4章 夜の街


 朝食の間中、ノアはぼけっとしっぱなしだった。


 エルが怪我をしたり部屋がしっちゃかめっちゃかになったりで、昨日は結局、夜までばたばたしていたせいだろうか。それでもそう遅くはない時間に眠りについたはずなのに、なんだか疲れが取れていないというか、長い夢を見た後の疲労感のようなものが、澱のように頭に残っている。


「……大丈夫か? ノアちゃん。食欲ないのか?」

「へあっ!?」


 かけられた声に驚き、持ったままだったスプーンからぼたりとスープが溢れる。

 ナプキンを差し出してくれながら、エルは心配そうに言った。


「今日は休みにしとくか? 調子悪そうだし」

「い、いや、大丈夫。ちょっと、よく寝れなかったみたいで、それだけだから。お前こそ大丈夫なのか? 頭」

「傷ならもう平気だよ。頭の中身はもともと大丈夫じゃないから大丈夫だし」

「自分で言うのか、それを」


 軽口を交わしているうちに、何となく頭がはっきりしてきた。


 結局、いつも通りに食事を平らげ、さて授業を始めようかと食後の休憩を終えたノア達が席を立ちかけた時、先に食堂を出ていたクライブが足早に戻ってきた。いつも冷静なクライブにしてはめずらしく、目に見えて慌てている。


「どうしたの? 忘れ物?」

「いえ、そうではないのですが――エル、ちょっと」

「? なんだ?」


 呼ばれて戸口に歩んだエルに、クライブは小さく何かを耳打ちする。終わったとたん、眉をしかめたエルがろこつに迷惑そうな声を上げた。


「は? ハゲ親父がここに来てる、だと? なんで?」

「――その呼び方はやめろと何度言えばわかるんだ、エル」

「うおわっハゲ! いつの間に俺の後ろを! さては動けるハゲだなこのハ」

「だからハゲと呼ぶな! このバカ息子が!」

「うおいてっ」


 ハゲを連呼するエルの頭をべしりと叩いたのは、婚儀で見た覚えのあるハゲ親父、もといハゲの当主だった。昨日の傷に触れたのだろう。叩かれた頭を抑えて呻くエルの横をすり抜けた当主は、食卓に座ったままぽかんとしていたノアの元へ歩んでくる。


「お久しぶりですな、赤薔薇の姫。婚儀の際はご挨拶もできず、申し訳ない」

「あ、ああ、はい。こちらこそ。ハ――じゃなくてその、白薔薇の当主様」


 慌てて席をたち、ぎこちなく挨拶を返す。スカートの裾を摘むような器用な真似はできないノアをどう思ったのかはわからないが、白の当主は青い目を和ませて、鷹揚に握手を求めてきた。とりあえずは友好的らしい当主にほっとして応じる。


(母さんとはものっすごい仲悪いって聞いたけど、僕にまで当たるような人じゃないみたいだな。よかったよかった)


 赤薔薇と白薔薇の諍いは十六年前、ノアが生まれたあたりで表面化したらしいが、それ以前から仲が良くはなかったらしい。大輪の薔薇内での意見の食い違いだの、それぞれの守護国同士がその辺りにちょっとした領土争いを起こしただの、一応理由はあったらしいが、両家の確執の最たる原因は、ノアの母と白の当主の仲がものすごく悪いところにあるようだった。彼らは意外にも幼馴染らしいのだが、物心つく前から顔を合わせれば大げんかをしていたらしい。お互いに家を継いだ後もそれは変わらず、むしろいよいよ激しくなったそうだ。


 当主同士がそのようにいちいち険悪なものだから、各々の派閥の者もなんとなくつられて反目しあうようになり、十年をかけてお互いへの嫌悪がこつこつきちんと蓄積された結果、調停者たる魔女の目に留まるほどに確執が深まってしまったらしい。つまるところ、人のよさそうなこのハゲは、諸悪の根源の片割れである。


「おい、なにどさくさに紛れてノアちゃんの手を握ってるんだ、ハゲ親父」

 いつの間にか復活したらしいエルが、当主とノアの間に体を割りこませる。

「だからハゲはよさんか!」

「何しに来たんだよ、ハゲ。俺たちは禊の最中だぞ? 当主のあんたが破るなよ」


 当主の抗議を無視して言うエルの声は、彼らしからぬつんけんしたものだ。


 反抗期の子供のような態度を取るエルに、ノアはきょとんと瞬いた。だが、当主はそんなエルに慣れているようで、呆れとも諦めともつかないため息をついている。


「禊とは、秘蹟を宿す儀式へ向けたものだぞ。今現在、秘蹟を持つ私が穢れになるはずがあるまい」

「穢れにはならなくてもハゲにはなる。用件はなんだ? 赤薔薇殿には秘密の来訪なんだろ? 伴も付けずに来てるもんな」


 突然現れた父親に怪訝な顔を隠しもしないエルは、まるで何かを警戒しているようだ。


 エルの追求に、白の当主はついに観念したように言った。


「……伴がいてはおちおち行けない場所もあるだろう。実は、昨夜はそこに泊まってな」

「は?」

「継承の儀まで間もないことだし、お前たちロゼの膝下となるアンジェの街を視察しておこうと訪れた。活気と適度な猥雑さのある、強かでいい街だったぞ。いい宿もあった」

「宿……って、まさかあんた……」


 含みのある言葉に、エルの目が半眼になる。気にせずに当主は続けた。


「それで伴を先に帰らせたはいいが、問題があってな。そういえば今日はエレーナの誕生日だった。当然、私の帰りを屋敷で待ち構えているだろう。仕事と言って出てきた手前、そこいらの馬車を捕まえて帰るわけにもいかんが、別邸に寄っていては今日中に帰れん。――というわけで、この館の馬車を貸せ。うちの紋のついたものを置いてあるだろう」

「……ていうか、あのさあ、ハゲ。つまるところ、あれですか。ハゲ親父が朝っぱらからここに来たのは、女遊びをごまかすアリバイ工作のためだ、と、そういうことですか?」


 問い返すエルの声は低いが、当主はやはり気に留めなかった。それどころか胸を張る。


「くだらん事はない。夫婦仲を穏便に保つための知恵だ。お前も妻を持った身だ、これくらいの技は――と、失礼、当の細君の前でしたな」

「いえ、勉強になります。どうぞ続きを」

「ノアちゃん!?」


 神妙に促したノアに、エルは慌てた声を上げた。それを見て当主は笑う。


「なんだ、姫の方が懐が大きいな。では姫に街遊びのご教授を」

「……あーもう、わかった、わかったから! 馬車くらいいくらでも貸すからノアちゃんが変なこと覚えちゃう前にさっさと帰ってくれ! 御者はクライブで――」

「自分の騎士をやすやすと手放すな。他のものにしろ」


 諦めたように首を振ったエルの提案を、当主はあっさり却下した。


「だからこの館には他に誰も居ないんだってば」

「アンジェまでは徒歩でも行けるぞ。探してこい」

「何でだよ! つーかあんたさっきまでそのアンジェに居たんだろ、だったら自分で連れて来いよ! 段取り悪いな!」

「ごちゃごちゃ喚くな。帰ってほしければ早くしろ。クライブ、お前も行け」

「は、はい」


 さすがに怒ったエルを軽く流し、当主はいまだ戸口に立ち尽くしていたクライブに命じた。戸惑いを露にしつつも、クライブはそれに従う。


「うわっ引っ張るなクライブ! ああもう、行ってくるからノアちゃんに余計なこと教えるなよエロハゲ親父! ノアちゃんも変なこと聞かないように!」


 クライブに引きずられるように、エルは食堂を後にした。


 残されたノアはとりあえず、生真面目な自分の騎士とゴシップ好きのメイドが洗い物のため厨房にこもってくれていて助かった、と考えた。しかし、そろそろ仕事を終えて出てきてもよさそうな頃合いである。こうして食堂に居るハゲ親父を見つかっては、説明が面倒くさい。だからノアは親父にこう提案した。


「とりあえず、屋上の庭園でもご案内しましょうか。ここは待つにはおもしろくない場所ですから」

「それは有難い。ではお願いいたします、ノア殿」


 そんな経緯で、ノアは急遽、尊敬できそうなエロハゲ親父と共に、ロマンチックな屋上庭園を散歩することになった。





「ほほう。これは中々どうして、見事なものだ」


 屋上に足を踏み入れたとたん、白の当主は感嘆したように声を上げた。


 夜は近くに見える星空が神秘的だが、爽やかに明るい日中の庭園は、花壇の花や緑が太陽によく映えて美しい。そんなことを話しながらレンガ敷の歩道を歩き、ノアは当主を東屋に案内した。そろそろ夏に差し掛かろうとしている季節だ。午前といえど、太陽に近い屋上は暑いため、屋根のあるところへと思ったからだ。


「どうぞ、こちらへお座りください。ここなら涼しいですし、庭全体が見えますから」

「ご丁寧にどうも。ですが、まずは姫君が」


 白の当主は懐から取り出したハンカチを椅子に敷いた。瞬くノアに満足そうに笑う。


(このおっさん、なかなかやるな……ハゲのくせにちょっとかっこよく見えてきた……)


 ダテに女遊びをしているわけではないらしい当主への尊敬を深めつつ、礼を言って先に座る。続いて腰を落ち着けた当主は、首を巡らせて庭を見渡してからもう一度言った。


「やはり、良い庭です。この庭は赤薔薇が――姫の母君の主導で作らせたものでしてな。自信満々だっただけのことはある」

「へ? 母さ――母が、ですか。そんな趣味があったとは……」

「庭いじり、などという殊勝な趣味はなかったと思いますから、あなたのためでしょう。娘は高いところが好きだから、と言っておりましたよ。あれも母親ですな」


 ぽかんと口を開いて驚くノアに笑みを深くした当主は、庭に視線を戻した。やがて奥にある舞台で目を留めて、驚いたように言う。


「あれは――舞台ですか? あんなものまで作っているとは。姫は芝居がお好きで?」

「好きとか嫌いとか以前に、あんまり見たことないですね。母にはそういう文化的な趣味はなかったので」

「とすると――あやつ、気を利かせたのか?」

「? どういうことです?」


 問い返すと、当主は取り繕うように笑った。


「いえ、そういえば、館の建設を始める前にエルネスの趣味を聞かれたので――つい、芝居が好きだったと答えたのですが。まさか、そういう意味だったとは」

「へえ……エルが好きなのは料理と剣だと思ってましたけど、多趣味なんですね」

 相槌を打ったノアに、当主ははっとしたように肩を揺らしてノアを見た。

「……どうかしましたか?」

「いえ……いや、赤薔薇も丸くなったものだと驚いただけですよ。私もそれなりに生きましたが、あれほど気が強い女は、あれと妻以外には知りませんからな」

「はあ、そうですか……」


 妻もそんなに怖いのかよ、と内心突っ込み目を伏せたノアは、ふと足元に光るものがあるのに気が付いた。拾ってみると、それは小さなガラス瓶だった。中にはなにか、白い紙切れのようなものが入っている。


 何だろうと首を傾げていると、ノアの動きに気付いた当主が、失敬、と言った。どうやら彼のものらしい。ハンカチを敷いてくれた時に落としたのだろう。好奇心にかられたノアは聞いてみる。


「瓶詰めの――手紙、ですよね? それも女性を口説く手管ですか?」

「いいえ、さすがにこの年では、そんな子供じみた真似はしませんよ。これは随分前に、庭に落ちていたものを拾って……おそらく下働きの子供のいたずらでしょうが、まあ、その時の私には嬉しい言葉が書いてあったものですから。どうも手放し難くて」

「お守り、ということですね」


 ノアの言葉に、当主は手に戻った瓶を眺めながら頷いた。


「……そうですね。そうかもしれません。これがあったから、私はあの時、迷いを振り切る事ができた。大事なお守りです」


 しみじみと言った当主は、そこでノアと目を合わせた。

 にわかに真剣な顔をした当主にきょとんとするノアに、神妙に頭を下げる。


「ノア殿。エルをどうか、よろしく頼みます。あれはどうやら、あなたに本当に惚れているようだ。人を茶化してばかりの、口の減らない息子ですが、あれで意外と義理堅い、誠実な男です。私のような不実な人間ではありませんから、一緒に居てやってください」

「えっ、いやそのそんな……エルがいい奴だってことは、僕にもわかってますから」


 急に頭を下げられ、慌てたノアはまくし立てるように続けた。


「僕の方こそ、なんだか色々と未熟で煮え切らなくて、迷惑ばっかりかけてますけど……多分、そういうの、すぐには直らないと思いますけど。でも、僕も……」


 驚いたように顔を上げた当主に、ノアの口は勝手に動いてこう言った。


「僕も、エルと一緒にいたいと思っていますから」


 ぽろりと口から出た言葉に、当主は目元を安心したように和ませた。

 喜んでいる時のエルとよく似て見えるその目に何となくほっとしてへらりと笑い返した後で、ノアはあれ? と首を傾げる。


(僕……なんかいま、けっこう、自分でも驚くようなことを言っちゃったような……?)


 自分の言葉の意味を自分で考え出した時、屋上の扉がバンと激しく開いた。


「お、お望み通り、これみよがしにフッサフサな御者を見つけてきてやったぞハゲ親父! さあただちにノアちゃんから離れて帰れ、すぐ帰れ今帰れ!」


 ものすごい速さで走ってきたエルは息を切らしながらそう言って、ノアを自分の腕の中へ収納した。当然のようにそうされたノアは抗議すら思い浮かばず、ただされるがままになっていた。


 出産直後の母猫のように毛を逆立てる息子を呆れたように眺めた父親は、それでもどこか満足そうにひとかたまりになった二人に笑ってから、ゆったりと立ち上がった。


「余裕のない男はご婦人に笑われるぞ、エル。まあ、経験もろくにないんだ。勉強がしたいというならいい場所を教えてやるから手紙をよこせ。ではな」

「そんな気遣いいらねえよ! ……ったく、ろくなこと言い残してかねえな、あの親父」


 鷹揚に手を振って屋上を去る父親の背に怒鳴ったエルは、戸口で待機していたクライブが扉を閉めたのを見届けると、とりあえずはほっとしたように息を吐いた。


「ノアちゃん、余計なこと教えられてないか? 具体的に言うと賢い浮気の仕方とかアリバイ工作の仕方とかそういうの」

「へ? ああ、いや、全然……ただお前のことよろしくって頼まれた、だけ、で……」

「……頼まれた、って……ああ、うん……そっか。別に探りに来たわけじゃ……」


 ひとり言のように呟いたエルは、次いで妙に複雑な顔をした。見ようによっては後ろめたそうな表情だ。しかし、ノアはそれよりも、ちょうど耳のあたりに当たるエルの心臓の音が早いこととか、少しだけする新しい汗の匂いとか、そういうものに気を取られていたため、不自然な彼の様子には気付かなかった。


「まあ、とりあえず……親父も帰ったことだし、授業にするか、ノアちゃん」


 気持ちを切り替えるように息を吐き、エルはようやくいつものように機嫌よく笑った。


「うん……」


 緩慢に頷くノアの手を引いて歩き出す。

 そのまま屋上を出て、階段を降り始めたあたりで、ようやくノアは我に返った。


(ていうか、こいつ、どさくさに紛れて抱きしめたり手を繋いだり……しかも父親の目の前で……っ!)


 油断も隙もない、と腹を立てながら、目の前の背中を睨みつける。怒りのせいか頬が熱い。褒めて損した。まったく、ろくでもない。


 胸中でぶつぶつ文句を呟きながら、しかしノアは部屋にたどり着くまで、繋いだ手を離そうとは思わなかった。




□□□

「あ、咲いた」

「へっ」


 昨日の事故のせいで二、三脚の椅子が減った、テラスに面したいつもの部屋で、ノアの手の中には、唐突に赤い薔薇が咲いた。エルの引いた椅子にノアが座り、エルがその対面に座るために移動するまでのほんの僅かな隙のことだ。どうして出来ないのかなあ、とちょっと試しにやってみたら、何故かするすると咲いてしまった。


「…………」

「…………」


 顔を見合わせた後で、こくりこくりと頷き合う。

 そうしてから、同時に叫んだ。


「やった—————!」


 席を立って飛びついたノアを、立ったままだったエルが抱きとめる。


「やったなノアちゃん、おめでとう、よくがんばった!」

「えっへへへ、ありがとう、それもこれもエルのおか――」


 言いかけたノアは、そこで今の体勢にはたと気が付いて言葉を止めた。またしても腕の中に収納されている。しかしたしか飛びついたのはノアだった。たった今のことなのでさすがに覚えている。とすれば怒るのは筋違いであろう。いやしかし。


「ノアちゃん? どうした」

「いっいやなんでも! ああほら、あの、これ! あげる! 記念に!」

「へ? あ――ありがとう……」


 手に持ったままだった薔薇を突きつけるように差し出し、その隙にそそくさと腕から抜け出す。ぽかんと受け取ったエルの手の中で薔薇はしばらく赤いまま咲いていたが、ふと目元を緩めたエルが花びらに口付けると、色をみるみるうちに白に変え、間を置かず空気に霧散して消えた。


 残滓として残った甘い香りの中で、体ひとつ分の距離を置いて立っていたノアは、一連の儀式のようなそれをじっと見つめていた。久しぶりにエルに見とれた。薔薇もエルもきれいで、そのせいだろうか。何となく物悲しくて、胸が少しだけ痛む。


「――さて、じゃあさっそくノアちゃんにご褒美あげなきゃな。どうぞ俺のキスと童貞を遠慮無く持っていってくれたまえ!」

「は? いや違うだろ! いるかそんなもん!」


 色々とぶち壊す発言をしたエルに、ノアも反射的に叫んだ。感傷的な気分がたちまち、さっきの薔薇のように霧散する。


「冗談、冗談。何がいい? 決まってるか?」

「うーんと……そうだなあ。街に行きたい……かも」


 とりなすように尋ねられ、気を取り直したノアはそう答えた。前から出かけたいとは思っていたが、今日のハゲ親父の登場でなおさらその気持ちが募ったのだ。


「街、かー……ほんとはあんまり出歩くのは良くないんだが、まあでも、ご褒美だし、わりと良さそうな街だったし、ノアちゃんと外デートもしたいし……うん、ちょっとくらいならいいか。よし、じゃあ、そうしようか!」


 どちらかと言えば自分の内心をぶつぶつ呟き、エルは首を大きく縦に振った。


「で、いつにする? 今日か? まだ明るいし、ものすごく手の混んだ料理でもリクエストすればロディの目も盗め」

「何いってんの。今じゃなくて、夜。夜がいいの」


 はしゃぎだしたエルに、ノアは呆れて肩をすくめる。エルはきょとんと繰り返した。


「夜? なんで?」

「何でって……酒場っていえば、夜だろ」

「酒場……? ノアちゃん、酒飲むっけ?」

「飲まないけど、でもきれいなおねえさんがいるのは酒場だろ。さすがに娼館連れてけとは言わないからさ」

「娼館……って、ノアちゃん、女の子がそんなはしたないことを言っちゃいけません!」

「その女の子に童貞を押し売りする奴に何も言われたくない! とにかく!」


 いきなり常識的なことを言い始めたエルに怒鳴り返して、片手を腰に当てたノアは、びしりとエルを指さして言った。


「ご褒美なんだから、ちゃんと連れてけよ! 今夜! わかった!?」

「えー……でもあの夜はほら、危ないし」

「やかましい! 返事はハイかサー・イエッサーだ!」

「なんでいきなり軍曹みたいに」


 しばらく揉めたが、結局はノアのいつにない情熱に押し切られるように、エルは不承不承、今夜のアンジェの街・酒場ツアー決行を承諾した。




□□□

 そして、その夜。

 ノアを迎えに来たエルが用いた手段は、予想外なものだった。


「階段……」

「お姫様のエスコートにはもってこいだろ?」


 ノアの部屋のバルコニーから敷地の外までを緩やかに繋いでいるのは、さっきまでは無かったはずの階段だった。細いそれは闇の中で緩く発光しており、魔力で出来たものだとわかる。エルがわざわざ作ったのだろう。


「だからってこんなん作るか? べつに玄関から行けばいいじゃないか。どうせ人は少ないんだ、こんな真似するよりそっちの方がよっぽどバレないと思うけど」

「そう言うなって。せっかくの夜のデートなんだから、こういう方が思い出に残るだろ」


 妙なところにこだわりがあるらしく、言い張ったエルはノアに手を差し出した。どうしてもこの道を通りたいらしい。仕方なく応じると、満足そうに笑う。やれやれ、とノアは内心ため息をついた。


(これじゃ、どっちのご褒美かわからないじゃないか)


 夜の酒場、と言った時には渋っていたが、計画を立て出した段階ではすでに、エルはこうしてノア以上にはしゃいでいた。なんだかなあと思うが、まあどうせ連れ立って行くのならばお互いに楽しめた方がいい。そう思い直し、手を引くエルに続いて、魔法の階段に足を乗せる。そしてノアは声を上げた。


「うわ、ちゃんと固い。なにこれ、ちょっと楽しいかも!」


ごく薄いガラスで出来たような階段は透明で、上に乗ると空中を歩いているような気分になれる。最初はエルの後について歩いていたノアだが、やがてそれでは満足できずに彼の前を歩き出し、最後はほとんど走るようになった。


「おい、ノアちゃん、転ぶなよ。というか、怖がらないね、君」


 ノアに手を引かれる形になったエルは、後ろから苦笑まじりに言った。少し残念そうな響きがあるところを見ると、怖がってほしかったようだ。


「残念でした、僕は高いのは平気だよ」

「それは知ってるけど、高いとかじゃなくても強度とかそういうの気にするだろ、普通」


 ざまあみろ、と笑ってやると、エルは妙なことを言った。首を後ろに向け、ノアはきょとんと問い返す。


「だってお前が作ったんだし、大丈夫なんだろ?」

「いやまあ、実験はだいぶしたから大丈夫なんだけどさ」

「ほら、大丈夫じゃん」

「いや……うん、そうだな。ありがとう」


 ノアの視線の先で、エルは少し戸惑うような顔をしてから笑った。いきなり礼を言われ、ノアはますますきょとんとして足を止めた。


「何で僕がお礼言われるの?」

「……何だろう。信用してくれたから? 喜んでくれたし」


 止まったノアを追い越して、また手を引いて歩き出しながら、エルは背中で言った。


「この館に来てから、これ作るのにずっと試行錯誤しててさ。結局、こうやってガラスみたいに薄くして伸ばしていくのが一番魔力が少なくてすむし、丈夫だってわかったんだ。実用性しか求めてなかったんだけど、思いの外きれいに出来たから、あー、ノアちゃん乗せたら喜ぶかなー、乗せてみたいなーって思ってさ。だから、喜んでくれて嬉しいよ」

「……じゃあ、やっぱりお前がお礼を言うのは変だろ」


 冴え冴えと明るい月と同じ色に光る髪を見つめながら、ノアは言う。


「最初は文句言ったけど、これ、楽しいよ。ありがとう。たしかに思い出になるな。禊の最中にこんな派手に夜遊び行ったなんて、ロディあたりが知ったら目を回しそうだけど」


 想像して笑ったノアに、たしかにな、とエルも笑った。


 その後、階段を下りきって地面に足をつけるまで、エルはノアを振り返らなかったが、すっかりはしゃいだ気分になっていたノアは、そのことに気付かなかった。


 彼がどうしてこんな階段を作っていたのかということも、疑問にも思わなかった。




□□□

 アンジェの街に着いたのは、館を出てから三十分ほど歩いた後だった。


 真夜中というほどではないにしろ、それなりに遅い時間である。にも関わらず、街門からまっすぐ伸びる目抜き通りにはずらりと夜店が並び、道行く人の姿も多かった。


 予想外に活気に溢れた夜の街に、ノアはぽかんと目を瞠る。


「うっわあー……夜の街って初めて来たけど、すごい賑やかだね! いつもこんな風なの?」

「いや、今は特別だってさ。前夜祭――にしちゃ長いけど、そんなもんらしいよ」


 感嘆の声を上げたノアに、エルはそう説明した。そういえば彼は今朝もここに来ているのだ。ある程度の情報は仕入れてあるのだろう。というわけで聞いてみる。


「前夜祭って……お祭りでもあるの? 何の? 僕も行きたい!」

「まあ、お祭りっちゃお祭りだし、ノアちゃんも行くっちゃ行くよな。なんたって、赤薔薇と白薔薇の結婚お披露目パレードの前騒ぎらしいから、これ」

「へ? それはつまり……」


 この騒ぎの主役は自分たち、ということだろうか。

 きょとんと見上げると、続きは言わなくてもわかったらしく、エルは頷く。


「そういうこと。だから、観光客やらなんやらでこんなに人も多いらしい。迷子になるなよ、ノアちゃん」


 そう言って笑ったエルは、街門付近で立ち止まっていたノアの背を軽く抱くようにしながら歩き出した。完璧な女扱いだが、周囲の夜店に気を取られたノアは怒るでもなく、石畳の広い道を促されるまま進み始めた。




「ねえ、あれ何? 何に使うの? あ、あっちには何か怪しげな骨董品みたいのがある見に行こう、うわっこれ動物? 剥製? 燻製? 食べるの? なにそれこわい、あっ、あの黄色いの初めて見るちょっと食べてみよう、ほらエル、早く!」


 初めての街歩き、初めての夜遊び、初めての夜店にすっかり興奮したノアは、息継ぎの間すら惜しんでまくし立て、あちこちにエルを引っ張りまわした。


 夜店が出ていたのは、通常ならばおそらく十分二十分で歩き終えるほどの距離だったろう。だが、あちこち寄り道した結果、立ち並ぶ店に終わりが見え始めたのは、街についてから優に一時間は経った頃だった。


「あー、このへんでもうお終いか……まあ、いろいろ食べたし遊んだし、じゃあそろそろ酒場に――……って、あれ? エル?」


 文句も言わず、むしろ楽しそうに夜店めぐりに付き合っていたエルだが、先を走っていたノアが振り返ると、姿が見えなくなっていた。


(やばい、はぐれたら帰れない! どこに――)


 焦って首を巡らせると、そう遠くない距離にある一件の店の前で、何やら熱心に品物を眺めている白金の頭が見えた。ほっとして駆けよる。


「もー、見るなら見るって言ってよ、どこ行ったかと思ったじゃないか」

「うわっ!? あ、ああ、ノアちゃん。ごめんごめん」


 勝手に走った自分は棚に上げて文句を言うと、驚いたように肩を揺らしたエルは、取り繕うように笑って謝った。その指には、小さな銀色の輪っかがつままれている。


「……指輪? どうしたの、そんなの見て」

「あ、うん……ちょっと気になって」

「指輪が? エル、こんなのするんだ。まあ、男でもしないことはないか。でもさ……」


 目の前を見てみれば、ここは装飾品の店のようだった。きらきらと輝く首飾りや耳飾り、腕輪、そしてエルの持っているような指輪が、台の上に所狭しと並べられている。エルが手にしているのは細い波型の指輪だった。色は銀だ。シンプルだし、似合いそうではある。だが、その大きさが妙だった。


「いくらなんでも小さいんじゃないの、それ? 女の子用だよ、明らかに」

「いや、これは俺のじゃ」

「おじさん、これのもっと大きいサイズある? こいつに合うやつ」


 露台の奥に座っていた店主に声をかけると、寡黙らしい彼は無言のまま、雑多な台の上から一つの指輪を探し出してくれた。礼を言って受け取ったノアは、エルの空いている方の手をぐいっと掴んで、それをはめてみた。薬指にぴったり入った。


「おお、おじさん、目利きすごいね! ぴったりだよ! じゃ、これちょうだい」

「ノアちゃん? あの、君は一体なにを」

「だって欲しいんだろ? 買ってあげるよ」

「……へ?」


 面食らった顔をしたエルをよそに、ノアは店主の言った金額をてきぱきと支払った。そんなノアをものすごく複雑そうな顔で見ながら、エルはまた聞いてくる。


「い、いやでも、君が俺に? なんで? どうして? おかしくないか?」

「おかしくないだろ。お礼だもん」

「お礼……?」


 ぼけっと繰り返したエルに、ノアは笑った。


「考えてみれば、エルは僕のために先生やってくれてたわけだし、そのお礼。ささやかだけどさ。ありがとな。駄々こねっぱなしだったのに、見捨てないで教えてくれて」

「…………うん。それじゃ、もらうよ。ありがとう。大事にする、ずっと」


 ノアをぽかんと見つめ、その後で指輪のはまった自分の指をまたぽかんと見つめたエルは、そこでようやく微笑んだ。照れているのか、少しだけ頬が赤い。それでもやけに嬉しそうに、きれいに笑うものだから、ノアもドキッとしてしまった。つられるように頬が赤くなる。何で僕まで、とどぎまぎと視線を逸らした時、エルが言った。


「じゃあ、これはお返しってことで」

「へ?」


 ノアの左手を取ったエルは、薬指にするりと同じ作りの指輪をはめた。最初に彼が持っていたその指輪は、ノアの細い指にぴったりだったが、戸惑ってノアは聞く。


「いや、でも……お礼のお返しって変じゃないか? いつまで続けりゃいいんだよ」

「お礼のお礼のお礼ってことで、受け取ってよ。邪魔だったらつけなくてもいいし……ただ、持っててくれればいいからさ」


 エルは笑っていたが、声の奥にはどこか切羽詰まったような、ひたむきな響きがあった。不思議に思い、顔をあげる。


「エル……?」

「さて、じゃあ、ノアちゃん本命の酒場へいくか。急がないと夜中になるしな」


 店主に代金を支払ったエルは、表情を窺うノアの視線を避けるように先を歩き出した。





 エルがノアを連れて行ったのは、目抜き通りから数本の道をまたいだ、歓楽街の入口にある店だった。木造りのドアの横にかかった鉄看板には、何故か酒ではなくドレスの女性と鍵盤が刻まれている。はて、と首を傾げたノアが疑問を口にする前に、エルは店のドアを開いた。とたんに聞こえてきたのは陽気な音楽だ。


「な、なに、ここ? 酒場じゃないの?」

「キャバレーだよ。酒も飲めるけど、主には演奏とか芝居とかが見れる所。ここはけっこう礼儀正しい店だって夜店で聞いたからさ、女の子が居てもそこまで浮かないし」


 奥から出てきた店員とエルが言葉を交わすのを横目に、ノアは薄暗い店内をきょろきょろと見渡した。突き当りにある舞台では数人の男女が演奏と歌を披露していて、床に半分張り出したそれを囲むようにしてテーブルが幾つもある。壁際にはそれより少し落ち着いたソファの席と、カウンターもあった。どの席も八割ほどは埋まっている。客の身なりも悪くないし、まずまず流行っているようだ。

 観察を終え視線をエルに戻した時、ちょうど店員との話も済んだようだった。ノアの元へきた黒服の店員は慇懃に礼をして、こちらへどうぞと先に立って店の奥へ歩き出した。戸惑ってエルを見ると大丈夫、と頷かれたので、ひとまず安心して店員の後を追う。


 店員は、他のテーブルより一段高い位置にある、舞台の正面の席へノアを案内した。ふかりとしたソファにおずおずと腰掛けたとたん、かしましい声がかけられる。


「あら、この子があたしたちと話したいってお客さん? これまた、ずいぶん可愛いお嬢さんね」

「ほんとだー、かっわいい、小さーい! 髪ふわふわー! ちょっとさわっていい?」

「うえっ? え、あの……え、エル!? これどういう――」


 戸惑うノアの両脇にむぎゅ、と座ったのは、細身の綺麗なお姉さんと、柔らかそうでかわいいお姉さんだった。二人とも二十歳くらいで、二人とも胸が大きい。嬉しいがしかし、唐突な展開に驚いたノアは、とっさに仕掛け人であろうエルを探す。


「あ、お連れのお兄さんならあそこだよ。なんか、邪魔しないように待ってるって」


 柔らかそうなお姉さんが指さした方にはカウンターがあり、数人の男女が立ったまま舞台を見たり喋ったりしていた。その隅っこにはたしかに見慣れた白金の頭がある。


 ノアの視線に気付いたエルがひらひらと手を振ってくる。なるほど、気を利かせたということだろう。


「にしても、珍しいわねえ。お客さんみたいな、育ちの良さそうなお嬢さんが夜にこんな店に来て、しかもあたしらと一緒に飲みたいなんて。どうして?」

「い、いやあの……ちょっときれいなおねえさんと触れ合いに、じゃなくて社会勉強に」


 細身のお姉さんの問いに、性別にそぐわないことをぺろりと白状しそうになったノアが慌てて言い直すと、柔らかそうなお姉さんがへええ、と体を寄せてきた。ふかりとした胸が肩にあたる。うん、気持ちいい。しみじみとノアは思う。


(やっぱり女の子はいいなあ。きれいだし柔らかいしあったかいしほっとするっていうか。エルじゃこうはいかないもんな。あいつも顔はきれいだけど、なんか触られるとそわそわするしギクッとするし柔らかくないし……まあ、あったかいことはあったかいけど…………って、なんでここまできてエルとおねえさんを比べてんだ、僕は!?)


 柔らかい感触にでれでれしつつ、そんなことを考えたノアは、途中で逸れた思考に慌て、自分で自分に突っ込みを入れる。綺麗なお姉さん達が目の前に居るのに、どうしてエルのことなど考えなければならないのか。我ながら意味がわからない。


(うん、そうだ、エルのことは忘れよう。今はおねえさんに集中すべきだ)


 思い直し拳を固めたノアに、柔らかそうなお姉さんがタイミングよく話しかけてきた。


「どうしたの? 赤くなっちゃって。ていうか社会勉強とかごまかさなくたって、素直に言えばいいのに。……あの彼を誘惑する方法、お姉さん達に教えてほしいんでしょ?」

「うん、実はただ遊びにきただ――ってうえ!? ゆゆゆ誘惑!?」


 気持ちを切り替えた途端に突拍子もない予想をされて、語尾が間抜けに跳ね上がる。

 素っ頓狂な声に何を思ったのか、細身なお姉さんは納得したように頷いた。


「なんだ、そういうことね。見たところ、あのお兄さん、ずいぶん紳士的みたいだし……晴れて恋人同士になったはいいけど中々手を出してこなくてじれったい、とかそんな感じかしら?」

「ちっ、ちちちちがう! じれったいとかない! 恋人とかもないから!」


 そんな入れ食いなことを考えてやるほど、エルに優しくなった覚えはない。


「あら、そうなの? まだ付き合ってないってこと? じゃあ、告白したいけど方法がわからないって相談?」

「あ、それならちょうど、バッチリな方法があるじゃない! もうすぐこの街で、大輪の薔薇家の結婚パレードがあるんだけど、あなたも見に行くよね?」

「み、見に、っていうか、うん、行くは行くみたいだけど……」


 でもべつに僕告白とかがしたいわけじゃないんだけど、と続ける前に、柔らかそうなお姉さんは勢い込んで言った。


「じゃあ、彼と一緒に行けばいいよ。パレードではね、新郎か新婦か、とにかく秘蹟を継いだ方――、今回は二人ともだけど、とにかくその人たちがね、魔法で薔薇をたっくさん作って街中にばらまくんだよ! それを拾って、彼に渡すの!」

「……なんで? 魔法の薔薇なんて、すぐ消えちゃうよ?」


 昼間、エルに渡した薔薇を思い返して尋ねると、細身のお姉さんから答えが返った。


「だから、いいのよ。好きな人に魔法の薔薇を渡して、消える前に受け取ってもらえると、その恋は永遠になるって言われてるの。まあ、庶民の間でのおまじないみたいなものだけどね。でも、どの街から来たお客さんも大体みんな知ってるから、彼も知ってると思うわよ? 相当な世間知らずじゃなければね」

「………………へ??? 魔法の薔薇をあげるのって……そういう意味なの? 僕、あいつにもう、あげちゃったよ?」

「あげちゃった……?」


 きょとん、としたお姉さん達に見つめられているとも気付かず、呆然と呟いたノアは、昼間の光景を思い出していた。エルはあの時、ノアの差し出した薔薇を見て驚いた顔をして、ありがとうと言って笑って、キスを――。


「……っ!」


 そこまで考えて、ノアの頬はかっと熱くなった。あれは、だからだったのか。儀式のような、何か意味がありそうな行動は、魔法の薔薇を差し出す意味を知っていたからか。


(ってことは、あいつもしかして、僕がこ、こ、告白したとか思ってんじゃ……っ)


 思わずカウンターを振り返ってエルを探してしまう。違うからな、と弁解しようと思ったからだ。そして見つけた白金の頭に、ノアは目を見開いた。


 さっきまで一人で立っていたエルの横に、色っぽいお姉さんが居る。彼女はエルに豊満な体を押し付けるようにしてしなだれかかっており、何か熱心に話しかけているようだ。肩越しに見えたエルの顔はまんざらでもなさそうに笑っていて、それを認識したとたん、ノアは席を立っていた。


「ど、どしたの?」

「……ちょっと暑いから、外、行ってくるね。すぐ戻るから」


 取り繕うように言い置いて、逃げるように店を出る。

 人目を避けて裏手に回ったノアは、暗い路地の薄汚れた壁に背中をつけ、はあ、と大きく息をついた。


「何やってんだ、僕は……?」


 せっかく、無理を言って館を抜けだしてきれいなお姉さんと喋っていたのに、エルのことばかり考えて勝手に焦って勝手に動転して、あげく勝手に傷ついて――、とそこまでを自嘲まじりに考えて、ノアははた、と気が付いた。


(って、ん? 僕、いま、傷ついてるのか……?)


 勝手に頭に浮かんだ言葉に驚いて、ノアはぱちぱちと瞬いた。


 たしかに、今のもやもやともずきずきともイライラともつかない気持ちは、傷付いていると形容するのがふさわしい気がする。母がノアの誕生日をすっかり忘れて飲んだくれて帰ってきた夜や、名前を付けて成長を見守っていた庭のカエルが猫に食われた時にも同じような気持ちになった。だが、なぜ今、こんな気持ちになるのかが分からない。


(エルが色っぽいお姉さんに言い寄られてたからずるいって、嫉妬してるのか? でも、僕だってきれいなお姉さん達と一緒だったんだし……それだったら、お姉さん達を置き去りにこんな場所まで逃げてこないさ)


 でも、そうだ、この気持ちは嫉妬にも似ている。カエルを食った猫は母に溺愛されていて、何をしてもかわいいかわいいと言わており、幼いノアは真剣に猫に嫉妬していた。僕にはバカバカ言うくせに。僕より猫の方が好きなのかよ、と。


 だが、この場合、誰が猫で、誰が母なのか。――今、ノアが、かわいいと言われて好かれたい相手とは一体、誰なのか。


 思考がそこに至った瞬間、ズキリと頭が痛んだ。


 いて、と小さく声を上げ、ふと我に返ったノアは、壁にもたれていた背中をずるずると滑らせた。膝を抱えて冷たい地面にうずくまる。


「……なんかもう、わけわかんない。頭まで痛くなってきたし……考えるのやめよ」


 はあ、ともう一度大きく息を吐く。その時、頭上から不意に声をかけられた。


「どうしたの? 具合悪いの?」

「へ……?」


 聞きなれない声に顔を上げると、いつの間に現れたのか、若い男数人がノアを囲むようにして見下ろしていた。驚いて目を見開いたノアを見て、声をかけてきた男がへええ、と声を上げる。


「かわいいじゃん。どうしたの、飲み過ぎちゃった? 介抱してあげよっか?」

「……大丈夫。ほっといて」


 分かりやすくナンパらしい。

 よりによってこんな気分の時に面倒な、お姉さんならともかく男だし、と苛立って吐き捨てるように答えると、男はにやにやとした笑みを深めてノアの腕を掴んできた。


「なんだよ、つれないな。そうだ、元気なら俺たちと遊ばない?」

「は? ちょっと、離して……っ!」


 強い力で腕を引かれ、強引に立たされる。品定めするような視線と、二の腕を掴んだ指の下卑た温度に、ぞわりと背筋が粟立った。


「は――離せよ! お前の手、なんか気持ち悪い! さわんな!」

「はぁ? なんだよ、失礼な嬢ちゃんだな。せっかく声かけてやってんのにさぁ、その態度はないんじゃないの?」

「へ? いた……――っ!」


 思わず正直に叫んだ内容に苛立ったらしい男が、ノアを強く壁に突き飛ばした。そのまま脅すように顔を寄せてくる男に思わず目を瞑ったその時、ガン、と固い音が響く。


「い――いってェな! てめえ、いきなりなにす」

「てめえこそうちのノアちゃんに何してくれちゃってるんだこの糞ガキが」

「がは!?」


 鈍い音と男の呻き、ドサリという音が同時に聞こえ、そこで周囲は静かになった。


 おそるおそる目を開く。現れたのは見慣れた背中と、毛先の跳ねた白金の髪。ノアを他の男たちから隔てるように立っていたのは、エルだった。足元には、腹を押さえた男が二つ折りになって転がっている。エルが殴るなり蹴るなりして叩きのめしたらしい。


「エ、エル――」


 どうやら助けに来てくれたらしい。

 ほっとして上着の背を掴んだノアに、しかしエルは低い声で言った。


「先に店に入ってろ、ノアちゃん。俺はこいつらを四つ折りにしてから戻るから」

「よ、四つ折りって何!? 人体的に可能なのそれ!?」

「いいから。先に行ってろ」


 重ねて言ったエルは、ノアを遠ざけるように後ろへ押しやった。

 瞬間、ノアの鼓動はドクンと跳ねる。


(えっ……?)


 トン、と突き放される感覚と、振り返らない背中。


 ――この光景を、ノアはどこかで見たことがある。


 思ったとたん、目の前がチカッと白く瞬いた。


「……っ!」


 くらりとするが、それは一瞬のことだった。

 次の瞬間、ノアはがしっととエルの手を掴み、立ち尽くす男達と逆方向に走っていた。


「ちょっとノアちゃん離せ、俺はあいつらを四つ折りに」

「うるっさい! 離すもんか! 離したら、お前、いなくなるだろ!」

「何言ってんだ? ノアちゃんを置いてったりは――」


 怪訝そうな声を無視して、ノアは掴んだ手をぎゅっと握りしめて叫ぶ。


「――離すもんか。離さないからな、絶対に!」

「――…………」


 わけのわからない衝動にかられたまま、ノアはただ、エルの手を引いて走った。


 エルももう、抵抗はしなかった。言葉も発しないまま、繋いだ手をそっと握り返してきただけたった。骨ばった長い指の感触は、さっきの男とそう違いはないはずだ。それなのに、今触れているエルの指はなにか、とても大事なものに思えて、ノアは繋いだ手にますます強く力を込めた。


 衝動の意味も、こみ上げる感情の答えもわからない。ただ、この手をもう離してはいけない、と。それだけを、祈りのように強く胸で唱えていた。




□□□

 その頃、クライブは厩舎を掃除していた。通常なら夜にやることでもないが、朝、当主が馬までこの館のものを連れて行ったのでやっておこうと思い立った。じっとしていたくない気分だったので、ちょうどいいと思ったのだ。


 一月足らずしか使っていないのに、見渡した厩舎はすでに新品とは言いがたく、馬が居ない今でさえ、しっくりと生き物の気配を残している。もくもくと藁を取り替え、床を磨きながら、クライブはこれからのことを考えていた。継承の儀を終え、ネスを取り戻した後の――エルが居なくなった後の、この館のことを。


(あいつの気配がそこかしこに残った館で……ノア様は、どう暮らして行くんだろうな)


 クライブはノアのことを良くは知らない。エルにとって彼女がどういう存在かは聞かされていたが、彼の説明は「とにかくかわいいんだよ!」の一言で完結してしまうので、具体的な人となりについては見える範囲でしかわからなかった。だが、見える範囲だけでも、一ヶ月の時間を共に過ごした彼らが、ずいぶんとその距離を縮めたことはわかった。白金の頭と、ふわふわと揺れる赤毛の頭が二つ並んでいる光景を、クライブですら当たり前のものと錯覚するほどに、彼らはこの館ではいつも一緒に居たのだから。


(……そして、今は館の外でも一緒に居る、か)


 エルはクライブに何も言わなかったが、数時間前、彼らが館を抜けだしてどこかへ行ったことには気付いていた。エルは、クライブがノアと親密になることを嫌がっていると思っているらしいから、あえて秘密にしたのだろう。――あるいは、そうすることでこの夜を、より特別な『思い出』にしたかったのか。


(どちらが正解なのか……それとも、両方なのかもな)


 そんなことを考えながら掃除を終え、用具を片付けに外に出たクライブの肩を、ぽん、と誰かが軽く叩いた。


「……っ!?」

「こんな夜までお仕事ご苦労さま。ノア達はデートだっていうのに、寂しいねえ」


 気配なく現れたテールは、驚いたクライブをからかうように、芝居じみた仕草で肩を竦めた。思わずむっとし、またそれとは別の警戒も抱いたクライブは、手に持ったブラシを握り直しつつ低く尋ねた。


「何の用ですか」

「そんな風に邪険にされるとテールさん、悲しいなあ。ノアとエルだってデートしてるんだし、私たちだって、仲良くしたっていいじゃない?」

「用件は、何ですか」


 重ねて問えば、形だけはメイドの彼女は諦めたように息をつき、声の調子を改めた。


「ねえ。ノアとエル、仲良くなったよね? こうやって、誰にも内緒でデートまで行っちゃうくらい。……このまま一緒に居れば、きっともっと仲良くなるよね」

「…………」


 答えられないクライブをじっと見つめて、テールはだから、と続ける。


「だから、やめちゃえば? エルは、ノアが好きだよ。ノアに恋してる。それはあなたにも分かるでしょ? だから、やめちゃいなよ。あなた達にとって、恋って一番に大事なものなんじゃないの?」

「……エルは、確かにノア様を大切に思っています。だが、それとは別に、ネスもあいつにとっては大切な――家族、なんです」


 迷いながら答えたクライブを睨みつけ、テールはもどかしそうに声を荒げた。


「ノアだって、エルの家族だよ! ノアとエルは結婚したんだから。そうでしょ? 同じなのに――同じだったら、恋してる分、ノアの勝ちじゃない。それなのに、ネスって子の方がノアよりも大切なの? そんなの、私、納得いかない!」

「あなたが納得しなくても、エルがそう決めたんだ」

「……なによ、それ」


 目を逸らしたクライブの襟を掴み、赤い瞳を怒りに光らせる。


「あなたはそれでいいの? ネスが帰ってきたら、エルはここに居られなくなっちゃうんでしょ? なのに、なんでエルを止めないの。あなたもエルよりネスが大事なの!? エルとずっと一緒に居たくせに、なんであの子を選んであげないのよ!」

「――選ぶとか、誰が誰より大切だとか、そういう問題じゃないだろう!」


 迷う心を揺さぶるように怒鳴られて、かっとしたクライブは思わず大きな声を出した。


「大切なものが一つだけと割り切れるなら、一つ以外はどうでもいいと切り捨てられるなら、誰も悩まないし迷わない! ……人間はそんなに簡単な生き物じゃないんだ。『人』ではないあなたには、分からないことかもしれないが!」

「……そ、んな……っ」


 言い放ったクライブに大きく肩を揺らしたテールは、瞠った目をみるみるうちに潤ませた。予想外の反応にぎょっとしたクライブの前で、ぐしゃりと歪んだ赤い瞳から、ぼろぼろと大粒の涙が落ちる。


「そんな言い方しなくたっていいじゃない! ひどい! ばか!」

「へっ? ばかって、あ、あの、テール殿、なぜ泣」


 いきなり泣かれて驚いたクライブは上ずった声を出し、無意味に手を上げたり下げたりした。わかりやすく狼狽するクライブを涙の光る目できっと睨み上げたテールは、濡れた声で言い募る。


「そりゃあ私は普通の女の子じゃないし、恋だってしたことないし出来るのかもわからないし、鈍いし人の心の機微にも疎いかもしれないけど! でも、それでも、だから余計に……っ、ノアもエルも、今度こそ、恋を叶えて幸せになって欲しいんだもん! それだけなのに、なのに何でエルはわかってくれないのよ、ばか!」

「そ、そんなことを俺に言われても、そもそもなぜ俺にこんな話を」

「……だって、エル、私の説得なんて、聞いてくれる気がしないんだもの。あなたの方が付け入る隙がありそうだったから、まずはあなたを説得した方がいいかなって。将を射んとせば先ず馬を射よ、って言葉もあるでしょ?」

「馬…………」


 ぼけっと繰り返すと、ようやく涙を止めたテールはずっと鼻をすすって続けた。


「ねえ、クライブ。エルを止めてよ。あなた騎士だし、強いんでしょ? 説得が無理なら、力尽くでも止めて。ノアはまだ『思い出して』ない。エルが、白薔薇の秘蹟を継承しちゃったら間に合わない。私、一人じゃなにも出来ないんだよ」

「……そうだ。彼女は思い出していない。だったら、あなたがエルを止める理由もないはずだ。なのに、どうしてあなたはむきになるんだ?」


 ――あの子は悲しまない、とエルは言った。覚えてないから、と。


 濡れた目元を拭ったテールは、まっすぐにクライブを見上げてきっぱりと答えた。


「思い出すから、だよ。ノアは絶対に、エルを思い出す。エルがあの子にかけた魔法の理は、あなたも知ってるんでしょ? ……だったらあなたも、そう思うでしょう?」

「……ああ」


 強い声を出したテールに圧され、思わず正直に頷く。

 それに希望を見出したように、彼女はクライブの服を掴み、すがるように言った。


「だったら、協力して。エルを止めて。私、ノアが泣くのはもう見たくな――」

「……何の話をしてるんですか?」


 テールの言葉は、草を踏む音と同時に響いた硬い声に遮られた。

 はっとして振り向けば、小さなランプを手にしたロディが、声と同じく固い顔をして茂みの奥に立っていた。


「……またお前か。つくづく立ち聞きが好きらしいな」

「夜中に大声で喚いていれば、そりゃ様子も見に来ますよ。……それよりも、今の話はなんですか?」


 動揺を殺し、呆れを装ったクライブの挑発をあっさり流して、ロディは問う。どこから聞いていたのかは知らないが眦は鋭く、子犬のような容貌は怒りに燃えて、鍛えられた猟犬のように印象を変えていた。


「ロディ、あのね、えっと――」

「テールさんが言い訳する必要はないです。俺、油断してました。エル様はノア様を大切にしてるように見えたから、わかってくれたんだ、ちゃんとノア様一筋になってくれたんだって思っちゃって。でも、違ったんですね。全部演技だったんだ」


 絞りだすように言ったロディは、そこでついに怒りを露にした声を上げた。


「エル様がまだ、浮気を諦めてなかったなんて……! ふてぶてしさが売りのテールさんが泣いて頼むくらいひどかったなんて、しかも魔法まで使って!? どんだけ本気で浮気したいんだあの人は!?」

「う、浮気? 何でお前はそう器用に奇妙な勘違いを――とにかく、落ち着け!」


 斜め下の予想に思わず間抜けな声を上げたクライブの制止は、ロディをますます激高させてしまったようだった。腰を落とし、剣の柄に手をかける。


「落ち着けるわけないでしょう! この期に及んでエル様の肩を持つなら、クライブさんもノア様の敵です! まずはあなたを倒してからエル様をぶっ飛ばします!」

「肩を持つも何も、お前のそれは勘違い――……?」


 剣を抜いたロディにつられて得物を構えるが、構えたそれは掃除用ブラシだった。それにはっとしたクライブは、再度、毛を逆立てた若い騎士の説得を試みる。


「いや、やっぱりちょっと待て、ロディ。まずは話を聞け。俺たちに争う理由はない」


 訝しむように眉を寄せたロディは、それでも少しは冷静さを取り戻したのか、クライブに向けた剣先を下げる。それを見計らったように、壁の向こうからうっすらと光る階段のようなものが伸びてきた。驚いて上げた視線の先の階段には二つの人影がある。ぼそぼそとした話し声と共に、彼らは庭に降り立った。


「さて着いた、っと。何かバタバタになっちゃったなあ。夜は危ないって言ったのに、ノアちゃんが一人であんな暗いとこ行くから……四つ折りにしそこねたし……」

「うるさいな。元はと言えばお前が色っぽいお姉さんとデレデレしてるから悪いんだろ」

「色っぽいお姉さん? ああ、あれは占い師の人で――って、そうだ! 健康運・仕事運・恋愛運これさえあれば全部完璧って占いに出たのに、ツボ買いそびれたよ!」

「それ明らかに詐欺……って、あれ? なんか明る……」


 緊迫した空気を割ってのん気に現れた白と赤の組み合わせは、そこでようやく騎士とメイドが雁首揃えてぽかんと自分たちを見ていることに気付いたようだった。きょとんと首を傾げ、やがて気まずそうに顔を見合わせる。バレちゃってるよ、どうするよ、というような目配せをした後に、二人揃って脱兎のごとく駆け出した。


「……ッ、待ってください、ノア様! だめです。エル様はよくないです!」


 手をつないだまますたこらさっさと逃げ出した主をいち早く追ったのはロディだった。しかし、二人はその声にますます逃走の足を速める。


「よっ夜遊びが良くないことはわかってるけどとりあえずお説教は明日にしよう! そうすればきっと怒りも冷えるから!」

「そうだぞ夜更かしは美容に悪いからな、説教も美容に悪いから!」

「なんでエル様が美容の心配してるんですか腹立つななんか、じゃなくて、とにかくノア様を離して止まれこの浮気者!」

「浮気!? この状況でどうして俺が浮気者呼ばわり――ってうわっ!?」


 心外だと言いたげに振り返ったエルの横を、ぶんと音を立てて抜き身の剣が通り抜けた。ロディが投げつけたのだ。さすがに足を止めたエルが訝しげに問う。


「ど、どうしたんだ、ロディ。夜遊びはたしかに悪かったが、いくらなんでもこれは当たったら痛いだろ」

「ノア様を傷付けるようなことをするならば剣を向けると言いましたよ、俺は」

「ロ――ロディ? お、怒ってるなら謝るから、そんな物騒な……」


 怒りの理由を脱走のためと思ったらしいノアがおずおずと口を挟む。はっとしたように肩を揺らしたロディは思案するように唇を噛み、次の瞬間、ノアの腕を引いて赤薔薇の棟の方向へ走りだした。


「へっ、ロディ、ちょっ――」


 呆けた顔をしたノアを引きずるようにして、ロディはものすごい速度で暗い庭の奥へと走って行ってしまった。


「ノ、ノアちゃんが騎士にかっこよく攫われ——じゃなくて、なんでだ? 何をあんな怒ってたんだ、ロディは。夜遊びのせいだけじゃない……よな?」


 二人を呆然と見送ったエルは、ぽかんとした声で、背後でやはりぽかんと事の成り行きを見守るしか出来なかったクライブとテールに尋ねた。ようやくクライブも我に返る。


「実は――……」

 口を開いたクライブを諦めたような目で見たテールは、続く言葉を聞きたくなかったのだろう。踵を返して去ってしまった。エルが不思議そうな顔をするが、構わずに説明を続ける。どのみち、彼女の頼みに沿うことはクライブには出来ないのだ。


 事の次第を聞き終わったエルは、そうか、と夢から覚めたようにぽつりと呟き、そっと目を閉じた。再び開いた青い瞳には静かな決意が浮かんでいる。


 だから、ノア達の消えた方向へ静かに足を向ける背中を、クライブは黙って見送った。見守る他に、してやれることが思い浮かばなかった。




□□□

 庭から赤薔薇の棟までを一息に駆け抜けたロディは、普段の忠犬じみた振る舞いはどこへやら、乱暴に赤い扉を開いてそこにノアを押し込んだ。突然の騎士の暴走に目を白黒させたノアの肩を強い力で掴み、目を見据えて強い声で言う。


「ノア様。エル様は、やっぱりだめです。あの人は悪い人です!」

「い、いや、あのね、実は今日の夜遊びは僕が頼んだことだから、あいつが悪いわけじゃなくって――」


 すっかりエルの仕業と思い込んでいるらしいロディの剣幕に怯えつつも白状すると、ロディはぶんぶんともどかしそうに首を振った。


「そのことじゃありません。エル様は、ノア様を騙してます! ノア様を騙してテールさんまで泣かせて浮気を……そんなことのために、魔法まで使ってるんです。そんなの、俺は絶対に許せません!」

「魔法……? って、なに?」


 騙しているとか浮気とか、引っかかる言葉は他にもあったはずだが何故か、ノアが一番気になった単語はそれだった。問いかけると同時に、ズキ、と頭が痛む。


「そ、それは俺にもよくわかりませんでしたが……ノア様は、エル様に何か、魔法をかけられているらしいです。……思い出してないとか思い出したら悲しむとか言ってましたから、多分、浮気の現場を目撃した記憶でも消されてるんじゃ――」

「僕が記憶を……消されてる……?」


 ズキリ、とさっきより鋭い痛みがノアを襲う。しかし、それはドクンと鳴った鼓動にかき消された。強く鳴り続ける胸を抑えて床に蹲る。ロディが心配そうな声をあげたが、ノアの耳には届かなかった。記憶の底をさらうようにして、ノアは考えていた。魔法。思い出していない。記憶を消して、忘れて――忘れる、魔法。何を。誰を?


(僕は、誰を忘れてるんだ……!?)


 心で叫んだとたん、視界がチカッと白く光った。


 チカリチカリと激しく点滅する光に、ノアの意識は眩む。目を閉じても、内から湧き出るような光の瞬きは止まらない。点滅の合間合間に、白く霞む何かが見える。きれいなあの子。まるで女の子のような。薄いベール。緑の丘。抜けるように青い空と、それと同じ色の瞳。太陽にきらめく白金の髪。


(ああ、そうだ。あの時、あの場所で、僕はあの子に――)


 その瞬間、回想を破るように浮かんだのは、エルの顔だった。

 鋭く頭が痛む。光の点滅とせめぎ合うそれは、まるで警告のようだった。

 思い出すな。思い出してはいけない。気付いてはいけない。認めては、いけない。


 ノアの中の誰かが叫ぶ。


 ――だって、僕はあの子に、永遠の愛を誓ったのだから。


 幼い声が胸に響き、一際大きく閃いた白い光に飲まれるようにあの子の姿も消える。


 開きかけた蓋が閉じると同時に、ノアの意識はぷつりと途切れ、体は床へ崩れ落ちた。




□□□

「ノ、ノア様!? いきなりどうしちゃったんですか、しっかりして下さい、ノア様!」


 言葉の途中で硬直したように動きを止めた後、唐突に倒れたノアの体を、慌てふためいたロディはがくがくと揺さぶる。血の気の失せた顔色をしたノアはそれでも瞼を持ち上げず、途方に暮れたロディが泣きそうになった所で、赤い扉が静かに開いた。


「――『理』を飛び越えて魔法を解こうとすると精神に大きな負荷がかかる。耐えられない場合も多いんだ」

「エル様……」


 はっと振り向いたロディの表情と、倒れたノアに状況を察したらしい。

 ノアの元まで歩んで跪き、床に落ちた小さな頭をそっと持ち上げた彼は、ノアの顔を見てほっとしたように息を吐いた。


「……でも、とりあえず今は気絶してるだけみたいだな。休ませれば平気だよ」

「こ……『理』って、何ですか。魔法って? あなたはノア様に何をしたんですか!?」


 ノアの容態に安堵して、しかし一方でエルに対する警戒を強めながら、揺れる声で叫ぶように問いかける。エルはそっと目を伏せて、諦めたように笑った。


「誤魔化すには限界かな。……そうだな、君には話しておいた方がいいかもしれない。俺の正体と、目的をさ」

「正体と……目的……?」


 不穏な単語にごくりと喉を鳴らしたロディに、エルは小さく頷いた。息を吸い直し、淡々と本を読み上げるように言う。


「まず、俺は『エルネス』じゃない。本当の名前はエルバートって言ってな。七年前、大輪の蕾を見込まれて白薔薇に金で買われた孤児だ。白薔薇は、当初は神が俺に与えにくるかもしれない新たな秘蹟が目当てだったようだが、今の役目はこの通り、白薔薇の後継者の『代用品』さ」

「な……っ!?」


 とんでもないことをあっさり口にしたエルに、ロディは呆然としたまま尋ねる。


「だ、代用って……それじゃあ、本物は……本物のエルネス様は……!?」

「空に居る。六年前、『空の森の魔女』に攫われて以降、消息が掴めない。ハゲ親父は――白薔薇の当主は、消えた息子を早々に諦めた。でも、俺はあいつを諦められない」


 いったん言葉を区切ったエルは、手に抱いたノアの髪を撫でた。まるで宝物に触れるように、そっと。その指には、銀色に光る指輪がはめられている。


(昼間は、そんなの付けてなかったような……?)


 ふと疑問に思ったロディは無意識に、床に落ちたノアの手を見た。細い指には、エルと同じ作りの指輪が小さく光っていた。


 とっさに顔を上げたロディに気付いたエルもこちらを振り向き、青い瞳と視線が噛み合う。疑問が口をついて出そうになるが、結局は何も言えずに、唇を噛んで黙り込んだ。


 それをどう捉えたのか、エルはひたとロディを見つめて続けた。


「君は赤薔薇の敬虔な騎士だ。だから、俺に協力してくれないか? 全てを正しく、あるべき場所に戻せるようにさ。……それがきっと、ノアちゃんのためにもなる」

「……あなたの目的は、何なんですか?」


 絞りだすように問いかけたロディに、エルはきっぱりと答えた。


「ネスを……本物の『エルネス』を、空の森から取り戻すことだ」

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