3章 エル先生の魔法教室・後編
そんなこんなで、ロゼの館に住み始めてから三週間が経過した。エル先生による魔法教室・初級編は、今のところ律儀に毎日続いている。
「ううううーむ……でいやっ!」
手のひらの中央、練り上げた光を前に、ノアは気合を込めて叫んだ。しかし、意気込みとは裏腹に、もやもやと輪郭を歪ませた光の玉は、ぽすんと間抜けな音を立ててしぼんで消える。
「……うあ——あああ、もう! やってられっか—————!」
「おお、ノアちゃん本日七回目の雄叫びだ、縁起がいいな! ってことでさあもう一度」
「やってられっか、って言ったんだ、僕は! もうやだ、疲れた、お腹すいた!」
「よく減るなあ、ノアちゃんの腹は。じゃ、ちょっと早いがおやつにするか」
ふてくされて机に突っ伏したノアに笑い、立ち上がったエルはテラスに出た。おーい、と庭で打ち合っていた赤白の騎士を手を振って呼ぶ。ちなみにテールはノアの実家に用があるとのことで朝から不在だ。おかげで館が男臭い。
転がるように駆けてきたロディに菓子と茶の支度を頼むエルの横顔はいつも通り、機嫌のよさそうなものだ。それを横目で眺めて、ノアははあ、と息をついた。
(僕の八つ当たりにも癇癪にも怒ったためしがないな、こいつは。何でだろう)
最初の授業から一週間をかけて、ノアはとりあえず、目に見える光球を生み出せるようになった。だが、それからが遅々として進まない。
イメージを練り上げ、形にする。言ってみればそれだけの作業だが、それにはやはり、明確に物の形を思い描くことと、それを形にする技術が必要だ。ノアでなくともそのコツを掴むのには時間を要するものらしい。そう励まされはするものの、二週間も何の進展もないというのは、元来気が短く、根気のないノアにはじれったいことだった。
だから、ここ数日のノアは、今しがたのように癇癪を起こすようになっていた。だが、エルは決してつられて怒りはしない。冗談めかして励ましたり、本当に疲れているようなら休憩を挟んだりして、ノアの機嫌をうまく取りながら、また授業を再開するのだ。
(今までの家庭教師だと、僕が三回サボるか癇癪起こすかすると、すぐに逆上して辞めちゃってたもんだけどな)
赤薔薇に雇われるくらいだから、家庭教師らはみなそれなりの知識人だった。そのプライドの高さゆえ、小娘(当時は小僧だが)にいいように振り回されることに耐えられなかったのだろう。彼らはいつもキリキリと怒っており、ノアを甘やかしつつも、最後は結局授業に戻らせる、エルのような鷹揚さと手腕はなかった。まあ、子守ではないのだから当然かもしれないが。
(ってそれ、僕が子供でエルが子守ってことか? あいつ十七って言ってたから、年もそう変わらないのに……)
気付いてしまった事実にやや自己嫌悪に陥ったところで、テラスから声がかけられた。
「ノアちゃん、ほら、ふてくされてないでこっち来いよ。ここ座って」
ほどよく半分が木陰になったテラスの椅子を引き、手招きする。
しぶしぶを装って立ち上がったノアは、機嫌よく笑い続けるエルになんとも言えない気持ちになって、もう一度こっそりため息をつく。やっぱりこの図は、癇癪を起こした子供とそれをなだめる子守が一番近いかもしれない、と思ったからだ。エルがノアに腹を立てないのはつまり、ノアを子供と見ているからなのだろう。
(ま、いいさ。僕はちゃんと、自分がお守りをされてるんだって気付いたし。だったら、いいようにあしらわれてやるのも大人の余裕ってもんだろ)
勝手な解釈をしたノアは、甘ったれまくっている現実から目を背け、つんとしたまま引かれた椅子に腰掛けた。見計らったように、焼き菓子の並んだ銀色のトレイがすっと差し出される。
「ノア様、どれを召し上がりますか? お取りします」
「あ、ありがと。じゃあこれと、これ」
「お茶はどうします? 暖かいものと冷たいもの、それぞれご用意しておりますが」
「えーと、じゃあ冷たいの」
せっせと給仕してくれるロディは、日数を重ねてなお甲斐甲斐しく働いてくれている。さすがに授業には同席しないものの、ノア達が呼べばすぐ来れる距離に必ず控えているし、こうして世話も焼いてくれる。まるで見張るようでもある熱心さに、護衛というのはそういうものなのか、彼もまたノアと同じような年だろうに、プロ根性が座っていてしっかりしたものだと、自分を顧みてまた少し反省する。
「エル様はいかがなさいますか」
「あー、俺はいいや。天気もいいし、ちょっと体でも動かしてくる。おーいクライブー、相手してくれー」
人見知りなのか、ロディのエルに対する態度はややそっけない。それに気付いているのかいないのか、特に気にしたふうもなく手を振って答えたエルは、庭でひとり素振りを続けていたクライブの方へ駆けて行く。
間を置かず、二人は打ち合いを始めた。カン、カン、と木で出来た模擬剣が交わる度に高い音が鳴る。薔薇家に武術を嗜む習慣はないはずだが、エルの剣さばきはなかなか様になっていた。最初に打ち合う二人を見た時に理由を聞けば、だって剣ってかっこいいじゃん、という子供じみた答えが返ってきた。昔から趣味で訓練していたらしい。
ふと思いつき、傍らに控えるロディに聞いてみる。
「ねえ、ロディ。君、騎士になった理由って何? そういう家系だから?」
「いえ。自分は三男ですから、どちらかと言えば両親は、役人か学者にでもしたかったようですが……騎士の方がかっこいいかな、と思って」
唐突な問いに驚いた顔をしながらも丁寧に返された答えに、椅子の背にもたれたノアは細い眉を寄せた。
「かっこいい……かぁ。男の子ってそういうもんなの?」
「人にもよるでしょうけど、まあ大抵はそういうものだと思います。貴族にも平民にも、騎士や剣士に憧れる子供は多いですよ。女の子の夢にお嫁さんが多いのと同じです」
ロディが差し出してくれた茶を受け取り一口飲んでから、ノアはぽつりと呟いた。
「そっか……。じゃあやっぱり、僕はそもそも『男の子』じゃなかったのかな」
「? そりゃあ、ノア様は女の方ですから」
「……ま、昔を知らない君にとってはそうかもね」
ノアは、記憶にある限り、剣に憧れたことはない。十歳を超えたあたりから、ノアが憧れていたのはもっぱら「運命の相手」と巡りあうという色恋の話だった。自分を男と信じきっていた頃は考えた事もなかったが、どちらかと言えば女の子にありがちな夢だろう。
(やっぱり、僕は『女の子』だったってことなのかな、結局は)
思いがけない真実を知って三週間と少し。
ノアはようやく、そんなことを考えられるようになってきた。受け入れるにはもう少し時間が必要だと思うが、否定を最初に持ってくることはなくなった。小さな体やひらひらしたスカートに慣れたせいだろうか。
前向きなのか自嘲なのか分からない気持ちで息をつく。そんなノアを心配そうに見やりながら、ロディは言葉を選ぶようにして言った。
「おっしゃってる意味がよくわかりませんが……でも、誰にだってそうだと思いますよ。テールさん……は未知数ですが、クライブさんも……エル様も、ノア様を女性として扱ってらっしゃるじゃないですか」
「エルのは子供扱いだろ。甘いもので機嫌取って、癇癪受け流してなだめてすかして」
生真面目なフォローを茶化すと、ロディはむきになったように少しだけ語気を強めた。
「ですから、それは女性の――……あ、いえ、その」
「なに? 最後まで言ってよ」
「ですから、その……ご婦人の機嫌の取り方、というのを、社交界に招かれるような年になると、男は習うものでして。エル様のノア様に対する態度は――意中のご婦人に対するそれと酷似しているな、と」
どこか不本意そうに返された言葉に、ノアはきょとん、と大きく瞬く。
「――……それはつまり……エルは僕が子供だから心が広いわけじゃなくって……」
「ノアちゃんが好きだからいい男ぶりたいだけってことだ!」
「うおわあっ!?」
後ろから割って入った声に、ノアは素っ頓狂に叫ぶ。
ノアちゃんは元気だなーと驚くでも無しに言いながら、エルは対面に腰掛けた。
「ロディ、俺にもやっぱ飲み物くれるか? なんでもいいから冷たいの」
「……ご用意します。少々お待ちを」
複雑な表情で背を向けたロディが厨房へ走るのを眺めながら、エルは呟く。
「ロディはあれだ、いい奴だなあ。何だかんだ素直で、義に厚くて」
「? 何の話だ?」
「いや、ひとり言。何の話っていえば、ノアちゃん達の話の方が気になったけど」
「へ? いや、さっきのは言葉のあやというか、話の流れで男女の差異とはなんぞやとかなっただけで深い意味は」
「男女の差異とは……ね。もしかして、女の子って自覚、少しは出てきた? ――今の俺に、あの時みたいに愛を誓ってくれる気になった、とか?」
エルの口元には、いつもの、ノアをからかう時に浮かべる笑みが刻まれている。
だから流せばよかったのだ。なのに、ノアを見つめる空色の瞳は妙にひたむきな熱を帯びているように見えて、その目にまっすぐに射抜かれたノアの頬はかっと、理由もわからず熱くなった。
言われた言葉よりもそっちの方に動揺し、目を逸らして大きく叫ぶ。
「あっ……愛なんて、お前に誓ったこと、ないだろっ!」
誓約式のあれは未遂だ。声に出してはいないのだからセーフなはずだ。
そう叫んだところで、ノアはふと気付いた。最後まで言えなかったあの誓いを、どうしてエルは知っているのだろうか。
(常套句……っていえば、そうなんだろうけど……)
不思議に思い、逸らした視線をもう一度、対面に戻す。
おそるおそる窺った彼は、まだノアを見ていた。ほっとしたような、それでもどこか寂しいような、そんな顔をして。
「エル……?」
「――あ、戻ってきた。足早いなー、ロディ」
ノアの声が耳に入らなかったのか、トレイにコップを乗せたまま器用に駆けてくるロディを見て、エルはいつもの顔に戻って笑った。
何となく、追求してはいけない気がして、ノアは疑問を飲み込むように、すっかり汗をかいている茶を、ごっごっごっと音を立てて一息に飲んだ。
男らしいな、とからかうエルの声は無視した。
□□□
休憩の後に再開した授業で、エルは唐突にこう言った。
「手をつないでみようか」
「はっ!?」
「ああ、いや、違うって。下心じゃないよ?」
思わず身を引いたノアに、エルは苦笑まじりに首を振る。
「そういえば、俺も最初に魔法の練習した時、ここで詰まったんだよ。どうやって解消したんだっけって思い出したら、ああ、これがきっかけだったかな、って」
「……それが『手をつなぐ』?」
引いた体をとりあえず元の位置に戻しながら問うと、うんと頷く。
「教師がやったわけじゃないから確証はないけど、多分な。試してみる?」
「……そうだな。いつまでもここでじりじりしてて間に合わなかったら……」
罰ゲームだし、と続けようとして、ノアは言葉を飲み込んだ。『罰ゲーム』の内容を思い出したからだ。
ふっと笑ったエルはそれ以上の追求はせず、黙って机に両手を置いた。待つように開かれているそれに、おずおずと手を乗せる。エルの手は、男にしてはたぶん、華奢な方だろう。だが、細い指は長く、手のひらは大きかった。その証拠に、ノアの両手は軽く包み込まれてしまう。
「目を閉じて、手に意識を集中するんだ。俺の力と、その流れを感じ取る。わかるか?」
「う、ん……」
言われた通りに目を閉じる。エルの指からは、たしかにノアのものとは少し違う感触をもつ熱が伝わってくる。――ただし、エル本人の温度も一緒にだ。
エルから伝わる『力』は熱い。けれど、エル本人の指は、ノアのものより少し冷たい。骨ばった大きな手のひら、その中にあるのはノアの小さな手。その手は少し汗ばんでいる。どうしてだろう。緊張しているのか。そうかもしれない。
けれど、どうして。――一体、何に?
思考がそこに至ったとたん、ノアの頬はまた、かっと熱くなった。男女の差異とはなんぞやとか、女扱いされていたらしいとか、妙なことを考えてしまったせいだろうか。自分のものと全く違う彼の指を意識してしまって、変なふうに熱が高まる。
「……ッ、やっぱり……っ」
「!? おい、だめだノアちゃん、いきなり離しちゃ――」
耐え切れなくなったノアは目を開き、エルの指から手をばっと引きぬいた。集まりかけていた魔力がふっと解ける。瞬間、眩い光が視界を覆った。同時に襲った圧力に、体が後ろへ弾かれる。その寸前、何かに腕をきつく掴まれた。
「うわっあ……ッ、……あ、れ……?」
悲鳴を上げ、痛みを覚悟して目を閉じる。しかし、吹き飛ばされたはずの体は温かいなにかに包まれたきり、どこにもぶつかる様子がない。
おそるおそる目を開く。前方には倒れた椅子と机たち。さっきまで座っていたものと、その周囲にある同じ作りの数脚が、まるで竜巻の後のようにてんでばらばらに転がっている。では後ろはと首を巡らせようとしたが、うまくいかない。途中で何かに突っかかる。ちらりと視界の隅に入った色は白金。そこで、ノアはようやく状況を理解した。
「エル!?」
後ろから抱き込まれていたせいで身動きがとれなかったようだ。ノアの肩に額を乗せたままぐったりしているエルに、ノアは慌てて声を上げる。しかし彼は動かない。ますます焦ったノアは、半泣きで、肩にある頭を抱くように支える。向き合う姿勢を取ろうと体を捻ると、薄そうな瞼がぴくりと動いた。
「ー―ってぇ―……あ、ノアちゃん!? 大丈夫か!?」
目を開くやいなや、ノアの肩を乱暴に掴んだエルは急き込んで言った。剣幕にあっけに取られたノアは勢いに押されるように、濡れた目でぽかんと頷く。エルはゆるゆると肩をおとして息を吐いた。
「よかったー……。ごめんな、途中で力解放すると危ないって最初に言っとくべきだった。痛かったか? 怪我はないか?」
「――……ッ怪我を……っ……!」
ぽたり、ぽたりと、小さな雫が続けて二つ、ノアのエプロンに落ちる。一つはノアの目から落ちたもので、もう一つは、心配そうにノアをのぞき込んでいる、エルの頭から落ちたものだ。その赤に、ノアの中で何かが弾けた。がばっと顔を上げ、涙の粒を散らせながら、叫ぶように言う。
「怪我をしてるのはお前の方だろうが! 気付いてないのか、バカっ!」
「へ? 俺? ……ってうわっほんとだなんだこれ、いてっ」
きょとんと瞬いたエルは、おそらくは頭をかこうとして手をやって、そこでやっと自分の怪我に気付いたようだった。手についた血に驚いて、次いでノアの服についた赤い染みを見て、きまり悪そうにへらりと笑う。
「……ごめん、服汚しちゃったな」
「バカっ、そんなことどうでも――……ッ、……!?」
どうでもいいことを気にするエルにまた怒鳴りかけるが、眉尻を下げて笑う顔を見たノアの鼓動はドクン、と大きく跳ねた。同時に、目の前が白く、チカッと瞬く。
「ノアちゃん? やっぱりどっか怪我――」
「――前にも……」
一瞬眩んだ視界にぐらりと体を傾けたノアは、すがるようにエルの服を掴む。心配そうにこちらを見つめる青い目を、睨むように見上げて聞いた。
「前にも、こんなことが、あったか……?」
問いを口に乗せたとたん、エルは、ゆっくりと目を見開いた。その中で、青い光が揺れている。――迷うように、思案するように。
けれど、それは長い時間ではなかった。一度瞼を閉じたエルは、すがるノアに言い聞かせるように、静かな声できっぱりと言う。
「なにもないよ」
「…………そう、か」
声は優しかったが、同時に逆らいがたい響きがあった。
顔を上げたノアは、エルの頭から流れる血で汚れた顔を、前触れ無くエプロンで拭う。
「? ノアちゃん?」
「……怪我させてごめんな。あと」
きょとんと瞬いた青い瞳をまっすぐに見る。
「守ってくれてありがとう」
無理やり笑って言ったノアに、エルは何かを言いかけてから、結局黙って頷いた。
□□□
その夜のことだ。
ノアは、森の中をまっすぐに走っていた。
短い足を交互に、勢いよく前に出す。高く生い茂った草が、膝丈のズボンから覗くむき出しの脛を掠めて、擦り傷がいくつも出来る。その小さな痛みにも気付かぬまま、川べりの小屋を目指して、ノアは全速力でかけていた。両手にはたくさんの荷物を抱えている。毛布と着替えと薬箱と、台所からくすねてきた食料を無造作に詰め込んだバスケット。
(早く行ってあげないと。だってあの子、怪我してたもん。目が覚めて一人だったら、きっとすごく、心細い)
そう思うとますます焦りが募った。
くたびれかけていた足に力を入れて、強く土を蹴りあげる。
(早く、あの子のところへ、早く)
短い髪をなびかせて、幼いノアはただまっすぐに、名前も知らない『あの子』の元へ駆けて行き――……
そこでぱちりと目が覚めた。
緩慢に半身を起こす。辺りは暗い。ふわふわとした長い赤毛は、寝乱れて少し絡まっている。寝起きの体はけだるく、床に下ろした足がふらついた。
それでも、ノアはぺたぺたと、裸足のままで部屋を出た。次第に体は覚醒し、足取りはしっかりとしたものになる。
(早く行かなきゃ――『あの子』のところへ)
足取りに反して、意識は薄靄がかったままだった。その中で唯一、急き立てられるような焦燥だけが、くっきりと鮮やかだった。
その衝動に突き動かされるように、ノアは暗い廊下を全速力で駆け抜けた。
□□□
風呂から上がったエルは、居間のソファにぼすりと座った。雫を落とす髪を拭うと、ぴりっとした痛みが走る。いて、と呟いてから、昼間の事故を思い返して小さく笑う。
(あの時と、すっかり全部が逆になったな)
昔、あの訓練法を教えてくれた子供の手を、エルは振り払った。白薔薇の家に連れて来られて間もない頃、彼の無邪気な好意を信じられなかった時の話だ。今日のノアと同じように魔力を暴発させたエルを庇った彼はあの時、どんな顔をして笑ったのだったか。もうずいぶんと昔のことで、思い出そうとしても上手くいかない。
ただ、自分が投げつけた言葉だけは、はっきりと覚えている。――同情のつもりか。幼いエルはそう言った。
(『お坊ちゃんの家族ごっこはもうたくさんだ』……か)
我ながら、素直に礼の言えない可愛くないガキだった。それを捨て台詞に家から逃げ出したところまでを含めて、救いようがない。
懐かしさとも自嘲ともつかない気持ちでふっと息をつくと、前触れ無くドアが開いた。
「クライブ? いくら俺が男に戻ったからって、ノックくらい――」
苦笑まじりに振り向いたエルは、そこに居た小さな人影に驚いて、続けようとした言葉を止めた。ぽかんと数秒瞬いてから我に返り、ソファを立って白く塗られたドアに寄る。
「ノアちゃん。そんな格好でこんな時間に男の部屋に来たら危ないぞ。どうしたんだ?」
「……起きちゃってたのか」
どうしてか息を切らしているノアは、ためらいなくドアを潜ってエルの近くに寄ってきた。予想外の行動にまたぽかんとしたエルを見上げて、心配そうな顔をする。
「怪我は大丈夫? 痛くない?」
「へ? あ、ああ、大丈夫だよ。飛んできた椅子の足がちょっと刺さっただけで、傷自体は小さいもんだったし」
昼間の件を来にしての来訪らしい。理由を察したエルが笑うと、ノアも安心したように緑の瞳を和ませた。珍しい表情に内心驚くエルをよそに、いつもより少し舌足らずな、子供のような声で言う。
「手当てしなきゃと思って、薬、持ってきたんだ。あと、毛布とか、ご飯も」
「……ノアちゃん? 君、まさか……!?」
噛み合わない会話に違和感を覚え、はっとしたエルは、目の前にある細い肩を強く掴んだ。エル越しに遠い誰かを見るような目をしたノアは、不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの? やっぱり心細かった? 大丈夫だよ。……僕が守ってあげるから」
安心させるように笑いかけたノアは、呆然としたエルを躊躇いなく抱きしめた。硬直した背をなだめるように数回叩き、すう、と息を吸い直す。エルは動けないまま、判決を待つ罪人のような気持ちで小さな唇を凝視する。
やがて薄く開いたそこから、微かな音が漏れた。
「――……ぐう」
「ぐう!?」
寝息を漏らしたノアは、同時にかくりと首を落とした。弛緩した小さな体をとっさに支えたエルは、よろよろとソファへ歩み、できるだけそっと横たえる。
小さい身動ぎの後にこてりと首を横にしたノアは、そのまま健やかな寝息を立て始めた。それを確認し、ぐったりと床に座り込んだエルは、大きく深く息を吐く。
「うあーもうびっくりした、寝ぼけただけか! ……まあ、そりゃそうか」
すやすやと寝息を立てる平和な寝顔を横目で眺めて、慌てた自分に苦笑する。
そう簡単に、彼女が『思い出す』わけがない。それはエルが一番よく知っているはずなのに。
「エル? ドアも開けっ放しで何を騒いで――……」
自嘲の色の濃いため息を吐いたエルの背後で、不思議そうな声がする。振り返ると、思いがけず近い位置にクライブが立っていた。
途中で言葉を止めた彼は、寝間着のまま、無防備にソファで眠るノアを見つめて凝固している。しばらくしてから絞りだすように問いかけてきた。
「エル……お前、まさか勢い余ってノア様に手を」
「は? いや出してない、出してないって!」
手を振って否定すると、クライブは露骨にほっとした声を出した。
「そ、そうだな、いくらお前でもそんな軽率な真似は」
「夜這いしてきたのはノアちゃんだから、手を出されたのは俺の方だよ」
「………………………………」
しれっと言ってみると、クライブはものすごく冷たい目でエルを見下ろしてから、無言のままに踵を返した。冗談の通じない騎士に慌てて追いすがる。
「ちょ、冗談、冗談だって、何もしてないしドアを開けたまま致す趣味もない! ちょっと寝ぼけたみたいでさ、後で部屋に戻しとくよ。で、お前は何の用だったんだ?」
「……空の森の軌道がわかった」
振り向いたクライブは短く答えた。逡巡したようにそこで言葉を区切る。どうしたんだと促すと、迷う様子はそのままに続けた。
「それとなく尋ねる手紙を送っておいたご当主から、やっと届いた返事によると――雲の上にいるらしく視認はできないが、空の森はもう、ほとんどこの館の上を飛んでいるらしい」
「この上……か。やったな、クライブ。これで心配事はなくなった。後は、このまま準備を進めて継承の儀を待つだけでいい。――そうすれば、やっとネスを助けに行ける」
ゆっくりと息を吐き、エルは視線を上へ向けた。
白い天井の遥か上、神の創った空の森。そこにはきっと、彼が居る。
六年前、魔女に連れ去られ空へ消えてしまった――エルのただ一人の『兄』が。
(もう少しだけ待っててくれ。今度は俺がお前を助ける)
「……んー……」
ぐっと拳を固めたエルの耳元で、不意にノアが唸った。話し声がうるさかったのか、眉をしかめて寝返りをうつ。今にも文句を言い出しそうな寝顔に力が抜け、思わずぷっと吹き出した。話も済んだことだし部屋へ連れて帰ろうかと腰を上げると、黙ってエルを見ていたクライブがぽつりと言った。
「本当に、やる気か?」
「当たり前だろ。やっと巡ってきた、ネスを取り戻すチャンスだぞ」
「……大丈夫なのか。お前は、本当に」
疑うように重ねて問われ、さすがにエルもむっとする。
「クライブ、お前、最近ちょっと変だぞ? なんでそんなに及び腰なんだよ。そんなに俺の心変わりが心配か?」
「俺が心配してるのはそこじゃない」
「じゃあ何だよ。何がそんなに不安なんだ」
「…………」
問い詰めるが、苛立ったように息を吐いたきり、クライブは黙り込んでしまった。にわかに沈黙が落ちる。エルは内心ため息をついた。こうなったクライブはてこでも話さないと知っている。
答えを諦めたエルは、とりなすように口を開いた。
「とにかく、俺は大丈夫だから、お前も余計な心配はするなって。あんまりキリキリしてるとハゲるぞ、どっかのハゲ親父みたいに」
「エルは、本当にそれでいいの?」
「しつこいなお前も。いいも悪いも――……って、え!? テールさん!?」
反論しかけてから気付き、語尾が間抜けに跳ね上がる。
「か、帰ってきてたんだ。どうしてここに……」
いつの間にか戸口に立っていたテールは、驚くエルを半眼で睨みすえた。
「ノアが部屋に居なかったから探しにきたの。赤薔薇の棟のどこにも居ないから、まさかついに進展したのかしらよりによって私の出かけてる隙にきゃー! ってわくわくしながら来たのに……エルが、そんなことを考えてたなんて、ね」
「…………」
「ねえ、エル。そのネスって子を、忘れることはできないのかな?」
答えられないエルに歩み寄った彼女は、ソファで眠るノアを見てから、視線をまっすぐエルへ向けた。込められた圧力に、胸にあるエルの蕾がじり、と反応する。
「エルは、ノアが好きなんでしょう? だったら、それ以外のことなんて、どうでもいいじゃない。忘れさせてあげようか? そのためになら私、もう一度、力を貸すよ」
「気持ちはありがたいけどさ。……神様は、そんなに身勝手な魔法はきっと、許してはくれないよ」
逃げ出したい衝動をぐっとこらえ、赤い光の瞬く瞳を見かえして無理やり笑う。
遠回しな拒絶に苛立ったのか、テールはぴくりと眉を寄せる。体にかかる圧力が大きく増して、蕾が痛いほどの熱を持つ。じわりと背中に汗が滲むが、エルは目を逸らさない。
しばしそうして睨み合った末、ふっと息を吐いて目を閉じたのは、テールの方だった。がっくりと肩を落として、拗ねたような声で言う。
「……あの時にも思ったけど、エルは、バカだねえ。黙っていれば、それで済むのに。貧乏くじばっかりをわざわざ選んで引いてたら、幸せにはなれないよ?」
「そうでもないさ」
諦めてくれたらしいテールにほっと息を吐いたエルは、ソファで眠るノアに向き直り、小さな体を抱き上げた。むー、と不明瞭な唸り声を上げて、眉間の皺がますます深まる。あやすように軽く揺すって体勢を整え、頭を肩で支えてやると、姿勢が安定したからか、寝顔はたちまち穏やかなものになった。
うっすらと口を開けて眠る子供のような寝顔を見つめて笑ったエルは、自分に言い聞かせるように呟いた。
「俺は今、ちゃんと、幸せだよ」
□□□
ノアを抱えたエルが部屋を出た後、あーあ、とソファに身を投げたテールは、ぽかんと立ち尽くしたまま事の成り行きを見守っていたクライブに話しかけた。
「……バカだねえ、ほんとに。そう思わない?」
「…………」
応じようもなく黙りこむクライブを横目に、テールは続ける。
「幸せが目の前にあって、幸せに続く道だって、目の前にのびてるにね。どうしてそこだけを目指して走ることができないのかな」
「…………」
「ねえねえ、返事くらいしてよー、寂しいじゃない」
またもや黙っていたクライブに、テールはついに文句を言った。
ただのメイドにしか見えない彼女の『正体』は聞かされてはいるが、こうして間近で見てみても、蕾を持たないクライブには、やはりただのメイドにしか見えない。だが、テールには逆らうなとエルに厳命されていたので、クライブはしぶしぶ答える。
「……哲学は得意ではないので」
「哲学じゃないよー、本能の話。テールちゃん、人が幸せに向かうのって、本能的なものだと思ってたんだけどなあ。なのに、どうしてあなたたちって素直じゃないの?」
「あなたたち……?」
「……気付いてないの? あなたも相当、バカみたいだねえ」
ぽかんと問い返したクライブを言葉通りにバカにしたように見て、テールははああ、と沈鬱なため息を吐いた。
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