、今度は父がメルを抱き締めた。双璧と違い面白がる様子はないが、やはり父の力は強かった。苦しい。
「シェル、ちょっと離してあげて、苦しそうじゃない。……大丈夫? メル。何とも無い?」
「あ、ああ……」
問答無用で父をメルから剥がした母は、心配そうに瞳を震わせてメルの顔を覗き込み、そっと頭を抱き締める。ようやくほっと息をついたメルだったが、落ち着くにつれ疑問が胸に沸いてくる。どうして、数年前にとっくに背を追い抜かしたはずの母にメルは今、子供の頃のようにすっぽり抱き締められているのだろうか?
瞬いたメルは、そっと自分の手を持ち上げる。目に入ったそれは、細く小さく、華奢だった。まるでメルの手とは違うはずなのに豆も小さな傷跡も、何故か見慣れた位置にある。メルの意思に沿って動くらしい誰かの手で、ぺたりと顔に触れてみる。柔らかい頬。ゆっくりと手を下げる。細い首に、華奢な鎖骨に、そして胸に。
ふわむにゅり。
初めて味わう感触が、そこにはあった。
「……………………?????」
「いや、メル、それ絵的にちょっとアレだから。気持ちいいのはわかるけど、揉むのはやめよう、揉むのは」
落ちた眼鏡を掛け直しながら、シルバが珍しくまともな突っ込みを入れる。
あまりのことに静まり返った頭の中で、精霊の漏らした単語がうわんうわんと反響していた。
――呪い、とは、このことか。
「ま、謝るしかないんじゃないの?」
メルのはしょった説明を聞いたシルバは、さして考えもせずにそう言った。多少の神術は扱える神官であっても、力の源泉である神の化身のかけた呪いなど解けるはずはない。
だからその返答は順当ではあるものの、あまりに適当な態度に腹が立ち、メルは思わずシルバの眼鏡を割った。予備があったらしく困ってはいなかったが悲しんでいた。ざまあみろ。
ともあれ、精霊の呪いは精霊に解いてもらうしかない。
その結論に至り、メルは呪いをかけられてから三日目の今日まで、泉に通って精霊に呼びかけ続けている。
「おい、じじい」
「じいさん」
「おじいさん」
「おじいさま」
「おじさん」
「おじさま」
「……おにいさま?」
何と呼びかけても、泉はうんともすんとも言わない。
まだ人の起き出さない早朝から人々が夕餉を取るため家に戻る刻限まで、半日以上を費やして連日泉に呼びかけ続けたメルの心は、三日目の昼前、ついにぽきりと折れ曲がった。
(……もう嫌だ。もう疲れた。どうして俺はっかり、次から次へとこんな目に)
うな垂れた顔が水面に映り、メルは慌てて目を背けた。一瞬見えた可愛らしい少女が自分であるとはどうしても認められず、今でも直視できない。この三日、メルはろくに鏡も見ず風呂にも入らず、着替えは目を瞑ったまま、ごまかしのききそうな自分の服を着ていた。仕立て屋である家には女物の服もないではないが、とても着る気にはなれなかった。
「……でも、着てみるか。そうすれば色ボケじじいが釣れるかもしれないし」
ついに色仕掛けに踏み切ろうかとやけっぱちに考え始めたその時、木立の奥から「メル————!」とやかましい呼び声がした。スノウだ。
「たっ、大変だ、メル! とんでもないことになった!」
「……なんだよ、うるさいな」
息せき切ってかけつけたスノウに、メルは緩慢に振り返った。どうせ羊が脱走したとかメルの体がこうなったことで泣き続ける父が力むあまり脱肛したとかその程度のことであろう。今更、これ以上の悪事がメルの身の上に起こるとも思えない。
しかし、血相を変えたスノウがつっかえつっかえ発した言葉は、メルの予想をはるかに飛び越えるものだった。
「お、おまえ、おまえのことを聞きつけてきた、妙に身なりのいい連中がおまえ、おまえを、お前を……ッ、お前を愛人にするとか言ってるぞ!?」
「……………………はい?」
愛人なにそれおいしいの。
言葉の意味を掴みあぐね可愛らしく首を傾げたメルに、スノウはますます焦ったように言う。
「とっ、とにかく逃げろ! 先生が権力にあっさり屈してお前がここに居るってばらしちまったんだ! お前を愛人にしてあんなことやこんなことをするために坊ちゃんが今ここに……っ!!」
「それはちょっと人聞きが悪いな、少年」
「うおわぁッ!?」
草を踏む音と共にスノウの背後から現われたのは、襟の高い濃紺の上着に空色のマントを纏った、清涼な水のような印象の美しい青年だった。未だ愛人の意味を掴めずぽかんとするメルを泉の淵に見止めた彼は、くっきりとした目元に弧を描き、はは、と明るく笑う。
「なんだ、想像以上に可愛らしいな、メル・ターナー。……いや、その姿ではもう、メリルローズと呼ぶべきか」
「……メ、メリルローズって……? あんたは一体……」
「ああ、そうだ、そうだった。自己紹介は自分からするべきものだな。すまない」
棒立ちのスノウの横をすたすたと通り過ぎ、メルの元へ歩んだ青年は、メルの目線に合わせて地面に跪くと、にっこりと笑って告げた。
「私はアリステア。アリステア・フェルト・フォルベイン。今日は、君を迎えにここへ来た。メリルローズ、君に――私の〝妻〟となってもらうために」
「つ、ま……?」
妻ってなにそれおいしいの。
そう思う間もなく、許容量をあっさり超えた最悪の展開に、メルはすとんと気を失った。
□□□
それから先の展開は急だった。
目覚めると神殿に運ばれていたメルを待ち受けていたのは店先に飾ってあった花嫁衣裳と、アリステアの兄というやけに態度のでかい青年に萎縮したような両親。そしてエリアルと名乗った彼の、わかりやすい脅しの言葉だった。
「両親の事情は知ってるそうだから単刀直入に言うぜ。お前は今日からメリルローズと名を改め、アリスの――アリステアの妻となって王宮へ上がれ。拒むならローズとシェルを逃亡罪でしょっ引くぞ。さあ、どうする?」
かくして、悩む時間も与えられず首を縦に振る羽目になったメルとアリステアの婚儀が行われたのは、それから二時間も経たないうちだった。
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