6章 空の森

 十歳の誕生日を迎えたノアに、母は唐突に言った。


「そろそろ白状するけど、実はおまえ女の子なんだよね」

「えーなにそれ? 新手の冗談?」


 ははっと笑うノアに、母は同じく笑いながら、ぱたぱた手を振って続ける。


「いやほんとほんと。最初は誘拐対策とか思って男の子の服着せてたんだけどさ、お前すっかり自分が男の子だって思い込んじゃって。で、いっそどこまで気付かないか試してみようと思って黙ってたんだけどまさかここまで気付かないとは母さんもびっくりしたわー、自分の娘のバカさに。はいこれ」


 ぽいと渡された『図説・男の子と女の子』という本をじっと読み進め、みるみる顔を青くしたノアの肩をぽんと叩いた母は、こくりと重々しく頷いた。


「わかったか? だからまあこれからは女の子として清く正しく、若いメイド達にでれでれしないで生きていきなさい」


 顔は神妙だったが、声は笑いを噛み殺したように震えていた。


 あまりの衝撃に答えることの出来ないノアを置き去りにそそくさと部屋を去った母が、閉めた扉の向こうで大笑いする声が昼下がりの廊下に響く。


 しばらく呆然とそれを聞いていたノアは、やがて静かに立ち上がった。


 開いたままの窓をよいしょと乗り越え、裏庭の樹木の影になっている穴の開いた壁をくぐり抜け、屋敷の裏手に広がる森へと走る。向かう先は、森にあるお気に入りの隠れ家だ。もういい。もう何もかもどうでもいい。今のは聞かなかったことにしてあそこで一人で静かに暮らすんだ。子供の性別で遊ぶような人非人な母親のことなど忘れてかわいい女の子のことを考えて静かに余生を過ごそう。そうしよう。


 そう考えながら、半泣きでノアは走った。森へ入り、川岸にある小屋に向かう。森とは言っても、屋敷の裏手にあるここは赤薔薇家の私有地だった。森番もきちんと置かれ、定期的に手入れもされており、そんなに危険もない。だから、ここはノアの遊び場だった。さすがに一人で入ったのがバレると怒られるのだが、教師やメイドの説教から逃げるため、ノアはよく屋敷を抜け出して、一人でここに遊びに来ていた。


 川にかかった小さな石橋を渡ると目指す小屋が見えてきた。ようやく走る速度を緩めたノアは、はあ、と肩を落として上がった息を整える。と、伏せた目に、きらりと光る何かが映った。


(……動物? いや、あれは……)


 前方の水辺のあたりにそれはあった。目を凝らしたノアは、そこではっと気が付いて、弾かれたように川辺に駆け寄る。体を水に半分浸すようにして倒れていたのは、人間の、ノアと同じような年頃の、子供だった。


「だ、大丈夫!?」

「……っ、う……」


 傍らに跪き、うつ伏せだった頭を持ち上げる。露になった子供の顔に、ノアは呆然と動きを止めた。


 肩のあたりまである白金の髪は細く、土に汚れてなおきらきらと輝いている。伏せた瞼に生える睫毛は長い。なめらかな頬の線はまだ幼く、薄く開いた唇もあどけないが、通った鼻梁がまだ幼い彼女を少しだけ、大人びた風に見せていた。


(か……かわいい! ていうか、美人……!)


 目を閉じていてもわかる。倒れた少女は、ノアの好みにぴったりの、目を瞠るほどの美少女だった。


「……、う……」

「っ、そうだ、見とれてる場合じゃない。濡れてるし、とりあえず休めるところに運んであげないと……!」


 抱え上げようとしたが、少女はノアより少し背が高いようで、うまくいかない。


 歯がゆく思いながら、腕同士を組み合わせ、背後から引きずって歩く。なるべく衝撃が少なくなるよう気遣いながら、ノアは小屋に少女を運び入れた。




 川辺の小屋は、ノアの父が川釣りに凝っていた時に建てたものの三ヶ月で飽きたため、利用者のないまま放って置かれているという建物だ。一人になりたい時は、ノアはよくここに来ていた。知っているのはメイドのテールだけで、だからたまに彼女がベッドのシーツを替えたり掃除をしたりしてくれる。


 そのベッドに少女を寝かせ、ノアはさて、と考える。


 目を開かない少女には傷や打撲がいくつもあった。それにどうやら、熱もある。


 医者に見せてあげた方がいいのだろうが、ノアに彼女を屋敷まで運ぶだけの力はない。それに、屋敷には母が居る。この森は赤薔薇の私有地であり、許可なく入ったらそれだけで罰せられる場所だ。どういう理由で森に入り込んでしまったのか分からないが、気まぐれな母が少女にどういう処置を下すかは読めなかった。ということは、大人を呼ぶ前に、少女に事情を聞くのを先にしたほうがよさそうだ。


 ならとりあえず手当てを、と決めたノアだが、長期の滞在を想定していない小屋には薬も着替えも食料の備蓄もなかった。


「しょうがない、取りに戻るか」


 意識のない彼女を一人で置いていくのは心配だが、ひとまずそれらを取りにいって、手当をしよう。決めて、ノアは立ち上がる。


「ちょっと待っててね。すぐに戻ってくるから」


 熱い額にそっと手を置いて、苦しげな少女に声をかけてから、ノアは大急ぎで屋敷に戻った。人目につかないように薬と着替えと食料と毛布と、思いつくものを持てるだけ持って、急いで森の中を走る。目覚める前に戻ってあげないと、と焦りながら。


 息せき切って小屋に駆け戻ったノアは、木造りのドアを、少女を起こさないよう静かに開く。そして目を瞠った。


 正面にあるベッドの上には、半身を起こし、もぞもぞと服を脱ぐ少女の背中があった。濡れた服が気持ち悪かったのだろう。脱がせようかとも思ったのだが、着替えもないし女の子だしでやめたのだ。そこでノアははっとした。そうだ、この子は女の子だ。脱いでる姿をじっと見ている場合じゃない。


「あ、あの……っ」


 かけられた声にビクリと肩を揺らした少女が勢いよく振り返る。とっさに胸だけを隠した少女の下半身は露だ。目を覆おうとしたノアは、しかしぎしりと固まった。


「……お前が助けてくれたのか?」


 固まったノアとは裏腹に、半裸の少女は静かに聞いた。しかしノアは頷けない。さっき読んだ『図説・男の子と女の子』が頭を巡る。ああなるほど生で見るとよく分かるこれはたしかに自分は男じゃないやはは、とどこか冷静に思う自分も居るには居るが、しかし、ノアの口から出たのは狼狽しきった悲鳴じみた声だった。


「とととととりあえず隠せ! 上じゃなくて前を隠せ!」

「……前? って、え? お前、もしかして……?」


 きょとんとした少女――いや、少年は、顔を赤くして喚くノアに状況を把握したらしい。言うなりぼっと頬を染め、大慌てでベッドの上掛けをひっぺがしてくるまる。


「お、女なら、女らしい格好しろよ!」

「だだだだって僕だってさっきまで知らなかったんだもん!」

「は……? なに言ってんだお前? どういうこと?」

「じ……実は……」


 そして、少年の名もここへきた経緯もわからぬまま、何故かノアの方が先に自分の事情をくどくどと説明するという、よくわからない事態になった。




 ノアの説明を震えながら聞いた少年は、しまいには心置きなく爆笑した。


「そ、そんな、そんな笑うなよ! 傷つくだろ!」

「だって、いや、そうだよな。ごめん。でも……っ、悪い、おもしろい」

「笑うなってばー!」


 半泣きでむきになるノアに肩を震わせ、エルと名乗った少年は、自分で傷の手当てをする。器用な手つきを眺めつつ、口を尖らせたノアはエルに尋ねた。


「で、エルは? なんでこんなところに居るの?」

「川を下ってきたんだけど、さすがに途中で力つきて……ってか、ここどこだ?」

「赤薔薇の森だけど……川をって、エル、もしかして漁師の子? 見えないけど」

「いや違うけど。ていうか赤薔薇の森ってことはお前こそ、赤薔薇の……?」


 エルはなぜか顔を曇らせた。一方、ぺろりと出自を明かしてしまったノアは慌てる。


「うん、あ、いや、あんまり言っちゃいけないって言われてるんだけど! でもまあいっか、エルなら」

「何でだよ。おもいっきり得体が知れないだろ、俺?」

「だってエル子供じゃん。それにきれいだし。綺麗な子に悪い子はいないよ、うん」


 どこか試すように言うエルに自信たっぷりに答えると、たちまち呆れた顔をされる。


「どういう理屈だよ。それに綺麗って……俺が?」

「うん! もーほんと女の子みたいに綺麗だよね! ていうか女の子だと思った、だから服も脱がせなかったのに」

「女だと思ったからって……おかしいだろそれ。ノアは女の子だろ?」

「あ、そっか! そういえばそうだった! 忘れてた……!」


 しゅんと落ち込むノアに、エルは軽く吹き出した。


「あっという間に忘れちゃうんだな、ノアちゃんは」

「ノアちゃん……?」


 慣れない敬称をつけて呼ばれ、ノアはきょとんとした。


「女の子ならノアちゃんだろ。なあ、ノアちゃん」

「な、なんか、からかってない? バカにしてない?」


 いたずらっぽく笑うエルに、気恥ずかしくなったノアはもごもごと口ごもる。


「してないって。こう呼んでりゃ忘れないだろ? ……ま、でも、慣れる時間はないか。助けてくれてありがとな。今日……は無理だけど、明日になったら、俺、出て行くからさ。悪いけどそれまでは黙っててくれるか?」

「……エルは結局、どうして川を下ってたの?」


 やけに急いでいるらしいエルに再度問いかける。エルは淡々と答えた。


「逃げてるんだよ。俺は金である家に売られた子供で、そこから逃げてきたんだ」

「……いじめられて? 辛くて?」

「まあ……辛かったは辛かった、かな」


 翳った表情にそれ以上の詮索は止めたノアはしかし、エルの頼みに首を振った。


「そっか……。でも、だめだよ。このまま行くのは」

「……そりゃそうか」


 諦めたように息を吐いたエルに、ノアはうん、と頷いて続ける。


「だってエル怪我してるし、熱もあるんだよ? ちゃんとそれ全部治してからじゃないと、またすぐ倒れちゃうよ! この小屋、僕の隠れ家なんだ。ここの森番やる気なくてこのへんは遠目にしか見ないし、静かにしてればそうそうバレないから、好きに使っていいよ。ご飯とか薬とか、必要なものは僕が持ってくるし。だから、その……」

「……俺、お礼できるようなもの、何もないぜ? いいのか?」


 続く言葉がうまく言えず、尻すぼみになったノアの意を察してくれたらしい。エルはぽつりと言った。戸惑うような顔をしているエルに、ノアは勢い込んで頷く。そして、自分でも驚く提案をしてしまった。


「き、気になるなら、ノアちゃんっていっぱい呼んでよ。僕が……その、慣れるまで」

「……うん。じゃあ、しばらくノアちゃんの世話になる。でも、もし誰かに俺が見つかったら、こんな奴知らないってちゃんと言えよ」

「見つからないよ! だってここ、僕の隠れ家だもん!」


 心配そうなエルにえへんと胸を張って言い切る。

 エルはそんなノアを見て、ノアちゃん意味わかんねえ、と大きく笑った。


 その言葉や態度や表情は、目を閉じていた時の儚げな様子とは打って変わって、すっかり元気のいい少年のものだ。なのに、どうしてか、ノアはそれにがっかりはしなかった。ただ、少しだけ鼓動が早くなった。その時はまだ、理由はわからなかった。




 結論から言うと、エルを匿っていることは、テールにはすぐバレた。


 しかし、職務よりも倫理よりも己の好奇心に忠実に行動するメイドは、ノアに協力的だった。いちいち小屋についてきて、ノアとエルにちょっかいを出し、気まぐれに掃除などをしたりした。初対面ではテールのテンションに戸惑っていたようなエルだったが、すぐに二人は意気投合した。相性がよかったらしい。


 そして二週間ばかりが過ぎた頃、ノアは、自分がおかしいことに気が付いた。

 何てことない時に、鼓動が早くなったり頬が熱くなったりするのだ。


 例えば、じっとしてばかりではと連れ出したエルと、小屋の周囲を歩いている最中、木の根に蹴躓いたノアを、エルが支えてくれた瞬間に。ノアちゃんは危なっかしいな、と笑ったエルがそのままノアの手を引いて歩き出した時に。しまいには、ノアちゃん、と明るい声で呼ぶエルの笑顔を見ただけで、落ち着かなくてそわそわして逃げ出したいような、それでもずっとその笑顔を見ていたいような、今までに味わったことのない不思議な気持ちになるのだ。


「なんか僕、エルと居ると変なんだよね……」


 相談できる相手といえばテールしか居らず、もしや何かの病ではと思ったノアがこわごわ打ち明けると、メイドは丸く大きな瞳をきらきらと輝かせて間髪入れずにこう教えた。


「ノア、それは、恋だよ! ノアはエルに恋してるんだよ!」


 そしてテールは、ぽかんと呆けたノアに、自分の好む恋物語を次々に読み聞かせ始めた。少女が運命の相手と巡り合い、恋をして、幸せになる。そんな話ばかりだった。


(恋……? 僕が、エルに?)


 わけがわからないながら、物語の少女らの揺れる気持ちはたしかに今のノアのものと似ているような気もした。


(僕はエルが好きなのか……? いや、好きだけど……女の子として?)


 言葉にしてみると、ノアはたちまち恥ずかしくなった。けれど同時に心が浮き立つような、誇らしいような、妙な気持ちにもなった。


 そんな気持ちを抱きながら、ノアはエルの元に通い続けた。幸い、母はエルを匿い始めた数日後から、しばらく休みだから湯治でもいってくる! と留守だったし、テールの協力もあって、エルの存在は誰にも知られることはなかった。


 ノアは毎日が楽しかった。エルと一緒に居ることで、彼のことが好きだと自覚したことで、自分が女の子でよかったな、とまで思えるようになった。


 だが、日々が過ぎていくうちに、今度は不安になってきた。怪我もすっかり癒え、体調も戻ったエルは遠くを見つめて考えこむことが増えた。明日の話には応じてくれるエルが、一週間後の話になるとさりげなく矛先を逸らすことに気が付いた時、ノアの不安は明確なものとなった。


「エルはきっとまた、どこかへ行っちゃうつもりだ。どうしよう」


 それに気付いた夜、テールに不安を打ち明けると、めずらしく真面目な顔をしたメイドはこう言った。


「当主ちゃんが帰ってきたら、私から相談するよ。エルを置いてもらえるように。……きっと何とかしてみせるから。だから大丈夫だよ」


 言葉とは裏腹に、テールの声もどこか自信なさげなものだった。ノアはますます不安になる。表情を暗くしたノアを元気づけるように、テールは手にした本を開いた。


「ほ、ほら、そんな顔しないでよ! 昨日の続き読んであげるから、ベッド入って!」


 強引に話を終わらせたテールは、ノアがエルのことを相談して以来日課となってしまった恋愛小説の読み聞かせを始めた。ベッドに押し込まれたノアは、不安を紛らわすため、テールの声に耳を傾ける。偶然出会ったリチャードとエリザベスが紆余曲折を経てついに想いを確かめ合ったあたりでノアはうとうとしていたが、最後に聞こえてきた一節に、さっと眠気が覚めた。


「『――祭壇の前に立ったリチャードは、エリザベスに永遠の愛を誓った。微笑んで頷いたエリザベスは、新たに家族となった青年と共に、その一生を幸福に過ごしたのだった……』、はい、おしまい! いやー、いいお話だったね、テールちゃん泣きそうに――」

「ねえ、テール。永遠の愛を誓えば、ずっと一緒に居られるの?」

「へ? うん、まあ、物語ではそうだねえ。男の人と女の人が神様の前で愛を誓って、夫婦になって家族になって、ずっと一緒に、幸せに暮らすよね」

「そっか……そうすればいいんだ」

「? ノア?」


 口の中で呟いたノアに、テールはきょとんと首を傾げる。ノアは更に尋ねた。


「ねえ、テール。僕の……女の子の服って、家にある?」

「? うん、何着かは当主ちゃんが仕立てさせてたけど……あ、もしかして着る気になったの? 何がいい? ドレス!?」

「何でもいいけど……明日は、それ、着せてくれない? あ、でも、森に行くから、動きやすいやつにして」

「……うん、わかった! そうだね、エルに見せたいもんね!」


 うきうきと張り切りはじめたテールに頷いて、すっかり安心したノアは目を閉じた。


(僕、頭いいじゃん。これでエルとずっと一緒にいられる)


 テールが部屋を去ってから、彼女の置いていった本をこっそり開く。そこに書いてある内容を、ノアはしっかりと頭に刻み込んだ。明日に行う『儀式』のために。




 翌日、ピンクのエプロンドレスを着たノアを見て、エルは目を丸くした。ぽかんと口を開き、小屋の戸口に立ち尽くして動きを止めた彼に凝視され、ノアもまた立ち尽くす。


「え……えっと、その……エル?」

「……ノアちゃん!? ノアちゃんだよな!? うあーびっくりした! どっこのお嬢さんかと思った! 今日はどうしたんだえらくかわいいなおい!」


 微動だにしないエルに不安になったノアがおずおずと口を開くと、はっと肩を揺らしたエルは一息にまくし立てた。あまりの勢いに圧倒され、今度はノアがぽかんとする。


「あっ、ごめん。えっと……よく似合ってる。かわいいよ、ノアちゃん」


 ひとしきり驚き、やっと落ち着きを取り戻したエルはそう言って笑った。照れているのか、少しだけ頬が赤い。それを見て、ノアの顔もぼっと熱くなった。


「見せに来てくれたのか? ちょうどノアちゃんお気に入りのパンケーキ作ったんだ、とりあえず入って――」

「あ、あのさ! 今日は天気いいし、丘に行かない!?」

「丘……? せっかくの服が汚れるぞ?」

「い、いいから! ほら、行こう!」


 エルの手を強引に引いて、ノアは走りだした。不思議そうな顔をしながらも、エルは一緒に来てくれる。川上の方へ走り、脇へ抜けると、そこは見晴らしのいい小高い丘になっている。下からも良く見えてしまうのでエルを連れて来るのは初めてだったが、せっかくの『儀式』だ。どうせなら、神様によく見えるような場所がいい。


「よし、じゃあ、始めよう。エル、これ被って」

「わっ……何これ、ハンカチ? ノアちゃん、何する気――」


 用意してあった薄手のレースのハンカチをエルの頭に被せ、両手をとったノアは、すうはあと息を吸って心を決め、きょとんと瞠られた青空の色の瞳をまっすぐ見つめて一息に言った。


「あのね、僕は……エルに、愛を誓うよ。永遠の愛を、エルだけに誓う!」

「…………………………へ??? あ、愛???」


 決死の覚悟で告げたノアに、しかしエルはぼけっと間抜けな声を上げた。予想していたどれよりも薄い反応にあれ? と首を傾げたノアの額に手を当てて、神妙に聞いてくる。


「……ノアちゃん、大丈夫か? 熱でもあんのか? 言ってる意味わかってるか?」

「なっ何だよそれ失礼だな! わかってるよ!」


 心底心配そうな顔で失礼なことを言われ、憤慨したノアはもう一度高く叫ぶ。


「僕はエルが好きだから、ずっと一緒に居たい! だから永遠の愛を誓う!」

「な、なに言ってんだ、ノアちゃん???」

「だって、神様の下で愛を誓えば家族になれて、ずっと一緒に居られるんだろ?」

「家族……? ノアちゃんと……俺が?」


 いっそ呆然としたように呟いたエルに、ノアはうん、と頷いた。


「僕は、エルが好きだよ。だから、エル、どっかに行こうとするのは止めて、僕の家に来なよ。家はけっこうお金持ちだし屋敷も広いし――ちょっと変な母さんは居るけど、神様は母さんより偉いだろうから誓っちゃえば文句言えないだろうし、大丈夫だよ。だから、エルも僕に誓って。僕と家族になって、一緒に暮らそうよ。ずっと一緒にいようよ」

「…………」


 喋っている途中で恥ずかしくなり、俯きながら言ったノアの頭に、ふわりとした感触がおりた。何だろうと顔を上げると、薄いレースがちらりと見える。さっき、エルの頭に乗せたものだ。本で、儀式ではベールを被ると書いてあったから、用意したのだ。


(あ、でも、そうだ。ベールは花嫁が被るんだったっけ……)


 ぼんやり思うノアの頬にそっと触れ、エルは小さく、ありがとう、と呟いた。


「そう出来たら、きっと、幸せだろうな」


 青い瞳をふわりと細めたエルの笑顔は、今まで見たどれよりもきれいで、嬉しそうで、それでもなぜか、今にも泣き出しそうに見えた。消え入りそうな笑顔にふと不安になったノアは、離れた指を掴もうと手を伸ばす。


 ノアの手がエルに触れる寸前、背後から草を踏む音が聞こえた。


 ばっと振り返ったエルがノアを背中に隠す。そこに、笑みを含んだ声が響いた。


「――探しましたよ、エルバート坊ちゃん。まさか川を渡っているとは思わなかった。ずいぶん遠くまで逃げて……よりによって、赤薔薇の私有地に隠れてるとは」


 現れたのは、白い服を纏った数人の男達だった。


「……見つかった、か。よくここに入れたな」

「あなたを連れ戻すためならば、金はいくら使ってもいいとのことでしたのでね。話の分かる森番で助かりましたよ」


 固い声で応じたエルと男たちは顔見知りのようだった。それでノアは、彼らがエルを『買った』家の追手だということを知る。


 逃げなきゃ、と焦って見上げたエルの横顔は、どうしてか落ち着いている。その表情に、ノアは瞬間的に悟ってしまった。


(エルはもう――諦めてるんだ)


 追手に見つかったから、ではない。最初から諦めていたのだ。最初から無理だと知っていた。逃げ切ることも、このままここで暮らすことも――ノアと家族になることも。


「――エル! 逃げよう!」


 思わず上げた声で、距離を詰めた男はノアに気付いたようだった。


「坊ちゃん、そちらのお嬢さんはどなたです? 赤い髪……――まさか……?」

「詮索は無用だ。あんたの役目は俺を連れ戻すことで、余計な火種を作ることじゃない。そうだろ」

「――エル!」


 シャツを掴む指をそっとほどいたエルは、追いすがるノアをトンと突き放して、振り返らずに男の元へ歩んだ。ゆっくりと遠ざかる背中に、ノアはぎり、と唇を噛む。何で、と声が漏れた。――諦めるのか。このまま、諦めてノアを置いて行くのか。ノアはそれを、黙って見送るのか?


(そうしたら、きっともう、僕らは二度と――会えないのに?)


 そう思った途端、心に湧き上がったのは怒りだった。


「――行くよ、エル!」

「ノアちゃん!?」

「坊ちゃん! この期に及んでどこへ――!」


 前を行くエルの腕を乱暴に掴んだノアは、狼狽したエルも後から追ってくる男たちの非難も無視して、ただがむしゃらに走った。


(諦めるなんて、僕を置いて行くなんて――そんなこと、させるもんか!)


 心を占めているのはそれだけだった。後先も理由もノアは知らない。諦めるための理由なんて知る必要もない。ただ、エルの手を離してはいけないと、それだけが分かっていればよかった。


 なるべく見通しの悪そうな細い道を、エルの手を引いてひた走る。追ってくる男たちよりも、ノアは森をよく知っていた。しばらく走ると、追手の気配が遠くなる。それに少し安心し、黙りこくったエルの顔を窺おうと振り返ったノアの足は道を逸れ、空を踏んだ。


(えっ――)


 悲鳴を上げる間もなくガクリと体が落ち込む。


「ノアちゃん!」


 とっさに離そうとしたエルの手が、逆にノアを掴んで引き寄せた。しかし引き上げるには至らず、そのまま二人で段差になった脇道へ転がり落ちる。体が地面に触れる直前、強く抱きしめられた。同時に視界がぐるぐると回転し、鈍い衝撃を最後に止まった。


「ったー……」

「……っ、大丈夫か、ノアちゃん!?」


 呻いて目を開けたノアを、青い瞳が見下ろしていた。


「うん、大丈夫、ぶつけたけどそんなに痛くは――……?」


 体を起こし、心配そうな瞳に告げると、エルはほっとしたように息をついた。しかし、ノアは逆に体を強ばらせる。斜面を転がる途中でぶつけたのか、エルの額から顎にかけては赤い血が筋になって落ち、体も服も土や血で汚れていた。しかし、ノアに傷はない。エルがノアを庇ったからだ。


「エル、怪我――!」


 叫ぶと同時に、エルから流れた血がぽたりとノアの服に落ち、赤い染みを作った。


 あ、と小さく声を上げたエルは、すまなそうに笑う。


「ごめん。せっかく可愛かったのに……汚しちゃったな」

「ばか、そんなことどうでもいいだろ! 手当て、手当てしないと……!」

「――おーい、ノア、エルー! もう、そんなとこでこそこそ何やってんのー? ていうかノア、私を置いて行っちゃうなんてひどい――って、どうしたの、その怪我!?」

「テール……」


 川辺の方から手を振って駆けてきたのはテールだった。場違いにのん気な声に、それでもノアはほっとする。


「上から落ちたの? もう、ドジだなあ。おぶってあげるから小屋まで我慢して……」

「……テールさん。テールさんはさ、俺の正体に気付いてるんだろ?」


 横にしゃがみ、傷の様子を窺うテールに、エルは静かな声で言った。正体? と眉をひそめるノアとは逆に、テールはぎくりとしたように表情を固くする。


「白薔薇の追手が来た。もう、俺を匿うのは無理だ。赤薔薇と白薔薇の関係が緊迫してるのは、テールさんも知ってるだろ。これ以上、あんたたちに迷惑はかけられない。……だから、俺、行くから。ノアちゃんを頼む。怪我してるかもしれないからさ」

「エル? 白薔薇って、迷惑って、なに言って――」

「ごめんな、ノアちゃん。最初から、一緒に居られないことなんてわかってたのに。――何も言わずに騙してて、ごめん」


 俯いて、小さな声で言ったエルの手が、ぽう、と白い光を灯した。淡い光はゆるゆると姿を白い薔薇に変える。呆然と見守るノアに、エルは生み出したそれを差し出した。


「返事の代わり。受け取って」


 促され、土に汚れた白い手から、おずおずと薔薇を取る。ノアが手にした途端、白かった薔薇はみるみるうちに赤く染まり、空気に霧散して消えた。


「消え、ちゃったよ……?」

「――お別れは済みましたか? まだでしたらお早めに」

「!」


 空になった手を見つめるノアの呟きに答えたのは、追いついてきた男だった。


「もう逃げないから、急かすなよ」


 男に言って、エルはよろりと立ち上がる。蹲ったままのノアのまだ短い髪に触れ、そっと優しく微笑んだ。


「ごめんな、ノアちゃん。君に会えて嬉しかった。……選んでくれて、ありがとう」

「――許さないからな!」


 何もかもを諦めたようなエルの声に、ノアは叫んだ。


 ノアはまだ諦めていないのに。エルはまだここに居て、だから悲しいはずはないのに。なのにこみ上げる別離の予感に、ぼろぼろと涙が落ちる。それでもノアはまた叫んだ。


「このまま行ったら、絶対に許さない。……僕は追いかけるから。どんな手段を使っても絶対追いかけてお前を連れ戻すから!」

「ノアちゃん。俺は、君の家と反目してる白薔薇に縁のガキだ。俺がここに居たことがわかったら、決定的な亀裂になるかもしれない。だから、俺のことは忘れるんだ」


 静かに告げたエルに、ノアはぶんぶんと首を振った。


「そんなの僕は知らない! 絶対に追いかけるからな。絶対に忘れない。忘れられるもんか。僕はお前に、永遠を誓ったんだぞ!?」

「ノアちゃんは……意外に真面目で、律儀だなあ」


 必死で言い募るノアに、エルは困ったように笑った。


「だったら、忘れさせてやるよ。君には重荷なだけだろ? ……叶いもしない『永遠』なんて、君の邪魔になるだけだ」

「エル……? お前、なに言って……」


 小さく言ったエルは、ノアには答えず、テールに目を向けて言った。


「テールさん。一度でいい。俺に力を貸してくれないか?」

「……仕方ない、か。エルが残ってくれるなら、当主ちゃんも喜ぶだろうし、白薔薇にバレない限り円満に納められるかと思ったんだけど。そっちのお兄さんたちも白薔薇も、諦めてはくれそうにないし……エルにその気が無いんじゃ、私には止められないね」


 切なげに目を伏せたテールは、ごめんね、と誰にともなく呟いて、エルの胸に手を当てた。そして、さっきの薔薇と同じように、ふっと空気に掻き消える。


「っ、テール!?」

「――……っ、……うん、大丈夫。いけそうだ」


 一瞬よろめいたが、エルはすぐに顔を上げた。呆然とするノアの元に跪き、小さな体をぎゅっときつく抱きしめる。


「赤薔薇の秘蹟を以って、神にひとつの契約を希う。この子を守るために、俺の願いを聞いてくれ。願いは俺に関する記憶の封印、そこに敷く理は――……」

「エ、ル……? お前、何を……っ」

「……理は、『新しい恋』」


 そこで、ノアの意識は眩んだ。


 ぐらりと傾いた体を静かに支えたエルは、目に焼き付けるようにじっとノアを見た。


 チカチカと白く瞬く視界に、小さく微笑むエルが映る。笑っているのに泣き出しそうな、切ないのに幸福そうな、計りきれない表情で、最後にエルはこう言った。



「これで君は俺を忘れる。

 ――次に誰かに恋をするまで、俺のことは思い出さない」




□□□

 透明な階段を登り終え、エルは青々と茂る芝生に足を下ろした。


 ざくり、と音を立てるそれは普通の芝と何も変わらず、ここが魔法で造られた森ということを一瞬忘れそうになる。


(ここは似てるな。ノアちゃんと出会った、あの森に)


 ぽっかりと切り取られたような森を見渡して思う。


 芝生の奥には緑の木々が濃く茂っているが、そこには獣道と呼ぶには整った道が続いていて、人の気配を窺わせる。きっとあの奥に『魔女』が住んでいるのだろう。魔女に魔法をかけられた前後の意識は朦朧としていて、エルは魔女の容姿をよく覚えていなかった。ただ、かけられた言葉と起こった出来事だけは、鮮明に覚えている。


『白薔薇の後継者。私はあなたに魔法をかける』


 突然現れた魔女は短くそう言い、エルが返事をする前に魔法をかけた。当初は何の魔法かわからず、ただ、折よくネスが外していてよかったと思った。魔女は、ネスと自分を間違えたのだ。彼に及ぶ危険を防げた。いつか、エルを庇ってくれたネスへの借りを返すことができたのだ、と。


(なのに、まさかネスが魔女に掴みかかるなんてな……)


 魔法をかけ終えた魔女が空へ戻ろうと体に光を灯した時に、ネスが戻った。倒れるエルと魔女を見て、ネスは状況を正確に把握してしまった。ネスは物語や戯曲が好きな子供だった。だからこそ、よく題材にされる魔女の目的に勘付いてしまったのだろう。普段はぼけぼけしていたというのに、妙な所で鋭い子供だったのだ。そして、妙な所で度胸のある子供だった。


『エルネスは僕だよ。君が罰を下すのはエルじゃない!』

『……? でも、白薔薇の秘蹟を継ぐのは彼のはず。あの人は私にそう告げた』


 叫んで掴みかかったネスに、消えかけた魔女は困惑したように言った。


『――わからない。ならば、確かめる。念のため、あなたは連れて行く』


 待て、と叫ぼうとしたエルの声を待たず、魔女はその場からかき消えた。ネスと共に。


 ネスはそのまま戻らなかった。魔女に理を突き付けられた当主が、エルを自らの子供の身代わりに仕立てあげてからも、ずっと。


 ネスは生きていると、魔女に囚われているのだと告げても、当主は捜索を行わなかった。簡単に、とは、今はもう思わない。けれど当時は、家の存続のためとはいえ、息子を『道具』のように切り捨てる当主の行いを許せなかった。本物の家族のくせに、と。


 だから決めた。ネスは自分が取り戻す。双方の存続のため、白薔薇と赤薔薇はいつか和議を結び、魔女の魔法は解けるだろう。秘蹟の継承は速やかに行われるはずだ。空の森はその時にまた現れる。それが、ネスを取り戻す最初で最後のチャンスだ。


 秘蹟の力があれば、遥か遠い空の森へも至れる。そうすればネスを助けてやれる。秘蹟はきっとそのためにならあの時のテールのように、エルに力を委ねてくれると思った。


 そして、その予想は当たった。今、エルの胸には白薔薇の秘蹟が宿っている。テールのように喋りはしないが、エルの意思を汲んでくれていることは、与えてくれる力でよくわかった。


(ノアちゃんは……テールさんだもん、大丈夫だよな。騙した俺に怒ってはいるかもしれないけど、ちゃんとなだめてくれよ、クライブにロディ)


 和議が結ばれるだろうと思ってはいたが、その手段に婚姻を用いることは予想外だった。たしかに分かりやすく永続的なものではあるが、そういう形でノアと再会するとは思ってもみなかった。


 六年近い歳月を経ても、ノアの記憶は鮮やかだった。白薔薇に売られた当時のエルは、どうせ失うのならば、信じることや求めることはやめようと、すっかりやさぐれていた。自分を弟と呼ぶネスを、どうせ大輪の蕾を持つエルを利用するための方便だと頑なに拒絶して、信じてはいけないと思い、それでも信じたくなって、身動きが取れずにいた。


 そうして煮詰まった末、逃げ出した先で出会ったノアに、エルはあの時救われた。何も持たない、得体の知れないエルを、ノアは選んでくれた。一番欲しかった言葉を、幼さ故の強さでもって、エルに誓ってくれた。だから、白薔薇の屋敷に連れ戻されたエルはもう一度、と思えたのだ。例え叶わなくても、いつか無くなってしまうものだとしても、それでも――もう一度、人を信じてみてもいいんじゃないか、と。


 だからこそ、『エルネス』としてノアと婚姻を結ぶことに、エルはずいぶん戸惑って思い悩んだ。エルはどうしたってまた、ノアを騙して裏切ることになる。だから、なるべく近付かないでいようと思った。別れの辛さは一度だけで充分だ。味わうのも、味合わせるのも。――けれど、距離を置こうとする理性は、婚儀でノアを見た途端、あっという間にかき消えた。だって。


(だってさあ、ノアちゃん、あまりにもあの頃のままなんだもんな。さすがに警戒心は増してたけどさ……まあそれは貞操かかってたからだろうけど)


 森へ向かって歩きながら、はあ、とエルはため息をつく。


(終わりがあるってわかってたって、目の前に幸せがあれば結局、手を伸ばしたくなるよなあ。ごめんな真面目に悩んだガキの頃の俺、こんな意志の弱い大人になっちゃって)


 どうせノアは今現在の、きれいでもかわいくもないエルに心を動かしはしないだろう。念入りに髪まで切って過去の自分の面影を消し、だから大丈夫だと言い訳しながら、エルはノアとの距離を詰めた。近付かない方がいいとわかっていても、ほんの短い期間でも、それでも。


(一緒に……居たかったんだよな)


 ノアと暮らした一ヶ月は楽しかった。思い出も出来た。指にはまった銀の輪を見てエルは笑う。こうして別れを経ても、後悔はなかった。一時だけでも、ノアとまた一緒に過ごせたことが嬉しかった。ノアは怒っているかもしれないが、ころころと機嫌を変える彼女は多分、エルへの怒りもすぐに忘れてくれるだろう。あの頃のように泣きはしないはずだ。――ノアは、思い出さなかったのだから。


(……って、何考えてんだろうな、俺は。今の俺相手に、ノアちゃんが思い出すわけないだろ。思い出したら、どうするんだよ。クライブに聞かれた時だって、答えられなかったじゃないか)


 ネスを諦めるという選択肢は最初から無い。だったら、どうしようもないじゃないか。まさか攫って逃げるわけにもいかない。何も持たないエルを選べなんて、赤薔薇の家と秘蹟を背負うノアに、言えるわけもない。


(それなのに、どうして俺は落ち込んでんだろうなあ、もう。あーやだやだ、未練がましい男はかっこ悪い、つーか気持ち悪い、だってもう振られてるのにあれこれと……いや、振られてるとか思うのがすでに気持ち悪い! しっかりしろ、俺!)


 ぶんぶん頭を振ったエルは、よし、と息を吸い直した。ともあれこれから魔女と直談判だ。談判で済めばいいが、力尽くになる可能性だってある。益体もないことをあれこれ考えている時じゃないのだ。


 強引に気持ちを切り替え、いつの間にか止まっていた足を再び踏み出した、その時。


 思いがけない衝撃がエルの後ろ頭を襲った。



「お前はほんっとうに――何度人を置いて行けば気が済むんだ、大馬鹿野郎!!!!!」



 悲鳴じみた大声は、地面に突っ伏すエルの耳には半分も届かなかった。




□□□

 ぶん投げたフライパンは狙い通りにエルの頭に直撃し、ガツンと固い音を立ててからかき消えた。衝撃にぶっ倒れたエルに追いついたノアは、目を回しているらしいエルの襟首を掴みあげ、怒りを叩きこむようにしてもう一度叫ぶ。


「何で僕を置いて行くんだ!? 何でもかんでも僕を置き去りに決めるなよ! ほんっとに自分勝手な奴だな、お前は!」

「ノ、ノアちゃん、どうしてここに」

「追いかけて来たに決まってるだろ! お前が置いて行くから!」


 ノアの剣幕に困惑したようなエルは、しどろもどろに説明し始めた。


「いやその、だから、あのな? 俺は君の夫のエルネスじゃないんだ。本物は昔魔女に攫われちゃって、俺はそれを取り戻しにここに来たわけで、つまり俺は偽物で君を騙してて、したがって君が俺を追いかける必要は――」

「お前は……っ、お前は僕をバカにしてるのか!?」


 懇切丁寧に今更な説明をするエルとその内容にまた腹が立ち、ノアは掴んだ襟を更に締めあげた。ぐえ、と呻くエルは無視して、一息に言い募る。


「騙してたとか偽物とか、そんなことは関係ない! 僕は今、お前を……僕の知ってるエルを連れて帰るために追いかけて来たんだ。理由なんてそれだけだ! 僕にとってエルはエルだけで、だから……エルネスじゃないからって、ちょっと名前が違ったくらいで、それだけで嫌いになるわけないだろ、バカ!」


 感情が高ぶったせいでぼろりと涙が零れた。ぎょっとしたように固まったエルは、ノアがひっくとしゃくりあげると、やっと我に返ったように濡れた頬を袖で拭った。


「ノ、ノアちゃん、泣くなよ。わかった、悪かった、俺がぜんぶ悪かったから!」


 おろおろと謝るエルに、泣きながらもノアは呆れる。どうせエルは、ノアが怒っている理由も泣いている理由も、半分も分かっていないのだ。


(僕は、置いて行かれたくなかったのに。傍に居て欲しかったのに。……それが全部できなくたって、せめて――覚えていたかったのに)


 そして。目の前の困り切った顔をしている男を見て、思う。


(お前だって本当は、忘れられたくなかったくせに)


 今なら分かる。だからエルはあの時、魔法にあんな理を敷いたのだ。


 いつか、ノアが誰かに恋をした時に、エルを思い出すように。その頃のノアは新しい恋に夢中で、幼い恋を上手に思い出にできて、それでもきっと、もう二度と忘れられない。ちくりと刺さる刺のように、エルに誓った永遠はいつまでも胸に残る。


(そうやって――残りたいと思ったんだろ?)


 ノアのために自分を消して。それでもやっぱり消しきれなくて。


 ずるい男だ。


 自覚もなくずるくて、優しくて、本当に、ノアのことが好きな男だ。


(そして、このバカに僕はまた――)


 ずっと鼻をすすって涙を止めたノアは、頬を拭うエルの手をそっと掴む。

 ようやく泣き止んだノアにほっとしたようなエルに、今度はノアが手を伸ばした。


「ノアちゃん?」


 驚いたように瞠られた青空の色に、ノアは少しだけ笑う。


「そういえば、僕、お前の目の色がずっと好きだったんだ」


 きょとんとしたエルの頬に触れ、ゆっくりと顔を近づけた、その時。



「――っくしゅん」



 可愛らしいくしゃみがひとつ、唐突に割り込んだ。





「う、うわあああ!? だ、だ、誰!?」


 はっと我に返ったノアは、ぼぼ僕は今ついうっかり何をしようとしてたんだと狼狽して持っていたエルの顔を放り投げた。地面に顔面から落ちたエルがぶはっとかぐはっとかいう声を上げていたが耳には入らない。


「私……? 私は、アルエット」


 振り返った先に居たのは、可愛らしい女の子だった。


 年はノアと同じか少し下くらいだろうか。背丈もノアと同じくらいだが、ノアよりも痩せている。襟に花模様のレースの縁取りがある黒いワンピースに身を包んだ少女は、何故か両手にたくさんの薔薇を抱え、青みがかった肩までの銀髪をさらさらと風にそよがせていた。


 ノアと、ようやく体を起こしたエルに揃ってぽかんと見つめられた少女は、二人の視線を受けて、あどけない紫色の瞳を不思議そうに瞬かせた。しばらく考えるようにした末、ああ、と薔薇を視線で示して言う。


「私はアルエットで……これは、薔薇もどき。この森にだけ生える変な植物。刺もなくてきれいだけど――っくしゅん!」


 またくしゃみをした少女は、すん、と小さく鼻をすする。


「花粉がちょっとむずむずするのが困りもので……だから家の近くに生えると摘むの」


 アルエットというらしい少女は、そこで無造作に薔薇を芝の上に落とした。しばらくすると、それはふわりと色と形を変え、周囲の芝と同化する。神の魔法で造られた森ならではの現象にまたぽかんとしたノアに、今度はアルエットが問いかけた。


「あなた達はだれ? 何しにきたの?」

「え、えっと……その、僕たちは……」

「君は、エルネスを知ってるか? この森に居るはずなんだ」


 ノアに代わり、エルが尋ねる。


「エルネス……? ネスに会いにきたの? なら、こっち」


 森の奥を示したアルエットは、ノア達の答えも聞かずに先を歩き出した。

 どうにも掴めないふわふわとした少女は、どうやらネスの居場所を知っているらしい。


「えっと……じゃあ、行こうか?」

「俺だけ、な。ノアちゃんはここで待ってろ。何が起こるかわからないから」

「あのなあ。この期に及んでまた僕を置いていくつもりか? 泣くぞ?」


 ノアは、エルに手を差し出しながら呆れ混じりに笑った。


「ここまで来たら一蓮托生だ。一緒に行くよ。大丈夫、僕にはテールもついてるし」

『そうだよー! でもテールちゃんそろそろ外出たい! 宿ってると存在感薄くて寂しいよー、エルとも話せないしからかえないしー!』

「うわっうっさいテール! ダメだよ出たら力使えなくなるだろ!」


 唐突に頭に響いた声を叱りつけると、会話の内容を察したのか、エルはぷっと吹き出した。ノアの手を取って立ち上がり、照れ隠しのように言う。


「なんか、今日のノアちゃんは、かっこいいな。惚れ直しそうだ」

「それって褒めてるの? バカにしてるの?」

「褒めてるよ、もちろん」


 前を向いたエルは、複雑な顔をしたノアにありがとう、と小さく言った。そして、手を繋いだまま少女の背を追い、森へ入った。




 アルエットは、ノア達を導く間、一度も振り向かなかった。無言のまま、広葉樹に両脇を挟まれた細い道を慣れた足取りで進む少女の後を、エルとノアも無言で追う。たまに梢の揺れる音がするきりで、森の中は静かだった。鳥の声すらしないことがどうしても不思議で、緊張が高まる。ノアの手を引いて前を歩くエルからも緊張が見て取れて、そりゃそうだよなと気付いたノアは、繋いだ手に力を込める。驚いたように振り返ったエルにへらりと笑うと、エルも頬を緩めて安心したように笑った。


 数分か、数十分か。

 変わらない景色の中を歩いた三人は唐突に、ぽっかりと開けた空間に行き着いた。


 中央には泉があり、泉の奥には浮島のように、てっぺんの平たい岩がある。そこに、黒いローブを纏った人影が、ノア達に背を向けてぽつんと立っていた。


 変わった景色にも頓着せず、とことこと泉の縁を歩んだアルエットは岩の近くでやっと足を止め、黒い人影を無言で指さして頷いた。


「ネス……か?」


 ノアの手をそっと離したエルは、黒いローブの人物に声をかける。緊張と不安と、それ以上に期待を孕んだ声にも、人影は答えない。振り返りもしない人影に焦れたように、エルは泉に浮く岩に飛び移った。


「ネス。俺だ、エルだ。遅くなって悪かった。やっとお前を――」

「……ネス? 誰のことかな?」


 やっと答えた人影は、そこでようやく振り向いた。深くフードを被っており、口の部分しか顔が見えない。声は低く艷やかで、体は細いが、身長はエルと同じ位ある。外見からは性別すらもわからない。


 正体不明の影は、振り返りざま、すっと手を横に払った。途端にごう、と風が巻き、進もうとするエルの行く手を阻んだ。


(あれは――魔法? でも、風を魔法で操るなんて、どうやって……)


 見慣れない形の魔法に瞬いたノアに答えるように、エルが驚愕したように叫んだ。


「これは、精霊の力……!? お前、まさか――『空の森の魔女』か!?」

「…………」


 影は答えない。ただ、肯定するように、唇が笑みの形に吊り上がった。


「ネスは――ネスはどこだ!? あいつをどこにやった!」

「それを知りたければ――私を倒して聞くことだ、小僧!」

「っ!」


 言うなり影は――空の森の魔女は、周囲に巻いた風を手のひらに収束させた。見る間に風は透明な、氷のような剣に変化する。それを構え、魔女はエルに斬りかかった。


「エル!」

「来るなよ、ノアちゃん!」


 一撃目をすんでで避けたエルも、手の中に剣を生み出した。再び打ち込んできた魔女の斬撃を、今度は正面から受ける。ギン、と刃の触れ合う音がした。拮抗したのは数瞬で、力で勝ったエルが魔女の刃を弾いた。魔女の剣が一瞬ぶれる。隙を逃さず斬り込んだエルの剣を、魔女は背を反らし、辛うじて避ける。剣先が掠り、フードに細く切れ込みが入った。そこで、エルは目を瞠り――唐突に、手の中の剣を消した。


「エル、何を――!」


 言い終わる前に、自由になった両手で魔女の襟首を掴みあげたエルは、大声で叫んだ。


「――ていうかお前、やっぱネスじゃねえかこの野郎!!!」

「へ? ネ、ネス? あれが?」

「……私、ネスはこっちって、言った」


 ぽかんと『魔女』を指さしたノアに、隣のアルエットがこくりと頷いた。


 それを受けて、岩上の『魔女』はぱさりとフードを取り去った。現れたのは、少し毛足の長い明るい金の髪と、湖面のように穏やかな青い瞳の青年だった。その目をゆっくりと和ませて、未だ襟首を掴むエルに青年は――ネスは、にっこりと大きく笑った。


「お久しぶりだねえ、エル。大きくなって! 今日はあれかい、結婚のご挨拶かい?」

「……っ、な、わけねえだろ! 何をのん気なことを言ってんだお前は!? お前こそ、今のはなんのご挨拶だ!」

「いやあ、せっかくの再会だし、劇的におもてなしをと思って……ちょうどほら、ここ舞台みたいだし? どう? ドキドキした?」

「『ドキドキした?』じゃ、ないだろうが! 人が決死の覚悟で魔女から助けに来たってのに、何をやってんだお前は!?」

「え……? 助けに、って……?」


 きょとん、と首を傾げたネスに答えたのは、アルエットだった。


「……気が付かなかった。そうか、あなた達、どこかで見たと思ったら、赤と白の薔薇。継承は済んだと思って、油断した」

「アル、エット……!?」


 低い声で呟くアルエットの体から、ふつふつと光が滲み出る。


「アルエット! 駄目だよ! この子たちに危害は――」

「――そう、それはだめ。許さない。ネスは、あなた達には、返せない」


 焦ったように声を上げたネスの体がふわりと宙に浮く。同時に泉から舞い上がった水が薄く膜となり、ネスの周囲を丸く覆った。


「――ネス!」


 水球に閉じ込められたネスに伸ばしたエルの手は、空を切った。


 泉の上に高く浮かんだネスの隣に、風を纏って浮き上がったアルエットが並ぶ。はためくワンピースの襟のレースが、淡く発光しているのが見える。


(いや、レースじゃない。あれは――あれが、『七つの蕾』だ!)


 はっとして、ノアは舞台のような岩上に残されたエルに叫ぶ。


「エル! 『空の森の魔女』は、アルエットの方だ!」

「そう。魔女は、私。悪いけど、あなたたちには下に戻ってもらう。――力尽くでも」


 そう言って、アルエットは視線をエルに転じた。少女の周囲に風が巻き、刃のように鋭くひらめく。矛先はエルだ。とっさに、ノアは走る。


「エル、危な――……っ」

「ノア!」


 エルが制止の声を上げると同時に、アルエットの風が舞台を襲った。立ち竦んだノアの腕を強く引いたエルが、庇うように胸に抱く。服越しに触れたエルの蕾が強く熱を持ち、透明な壁がノア達を風から守るように現れた。


「……秘蹟を継いだばかりなのに、ずいぶん器用ね。さすが、ネスを差し置いて、指名を受けただけのことはある。――でも、『魔女』である私には、勝てない!」

「……ッ!」


 語気を強めたアルエットの怒りに呼応するように風は勢いを増し、泉の水までもが氷の礫となってノア達に降り注いだ。ノアを抱いたまま、小さく呻いたエルが膝をつく。透明な壁は、破られかけては生まれを繰り返している。エルがぎり、と奥歯を噛む。苦しそうだ。力をふりしぼっているのだろう。


(このままじゃ押し負ける……僕が……僕が何とかしないと……!)


 魔力の操作に慣れているエルですらこの消耗だ。結界を引き受けるのは無理だろう。物質を生み出しての攻撃も、精霊の力、自然界の力を自在に操るアルエットには届かない。何か。何かないのか。ノアに生み出せる、彼女の集中を打ち切るような、何か。


(でも、僕が満足に作れるものなんて薔薇くらいしかないし……そんなもの、いくら作ったって――……?)


 そこで、ノアは気が付いた。薔薇。

 アルエットは最初に薔薇を抱えていた。――くしゃみを、しながら。


(『優れた魔力のある人間は魔法に対する嗅覚が鋭い。魔力に込められたイメージをより正確に解することが出来る』って……最初にエル、言ってたよな)


 ひらめいて、ノアは蕾に宿るテールに勢い込んで言った。


「テール、力、貸してね! 全力でいくから!」

『えっ? 全力でって、ノア、何するの!? それより逃げる方法を』

「いいから! いくよ!」


 そして、ノアは目を閉じた。けれど、浮き足立ったノアは中々集中できない。エルの作った壁に、ますます勢いを増した魔力がぶつかって、その衝撃と音に体がすくむ。


 震えた背中を不意にエルの手が支えた。はっと顔を上げたノアに、大丈夫、というように頷く。エルはきっと、ノアの意図には気付いていない。けれど、信じてくれている。それがわかって、ノアはほっと息をついた。目の前の体をぎゅっと抱きしめ、エルの心臓の音を聞く。心がしんと静まって、頭に描く像が鮮明になった。


「――あのさ、エル。帰ったら、あの時の返事、聞かせろよ」

「あの時?」


 きょとんとしたエルに笑ってから、ノアは大きく蕾を開いた。

 辺り一面に、大輪の薔薇が降り注ぐ。アルエットの紡いた風に煽られて、赤い花はぶわっと大きく舞い上がり、それはまるで吹雪のように全員の視界を覆った。


 そして、しばらくの後、ふと風が止む。


 はらはらと花びらの舞う美しい世界に、かわいらしい音が響いた。



「――っくしゅん!」



 アルエットは、続いて何度も何度もくしゃみをする。

 こうなっては魔法も何もあったものではなく、風も止まり、浮かんだ氷の礫も泉に返り、ネスを覆う膜もただの水に戻った。


「よかった、みんな無事で――って、あ、れ、落ち……?」


 やっと開放されたネスはしかし、ぼちゃりとそのまま泉に落下した。


「ネ、ネス! お前たしか泳げなくなかったか!?」

「っくしゅん! くしゅん!」

「がぼごぼがぼげぼ」

「わあちょっと待ってエル、僕ごといくな僕も泳いだことな、うわあああ!」


 各々が慌てふためき溺れ飛び込みくしゃみをし、すっかり風も薔薇も失せた泉はしかし、しばらくの間、てんやわんやの大騒ぎだった。




□□□

 すべてが落ち着いたのは、それから一時間ばかりが経った後だった。


 岩の舞台に円座で座り、アルエットが出してくれた炎で濡れた服と体を乾かしながら、ようやく一同はほっと息をついた。


「それで、結局、何がどうしてこうなったんだよ」

「うーん……そうだね。まずは僕がここに来てからのことを話そうか」


 切り出したエルに、ネスが応じる。そこにアルエットが口を開いた。


「ネスを連れてきて、私はまず、神に連絡を取った。白の後継者が誰かを確かめるため」

「え、神様ってそんな簡単に連絡つくもんなの!?」


 声を上げたノアに、アルエットはこくりと頷いた。


「秘蹟を持ってたり、私だったらこの空の森自体が、彼との媒介になるから。ただ、彼は面倒くさがりだから問われないと答えないし、聞いても返事をしないこともあるけど」

「へ、へえ……」


 会いたいような会いたくないような感じらしいな、と思いながら相槌を打つ。


「それで、神からの返事は、やっぱり白薔薇の後継は、私が魔法をかけたあなた……エルバート? で間違いないってことだった。だから、私はネスを帰そうとした。でも」

「僕が戻ったら、父さんは僕を後継者にするよね? まあ、神様が後継はエルって言ってるんだから結果的に秘蹟は継げないかもしれないけど、でも、一度はそういう判断をするはずだ。それはね、どうしても嫌だったんだよ」

「それは、蕾を封じられた俺がハゲに……捨てられると思ったから、か?」


 ぽつりと聞いたエルに、ネスはそういうことかな、と曖昧に頷いた。


「秘密に触れた君を簡単に手放しはしないだろうけど……エルが捨てられたって思うんじゃないかっていうのが、嫌だった。だって、また笑ってくれなくなっちゃったら、さみしいじゃないか。せっかくお兄ちゃんって呼んでくれるようになったのに」

「いや呼んでないだろ。呼んだことないぞ多分」


 間髪入れず反論したエルに、ネスはあはは、とのんびり笑った。


「そうだっけ? でも、思ってくれてはいたでしょ。だからね、守りたかったんだよ。僕の弟を。そのために、僕は下には戻らない方がいいと思ったんだ。君がきちんと秘蹟を継いで、白薔薇の後継になるまではね。まあ、六年も先とはさすがに思ってなかったけど」

「じゃあ、今なら……ネスは僕らと一緒に、下に戻ってくれる?」

「…………」


 エルの望みを口にしたノアに、体を強ばらせたのはアルエットだった。


 くしゃみのしすぎで赤くなった鼻をすん、とすすり、小さな魔女はじっと炎を眺めている。緊張した面持ちの少女を、湖面の色をした目で優しく見つめて、ネスは首を振った。


「ううん。戻らない」


 弾かれたように、アルエットはネスを見上げた。


 やっぱりと思ったが、心配になって、ノアはエルを見る。しかし、エルは驚くでもなく、困ったような、でも納得したような顔で、しょうがないなと言うように笑っていた。


「その子が好きだから……ってことか?」

「さすが、弟。よくわかったね」


 茶化すように笑ったネスは、そこで少し口調を改めた。


「アルエットは伝承通り、人間が嫌いでね。最初はろくに目も合わせてくれなくて、子供の僕に彼女の方が怯えてるみたいだったよ。それが何だか……家に来たばっかりの頃のエルと、よく似ててさ。だから、僕はアルエットが怖くなかったし、ほっとけなかった。人に傷つけられて、自分を守ってるだけの寂しがりなんだって、最初から分かったから」

「……寂しがりじゃなかった。ずっと、何十年も何百年も、ひとりだったもの。精霊がいたし、ここは静かで平和だったし……寂しくなんてなかった。ネスが来るまでは」


 ネスの言葉に、炎に目を戻したアルエットは、照れたように反論する。


「ネスが来てから、ネスが居なくなることを考えると、すごく、寂しくなるようになったの。だから、ネスをよけいに下から遠ざけた。連絡もさせてあげなかったし、あなたたちに危害も加えた。ごめんなさい」


 ぺこりと頭を下げたアルエットの背を、ネスが支えるように撫でた。


 ネスは、複雑な顔をしているエルの青空の色の瞳をまっすぐに見据えて言う。


「アルエットが打ち解けてくれてから、精霊も僕に力を貸してくれるようになったんだ。だからこのまま空に居れば、この子と同じ時間軸で生きていけるようになると思う。ここは魔法の力が強いから。でも」

「下じゃ、それは叶わない……ってことか」


 言葉を継いだエルに、ネスはこくりと頷いた。


 ネスの声は始終、穏やかだった。それがかえって決意の深さを表していた。


「ごめんね。エルに色々押し付けることになっちゃって」

「それはお前のせいじゃないだろ。そもそもは神様の――……って、そういや、何で神様は俺を後継者なんて言ったんだ? お前がいるのに」


 首を傾げたエルに、アルエットがぽつりと答える。


「たぶん、気に入ったんだと思う。おもしろいガキだから、って言ってた」

「へ? 俺、神様に会ったことなんてないぜ……って、あ、そっか。ノアちゃんに魔法かけた時に――……」


 尻すぼみに呟いたエルは、はああ、と大きく肩を落として息をついた。


「神様ってやつは……縁結びの趣味でもあるのかね?」

「たいくつだと、色々したり、しなかったり。わりと、気まぐれ」


(やっぱりあんまり関わり合いたくない感じみたいだな、神様……)


 胸中で呟いたノアの頭に、ふと声が響いた。


『ノアー、何だか下から不穏な気配! 当主ちゃんがエキサイトしてるっぽいよー!』

「うわっ母さんが!? まさかロディとクライブが犠牲に……!」

「へ? どうしたノアちゃん?」


 首を傾げるエルは下のどたばたを知らないのだった。あたふたとノアは言う。


「いや、そろそろ下に戻らないとまずいかもってテールが」

「そっか……じゃあ、またね。父さんと母さんによろしくね、エル」


 ひらひらと手を振るネスに、エルは思い出したように言った。


「あ、そうだよハゲ親父すげえハゲたよお前居なくなってから。今までは無理だったのかもしれないけど、これからは連絡くらい寄越せよな」

「うん、そうだね。そうするよ。一応ね、家の上を通りかかった時とかに、こっそり手紙投げたりしてみてたんだけどね」

「手紙……?」

「うん、瓶に詰めて。こういうの。実は今も投げようとしてた」


 そう言って取り出したのは、白い紙の詰まった小さな瓶だった。


 手渡されたノアは、ぽん、と蓋をあけてみる。取り出した紙にはこうあった。


「『僕は元気です。幸せにやってます。そちらもお元気で』……って、これだけ?」

「そして署名すらもないとは……相変わらず字、下手くそだし……」


 半眼で手紙を見つめるノアとエルに、ネスは何故か照れたようにえへへと笑う。


(でも、これに似たの、どっかで見たような……?)


 どこだったっけ、と首を捻る。答えに行き当たる前に、アルエットが立ち上がった。


「じゃあ、下に送るね。精霊に頼むから、すぐにつくよ」


 言われ、エルは目の前のネスを見上げた。えっと、と口を開くが、うまい言葉が見つからないのか、結局何も言わずに閉じる。

 ネスはそんなエルに微笑んで、白金の頭を抱きしめた。


「迎えに来てくれてありがとう、エル。心配かけて悪かったけど、嬉しいよ」


 少しの間の後、ふっと笑いをもらしたエルも、ネスの背を抱き返す。


「……こちらこそ、元気でやってたのがわかってよかったよ、お兄ちゃん。お幸せにな」

「エルこそね!」


 大きく笑ったネスは、次いでノアに視線を向けて、今度はいたずらっぽく片目をつむった。きょとんとしたノアに顔を寄せ、そっと小さく耳打ちする。


「弟をよろしくね、初恋の君!」


 その声を最後に、ふっと暖かい風に体が包まれ、浮き上がる。

 瞬きひとつのうちに、ノアとエルは見慣れた屋上の庭園に戻っていた。




□□□

 祭壇前に戻されたノアとエルは、人気のない周囲を一瞬不思議に思ったが、すぐに東屋の方から聞こえてきた怒声にそろってビクリと肩を震わせた。よく聞かずともその声はノアの母のもので、顔を見合わせた二人はお互いを鼓舞し合うように頷いた後、そろそろと東屋へ向かう。そこでは、すっかり待ち疲れたような赤と白の当主同士が激しく口論している真っ最中だった。


「あああもう! 何時間経ったんだこのままノアが戻って来なかったらどうしてくれるんだハゲ薔薇! お前んとこのハゲ息子のせいで!」

「黙って待たんか、騒々しい! 大体、誰がハゲ薔薇で誰がハゲ息子だ!」

「お前だ! 鏡見てみろ、そこに立派なハゲ薔薇が咲いている!」

「く……っ、百歩譲って私がハゲだということは認めるが、エルはハゲてないだろう!」

「時間の問題だ。ハゲの呪いは何代にも渡って続き決して途絶えることはない! ……ああ、でも奴はお前の息子ではないのだったな。まったく、純真な我らを騙し裏切るとは……銀薔薇殿、やはり白薔薇家の処分は除籍か断絶か取り潰しのいずれかの選択肢しかない――」

「それだけは取り消してもらおうか、赤薔薇よ」


 えんえんと怒鳴りあうだけだった声を唐突に静めて、白の当主は短く母を遮った。


「は? どれだ? ハゲの呪いか? だが現にお前の親父も爺さんもハゲじゃないか」

「名を偽っていたのは事実だ。だが、血は繋がっておらずとも、エルは私の息子だ」


 煽り続ける母には乗らず、当主はただ淡々と事実を述べるように言った。


 そこで、両家の口論には加わらず、ただ無言・無表情に激しい貧乏ゆすりをするだけだった銀薔薇の立会人がふと顔を上げた。花壇の影で突っ立っていたエルと、その後ろのノアを見止めて歩み寄ってくる。


「二時間四十二分。人生でこれほど長い時間を無駄に費やしたのもハゲという単語を聞き続けたのも初めてですが、ようやく戻られたようですね」

「ノア! 無事だったか!」


 気付いた母も大股で駆け寄り、ノアをぎゅうぎゅうと抱きしめる。


「うわーん無事でよかったーバカ娘―! 戻ってこなかったらぶん殴ってるとこだぞ大バカ娘―!」

「うわっぷ、ちょ、母さん、いたいいたいいたい!」


 母はぐりぐりと乱暴にノアの頭を撫でる。一応は心配していたらしい。


 一方、白薔薇の当主は動かない。エルも立ち尽くしたままだ。ぱちぱちと瞬くエルに、さっきの言葉を聞かれたことを悟ったのだろう。決まり悪げに目をそらした当主は、そうした後でぽつりと言った。


「……よく戻ったな、エル」

「へ? うん、まあ、その……ただいま」


 誤魔化すように頭をかいたエルもまたきまり悪そうに言って、少し笑った。


「さて、では、二時間四十五分前の続きを始めますよ。赤薔薇は済んでいますから、白薔薇の後継者。さっさと名前を神の下に宣誓してください」

「へっ?」


 突然振られて間抜けな声を上げたエルに、立会人は苛立ったような早口で告げる。


「もうこれ以上は一秒たりとも無駄にしたくはないんですよ、忙しいんですから。五秒以内に答えてください。五、四、」

「え、えっとその、エル、いや、エルバート?」

「三、家名もですよ、二、い……」

「えっ、何だそれ答えにくいな、えっと……あーもう! いいんだな、素直に行くぞちくしょう! 俺は――」


 容赦なく秒読みをする立会人に、やけになったように叫んだエルは、ぎっと目の力を強くしてきっぱりと言った。



「俺の名前は、エルバート・アイスバーグ・ロゼだ!」



「……はい、了解しました。これで継承の儀は終了です。銀薔薇は正式に、あなたを白薔薇の継承者と認めます」

「よろしいのですかな? 本当に?」


 手にした分厚い証書に何やら書き付ける立会人に、白薔薇の当主は思わずと言ったように聞く。立会人はあくまで事務的に答えた。


「あなたは彼を息子と認め、秘蹟は彼を主と認め、彼は自らを白薔薇の息子と認めた。ならば、銀薔薇としては、差し挟む異議はありません。赤薔薇との調停は必要でしょうが、ま、それは各々でご自由におやり下さい。では私は失礼しますよ、忙しいので」


 言い置いて、立会人はさっさと屋上を後にした。残された一同はただぽかんと見送る。


「ってことは、つまり——……」


 パタンと扉の閉まる音がした後で、テールが勝手に蕾から抜けだした。

 ノアとエルを交互に眺めてうっふふー、と笑い、両手を空に上げて大きく叫ぶ。



「一件落着―――――! おめでとー、二人ともーーーーーーー!!!」



 その声に、やっと全員が我に返った。


 いやそんなの認めんぞだの往生際が悪いぞ結果オーライでいいだろうだのお前そういう適当なのやめろって人に言うくせにだの、母と当主はまた大声で喧嘩を始める。


 テールに抱きつかれたノアは、ふかりとした胸からはみ出た片目で、どうするよこの騒ぎ、とエルを見上げる。


 ノアの視線に気付いたエルは一瞬、戸惑ったように視線を揺らした。


「……勝手に決めちゃってごめんな、ノアちゃん」

「へ?」


 何に対する謝罪かわからずぽかんとしたノアの背後で、ついに母が暴れ始める。


 慌てて二人でそれを止め、結局は、ろくに話もできないままに、お互いにお互いの親を引きずって部屋に戻った。

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