5章 魔法の理

 夜遊びした日から数日、ノアは部屋に引きこもっていた。当初のように自ら望んでそうしたわけではなく、体調を崩して閉じ込められていたのだ。


(いきなり倒れるなんて、はしゃぎ過ぎたのかなあ。にしても、具合悪かったのなんてせいぜい半日くらいだったのにしばらく安静にしとけとか、エルも大げさだよな)


 夜遊びから戻った後、ロディに捕まった辺りまでは覚えているのだが、どうもそれからの記憶があやふやで、気付いたら翌日の昼だった。目覚めてからはテールもロディも妙に優しく、説教に拒絶反応を起こして気絶したと思われているのではとか、逆に見捨てられたのではとか不安になったりもしたが、そういう訳でもなさそうだ。どこか労るように、慰めるように接してくる彼らは、ノアを本当に心配しているようだった。


(そんな派手にぶっ倒れたのかなあ、僕。エルも気を使って顔も見せないし)


 継承の儀まで間もないし、しっかり療養したほうがいいと伝言で寄越したエルは、ロディの協力のもと、ノアを部屋に閉じ込めてしまった。もちろん文句を言ったが、「ノア様を連れ出した責任を感じてるんですよ、あと数日ですから大人しくしておいてあげて下さい」とロディに頭を下げられて、強引に夜遊びを迫り勝手にぶっ倒れた引け目もあったノアは、しぶしぶ彼らに従った。エルには妙によそよそしかったロディがあんなに真摯な顔をして頭を下げたくらいだし、よっぽどエルも落ち込んでいたのだろうと思ったからだ。


(運気上昇のためとか言って、色っぽいお姉さんのところでツボ買われても困るしな……いや、変な置物が増えるのが嫌なだけだぞ、色っぽいお姉さんとこ行かれるのが嫌とかじゃないぞ?)


 誰にともなく言い訳したノアは、動揺を誤魔化すようにベッドを出て、備え付けの本棚に歩んだ。今日は本を読もう、と考えていたからだ。


 本棚には、母が置かせたのであろう魔法の教本が数冊がある。実は、館に来た当初の引きこもり期間にも暇つぶしにめくってはみたのだが、あの時は教本というだけで拒絶反応を起こしていたから、結局読んでいなかったのだ。


(でも、今ならちょっとは分かるだろ。魔法もけっこう面白いってわかったし、それに、調べたいこともあるし)


 目当てのことが書いてありそうな教本を選び取り、ソファに腰掛けて捲る。


 この数日間、ノアは暇にあかせて魔法の練習をしていた。おかげですっかりコツを掴み、魔法の薔薇は数分とかからず生み出せるようになった。他のもの、例えばコップだの枕だのというものも、集中すれば作れるようになった。そうなると欲もでてきて、エルの作ったような大掛かりな階段とか、そういうものも作ってみたくなる。だが、大きなものは、どうにも上手く作れない。そこでやり方を調べようと思ったのだ。


 ぱらぱらとページを捲り、それっぽいことの書いてありそうな箇所で手を止める。創造物の物量と魔力供給の関係。うん、それっぽい。


(えーと……『〈蕾〉とは魔力を持つ者の証であり、蕾の持ち主は総じて魔法を使う事が出来る。魔力の総量は蕾の大きさと比例するのが一般的である。同様に、魔力で創造した物質も、その大きさ・強度等と魔力の必要量は比例する』……か。つまり、僕はエルより魔力が少ないってことか? それとも無駄に使ってるのかな)


 まあ今度聞いてみよう、しかし楽して出来る方法とか書いてないのかな、と思いながらページを捲る。現れた項目は『魔力と秘蹟の関係性』で、続く記述にノアはおお、と声を漏らした。ある意味、楽して出来そうなことが書いてあったのだ。


(『大輪と呼ばれる大きな蕾を持つ者は、魔力の総量も多い。だが、そこに秘蹟を宿すことにより、無限に近い力を操ることができるようになる』……って、つまり、秘蹟を宿せば階段も何も作り放題ってこと!?)


 そういえば、大輪の後継者にも関わらず、ノアは秘蹟のことをよく知らなかった。神様から与えられたなんかすごいものらしい、という認識はあったが、それを得たことで何が出来るのかとか、そういう所までは考えが至らなかったのだ。その辺りは性別問題と相まってデリケートな部分だったので、あえて教育もされなかったのだろうが、それにしても継承を目前に控えてなおそれを考えなかったというあたり、我ながらのん気というか、何というか。


 とにかく、秘蹟を得れば楽して強力な魔法が使えるようになるらしいとにわかに興味を抱いたノアは、勢い込んで続きを読んだ。


 秘蹟を得るというのはつまり、『世界の力を扱う資格』を神に与えられた、ということらしい。通常の魔法は、自分の体内に宿った魔力を使って何らかの物質を創造するというものだが、秘蹟を宿すことにより、自分を媒介として世界の力を扱うことが出来るようになるそうだ。それにより、人間の体に宿る魔力では不可能な大きな魔法――例えば、大きな城を作るとか、街を埋め尽くすほどの花を生み出すとか、そういうことが可能になる。なるほど、だからパレードでは、秘蹟を継いだ証として、たくさんの薔薇を生み出して見せるのだろう。


 ただし、扱える力は無限でも、扱うのはあくまでも人間だ。魔法を使うには集中力と体力、精神力がいる。故に、そこを鍛えておかなければ、秘蹟の力も充分には活かせないという記述を最後に見つけ、ノアはえー、声に出して文句を言った。


「なーんだ……結局、必要なのは訓練ってことか」


 がっかりして肩を落とす。やはり世の中、そうそう上手い話はないようだ。


(ってことは、秘蹟を継いだらまた、パレードに向けて特訓! とか言い出すんだろうなあ、エル。今度は『エル先生の魔法教室・中級編』か? ご褒美と罰ゲームはまた設定するのかな)


 そうだとしたら、次のご褒美は何にしようか。夜遊びはしたし、じゃあ次にしたいこと、というと、旅行とかだろうか。本でしか見たことないし、海とか行ってみたい。もちろん、砂浜にはつきものらしい綺麗なお姉さんを眺めるのが目的だ。


(でも、ご褒美のハードル上げると、罰ゲームも上がりそうだよな。今回はキス……だったんだから、じゃあ次、は……いや、何考えてんだよ、僕は)


 ぶんぶんと頭を振って、妙な考えを打ち消す。まあ、エル先生はなかなか教え上手というか、乗せ方がうまいから、きっとまたノアはきちんと目標達成してご褒美をもらえるだろう。そもそもエルは口ばかりというか、結局は、ノアの嫌がることはしたことがない。罰ゲームという手段を用いて強引にそういうことをするとは、ノアはもう思えなかった。


(本気で怯えて損したよな、最初。今なら別に、同じことされたってそんなに嫌でもな――……って、何だそれ!? だから何考えてんだ、僕!?)


 またしても妙な方向に行った思考にノアはまた頭を振ろうとしたが、その前にズキンと鋭い痛みが襲った。手にした本が床に落ち、バサリと乾いた音を立てる。


「いった……、もう、何だよ。最近多いな、この頭痛」


 最近、ふとした拍子にこうして頭が痛む。すぐ治るのであまり気にしていなかったが、思い返せば夜遊びした日以降から顕著になった気がする。考え事をしている最中に多いから、やはり、物想うことには向いてないのかもしれない。


(でも、部屋にこもってると色々考えちゃうんだよな。テールが来たら、かえって不調だから外出たいって言ってみよっと)


 思いながら、床に落ちた本を拾おうとしたノアの目に、開いたページの単語が留まる。『神との契約魔法』。興味をひかれ、拾い上げたまま読み進める。


 ――秘蹟を持つ者のもう一つの特権として、契約魔法の行使があげられる。契約魔法は、物質の創造を目的とした通常の魔法と異なり、より奇跡に近い現象を起こすことが可能とされる。この魔法は、発動の条件として鍵となる『理』を敷く必要がある。これは、神の代理人として人間を導く役目を負った薔薇家が契約魔法を『罰』として用いることが多いためである。


(――って、なんか小難しくてよくわかんないけど……)


 ノアにかかった魔女の魔法を例に取ってみるならば、『ノアを男に変える』という魔法に対し、『白薔薇と仲直りすれば解ける』という理を設定することで、両家の争いを収めて正しい道に戻した、ということだろうか。まあ確かに、鍵となる理がなければただの嫌がらせだ。人間の守護者たる神様っぽい魔法ではない。


(なるほど、秘蹟があればそういうことも出来るようになるのか。面白そうだな……あ、でも、『契約魔法は神に必要性を認められなければ行使できない。切実かつ正しい行いにのみ用いられるべき手段である』って書いてある……だめじゃん)


 秘蹟を継いだとしても、なかなか使う機会は訪れそうになかった。


 あーあ、と本を放り出し、ノアはソファに倒れ込んだ。細かい文字をたくさん読んだせいで目も頭も疲れてしまった。勉強はここまでにしようと目を閉じたノアは、そのままうとうとと微睡み始めた。




□□□

 目覚めると、部屋はすでに暗かった。


 光量を落としたランプが一つ灯るきりの部屋の中、いつの間にか掛けられていた上掛けをめくりながら、ノアはソファから体を起こした。眠ってしまったらしい。


「テールは……いないか。ん? あれ何だ?」


 ぼやけた目をこすりつつ部屋を見渡すと、うす白い人影のような物があるのに気付いた。さっきまではこんなの無かったはずだけど、と思い近付いてみる。


「……ドレス?」


 人影は、白いドレスを纏ったトルソーだった。

 ひらひらとしたそれの裾をつまみながら、何の衣装だろうとぽかんとしていると、背後でガチャリと音がする。


「あ、ノア、起きた? よかった、ちょうどご飯だよー」


 食事の乗ったワゴンを押しながら現れたのはテールだった。


 ランプの火を明るくしたテールはそこで、ノアがドレスの前でぼんやりしているのに気付いたようだった。てきぱきと食事を並べながら言う。


「それ、明日の衣装だよ。さっき届いたの。きれいでしょ?」

「明日……? 明日ってなんかあったっけ?」

「なんかって……継承の儀、明日だよ? 言ってなかったっけ」


 首を傾げて言われた言葉はもちろん聞いてないもので、ノアは驚いて声を上げた。


「聞いてないよ! え? 僕、手順とか何も知らないけど大丈夫なの!?」

「儀式の進行は銀薔薇の人がやってくれるから、大人しく従ってれば大丈夫だよ。パレードと違って、別に観客が居るわけじゃないしね」

「そ、そうなんだ……。じゃ、明日はこれ着て、ついに儀式かー……。長かったような、短かったような。とりあえず騒がしかったよな、主にエルが」


 一応の婚儀を終えて一ヶ月、女に戻ってから一ヶ月、この館にエル達と暮らし始めて一ヶ月。山も谷もない日々を過ごしてきたノアにとっては、実に濃い一ヶ月だった。


「儀式の後は忙しくなるって言ってたし、館にも人が増えるだろうし。もっと騒がしくなるんだろうなあ、これから。エルが調子に乗らなきゃいいけど」


 配膳を終えたテールに促され、食事を始めながら、ノアは慌ただしそうな明日以降のことを考えてため息を吐いた。テールは返事をするでもなく、そんなノアをどこか翳りを帯びた顔でじっと見つめる。いつも無駄に明るい彼女らしからぬ表情に気付いたノアは、心配になり声をかけた。


「テール? どうしたの、元気ないけど」

「え? ううん、テールちゃんは元気だよ! それよりさ、ノア。食べ終わったら、ちょっとドレス、着てみなよ」


 明るく答えたテールにひとまず安心しつつ、ノアは首を傾げた。


「いいけど、何で? 採寸通り作ってあるんだろ、今更じゃない?」

「いいじゃない、着てみてよ。ほら、そうと決まればちゃっちゃと食べて!」

「わ、わかったけど……急かさないでよ、今日のご飯やけに豪華なんだから」


 言いながらテーブルを見る。並んだ料理の全て――じゃがいものポタージュも白身魚のムニエルも鶏の香草焼きも林檎のコンポートも、ノアが特別においしいと褒めたものだった。エルはずいぶん張り切って作ってくれたようだ。明日が儀式だからだろうか。


(あ、そっか、儀式終わったらコックさんもちゃんと来るんだよな。エルのご飯好きなんだけど、あんまり食べれなくなるのかなあ)


 まあ頼めば作ってくれるだろうが、少しばかり寂しく思う。名残惜しくテーブルをもう一度眺めたノアは、デザート皿に挟まっていたカードに気付いた。


 ここ数日のエルは特にカードなどは寄越さなかったので、こうした伝言は久しぶりだ。何が書いてあるのだろうと気になり、食事を中断して手にとってみる。開いてノアは呆れた。うわ、と漏らした声に、テールが手元を覗きこんでくる。


「……キスマーク?」

「人をおちょくってるよな、相変わらず……」


 呆れたノアはカードを脇にどけて、せっせと食事を再開した。

 開かれたままのカードをしばらくじっと見つめたテールは、ノアには聞こえないように小さく、バカだねえ、と呟いた。




「うっわあ、ノア、似合ってるよ! こういう服だとちゃんと十六歳に見えるねえ!」

「褒めてるのか、それ?」


 感嘆したように声を上げるテールを横目で睨んでノアは言う。


 何だかんだそれなりの時間をかけて食事を終えたノアを急き立てたテールは、さっそくドレスをノアに着せ付けた。満腹になったせいもあり、正直なところ面倒臭かったのだが、はしゃぐテールに逆らっても意味がないと知っていたので大人しく従った。


 やけに張り切ったテールは髪やら服やらも整え、あまつさえ薄く化粧まで施した。そしてやっと鏡の前に連れて来られたノアは、そこに映る自分をまじまじと見つめる。


 絹で作られた光沢のある白いドレスは、身に纏ってみるとひらひらした長い裾がすとんと落ちて、思いの外すっきりと体の線が見える。蕾は衆目に晒さないのが薔薇家のしきたりなので、襟は首まできちんとあるが、胸の上からは薄いレースを重ねた生地で作られているので重苦しくはなく、むしろ軽やかな印象だった。袖はない。二の腕までを覆う長いレースの手袋をしてはいるものの、華奢な肩はむき出しだ。柔らかな頬を覆うのは、ふわふわと緩く波打つ赤い髪。白いドレスと肌に、赤い髪はよく映えていた。


 鏡に映るめかし込んだ自分をじっくり検分した末に、ノアはなるほど、と重々しく頷いた。そして拳を握って叫ぶ。


「合格! かわいい、僕、かなりかわいい! 自分なのが惜しいほどに!」

「うん、自分で言っちゃうのが実に惜しいねえ、ノアは」


 さらりと毒を吐いたメイドは、それでも満足そうにノアを見つめて笑う。


「ってことで、私は当主ちゃんのお迎えに行ってくるね! だからノアはエルに見せにいきなよ、その格好!」

「『だから』の意味がわからないんだけど!? いいじゃん、明日見せるんだから」

「明日なんてゆっくり見てる暇ないよ。だから、会いに行って。……後悔しないように」

「……どういう意味?」


 不意に真剣な声を出したテールを不思議に思い、赤い瞳を覗きこむ。

 テールは無言のまま、ノアの額にこつんと自分の額を合わせた。


「テール……?」


 ますますきょとんとするノアをよそに、目を瞑ったテールはしばらくの間そうしていた。やがて額を離した彼女は、いつも通りの顔に戻ってふふっと笑った。


「だ・か・らー、今夜は私、もうこの部屋には来ないから、遠慮も心配もしないで思う存分好きにしちゃっていいからね〜って意味! じゃ、行ってきまーす!」

「使わないよ! 変な気の回し方するの止めてくれないかないい加減!?」


 とんでもないことを言い残したテールは、怒鳴るノアにひらひらと手を振って、逃げるようにドアに走っていった。


 ドアを閉める寸前、一瞬だけ振り向いたテールは、淋しげに笑ってぽつりと呟く。


「……何もできなくて、ごめんね」


 小さな声はドアの閉まる音に紛れ、ノアの耳には届かなかった。




 閉まったドアを見つめてまったくもう、とドレスを脱ごうとしたノアはしかし、鏡に映った自分に手を止めた。


(かわいい、よな、僕。……うん。かわいい。実にかわいい)


 鏡に近付き、すっかり清楚な美少女と化した自分と見つめ合い、しみじみと頷く。

 腕を組んでうーんと悩み、悩んだ末に、ノアは閉まったばかりのドアに向かった。


(……別に、見せたいとかじゃないけど。でも、テールがうるさいし、せっかく着たんだしな、うん。別に褒められたいとかじゃないけど!)


 全力で言い訳しつつ、それでもこの格好を見たエルがどんな顔をするのかが無性に気になったノアは、落ち着かないような浮き立つような妙な気持ちで、いそいそと赤いドアをくぐった。




□□□

 屋上の手すりに背中を預け、エルは大きく空を仰いだ。


「落ちるぞ、エル」

「この景色も今日で見納めだからさ。長かったような、短かったような。なんにせよ、濃い一ヶ月だったよ。……楽しかったな」


 館で過ごした一月を思い返して笑ったエルは、緊張のためか、複雑な顔をしている騎士に目を向けて言った。


「ついに明日だ。ありがとな、クライブ。今まで色々と」

「……改まって言うな。今生の別れでもないだろう」

「まあ、そうだけど。でも、戻ったらもう俺は『白薔薇の息子』では居られないからさ」


 明日、エルのやろうとしていることは、息子の失踪を隠蔽してきた白薔薇にしてみればれっきとした裏切り行為だ。ネスが戻れば家の断絶になることはないだろうが、風当たりは強くなるに違いない。いくら大輪の蕾を持つとはいえ、後足で砂をかけるような真似をしたエルを手元に置き続けようとは、白薔薇の当主は思わないだろう。


(悪いなハゲ親父、また髪が減るな。今更あんたを恨んでるわけじゃないんだけどさ)


 内心で謝っていると、不意にクライブが尋ねてきた。


「ネスを取り戻した後、お前はどうする気だ?」

「そうだなあ、どっかの田舎で料理屋でもやろうかな。『イケメン店主の家庭料理屋、開店キャンペーン期間は魔法の薔薇をプレゼント!』って、繁盛しそうじゃないか?」

「……そうだな。お前は客のあしらいも上手そうだしな」

「なんだ、めずらしいな? お前が冗談に乗るなんて」


 驚いて騎士を見上げると、クライブは笑うでもなく、むしろ不機嫌そうな顔をしていた。その顔のまま、むっつりと彼らしからぬ冗談を続ける。


「開店したら教えろ。ノア様を連れて行ってやる」

「それは……さすがに意地が悪いだろ」


 一瞬怯むが、何とか苦笑を作ったエルを更に追い詰めるように、クライブは言う。


「エル。お前はもし、ノア様の記憶が戻ったら、どうするつもりだったんだ?」

「……ほんとに意地悪だな、今日は。今更『もしも』談義なんて意味ないだろ?」


 向けられた視線をかわすように空に目を戻すが、クライブは返事を待つように黙ったままだ。ため息をつき、エルはしぶしぶ口を開く。


「『もしも』なんてないんだよ。あの子は思い出さなかった。あの子のこれからに俺は必要なかった。そういうことで、いいだろ」

「お前には、どうなんだ」


 明確な答えを返さないエルに、クライブは焦れたような声を出した。


「お前のこれからに、彼女は必要な人だったんじゃないのか」

「……あーのさー、クライブ。あんまり俺をいじめるなよ。泣くぞ?」

「茶化すな、エル。俺はお前の――」

「俺のことはもういいから。これからは、ネスをよろしくな。あいつ、ガキの頃でさえぼんやりしてたから、よりによって魔女の居る空でどんな風に育ってるのか心配だし。ちゃんと見て、守ってやってくれよ。あいつと……ノアちゃんを、さ」


 苛立った声を遮って告げると、ふっと短く息をついたクライブは、諦めたように目を伏せて言った。


「……それがお前の望みなら、そうするが。だが、俺は……」


 その時、蝶番の軋む微かな音が屋上に響いた。手すりから体を上げて前を向く。


 視線の先で扉が開いた。隙間からひょこりと覗いた赤い頭に、エルは驚いて目を見開いた。


「……ノアちゃん?」


 ぽつりと名を呼ぶと、手持ちのランプに照らされた赤い頭がこちらを向く。手すりにもたれるエルを見止めてほっとしたように笑ったノアは、白いドレスをひらひらと夜風になびかせて、小走りに駆けてきた。




□□□

「もー、何で部屋に居ないんだよ。あっちこっち探しちゃったよ!」


 理不尽な文句を言いながら駆け寄ったノアを、エルはやけに驚いた顔をしてぽかんと眺めた。なんで? と思ったところで、傍らの闇から声がかけられる。


「では、私は失礼します」

「うわっ、居たんだクライブ、黒いから気付かなかった!」

「……ごゆっくりどうぞ」


 ノアの持つランプの光の外に居たクライブは、ビクリと肩を揺らしたノアに小さく笑ってそう言うと、静かに一礼して去っていった。彼らしからぬ表情と台詞に、反発よりも驚きが勝ったノアは、屋上を去る背中をきょとんと見つめる。


 彼が扉を閉めてから、ようやくエルが口を開いた。


「儀式までは大人しくしてろって言ったのに、ノアちゃんは言うこと聞かないな」

「聞いてやってただろ、何日も。ただ、今夜はテールが……その、見せに行けって言ったから、お前に」

「……そっか」


 何をとは言わなかったが、エルには通じたようだった。

 青い瞳でじっと、ドレスを纏ったノアを見つめる。まるで、目に焼き付けるように。


 軽い褒め言葉と笑顔を予想していたノアは、妙にひたむきな視線を向けたまま黙りこむエルに居心地が悪くなり、えっと、と身動ぎしたはずみで聞いてしまった。


「ど、どう? 似合う?」

「……へ?」


 ぽろりと零れた問いに、エルは驚いたような呆けたような声を出した。


(し、まった、何か変なタイミングで褒めろと言わんばかりのことを……っ!)


 かっと頬に血が上る。

 慌てたノアは、ますます悪くなった居心地をごまかすようにまくし立てた。


「いやその……自分ではけっこうかわいいじゃん僕! これはいける! みたいに思ったんだけど……そ、そうでもない……かな? だよね、なんかこれ大人っぽい、し……」


 何いってんだ僕、と頭の隅では思うものの、口は勝手に動いていた。誤魔化すように頭をかいてへらりと笑うが、やはりエルは答えない。黙ってノアを見つめるだけだ。


「えっと……あの、じゃあ、それだけだから。おやすみ」


 居た堪れなくなり、ぎくしゃくと踵を返そうとしたその時、腕を掴まれた。驚いたノアが振り向く前に、エルは小さな声で言う。


「きれいだよ」

「っ……」


 掴んだ腕をそのまま自分の方へ引き寄せたエルは、胸に倒れ込んだノアを後ろから抱きしめた。むき出しの肩を思いがけず力強い腕で抱かれ、息を飲む。


 とっさのことで抵抗もできず、黙って身を固くしたノアの耳元で、エルはもう一度同じ言葉を言った。


「きれいだ。すごく」

「…………エ、ル……?」


 エルの声には普段の茶化すような響きはなく、かといって言葉通りに感嘆しているようでもなかった。静かな声からは感情が読み取れない。


 ならば顔を見ようと首を回そうとしたノアの動きを、エルは抱きしめる腕に力を込めることで制した。あからさまに緊張したノアに、腕の力を緩めたエルは小さく笑う。


「そういう格好だと、ノアちゃんずいぶん大人っぽくなるな。ちゃんと十六歳に見える」

「テールと同じ事言うなよ……」


 文句を言いながらも、ようやくいつも通りに軽い声を出したエルにほっとしたノアは、ドレスの裾を摘むようにして言った。


「まあでも、たしかに大人っぽいよね、これ。清楚系。パレードもこれでやるのかな? 母さんの服っていつもわりかし派手だから、そういうものかと思ってたけど」

「パレードなんかは分かりやすいように家の色着るからな。ノアちゃん家なら赤だから派手になるか。今頃せっせとお針子さんが作ってるよ、ノアちゃんの派手可愛いやつを」

「……見たい?」

「え?」

「だ、だから、そのっ……」


 とっさに聞いてしまってからしまったと思うが後に引けずに、尻すぼみに続ける。


「エルは僕のドレス姿とか、もっと見たいのかなって……いや、見たいも何も否応なしに見る羽目になるんだけど、その」

「――うん。見たい」


 要領を得ない喋り方をしたノアにふっと笑い、エルは頷いた。そのままそっと、ノアの肩に顔を埋めるようにして続ける。


「見に行くよ、ちゃんと」


 後から考えてみれば、その物言いは妙だった。


 けれどこの時のノアはそれに気付かなかった。首筋にあたる吐息や、頬に当たる柔らかい髪の感触から意識を逸らすのに精一杯だったからだ。


「あのさ、ノアちゃん」

「な、何だよ」

「好きだよ」

「……僕も……お前のことは嫌いじゃない、けど……」


 一際激しくなった鼓動を誤魔化すように言った後で、これはあんまりいい答えじゃなかったな、と思ったノアは慌てて付け足す。


「最初に――婚儀の時にお前を見た時、運命だって思ったし」

「運命?」


 きょとんとしたエルに、ノアは小さく笑う。


「運命の相手。なんでか分からないけど、昔から、僕には『運命の相手』が居るんだって確信してたんだよね。永遠の愛を誓うべき相手が僕には居るんだ、って。女のエルを見た時は、この子が僕の運命だ! って思ったんだけど」

「……そっか」


 じゃあ今の俺は、とかそういう軽口を叩くかと思ったが、ぽつりと呟いたエルはそれ以上何も言わなかった。拍子抜けしたノアは悩んだ挙句、思い切って聞いてみる。


「エルは、どうして僕が……その、好きなの? やっぱ、一目惚れ? 運命感じた?」

「思い出すよ」

「え……?」

「思い出すよ。いつか、絶対に」


 強い声で言い切ったエルは、そこでノアを抱いた腕をほどいた。離れていく温度を拒むようにドクンと大きく胸が鳴り、目の前がチカッと白く光る。


「……さて、と。もう遅いから、そろそろ寝なよ。その格好じゃ冷えるだろ」

「――居なく、なるなよ?」


 促すように背中を押したエルに向き直り、ノアはほとんど無意識に呟いていた。


「ノアちゃん?」

「離れるなよ。僕が好きなら、ちゃんと傍に居ろよ。わかったな!?」


 襟首を掴むようにして視線を合わせ、ノアはエルの驚きに瞠られた目を睨みつけた。


(離しちゃ、だめだ)


 街に行った夜と同じ衝動が、ノアを突き動かしていた。


 わけの分からない不安と焦燥に肩が震える。けれどエルは、もうノアを抱くことはしなかった。答えることもしなかった。ただ一言、静かに言った。


「好きだよ、ノアちゃん」


 虹彩の大きな青い瞳を細めてきれいに笑ったエルは、すがるように襟を掴んだノアの手をそっと解いて背を向けた。部屋に戻る最中も、ノアを振り返らなかった。




□□□

 屋上から階下へ下ったクライブは、庭で空を見つめるロディを見つけた。何をしているんだと思い、柱の影から様子を窺っていると、間を置かず空から鳩が降りてくる。足についた紙をどこか緊張した面持ちで外したロディの背後に気配を殺して歩んだクライブは、少年の頭越しにそれを取り上げた。


「こんな夜更けに誰と文通しているんだ、ロディ」

「うわっ」


 ビクッと肩を揺らしたロディが振り返るより先に、取り上げた手紙を開き、声に出して読み上げる。


「『貴君の上申は受け取った。白薔薇の処遇は継承の結果如何によって立会人が判断する事とする。貴君はそのまま待機せよ』――なるほどな。銀薔薇からの返事か」


 銀薔薇の印璽のある手紙を閉じて嘆息したクライブは、挑むようにこちらを睨むロディに畳んだ手紙を黙って差し出した。その手とクライブの顔をぽかんと見比べたロディは、訝しむように眉を寄せた。奪うように手紙を取り戻し、鋭く言う。


「……責めないんですか? 俺がエル様の頼みを無視して……銀薔薇に事の全てを密告したこと」

「責める資格は俺にはないだろう。騎士として正しい行いをしているのはお前の方だ」


 薔薇の騎士の一番の役目は薔薇家の目付けだ。後継者の失踪という秘密を知ってなお、銀薔薇にも国にも報告せずに黙っているクライブの方こそ、騎士の任務に背いている。


 あっさりと言ったクライブに、ロディはますます不信を募らせたようだった。


「……それが分かっていて、あなたはどうして六年も真実を告げなかったんですか? 魔女の警告を受けた上、後継者が消えたなどということがもし銀薔薇に知れたら、たしかに白薔薇は神に『見放された』として大輪の号を剥奪されるかもしれない。でも、あなたは騎士で、自分の役目を分かっているのに」

「買収されたんだ」

「冗談言わないでください。俺の目だってそこまで節穴じゃありません。第一、金で動くような人間が薔薇の騎士に任じられるなんて、ありえない」


 むっとしたようなロディは、間髪入れずにそう返した。

 若い騎士の誇り高さに、クライブは小さく笑う。


「冗談じゃない。俺はエルに買収された。……金をもらったわけではないが」

 言いながら、クライブは遠い過去を思い出していた。




□□□

 エルと初めて会ったのは七年前。

 クライブが薔薇の騎士に任じられて間もない頃だ。


 何かの仕事だったのか、単に当主の娯楽だったのかは忘れたが、とにかく当主の伴として訪れた田舎街の宿で、たまたま見つけた大輪の蕾を持つ子供がエルだった。


 親を事故で亡くし、両親の友人だった夫婦に引き取られたというエルは、宿屋を営む夫婦のもとでそれでも明るく、子供ながらいっぱしに働いていた。


 蕾を持つ者同士だからか、それとも当主の秘蹟がエルに何かを感じ取ったのか。


 クライブに理由は分からなかったが、当主はくるくると働くエルを遠目に見ただけで、エルが大輪の蕾を持っていることを看破した。すぐさま命じられて調べたところ、エルの両親は薔薇家に縁の者ではなかった。それを知り、数奇な巡り合わせに、当主はずいぶん喜んだ。血統と無関係に蕾を持って生まれた者の所には、神が新たな秘蹟を授けにくる可能性が高いからだ。薔薇家が所持する秘蹟は一つでなくとも構わない。現に、長である銀薔薇は一族の中に五つもの秘蹟を有している。秘蹟が増えればそれだけ家の力は強くなるし、存続も確かなものになるのだ。


 蕾のことなど知らなかった宿屋の夫婦は狼狽したが、白薔薇が積んだ金貨の前に、あっさりエルを引き渡した。一連のやり取りを、幼いエルは冷えた目で眺めていた。


「俺は、高値で売れるいい『道具』だったみたいだな。……家族じゃ、なくて」


 『商談』のようなやり取りには一切口を挟まなかったエルは、話が終わり、部屋に二人きりになった時、まだ若かったクライブにぽつりと乾いた声で言った。


 それはエルが一度だけ漏らした泣き言で、本音だった。



 その後、白薔薇の屋敷に引き取られたエルは、宿での溌剌とした様子とは打って変わってほとんど喋らず、笑うこともない子供になった。できなくなった、というよりは、努めて心を開かないようにしているように見えた。どうしてそう思ったかと言えば、突然家に現れた同い年の子供を、「僕の方が誕生日が早いからエルが弟だね」とあっさり受け入れた白薔薇の嫡子、ネスに対する態度がおかしかったからだ。


 エルは、自分をやたらと構うネスを一見鬱陶しがっているようだったが、年より幼いネスのドジや失敗に密かに笑いをこらえるような顔をしていたり、かと思えば助けようと伸ばした手をはっとしたように引っ込めたりする現場をたびたび見かけた。


 エルの本来の性分は、明るく人懐こいものなのだろう。それなのに、こうして無理に心を閉ざしている。理由を知るのは、一度だけ漏らした本音を聞いたクライブだけで、それに妙に胸が騒いだ。罪悪感、というものを抱いていたのかもしれない。



 一年ほどして、エルは屋敷を脱走した。覚えたての魔法を駆使して子供のくせに巧妙に逃げ、連れ戻されるまでに二ヶ月はかかった。


 ――逃亡の間に何があったのか。


 当時は何も話さなかったが、戻った後のエルは、憑き物が落ちたように明るくなった。


 本来の性分のまま溌剌と振る舞うようになり、特にネスには心を開いた。髪や目の色、背格好が似通っていたこともあって、じゃれあう二人は本当の兄弟のようだった。何かを乗り越えたらしいエルに、クライブもほっと胸を撫で下ろしたのを覚えている。


 しばらくは平穏に過ぎ、半年ほどが経った頃、また事件が起こった。


 魔女が現れ、エルに魔法がかかり、ネスは空の森に消えた。


 姿を女に変えたエルを、当主は周囲に『ネス』と言い張った。彼らの顔かたちはそう似ていなかったが、性別自体が変化した以上、外見だけで正体を看破できる者は居らず、エルもまた芝居に協力していたため、違和感を指摘したのはクライブだけだった。


 そして、エルは正体を看破したクライブに全てを打ち明けた。


「ハゲは多分、ネスを諦めるつもりだ。でも、お前は白薔薇の――ネスの騎士だろ? だから、俺に協力してくれ。俺はネスを取り戻したい。あいつは俺の、兄貴なんだ」


 神の創った空の森の消息を辿ることは、秘蹟の力を持ってしても容易ではない。叩けば埃が出る体で、銀薔薇や赤薔薇の目の光る中、消えた子供の捜索を続けることは当主でも不可能だったのだろう。家の存続のため、当主は大輪の蕾を持つエルを秘蹟の器とすることに決め、息子の捜索は諦めた。きっとエルにはその判断が遣り切れなかったのだろう。『家族』に道具として捨てられたことのある、彼には。


 ネスを兄と呼んだエルの声は、忘れかけていたクライブの罪悪感を刺激した。だからだろうか。騎士の任務は重々承知しており、それに誇りも抱いていたはずなのに、クライブが迷うことはなかった。


 きっぱりと頷いたクライブに、エルはほっとしたように笑った。


 気の長い計画を話し始めたエルに、クライブも安心した。エルは戦うつもりだ。いつかのように、心を閉ざすわけではなく。だから、エルは大丈夫だ。大丈夫だと思っていた。


 ――この館で、エルがノアに再会するまでは。




□□□

「金じゃないなら、クライブさんは何で買収されたんですか?」


 怒りよりも興味が勝ったらしいロディのきょとんとした問いかけに、回想から覚めたクライブは少し考え、こう答えた。


「ネスを取り戻すことは、あいつにとって、過去の自分を救うことと同義なんだ」

「……はい」


 かいつまんでだが、ロディには真実を告げてあるとエルは言った。

 だからだろう。神妙に頷いたロディに、クライブは続ける。


「俺には、あいつを当主殿に引きあわせてしまった負い目がある」

「はい……って、はあ?」


 ロディはまた頷きかけたが、途中で怪訝に眉を寄せた。クライブは気付かず続ける。


「だから、エルの望む通りにネスを取り戻す手助けをしてやることで、その罪悪感から開放されたいというのが俺の得る対価だ。もちろんネスも助けてやりたいが」

「……あのー、クライブさん。それ本気で言ってます? それとも冗談ですか?」

「……は? お前こそ何を言ってるんだ。冗談か?」

「…………」

「…………」


 じっと見つめ合うが、お互いに顔は真剣だった。

 やがて諦めたように肩を落として目を伏せたのはロディだった。


「クライブさん、言葉の使い方がおかしすぎます。あなたがされたのは買収とかじゃなくて、持ってるのも罪悪感じゃないですよ」

「じゃあ何だ」

「だから、あなたは単にエル様に絆されてて、心配だから協力してあげてるって、それだけじゃないですか。罪悪感とかより保護欲でしょう多分それ」

「保護欲……?」

「お父さんお母さんの気持ちってことです。大体あなた引きあわせたって宿取っただけでしょうが。罪悪感持つ必要も資格もないですよ」 


 理解が追いつかずぼけっとしたクライブを心底バカにしたような目で見たロディは、がりがりと頭をかいてやけになったように続けた。


「大体、エル様を守りたいなら、方法が間違ってません? ノア様とエル様を離れ離れにして、それでエル様は大丈夫なんですか?」

「……エルは大丈夫と言っているが」

「あなたはどう思うんですか」

「俺は……」


 問われ、クライブは視線を土の上に落とした。

 テールと話した時と同じように、心が揺れる。


 この館に来て、ノアと接するエルを見て、クライブは何度もエルに聞いた。大丈夫なのか、と。それは多分、大丈夫ではないと思ったからだ。自分で選んだことだから、エルは後悔はしないだろう。それでもノアを失えば、エルはきっと、とても寂しい。


 けれど、エルはネスを見捨てられない。ネスを忘れて、彼に成り代わって生きるのは、エルには無理だ。だから、クライブは今、身動きが取れない。


「あいつが本心では何を望んでいるのか、俺にどうしてほしいのか……最後までわからなかった。だからせめて、あいつの言う事に従ってやるしか出来ない」

「分からないなら、するべきことをすればいいじゃないですか」


 銀薔薇からの返答をびりびりと破きながら、ため息まじりにロディは言った。


「俺はもう、いきなり色々聞かされて何が何やらさっぱりですから、悩むのは止めました。まず、騎士としての任務を果たす。それだけを考えるって決めたんです」

「……つまり?」


 何を言わんとしているのかわからず、視線を上げたクライブは、破った手紙を律儀にポケットに仕舞うロディを眉をひそめて見つめる。


「第一は、銀薔薇への報告。これはもう済みました。だから後の使命は主を守ることです。俺は明日、ノア様を守り、ノア様のために行動します」

「…………」


 風に舞いそうになる紙片を慎重にしまい終えたロディは、クライブをまっすぐな目で見つめて言った。


「だからクライブさんも、主のために行動すればいいと思います。望むことが分からないなら、あの人のためにしたいと思うことをすれば、それでいいんじゃないでしょうか」

「……ロディ。お前、年はいくつだ?」

「へ??? じゅ、十六ですけど、何ですかいきなり」


 唐突に尋ねたクライブに面食らった顔をしつつも、律儀に答える。

 空に目を向けたクライブは続けた。


「俺が白薔薇へ派遣されたのも十六だった。七年前だな」

「はあ……???」

「七年間、ずっとあいつの傍に居たんだ。……そうだ。俺は、エルの騎士だ」


 口に出すと、やっと答えが見えた気がした。


 表情を変えたクライブに気付いているのか居ないのか、つられたように空を見上げたロディは小さく呟いた。


「――ところで、そのエル様はこないだまで、女性だったんですよね」

「? ああ」

「美人でした?」

「……ああ」

「そうですか……。その頃を知ってれば、こんなに腹立たなかったんですかね。でも、俺は生憎、鈍いクライブさんと違ってノア様のしてほしいこと、わかる気がするんだよなあ。気は進まないんだけどさあ。でも俺、ノア様の騎士だしなあ。はあ……」

「……???」


 ぶつぶつとぼやき始めた若い騎士に、クライブは首を傾げた。




□□□

「おっはようノア! いつまで寝とぼけてるんだとっとと着替えろ! 今日は継承の儀にふさわしい爽やかないい天気だぞ!」

「うおえあっ? か、母さん!?」 


 爽やかないい天気らしい早朝に、嵐のように現れたのは母だった。


 ずかずかとノアの寝室に乗り込んだ母は、ノアを布団ごとベッドの外へ放り出すと、目を白黒させる娘に頓着せずに身支度を整え始めた。


 洗面器に張った水に顔をつっこまれ、質問する間もなく洗面させたれたノアに、母は昨夜の衣装をどんどん着せ付けた。


「ほーれ出来た! おお中々かわいいじゃないか胸と尻は貧相だけどってかそう思うと男の時とあんまり変わんないな縮んだだけであっはっは! まあかわいいぞ、娘よ!」

「何かもうどこから突っ込めばいいのか分かんないくらい全体的に失礼だけど、なんで母さんが!? テールは!?」

「テールは今日は大事な役目があるからな。まあ私だって中途半端に男だったお前と違って長年女やってきたんだ、支度くらいできる。どうだ、ちゃんと仕上がっただろう!」

「いやまあそうだけど」


 てか誰のせいで男になってたと思ってんだと胸中で毒づきながらも、ようやく覚めた目で、鏡の中の自分を見つめる。手際はえらく乱暴だったものの、出来上がったノアは、昨夜と同じく合格点だった。


「さーて、じゃあ、儀式だ。実は私も寝坊しちゃってもう遅刻気味だからかっとばせ、ノア! 走るぞ! ゴールは屋上の祭壇だ!」

「うええ!? ああもう、いきなりめちゃくちゃだなちくしょう!」


 長い裾をからげて屋上まで走り、ついた頃には汗だくになっていた。ぜえぜえと息をしながら両開きの扉を開いて小走りに至った祭壇では、すでに儀式の準備は整い、銀薔薇の立会人らしき人影の前に、ハゲの当主と白い衣装を纏ったエルが立っていた。


「何をしている、とっくに開始時刻は過ぎているぞ、赤薔薇! お主はなぜそう全てにおいて自分勝手でだらしないんだ!」

「うっるさいな、喚いたって時間は戻らんぞハゲ薔薇」

「誰がハゲ薔薇だ!」

「では、揃ったようですので、儀式を始めます。忙しいんですから、手早くやってくださいね」


 事務的に言って祭壇の奥に立った立会人は、どうやら婚儀の時と同じ人物だ。

 立会人の言葉を受け、二人の当主はとりあえず黙り、ノアと対になっているような白い衣装を纏ったエルは祭壇の前に進み出た。視線で促され、ノアも慌ててそれに倣う。


「――創世の神に根源を託されし大輪の主、銀薔薇の立会いの元、ここに秘蹟の継承を行う。まずは赤薔薇の当主アンジェリーナ・アドニスから、赤薔薇の娘ノア・アドニス・ロゼへ」


 その声に、母がすっと歩み出た。


 祭壇とノアの間に立った母と向かい合う。にわかに緊張したノアを見て、がんばれよ、というように眉を跳ね上げて笑った母は静かに目を閉じ、自分の胸に手を当てた。


「母アンジェリーナより、娘ノアへ。神の許しのもと、ここに秘蹟の移譲を行う」


 胸に当てていた手で、レースの下に隠されたノアの蕾にそっと触れる。

 とたんに蕾がぶわっと熱を持った。激しい熱は一瞬で体中に広がる。


 ――いや、広がるというよりは、今まで知覚できなかった大きな力の本流に、ノア自身が飲まれていくようだった。その大きさに、ノアの足はぐらりと傾き、祭壇前だけに敷かれた大理石の床に膝をつく。


(な、なにこれ……っ、なんかすごい色んなものが流れてくるような、どうしよう――って、あ、おさまった)


 このまま飲み込まれてしまうのではないかと焦った時に、不意に目眩はおさまった。後に残ったのはふかりとして柔らかい、よく知った誰かに抱かれるような感覚だけだった。


「母さん……?」

「おさまったか? よしよし、ちゃんと『制御』はしてもらえてるみたいだな」

「せ……制御って……?」


 一瞬、母が抱いてくれたのかと思って見上げるが、腰に手を当てた母はノアを偉そうに見下ろしているだけだった。


「ま、つまりお前は秘蹟に認められたってことだ。認められないと世界に満ちる力に飲み込まれていろいろ大変なことになるんだけど、いやあよかったよかった」

「えっそうなの!? 先に言ってよ、何、地味に命がけだったのこれ!?」

「まあまあ、怒るなって。大丈夫、秘蹟の意思は主にはちゃんと伝わるもんだから、継承する相手を間違えるなんてそうそうないさ。うちの秘蹟は特におしゃべりだしな。それよりもほら、お前の夫の継承をちゃんと見といてやれよ」


 怯えるやら怒るやらのノアを軽くいなした母は、そう言って隣に視線を移した。つられて見ると、そこにはいつの間にやらさっきのノア達と同じように、継承を行なっているエルと当主の姿があった。


 胸に手を当てた当主は瞼を開き、前に立つエルの青い目を、覚悟を問うようにじっと見つめた。小さく笑ってエルは頷く。それを受け、当主はゆっくりと、白い服の下にある、エルの蕾に手を当てた。


「――……っ、」


 ノアと同じようにぐらりと傾いたエルはしかし、地面に膝をつくことはしなかった。胸を押さえてじっと、こらえるように、語りかけるように背を丸める。


「エ、エル? 大丈夫か!?」

「――……大丈夫。なんとか、認めてくれたみたいだ」


 心配になり思わず声をかけたノアに、顔を上げたエルは小さく答えた。


 肩を落とし、ほっと吐いた息が誰かと重なった。音の方へ目をやると、白薔薇の当主も安堵したように青い目を細めてエルを見ている。ノアと目が合うと、ごまかすように視線をよそへ向けて咳払いした。


「継承は無事に済んだようですね。では、新たな秘蹟の主として、両者とも己の名を神の下に宣誓してください。まずは赤薔薇」

「へあ? え、ええと、ノア・アドニス・ロゼ……け、継承しました。らしいです」


 突然言われ、ノアはしどろもどろに答えた。

 全然宣誓という感じではなかったが、立会人は頓着せずによろしい、と頷いた。


「では続いて、白薔薇」


 促した立会人に、エルは小さく息を吐いた。そのまま答えない。


「白薔薇? どうしました?」

「早く誓わんか、エル――いや、エルネス!」


 焦ったように叫ぶ当主に困ったように眉尻を下げて、エルは笑った。


「……悪いな、ハゲ親父。俺、やっぱ、あんたの息子にはなれないわ」

「エル……お前、この期に及んで何を……っ!?」

「ど、どうしたの、エル。今は反抗期やってる場合じゃないよ!?」


 怒りのためか青くなったハゲを横目で見つつ、ノアはエルの長い袖の裾を引く。その時、屋上にふっと影が差した。雲が太陽を遮ったのかと思い、顔を上げる。


 そこに見えたものに、ノアは目を見開いた。


「し、島……!?」


 浮かんだ雲の遥か上に、それでも緑に覆われた島のようなものが、ぽっかりと浮かんでいるのが見えた。それをじっと、睨むように強い眼差しで見上げて、エルは鋭く言った。


「やっと姿を現したな――『空の森』!」


 言葉が終わる前に、エルから大きな力が溢れた。


 熱を伴ったそれはノアのドレスと髪を大きくはためかせた。とっさにノアは目を瞑る。


 次に目を開いた時、エルの前には階段が伸びていた。いつかの夜にノアと登った、淡い光を端に宿した透明な階段が長く、高く。


「エル……エルネス! どこに行くつもりだ、何をしに――まさか……!」

「俺はエルネスじゃない。あんたが一番よく知ってるだろ。ネスは、あそこに居るんだ」


 震えた声を出す当主に、エルはいっそ穏やかに答えた。


 そして、そのままの声音で当主に、表情を変えず静かに状況を眺める立会人に、ぼけっと立ち尽くした母に。そして傍らのノアに向けて、まっすぐに笑って言った。



「俺の名前はエルバートだ。

 白薔薇の後継者の偽物で――本物のエルネスは、あそこに居る」



「エ、ル……? お前、何を……?」


「ごめんな、ノアちゃん。ちゃんと本物を連れて来るから、許してくれ」


 袖を掴んだままだったノアの手を、エルはそっと解いた。


 一瞬だけ、名残を惜しむように指先がきつく握られる。けれどそれはすぐに離れ、エルはノアに背を向けた。


「エル……っ」

「騙してて、ごめん」


 もう一度伸ばしたノアの手は、何も掴めずに空を切った。


 瞬間、目の前がチカッと白く瞬く。同時に頭が鋭く痛み、たたらを踏んだノアは床にがくりと膝をついた。


 背を向けたエルは倒れたノアを振り返らずに、透明な階段をまっすぐに、迷いなく登っていく。エルが踏んだはしからさらりと溶ける階段と、遠ざかる背中を、屋上に残されたノア達は、ただ黙って見つめることしかできない。


 その背がずいぶん小さくなってから、蹲ったノアの手元に、ぽたりと小さな雫が落ちた。ぽたり、ぽたりと続いて溢れるそれに、ノアはぎり、と唇を噛む。ドクドクと大きく心臓が鳴っている。頭が痛い。わかっている。この痛みは警告だ。気が付くなという、あの子を愛したノア自身からの警告だ。


 でも。

 だけど。


 ノアが今、行かないでと願うのはエルだった。


 行かないで。隣に居て。手をつないで、笑ってほしいと願うのは。――その理由は。


「……行くなよ。戻ってこいよ。お前は僕が好きなんだろ。だったら戻れよ! だって、僕も……僕だって……っ」


 そこで、ノアはやっと認めた。涙に濡れた目を乱暴に拭い、睨むように空を振り仰ぐ。


 頭痛はますます酷くなる。鋭い痛みを打ち破るように、すっかり遠くへ行ってしまった背中に向けて、胸に生まれたばかりの感情を投げつけた。



「僕だって、お前が好きなんだ!」



 その瞬間、一際まぶしい光が大きく瞬いた。


 嘘のように頭痛が治まり、眩んだ世界の奥で、閉じていた記憶の蓋が開く。


 そしてノアは思い出した。あの子に出会った日のことを。共に過ごした短い日々を。


 追いすがるノアに、あの子がかけた魔法のことを。

 その魔法の、鍵の名前は。


 あの子の、名前は。




□□□

「…………ふ、ざけるな、よ……っ!」


 濁流のように押し寄せた記憶に、その内容に、ノアは絞りだすように呟いた。

 ふつふつと湧きだした怒りのまま、大声で自分の胸元に向けて叫ぶ。


「テール! 階段!」

『えっ!? ノア、いつテールちゃんが秘蹟だってわかったの!?』

「今だよ今! それはいいから階段! 早く!」


 叫びながら、今しがた見たばかりの階段を脳裏に描く。


 ぶわっと胸の蕾が開き、大きな力が集まるのがわかった。扱ったことのない質量に圧倒されそうになるが、テールがうまく誘導してくれたのか、魔力は暴走することなく収束し、歪ながらも空に伸びる階段となってノアの前に現れる。


「――行くな、ノア。魔女の元へ行けば、戻れる保証はないぞ」


 階段に足をかけたノアの腕を掴み、引き戻したのは母だった。


「でも、僕はエルが……!」

「よくわからんが、エルネスでない以上、奴はお前の夫じゃない。我らは謀られていたんだよ。あいつに――いや、どこの誰とも知れぬガキを自分の息子と偽った、この男にな」

「…………」


 蒼白な顔をして黙り込んだ白薔薇の当主を憎々しげに睨み、母ははっと笑った。


「そんなことはどうでもいいんだ! 僕はエルを追いかけて連れ戻す!」

「分からない子だね、お前も。お前の夫はあいつじゃない。だから連れ戻す必要はない。折よく銀薔薇殿もおいでだ、じっくり話し合うとしようじゃないか。なあ、白の当主殿?」

「母さん、離して! 離してくれないなら、テールの力を使っても――」

「秘蹟はなくとも母さんは強いんだよ、ノア。蕾の使い方を熟知しているからね。ちなみに腕っ節も強いから――そうだな、それが手っ取り早い。ちょっと眠ってなさい」

「――ッ!」


 言いながら手を振り上げた母に、ノアはとっさに目を瞑る。

 しかし、母の手はノアではなく、背後で振り被られた何かを掴んだ。


 頭上で聞こえたバシッと高い音に、ノアはおそるおそる目を開く。そしてぽかんと瞬いた。母が掴んでいるのは剣だ。そしてその柄を握っているのは、ロディだった。


「おい、犬っころ。主君に剣を向けるとは、それでも騎士か?」

「俺の主君はノア様です! ついでに鞘に収めたままなのでこれは剣ではなく棒っきれですので薔薇家に剣向けるべからずという規律にも反していないと自分は判断しておりますので悪しからず!」

「何が悪しからずだ! 悪いわクソガキが!」

「ぐはっ」


 剣を止めたのとは逆の手に何故か魔法でフライパンを生み出した母は、それで思いっきりロディの頭を殴った。ガツンと固い音がして少年が地面に倒れる。まったく、と肩を竦めた母の背に、もう一人の騎士が斬りかかった。


「――クライブ!?」

「今度は白の大型犬か? 何なんだよ、お前らは」


 まだ出したままだったフライパンで、やはり鞘に収まったままのクライブの、それでも鋭い剣戟を防いだ母は呆れたような声を出す。それには答えず、ぎりぎりと力比べをしたクライブは、突然の妙なバトルにぽかんとしていたノアに叫んだ。


「ノア様、エルを追ってやってください! ここは食い止めますから!」

「え……、で、でも君たち母さんとこ置いてったら殺され、てかなんでここに」

「俺たちは大丈夫ですから、ノア様、急いでくださいこの人めっちゃ強いです! エル様は俺正直気に入らないけどでも、ノア様はあの人を、追いかけたいんでしょう!?」


 クライブの剣を弾いた母に、立ち上がったロディが再び打ち込みながら叫ぶ。


「だめだ、ノア。行ったらお母さん許しませんよ!」


 ついに両手にフライパンを構えた母は二人の騎士に手一杯で、さすがにノアを止めるだけの余裕はないようだった。焦ったように声を荒げるが、もちろんノアは母の制止など聞かなかった。


「あ――ありがとう、二人とも。あと母さんその人たち殺さないでね! ――じゃあ行くよ、テール!」


 何がなんだかわからないが、足止めしてくれるらしい二人に礼を言い、高く伸びた階段を駆け上がる。その背中に声が届いた。


「ノア殿! エルを――エルバートを、どうか……!」


 走りながら振り返ったノアは、こちらを見上げる当主に小さく頷いて、細くがたついた危なっかしい階段をますます強く蹴りあげた。


(エルは絶対に連れ戻す。もう一人では行かせない。僕を置いていかせるもんか!)


 足にまとわりつくドレスの美しい裾を大きくからげ、長い長い階段を一段飛ばしで登りながら、ノアは怒っていた。戸惑いも恐怖も忘れるほどに。


 過去と今、両方の『あの子』に向けて、深く激しく、怒っていた。

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