2章 エル先生の魔法教室・前編
外に出る決意をしたノアに、テールが用意した衣装はエプロンドレスだった。
「……ってこれ、子供用の服なんじゃ……」
「いいじゃない、どうせちゃんとしたドレスなんて窮屈だってすぐ音を上げるよ、ノアは。ほら、似合ってる似合ってる!」
「まあ、たしかに似合ってはいるけどさ……」
ぐいぐいと鏡に押しやられ、そこに映る自分を眺めてノアは嘆息する。
ふわふわとした長い赤毛はそのまま背中に下ろされ、両方のこめかみには、小さなリボンが結ばれている。淡いピンクの膝丈ドレスの上には、ひらひらとしたレースに縁取られた白いエプロン。鏡に映る小柄な少女に、その衣服はたしかによく似合っており、ひどく可愛らしいのは事実だ。だが、しかし。
「なんか……十六には見えないよね、この子。胸もささやかだし。僕はもうちょっと大人っぽい綺麗系のほうが好みなんだけどなあ」
ぼやくノアに、テールは口を尖らせる。
「そんなこと言ったって、ノアが貧乳のチビなのは、私の力じゃどうにもできないよ」
「いや貧乳のチビってまとめるなよ! 失礼だな!」
「自分で言ったんじゃない、もう、めんどうくさいなあ。大体、ノアの好みなんてどうでもいいよ。女の子はね、人にかわいいって言ってもらって輝くものなの! ほら、早くエルに見せにいこうよ、きっと喜ぶよ!」
「うわっ引っ張るなってば、この靴走りにくいんだから!」
言い合いながら渡り廊下を抜け、中央塔の食堂へ向かった。廊下は外に面しており、朝の爽やかな空気が頬を撫でる。それだけで、ノアの機嫌は上向いた。三日も部屋にこもっていたせいで、やはり、気分も塞いでいたようだ。
食堂の扉は開かれていた。中には、貴族の館によくあるように、長い食卓が置かれている。上にはすでに食器の支度が整っていた。しかし、その数がどうもおかしい。
「五人分……?」
この館には、ノアとエルとテールしか居ないはずだ。
なのに、食卓の上にある支度は、五人分。
「誰か来てるのか? それともテールが三人分?」
「テールちゃん、そんなに大食いじゃないよ……。これはね、今日の明け方に帰ってきた、二人の――」
「あの、エル様、だから食事の支度なんて自分がやります! 〈禊〉中の生活のお世話も〈薔薇の騎士〉の任務のうちですから!」
テールの言葉を遮るように、厨房から聞きなれない声がした。
つられるようにそちらへ歩み、ひょいと中を覗く。広々とした厨房には三人の男が居た。一人はエルだが、あとの二人は初めて見る顔だ。
「料理は趣味だから気にすんなって。それに今朝はノアちゃんとの約束もあるし――あ、そっちもう出来たから運んでくれ、クライブ」
てきぱきと料理を皿に盛り付けてるエルが気心の知れた風に話しかけたのは、背の高い黒髪の男だった。年は多分、二十代の半ばくらいだろうか。端正な面立ちで、襟の高い、白の騎士装束が怜悧な雰囲気によく似合っている。
「ああ、わかった。喚いてないでお前も運べ、ロディ」
「は、運びますけど……でも、いいのかなあ。白薔薇の若君が料理なんて……」
釈然としないように口の中で呟いているのは、ノアと同じ年頃に見える、赤い装束の少年だ。やや小柄で、子供のような丸い目を生真面目に光らせている。濃い茶色の癖毛はもふもふとしており、子犬のような印象を際立たせていた。
料理を手に、先に厨房を出てきたのは少年の方だった。前だけを見て歩く彼に、ノアは声をかけてみる。
「君がアルテから派遣されてきた、僕の――赤薔薇の騎士ってこと?」
「うおわっ!?」
「わっ、危ない!」
ノアに気付いていなかったらしい少年は、大げさな声を上げて肩を揺らした。その手から落ちそうになった料理の皿を、ノアは慌てて彼の腕ごと支える。驚いたようにノアを見た彼は、やがて掴まれた腕に視線を移し、はっとしたように顔を赤くして頭を下げた。
「も、申し訳ありません! お初にお目にかかります、俺、いや私はロディ・シスレー、おっしゃる通りアルテ王国より派遣されて参りました赤薔薇の――」
「いや、いい、挨拶は後でいいからとりあえず料理を運びなよ、こぼれそうだよ!」
頭を下げたせいで、ロディというらしい彼が持った料理までもが傾いていた。
騒ぎに気付き、白装束の騎士が厨房から顔を出す。ノアを見とめた白騎士は、慌てふためくロディとは対照的に、騎士にふさわしい落ち着きをもって胸に手を当てて礼を取った。それに視線で頷いてから、彼の後ろからひょこりと覗いた白金の頭に「おはよう」と声をかける。しかし、エルはどうしてか、驚いたようにノアを見たまま答えない。
「エル? どうしたんだ?」
首を傾げると、後ろから抱きついてきたテールがいたずらを成功させた子供のように笑った。
「驚いた? テールちゃんの見立てだよ! かわいいでしょー」
「あ……あ、驚いた。よく似合ってる。かわいいな、ノアちゃん」
褒め言葉を強要するテールにはっとしたように肩を揺らしたエルは、そこでやっと、青い目を細めて笑った。どうも、と適当に返事をしつつも、不自然な様子が気にかかる。
(幽霊でも見たような顔だったな、なんか)
だが、一旦厨房に戻り、デザートの皿を持ってやってきたエルは、すっかり元の調子を取り戻していた。
「ほら、約束通り、大盛りではりきってみた。うまそうだろ?」
「うん……」
コンポートとケーキが綺麗に重なった皿をノアに見せ、エルは得意そうに笑う。
追求するタイミングを逃したノアは、促されるまま食卓につき、始まった食事に流されるように、そのことを忘れてしまった。
「とりあえず、俺から紹介しとこうか。こいつは白薔薇の騎士で、クライブ・ロイド。俺がガキの頃に白薔薇に派遣されてきて、今回も継続って感じかな」
広い食卓の隅っこに固まって食事を開始し、少し経ったあたりで、エルは騎士の紹介を始めた。それを受け、エルの隣に座っていた黒髪の男が立ち上がり、ノアに向かって折り目正しく頭を下げる。
「クライブ・ロイドです。お見知り置きを」
「ああ、うん、よろしく。えっと、クライブ。君は――」
しばらくは屋敷で五人きりだし、彼はエルの騎士なのだから、ノアとの距離も必然的に近くなるはずだ。ならば少し話を広げてみようと、年齢やら出身地やら、差し障りの無い質問をしてみようと思ったノアだがしかし、当のクライブはそんなノアの思惑には気付かなかったようだ。もう一度礼だけをして、そのまま席に座ってしまった。
出番は終わりとばかりに静かに食事を再開した彼に続けようとした質問を飲み込み、ノアはこっそりため息をつく。どうやら、彼はあまり、親しみやすくはない人物らしい。
「もう一言二言ないのか、お前。無愛想な奴だなぁ。ああ、さては可愛い女の子二人を前にして照れてるんだな? 奥手だもんなー、クライブは」
「……うるさいぞ、エル」
彼の主であるエルは、クライブの肩をからかうように肘でつついた。横目で睨んだクライブはぶっきらぼうに反論するが、その頬はわずかに赤い。
それに気付いたエルは図星かよ、と笑う。付き合いが長いというだけあって、仲はいいらしい。クライブのエルに対する態度も、主というよりは友人、というか、弟に対するような親しげなものだった。
(不器用そうだけど、悪いやつでもなさそうかな、うん)
そう思い直したところで、エルはノアの並びに所在無さげに座る少年を手で示した。
「で、そちらはロディ。俺もさっき会ったばっかりだが、君の騎士だ」
「この度、アルテ王国、国王陛下より赤薔薇の騎士を任じられました、ロディ・シスレーです。叙勲を受けたばかりの若輩ですが、どうぞ、よろしくお願いいたします!」
「うん、よろしく。……それはそうと、君、なんでご飯食べないの?」
がたっと席を立ち、大きく頭を下げた彼の前に並んだ食事は未だ手付かずだった。
自己紹介よりもそれが気になって問うと、きょとんと瞬いたロディは、生真面目にこう言った。
「自分は赤薔薇の騎士、つまりあなたの配下です。配下の者が主と食事を共にするなど無礼です」
「いや、でもさ……」
新人らしい真面目さできっぱりと言う少年にノアは苦笑し、エルは声を上げて笑った。
「無礼だって、クライブ」
「冷めないうちに食えとうるさく騒ぐのはお前だろうが」
むっつりと言ったクライブは、手にしたフォークを置いてロディを見、次いでノアに目を向けた。
「私はエルの……主の命令でこうして同席させていただいておりますが、ノア様の許可をいただかなかったことはお詫びします。ご不快でしたら、今後は遠慮いたしますが」
淡々と問われたノアは、肩をすくめて首を振った。
「ご不快だったら、いちいちこんなこと聞かないよ。――それに、そんなこと言ってたら、こいつはどうなるの」
言って、顎で隣を示す。隣では、騎士たちの自己紹介も聞かずに夢中で食事を続けていたテールが、今まさにデザートにたどり着いたところだった。
「うわー、朝っぱらからこんな立派なデザートうれしーおいしー! ほら、ノアもはやく食べてみなよ! 食べないともらっちゃうよー?」
「狙うな、これは僕のだ!」
自分に向けられた視線にも気付かずに、テールはノアの皿に手を伸ばしてくる。その手から皿を守りつつ、ぽかんとした顔をしているロディに笑って言った。
「まあ、ここまでになれとは言わないけどさ。当面五人しか居ない館だし、君とは長い付き合いになるんだろうし、気楽にやろうよ、気楽に。ご飯はみんなで食べた方がおいしいよ。エルだって、あったかいうちに食べてほしいらしいしさ」
「……わかりました。それがノア様のご命令でしたら、自分は従います」
微妙そうな顔をしながらも頷いたロディはすとんと席に戻り、礼儀正しく神に祈りを捧げてからエルにもいただきます、と言い、大人しく食事を始めた。
(やれやれ。なんだか真面目な奴みたいだけど、うまくやっていけるかなぁ)
ちゃらんぽらんな自覚はあるため不安になり、ため息をつく。まあとりあえず自分も食事を続けようと顔を上げると、こちらを見ていたらしいエルと目があった。にっこりと笑い、ありがとう、と唇だけで言ったエルに、ノアはきょとんと瞬く。
(僕、礼を言われるようなこと、したか?)
よくわからないがまあ、感謝されているのなら、悪い気はしない。
少しばかりいい気分になりながら、ノアも食事を再開した。
「……で、部屋を出たのはいいけどさ。何かやることあるの? 継承の儀まで、お披露目もパーティーも何にもないよね?」
食後の紅茶を啜りつつ、ノアは対面に座るエルに尋ねた。
婚儀の前に教えられたところによれば、ノア達が、今は当主が持っている秘蹟を継承し、きちんと家の後継となる儀式は一ヶ月ほど先のはずだ。継承後は何やかやと慌ただしくなるらしいが、それまでの、〈禊〉と呼ばれるこの期間に何をするかについては、特に聞かされていなかった。言われたのは、後々忙しくなるから子作りしとけ、くらいなものだ。身も蓋もない。
「やる事は、実はあるんだ。婚儀の前に赤の当主殿――君の母上に頼まれたんだけど」
答えたエルもノアと同じく紅茶を手にしているが、それを飲むでもなく、どこか落ち着かなそうに厨房の方を見ている。厨房には、後片付けは自分がと譲らなかったロディと、それにつられるようにしたクライブと、後は若い二人で☆ といらん気遣いをしたテールとが水音を響かせている。どうやらそれが気になるらしい。
(なんて言うか、妙に働き者だよな、こいつ……)
基本的に怠け者のノアは呆れ半分に思う。大輪の薔薇の後継者としてらしくないのはノアもだが、炊事をやたらと行いたがる彼もまた、特権階級の子息としては相当な変わり者だろう。まあ、趣味は人それぞれだし、咎めるつもりもないが。美味いし。
そんなことを考えながら答えの続きを待っていると、厨房からガシャン! と尖った音が聞こえた。
「……割れたな。たぶんテールだ」
「いや、うん、やっぱ俺がや――」
「やめとけって。片付けくらいは任せてやりなよ。騎士って名前のお目付け役も、やることないんじゃ手持ち無沙汰だろうしさ」
ガタンと席を立ったエルに手を振って、溜息混じりにノアは言う。
神の秘蹟を継ぐ、色の名を冠した薔薇家は〈大輪の薔薇〉と呼ばれ、各々に守護する国を持つ。その国の儀式や祭典の折々に秘蹟を用いた奇跡を行い、神の守護を人々に知らしめるためだ。その護衛・伝達役として守護国から派遣されてくるのが、ロディやクライブのような〈薔薇の騎士〉だった。
厳密に言えば薔薇家に属していない彼らは、それでも近侍のように、薔薇家の当主に付き従う。表向きは護衛のためだが、それ以上に重要なのは、目付けとしての役目だ。派遣された薔薇家に不審なことがあった折には、王と、全ての薔薇家を束ねる銀薔薇に、公正な立場で報告を行うこと。それが、彼ら騎士の一番重要な役割だった。
だがまあ、そんなにおかしな事件など、薔薇家にはあまり起こらない。神の意思に背く行為に秘蹟の力を用いることは、神の使者としての役目を放棄することと同義だ。そうした薔薇家はいずれ神に『見放され』る。つまり、大輪の蕾を持つ後継者が生まれなくなり、家の存続が不可能になるのだ。かつては薔薇家の頂点に君臨していた金薔薇を筆頭に、そんな例は幾つもあった。だから、過去の事例を教訓とした昨今の薔薇家は割合におとなしい。おそらくは、ノアとエルに魔女の呪いがかかったことが、ここ十年では一番大きな事件だろう。それが解決した今、彼らはただの近侍と考えて問題ない。禊で主が出歩けない以上、家事以外にやることもないはずだった。
ノアの言わんとすることを察したらしい。エルは不承不承、浮かべた腰を落ち着けた。
「まあ、たしかにノアちゃんの言うとおりだな。継承までは暇だもんな、あいつらは」
「それで、僕らのやることって何? 母さんになに頼まれたのさ」
やっと皿洗いを諦めたエルに、さっきの続きを尋ねる。持っていただけの紅茶にようやく口をつけた彼は、それを飲み込んでから答えた。
「ああ、そうそう。母上には、君の魔法の先生になってくれって頼まれたんだ。『あいつ蕾の使い方もなにも分かってないバカだからヨロシク!』って、かるーいノリで」
「魔法……? たしかに僕、勉強はサボってたけど……でもそういう、魔法の実践的なことは、秘蹟を継ぐまではやんなくていいって当の母さんに言われたような」
記憶を掘り起こして言えば、まあな、と苦笑混じりの答えが返ってきた。
「そう言わざるを得ないよな。魔女の魔法が行使されてからは、俺らの蕾は封じられたも当然だったから。訓練がなくても、君と君の家の秘蹟の相性の良さは保証されてるから、継承だけなら何とでもなるだろうし」
「そうなの?」
そんな話は初めて聞くが、エルは当然のように頷いた。
「うん。君の秘蹟はもう、ずっと昔に君を選んでるからな」
「ふ、ふーん……そういうことね、うん」
どうしてだろうと思ったが、他家の彼の方が自分の状況に詳しいとはこれいかに、とさすがに少々情けなくなったノアは、知ったかぶりで頷いた。
「だから継承については心配いらないが、問題は継いだ後だ。いきなりでかい力が体に宿ると暴走しやすいから、そうならないために、魔力制御の基礎だけでも身につけておいた方がいいと俺も思う。――ってことで、注目!」
言葉を切ったエルは、パン、と手を叩いて高らかに宣言した。
「さっそく今日から、エル先生による魔法教室・初級編、を始めます!」
「えー……」
「ノアちゃん、先生に対する返事はハイか、サー・イエッサーだ!」
「いやそれは何か違う」
そんなこんなで気が進まないまま、引きこもりを脱したノアは唐突に、エルを教師としての、マンツーマン魔法教室の生徒になってしまった。
□□□
中庭のテラスに面した小部屋に場所を移し、小さな丸テーブルを挟んで腰を落ち着けてから、エルはこう切り出した。
「じゃあ、そうだな。時間もそんなに無いことだし、まずは目標を決めよう」
「……目標? 『大長編・薔薇家の歴史』五冊暗記! とかそういうの?」
うんざり眉を寄せると、エルは苦笑して首を振った。
「違う違う。いわゆる『お勉強』を君に教える気はないよ。時間もないし、逃げられたくもないし。ほら、教本も持ってないだろ?」
ノアのサボり癖は聞いているらしい。空の手を示すように持ち上げて、エルは続ける。
「俺が君に教えたいのは、魔力の制御と統制の仕方だ。訓練方法としては、実際に魔力を『練って』みるのが一般的だな。こんな風に」
持ち上げた手を、見えないボールを持つように丸め、エルはそっと目を閉じた。間を置かず、手の中に小さな白い光が生まれる。思わず身を乗り出して覗きこんだノアの目の前で、光の玉は大きさを増し、少しずつ形を変えていった。するりと一部が長く伸び、その先端を覆うように、一枚、また一枚と、薄布のようなひだが重なる。
やがて彼の手の中に、一輪の白い薔薇が咲いた。
「うわあ……」
ほのかに光を宿した真っ白な薔薇に、ノアの口から感嘆の声がもれた。
「すごい、本物みたいだな! いや、本物よりきれいかも、光ってるし!」
目を開けたエルは、近い距離でまじまじと薔薇を見つめてはしゃぐノアに小さく笑い、生み出したばかりの薔薇を差し出した。虹彩の大きな青い瞳に、薔薇の放つゆるい光を映して、眩しそうにノアを見る。
「……――?」
薔薇越しに見えたその色に、ノアの心臓はドクンと跳ねた。突如生まれた衝動に突き動かされるように、差し出された薔薇でなく、それを持つ彼の手を強く掴む。
「ノアちゃん……? どうした?」
「へ……? ってうわっ! 何だこの体勢!?」
窺うようにかけられた声にふと我に返ったノアは、自分がエルの手をしっかと握りしめていることに動転し、ばっと勢いよく手を離した。反動で体が傾き、背もたれのない丸椅子から転がり落ちそうになる。
「うわっ――」
「ノアちゃん!?」
大きく傾いだ体が床に落ちる前に、素早くエルに腕を取られる。目を白黒させたノアを引っ張りあげながら、エルはほっと安堵の息を吐いた。
「あー、びっくりした。大丈夫か? ノアちゃん」
「う、うん、平気。ありがとう。――ってあれ、薔薇は?」
ノアを掴んだ時に手放したのだろう。エルの手から消えた薔薇を探して床に目をやる。
ほのかに光る薔薇はすぐ見つかった。椅子の下に落ちていたそれを、手を伸ばして拾い上げる。そこで異変が起きた。ノアの指が触れたとたん、ふっと光を強くした白い薔薇の花びらが、色水に落とした布のように、みるみる赤く染まっていったのだ。
「え!? 何これ!? どういうこ――……あれ? 消え、た……?」
あわあわしているうちに、花びらをすっかり赤くした薔薇は、ぱっと手の中から掻き消える。ふわり、と、みずみずしい芳香だけが、薔薇の残滓として空気に残った。
「……いい匂い……」
「匂いまで感じ取れるってことは、やっぱり君の魔法の力は優れてるってことさ。赤薔薇の後継者の名はダテじゃないな」
空になった手を見つめてぽかんと呟いたノアに、エルは笑ってそう答えた。
「どういうこと?」
「優れた魔力のある人間は、魔法に対する嗅覚が鋭い。魔力に込められたイメージをより正確に解することが出来るんだ。今のノアちゃんみたいに匂いや感触をリアルに感じ取れたり、なんの攻撃性もない炎を、それでも熱く感じたりとかな。まあ、一種の自家中毒から起こる錯覚だし、心構えがあれば逆に、普通の人間より流され辛くなるけどね」
「ふーん……?」
一応返事をするが、ノアがわかるようなわからないような顔をしているのに気付いたのだろう。魔法の講義は切り上げて、エルは話を最初に戻した。
「と、まあ、こんなふうに自分の魔力を材料にイメージを形にする、それが全ての魔法の基礎だ。起こしたい現象をより明確に思い浮かべて、それを編み上げるって行為の延長が魔法だよ。学術的な理論とかはまた別の分野の勉強だから、後回しだな。まずは、イメージを形にする所から始めよう。ノアちゃん、何か作りたいものはあるか?」
「うーん……今の、薔薇がいいかな。きれいだったし、魔法の薔薇なんて、女の子に贈ったらロマンチックーってモテそうだし」
やに下がった笑みで答えたノアを半眼で見て、エルは低い声で呟く。
「ノアちゃん、そんな堂々と浮気するぞ宣言されたら、俺は一体どうすれば……」
「あーもう、うっさいなぁ、冗談だって冗談。ほら、やってみるんだろ、教えてよ」
「えー……ほんと冗談かなぁ……本気っぽかったけどなぁ……」
話を逸らすノアを怪訝そうに見ながらも、エルは授業を再開した。
「まずは目を瞑って、自分の蕾を意識する。そうすると熱くなってくるだろ?」
「……うん……何となく」
促されるまま目を閉じ、今は服の下に隠れている、鎖骨の下にある薔薇の刻印を思い浮かべる。すると、たしかに彼の言うとおり、蕾がじんわりと熱を持ち始めた。
「そうしたら、その熱を手に流す感じに誘導する」
「うん」
「どんな感じ?」
「……手がちょっと熱い、かも。光ってるってこと?」
気になって目を開くが、机の上に置いた小さな手は、何の反応も示していなかった。それにがっかりしたとたん、少しだけ宿っていた熱までが霧散してしまう。
「あー……」
「惜しかったな。さあ、がんばれノアちゃんもう一回! 大事なのは集中力だ!」
励まされつつ、そうして何度か同じことを繰り返した結果、ノアの手の中にはついになんの熱も生まれなくなった。早々に飽きたのだ。
「……うあー、もう!」
「ノアちゃん?」
大きくため息をついて机に突っ伏すと、窺うように声をかけられた。
それを上目遣いに眺め、できるだけ可愛らしく、にっこり笑って言ってみる。
「……あのさ、相談なんだけど。疲れたから、続きはご飯食べてからにしない?」
「ノアちゃん、あのな。厳しいことを言うようだが、まだ朝飯から一時間と経ってないんだ。そして先生に色仕掛けは通用しません。というわけでもう一回!」
「えー……」
結局そのまま授業は続き、ロディが作った昼食(けっこう美味しかった)を挟んだ後もまだ続き、空が赤くなりかけた頃になって、ようやくノアの手の中には、死にかけのホタルのような小さな光球が生まれた。
「や、やった、やっと光っ……、あ、消えた……」
喜びいさんで叫んだとたんに、弱々しく光っていた玉はかき消えた。
それをきっかけに、なんとか絞り出していた集中力も完全に潰える。疲れきったノアはそのまま机に突っ伏した。頬に当たるひやっこい木の温度が心地いい。最後は意地になっていたせいか、顔がほてっていたようだ。
「ノアちゃん」
「……なんだよ。もう嫌だからな。もう疲れた。飽きた。お腹すいた!」
じだばたと幼子がするように足をばたつかせて駄々をこねる。励まされなだめすかされ、ノアにしては真面目にやっていたせいで、すっかり疲れきっていたのだ。
「わかったわかった、今日はもうお終いにしよう。実際、初めてで目に見える魔力を練れたんだから大したもんだ。すごいすごい」
「……ほんとに? 適当におだててないか?」
「ほんとだって。優秀な生徒だよ、ノアちゃんは」
「へ? ……優秀? 僕が?」
驚いて問い返せば、エルはあながち嘘でも無さそうに頷いた。ノアはぱちぱちと瞬く。
(ゆ……優秀とか、生まれて初めて言われたかもしれない……!)
ノアは母にもテールにも家の者にも、基本的にはバカにされからかわれて育ってきた。そのため、お世辞だろうと心の隅で思いながらも初めてもらった褒め言葉が存外に嬉しく、つい頬が緩んでしまう。それを見止めたエルは浮かべた笑みを深くした。
「ってことで、明日も引き続きがんばろうな、ノアちゃん」
「うん、わかっ――って、お前、調子に乗せてやらせようって魂胆だな!? 嫌だよ毎日なんて疲れるし。せめて三日に一度だな」
「でも、時間もないしさ」
「嫌だったら嫌だ! 何の楽しみもなく毎日授業なんてつまんない! やる気しない!」
「うーん……じゃあ、えーと……そうだ!」
困ったようにうなったエルは、やがてぽんと手を打った。
「じゃあこうしよう。ノアちゃんのやる気が出るように、何か、ご褒美と罰ゲームを設定しようじゃないか!」
「……ご褒美と、罰ゲーム? ってどんなの?」
「まず、ご褒美は俺のキス!」
「いらないよ! どっちかって言うと罰ゲームじゃないかそれ!」
「えっ……俺のキス、そんなに嫌か? 罰ゲームほどに嫌なのか? そっかぁ……」
「いや、え? それはそのえっと、言葉のあやで」
目に見えてしゅんとしてしまったエルに言い過ぎたかと慌てるが、顔を上げたエルは、ノアの心配をよそにけろりと言った。
「まあいいや、じゃあ罰ゲームが俺のキスだ! これで文句はないだろう!」
「バカにしてるのかお前は!? してるんだなそうなんだな!?」
掴みかかったノアをどうどう、といなしてエルは笑う。
「冗談冗談、怒るなって。薔薇が作れたら、ちゃんとノアちゃんのお願いを聞くからさ。何がいいか考えといてよ」
「お願いって……何でもいいの?」
とりあえず怒りをおさめて手を離すと、エルはうん、と頷いた。
「俺に聞けることならなんでも聞くし、あげれるものなら何でもあげるよ。俺のキスでも童貞でも、なんなら両方でもいいぞ!」
「いらねえよ! しつこいな!」
「あ、ちなみに罰ゲームは俺のキスで決定ね」
「だからしつこい!」
懲りずに同じ言葉を重ねるエルに怒鳴れば、エルはふっと、浮かべた笑みを突如、含みのあるものに変えた。え、とたじろいだノアに顔を寄せ、青い瞳をすっと細める。
「今度のは冗談じゃなくて本気だよ。だから、明日からもがんばろうな、ノアちゃん?」
「…………わ、わかった……から離れろ! 顔が近い!」
どこか艶めいた表情と声で言われ、身の危険を感じたノアは、こくこくと頷いてエルと距離を取った。ばくばく鳴る心臓をなだめながら強く思う。
(ぜ、絶対に、薔薇を咲かせて目標達成してやる……!)
とりあえず明日からもサボらないで授業を受けようと決意したノアを見つめて、エルは満足そうに笑った。結局のところ、すっかり上手く乗せられていることに、ノアは気付いていなかった。
□□□
どういう話し合いをしたのか知らないが、朝食と夕食はエル、昼食はロディが作り、後片付けは全てロディがするという分担になったようだ。どちらにせよ食べるだけのノアは、出された食事を小さな体に似合わぬ食欲で旺盛に平らげ、ロディが片付けを終えるのを残りの四人で茶を飲みながら待ってから、食堂を後にした。
テールとロディと共に、赤薔薇の棟にある自室へ戻る。赤い扉に手をかけたノアに、ロディは丁寧に頭を下げた。
「それではノア様、本日はお疲れ様でした。明日からは朝食前にお迎えに上がります」
「へ? いや、いいって、食堂なんてすぐだしさ。君もご飯の支度とかあるだろ?」
「朝食と夕食はエル様が作ってくださるそうなので。それに、ノア様の護衛が自分の任務ですから」
「あっそう……わかったよ、じゃ、よろしく」
館に危険などあるはずもなかろうが、何を言ってもロディは譲らないだろうと思ったノアは素直に頷いておく。
「では、自分はこれで失礼いたします。おやすみなさい」
「あ、ちょっと待って。ロディ、これから時間ある?」
「はい。何かご用でしょうか?」
足を止めて振り返ったロディに、ノアは部屋を示して言った。
「うん、ちょっとお願いがね。とりあえず入って」
「……へ!? っ、いえ、夜に女性の部屋に入るなど、騎士にあるまじき」
素っ頓狂な声を上げたロディは、すぐに調子を改めてくそ真面目な答えを返した。
「やっぱ真面目だなあ、君。大丈夫、別に二人っきりじゃないよ、こいつも居るし」
「んー……テールちゃんお腹いっぱいだよ~……むにゃ」
「ですが……」
満腹になったせいか、立ちながら頭をぐらぐらさせているテールを示すが、ロディはまだ渋っている。はあ、と息をついたノアは、ロディの茶色の目をひたと見つめた。
「頼むよ。……これは、君にしか頼めないことなんだ」
「……っ、わ、わかりました。では、お受けします」
息を飲み、戸惑ったように目を揺らしたロディは結局は頷いて、ノアの開いた赤いドアをくぐった。
部屋に入るなり、テールはさっさと長椅子に寝転がり、すやすや寝息を立て始めた。
自由すぎるメイドを驚いた目で見ながらも、ロディは生真面目にノアに尋ねる。
「それで、自分は何をすればよろしいんでしょうか」
「うん。君に手伝ってほしいのは、魔法の練習。あ、そこ座ってて」
所在なげに立ち尽くすロディにソファを示しながら言うと、おずおずと腰掛けたロディは、困ったように眉を寄せた。
「魔法……ですか? それならエル様とさんざん――それに、自分に蕾はありませんからノア様にご教授できることはなにも」
「いや、教えてほしいとかじゃなくて、ただ見ててくれればいいんだ。一人だとサボっちゃいそうだからさ。やむを得ない事情があって、どうしても儀式までに魔法の薔薇を咲かせないといけないんだよ」
「それならば、エル様に夜の授業をお願いすれば――」
「よ、夜の授業とか言うな! 第一、あいつを夜に部屋に招き入れるなんて入れ食いな真似できるわけないだろ!」
怖いことを言うロディに思わず怒鳴る。意味がわからないらしい少年は、きょとんとしたように首を傾げた。
「はあ……? ところでノア様はどちらへ」
寝室へ向かおうとしていたノアはああうん、と振り返る。
「まずは寝間着に着替えてこようかなって。やっぱ女物って窮屈だし」
「いっ、いえ、ダメです! ご婦人が男の前でそんな、む、無防備な姿になっては!」
「え? べつに素っ裸になるわけじゃないし、そんなの僕は気にしないけど」
エルならともかく、子犬のような少年を意識するほど、ノアの女子力は高くなかった。
妙に焦っているロディに首を傾げて答えると、ますます声が大きくなった。
「自分が気にします! お願いですから、自分がいる時はどうかそのままで!」
「あーうん……わかったわかった。じゃあ、そこ詰めて」
「へっ」
切羽詰まったふうに懇願され、着替えを諦めたノアは、ロディの横にぽすっと座った。ぎりぎり二人がけのソファは小さく、少しだけ肩が触れるが、窮屈なほどではない。
「あとは見ててくれればいいから。僕がサボりかけたら『罰ゲーム』って言ってね」
「は……は、い……」
ぎくしゃくするロディに気付かず、目を閉じたノアは気合いを入れて目を瞑った。
□□□
小一時間ほどすると、眠くなったらしいノアは「今日はここまでにしよう」と鍛錬を切り上げた。疲れた顔でロディに笑いかけ、ありがとう、と律儀に礼を言う。
「悪いけど、明日からも付き合ってくれる?」
傍らで見ていただけのロディには、ノアがしていることは目を瞑って唸っているだけにしか見えなかった。だが、疲れた顔を見るに、真剣に鍛錬していたらしい。
もちろんですと応じて部屋を退出したロディは、薄暗い廊下を歩きながら考える。
(赤薔薇秘蔵のお姫様っていうからどんなご令嬢かと思ったけど……男勝りであけっぴろげな人だな、何だか。年頃の女性にしては、ちょっと無防備すぎるけど)
触れ合っていた肩の細さを思い出したロディは、ぶんぶんと首を振って逸れた思考を戻した。赤くなった頬をごまかすように咳払いして、廊下を進む足を早める。
五代続いた騎士の家柄であること、剣の腕が同輩より少しばかり優れていたこと、性格が実直であること。叙勲を受けたばかりのロディが名誉ある『薔薇の騎士』に任命されたことにはそれらの理由があったが、一番の理由はノアと『年齢が近いこと』だった。
先入観はないほうがいい、と赤薔薇家に対する予備知識もほとんど与えられずに、いきなり重要な役目に就いたせいで、気負ってしまっている自覚はある。油断するよりいいとは思うが、しかし。
(ノア様の性格から察するに、もう少しくだけた方がいいのかもな。お前がいると息が詰まる、って嫌われたくもないし。いや、べつにそういう意味で好かれたいとかじゃなく)
誰にともなく言い訳しながらも、ロディは入っていた肩の力を抜いた。
想像していた深層の令嬢とはずいぶん違ったが、可愛らしい顔に似合わずざっくばらんなノアは、ロディには好ましく映った。裏表もなく、配下にも寛容だ。なかなか努力家のようでもあるし、何よりまあ、かわいいし。いや、最後のは別に関係ないが。
実際のノアのサボり癖を知らない彼はそう思い、尊敬できる、ついでにかわいい主と巡り会えた幸運を神に感謝した。そこでふと思い立つ。
(そういえば、屋上に祭壇があるって聞いたな。初日だし、祈りと宣誓を捧げておくか)
ざっと説明を受けた館の地図を頭に描き、中央塔の屋上へ行き先を変える。人の少ない館は微かな音もよく響く。まさか聞こえることもないだろうとは思いつつも、もう眠っているかもしれない主を気遣うように足音を忍ばせて階段を登り切ったロディは、そこにある両開きの扉をそっと開いた。緩く吹く風を体に感じながら、さて祭壇はと首を巡らせて中央まで歩くと、奥の方からぼそぼそと人の声がする。
(……誰だ?)
とっさに気配を殺してそろそろ近づき、花壇の影から様子を窺う。手すり近くに並ぶように立っていたのは、主の夫であるエルと、彼の騎士であるクライブだった。
「……まだ見えないな。本当に来るのか、『空の森の魔女』は」
不審者でなかったことにほっとし、声をかけようとした矢先に、クライブが口を開いた。空を見上げて怪訝そうに呟かれた言葉に、手すりを背もたれにしたエルは軽く頷く。
「来るさ。魔女にそれなりの責任感があるんなら、継承の儀までは見届けるはずだ。まあ、でも、念のため動向は探っといてくれ。ビビリのハゲ親父は調べてるだろ」
「……前から言ってるが、ご当主をハゲ呼ばわりはどうかと思うぞ。だから無駄に喧嘩になるんだろう」
「べつに頭のことじゃねえよ。ハニエル・ゲーツ・アイスバーグ、略してハゲってそれだけ。他意はないって言ってんのにいちいち怒るし、被害者意識強いよなあ、ハゲ親父は」
(ハゲ……はともかく、魔女? 何のことだ?)
魔女の呪いの件は、アルテ国では上層部しか知らされていない機密事項だった。故に、予備知識なしにここに放り込まれたロディに、彼らの会話の意味はわからない。ただ、密談めいた二人の空気はやけに気にかかった。
盗み聞きはよろしくないと思いながらも、草木の影に隠れたまま、じっと耳をそばだてる。気配を殺したロディに気付かぬまま、彼らは話を先に進めた。
「……まあ、ハゲはともかく。赤薔薇の姫とは、ずいぶん親しくしているな。予定と違うんじゃないか」
「え? なに、嫉妬? やきもち? 困ったな妻帯者なのに」
「…………」
からかわれたクライブは、背中ごしにもわかるほど不機嫌に、むっつりと息を吐いて押し黙った。とりなすようにエルは笑う。
「冗談だって、怒るなよ。いや、あの子、また自分のこと勘違いしてたみたいだし、だから平気だろうって、つい。やっぱかわいくてさ、近くに居ると構いたくなっちゃって」
「情が移れば、切り捨て難くなるだろう。……大丈夫なのか」
不意をつかれたように息を飲んだエルは、すぐに動揺を誤魔化すように笑った。
「大丈夫だよ。今更ネスとノアちゃんを秤にかけたりはしないって。でも、さ」
一旦言葉を切ったエルは、騎士と同じく夜空を仰いだ。
「それとは別に、覚えときたいんだ。あの子のこと、ちゃんと。だから、しばらくは大目に見てくれ。ネスは必ず取り戻す。心配はいらないからさ」
「……そういう心配をしてるんじゃない」
「? じゃあどういう――……」
きょとんとした声を出したエルはしかし、途中で言葉を止めた。花壇の影からロディが姿を現したせいだ。
「……覗き見か? 赤薔薇の騎士にしては、いい礼儀だな」
「止せよ、クライブ。――どうしたんだ、ロディ。眠れないのか? 迷ったか?」
白騎士をいさめたエルを無視して、ロディは強張った声で問いを投げた。
「今の話、どういうことです? ネスって、誰ですか」
「……どこから聞いてた?」
「やっぱり、聞かれちゃ都合の悪いことだったんですね」
表情を固くしたエルに、抱いた疑惑が確信に変わる。
話の全容はよくわからないが、情が移るだの切り捨てるだの秤にかけるだの取り戻すだの聞きなれない名前だの、といった断片的な言葉を繋ぎあわせて導いた結論は、ロディを激高させるのに充分すぎるものだった。
こみ上げる怒りのままぎっと眉を吊り上げたロディは、エルをきつく睨み上げる。
「見損ないました。たしかに、あなたが望んで結んだ婚姻ではないのでしょうし、よそに想い人が居たのかもしれないですが……だからって、結婚早々に浮気だか、二股だかの算段なんて!」
「……へ?」
どうしてか間抜けな声を上げたエルには構わず、一息に言い放つ。
「俺はノア様の騎士です。ノア様を傷つけるようなことをするなら、たとえ白薔薇が相手でも容赦しません。……ノア様が知ればショックを受けるでしょうから、今聞いたことは俺の胸に秘めておきます。ですが、もし本当に不貞をなさるおつもりならば、その時は、俺に剣を向けられることを覚悟して臨んでください!」
言うだけ言って、言い訳は聞かずに背を向ける。腰の剣を抜かなかったことが精一杯の理性だった。
足取りも荒く去り、最初の気遣いも忘れて力任せに閉められた扉をぽかんと眺め、取り残されたエルはぱちぱちと瞬いた末にはは、と笑った。
「……浮気、かぁ。すごい誤解だな。俺ほど一途な男、他に居ないと思うけど。なあ?」
くつくつと喉を鳴らすエルに、クライブは返事の代わりにふっと短く息をつく。
その背をぽんと叩き、笑いを収めたエルはもう一度空を仰いだ。
「大丈夫だ。ノアは悲しまないさ。……だってあの子は、覚えてないんだ」
ひとり言のような呟きは、星空に吸い込まれるようにぽつんと消えた。
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