王子殿下の愛妻騎士

三桁

序章

 この物語の全ては〝彼〟の一言から始まった。曰く。

「えっ何あの子、すげぇ俺の好みなんだけど!!」





 頭がかゆい。


 純白のドレスを痩身に纏い、ベールを背に垂らしたメルは、現実逃避のようにそう思った。


 ひぐ、としゃくりあげる声に隣を見れば、父がぼろぼろと涙と鼻水を落としていた。汚ねえなと視線を逸らした先、正面に立つ母は、少し寂しそうに微笑んでいる。


「まさかメルがうちのドレスを着てお嫁に行くなんて、母さん夢にも思ってなかったわ……」

「と、父さんだって、父さんだってぇ! メルに着せるために作ったドレスじゃないのに!」

「シェル、泣かないの。あなたがそんなに泣いてちゃ、メルだって困るわよ」


 ねえ? と微笑む母の目の淵にもきらりと涙が光る。


 その涙に、恨み言を飲み込んだメルはただ小さく嘆息した。両親に言いたいことはたくさんあるが、今更言っても仕方がないことばかりだと気付いたからだ。今更、この結婚は避けられない。ここでメルが逃げ出したら、両親の過去の罪が暴かれる。


「そろそろお時間ですよ、ターナーご夫妻、メ……リルローズ」


 眼鏡をかけた三十絡みの男が控え室の扉を静かに開いた。メイズ村唯一の神官、シルバだ。

 ドレスを纏ったメルを見た彼は、しばし沈黙した後、顔を背けて小刻みに肩を震わせた。


「い……いや、失礼。よ、よく似合って……ぶふっ」


 つかえつかえにそう言ったシルバは、眼鏡を持ち上げて浮かんだ涙を拭くと、大きく深呼吸をした後にさて、と仕切りなおすように言った。


「準備は整った。結婚式を始めよう、メ……リルローズ。アリステア王子殿下がお待ちだよ」

「うっ……うっ……と、父さん、父さんたちのせいで、メルが……っ」

「ほらほら、泣かない泣かない。さあ、メル。しゃがんで、ベールを下ろすわよ」

「…………うん」


 促されるまま膝を折り、ベールを顔の前に垂らしてもらう。顔を上げると、薄い布越しに、すまなそうに微笑む母と視線が合った。


「……きれいよ、メル。いいえ――今日からあなたは、メリルローズ、ね」


 涙に光る目元を拭い、母は言う。傍らの父は、それを聞いていっそう大きくしゃくり上げた。




 シルバに導かれ、泣き止まぬ父の腕を逆に引いたメルは、礼拝堂の重厚な扉をくぐった。


 小さな村に似合いの小ぢんまりとした礼拝堂はがらんとしており、観客の姿はない。ただ一人、一番前の席に、足を組んだ銀髪の男が反り返るようにして尊大な態度で座っている。彼は、ドレスの裾につんのめりながら深紅の絨毯を歩くメルを、にやにやと人の悪い笑みを浮かべて眺めていた。男の名前はエリアル。アリステア王子の兄だ。


 再奥の段上に至ったメルは、未だ涙に暮れる父の腕を離し、上に立つ一人の青年を睨むように見上げる。


 薄暗い礼拝堂の中、天井にある明かり取りの丸窓から差し込む一筋の陽光に照らされながら、青年はゆっくりとメルを振り返った。光を弾く銀色の長い髪が動きに伴いさらりと揺れる。すらりとした体躯、陶器のように艶やかな白い肌。特に印象深いのは、少しだけ目尻の吊った、くっきりと大きな深い青の瞳だった。


 メルを見下ろした彼は、美しい目元を和ませ嬉しげに微笑んだ。ゆっくりと手を伸べて、段上にメルを導く。一瞬ためらうが、邪気のない笑顔に促され、メルは白い手袋に包まれた自分のものとは思えない小さな手を、華奢で広い男の手の平にそっと委ねる。

 メルを引き寄せた彼は、自然な動きで下げられたばかりのベールを捲った。薄靄がかった視界が鮮明になり、微笑む彼の顔もはっきりと見えるようになる。


(……きれいな人だな)


 弧を描く薄い唇を見つめ、ぼんやりと思う。どうにも目の前の光景に現実味が感じられない。ここ数日の出来事全てが悪い夢ではないのかとまだ疑っている自分がいる。


「はいはい、それではここに、誓約の儀を。フォルベインの根源たる水の神・ユニの加護のもと、アリステア・フェルト・フォルベインと、メル……じゃなくて、メリルローズ・ターナー、両者の婚儀を取り行います」


 急ぎ段上に上ったシルバがまくし立てるように言う声に、メルははっと顔を上げた。実感は伴わずとも、現実はすぐそこまで迫ってきているのだ。今更ながら、じわじわと焦りが胸に沸いてくる。


(このままでいいのか……?)


 いいも悪いもない。お前が結婚を拒むならローズとシェルをしょっ引くぞ。エリアルはそう言った。メルに選択肢はない。けれど。でも。――ああ、頭がかゆい。当然だ。メルはこうなってから三日間風呂に入っていない。風呂に入りたい。でも確かめたくない。この現実を受け入れたくない。悪い夢だと思っていたい。


 焦りに思考を千千に乱すメルをよそに、シルバは粛々と式を進行させてゆく。


「では、まず誓いのくちづ」

「そんなのはいいから、さっさと済ませてくれ。誓約書に署名、それだけでいい。早くそいつ連れて城に帰りてぇんだよ、こっちは」


 シルバの進行を遮り、横柄に口を挟んだのはエリアルだった。


「兄上! それはメリルローズに失礼だ!」

「お前のために言ってるんだよ、アリス。お前の大事なファーストキスをこんな茶番で消費できるか。大体、そっちだって心の準備が出来てないだろ? なあ、メリルローズ?」

「……はあ」


 胡乱に返事を返す。心の準備など全てにおいて出来ていない。夢よ覚めろ。覚めてくれ。


「はいはい、ではこちらに署名を」


 文句も言わずにさっさと羊皮紙を示すシルバに、アリステアは兄を睨みつつも羽ペンを取り、あまり上手くはない、子供のような丸い字で署名を終えた。はい、とペンを手渡されたメルは、胡乱な目のまま上等な羊皮紙を見つめ、考える。


(どこで間違えたんだろう)


 あらゆる展開が急すぎて、とても理解が追いつかない。再び乱れる思考に動きを止めたメルを、アリステアが不思議そうに見ている。邪気のない澄んだ瞳。しかしメルが今、その目に感じるのは圧力だ。ペンを握る指が震える。ペン先から染み出したインクが紙にじわりと黒く広がる。アリステアはメルを見ている。メルは焦る。早く署名を。だが、この署名をしてしまえば、もう後には戻れない。メルはアリステアの妻となってしまう。妻。妻って。妻ってなに。焦りと混乱で、メルは思わず泣きそうになる。


「早くしろー、往生際が悪いぞー」

「兄上!」


 野次を飛ばすエリアルにびくりと肩を震わせたはずみで紙に線が一本引かれる。


(――ああ、もう。こうなりゃヤケだ!)


 引っかかるペン先も気にせず、メルは誓約書に殴り書きでこう記した。


 メリルローズ、と。




 そして婚儀は滞りなく終了する。


 夫、アリステア・フェルト・フォルベイン。

 妻、メリルローズ・ターナー。


 晴れてここに一組の夫婦が誕生した。


 未だ泣きじゃくる父と手を振る母、解放されたとばかりにメルを指差し心おきなく爆笑するシルバを後目に神殿を出たメルは、馬車を呼ぶエリアルを遠い目で見やりながら思う。


(……どうしてこうなった……)


 もう戻れない。メルはこの、傍らでこちらを見つめ、嬉しげに笑う美しい王子の〝妻〟となってしまったのだ。絶望がずんと胸に圧し掛かる。これから先の未来のことを考えるのが恐ろしく、逃避するように、メルは意識を過去に飛ばした。


 事の起こりは、たったの三日前。それまでメルは、自分は王都で騎士になるのだと信じていて、誰かの妻になるなんて思ってもみなかった。一生起こりえないことだと考えもしなかった。当然だ。


 三日前までは、メルの性別は確かに、男だったのだから。

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