1章  考えたくない今後の展望

「いきなりで驚いただろうが、これが真実だ。調停者気取りの魔女にちょっとばかり呪われてたが、今のそれが本来のお前の姿。お前はもともと私の娘で、れっきとした女の子なんだよ、ノア」


 ひとしきり喜び終えた母は打ちひしがれるノアの襟首をひっつかみ、有無を言わさず、待たせてあった馬車に放り込んだ。そうして開口一番言った言葉がこれだ。


「げほ……っ、の、呪われてた、って……ど、どうして……?」


 ほとんど引きずられていたせいで喉が苦しかったノアは、まだ半分むせたまま、隣に座った母に質問を投げる。やけに機嫌のいい母は、御者に大声で「ロゼの館まで大至急!」とわかりきった指示を出し、どっかと背もたれにもたれて答えた。


「婚儀の前に説明しただろ。赤薔薇たる我らアドニス家と、白薔薇アイスバーグ家は、十六年前から絶賛喧嘩中だった。まあ、他の薔薇家の手前もあるし、薔薇同士の抗争はご法度だから武器を用いた争いはまだしてなかったが、隙あらば足元すくってやろうって思いあってきた。それはわかってるな?」

「うん、まあ……何となく」

「何となくかよ。やっぱりお前はバカだなあ、もう」


 理不尽に言った母は、いいか、とノアを向き直った。


 色の名を冠する大輪の薔薇の一つ、赤薔薇家の当主であるノアの母は、燃えるような豪奢な赤毛と、尊大な態度にふさわしい凄味のある美貌を備えた女だ。ノアの母である以上はそれなりの年増なのだが、少女の――というよりはまあ、年若い青年のような、恐れるものなどないようなぎらぎらした熱を宿した瞳を持っている。


 その目でじっとノアを見て、母は唐突に問いかけた。


「さて、じゃあノア。我らが大輪の薔薇家にとって、最大の使命とはなんだ?」

「か……神に与えられた奇跡の力の根源である秘蹟を守り、受け継いでいくこと……だっけ?」


 間違えたら殴られそうなので、慎重にノアは答える。


「なんで自信なさげなんだよ、基本中の基本だろ。まあ、いいや。正解」


 ほっとしたノアの頭をぐりぐりと撫でながら、母は続けた。


「薔薇家に与えられた秘蹟は、いわば神と人との絆の証だ。それを長きにわたって継いでこそ、人は神の加護を信じられる」

「すなわち、薔薇家の秘蹟は人々の心の拠り所。薔薇家の守護があってこそ、王も領主も民を治めることができるというほど、秘蹟は重要なもの――だよね?」

「その通りだ。サボってばっかだったくせに、よく覚えてたな」

「まあ、家庭教師は大体このへんから授業はじめるからね……」


 褒める母に曖昧に笑ったノアは、動き始めた馬車の車輪の音に紛れるほどの声でひっそりと呟いた。


 ノアは勉強が嫌いである。色の名を冠し、秘蹟を受け継ぐ大輪の薔薇の後継者なのにとことんやる気のないノアにくじけた家庭教師は数知れない。そんな、季節のように移り変わりの激しい教師らはみな、判を押したようにこの序説から授業を始めた。教師の話などろくすっぽ聞いていなかったノアだが、何度聞かされたか知れないこの序説のことだけは、さすがに覚えている。


 そんな裏を知ってか知らずか、気を良くしたように笑った母はしかし、そこで声の調子を低くした。


「だが、赤と白の対立が世界の和を乱すと判断した魔女は、我らから秘蹟を奪おうとした。その結果が、六年前、お前たちにかけられた契約魔法――『空の森の魔女』の呪いだった」

「『空の森の魔女』……って、あの、伝説の!?」


 驚いて声をあげたノアに、母はむっつりと頷く。


 その名は、不勉強なノアでも聞いたことのあるものだった。『空の森の魔女』。七つもの〈大輪の蕾〉を持つ、精霊たちのお気に入り。


 魔力を持つ者は、総じて〈蕾〉と呼ばれる薔薇の花の刻印を持って生まれる。その中でも秘蹟を継ぐことができるほど大きな器を持つ者を〈大輪の蕾〉と呼んで区別する。主として血統で継がれる蕾だが、稀に突然に産まれることもあるらしい。そういう者のところへは、いずれ神が新たな秘蹟を授けにくる可能性が高いという。


 そして、『空の森の魔女』は、通常は一つきりである蕾、それも大輪の蕾を、七つも身に宿して生まれた人の変異種だった。もはや神に近い力をもった彼女は神の来訪の前に、元素を司る精霊たちに強く愛された。だが反面、人間は、強すぎる力を持つ彼女を恐れた。だから彼女も人を疎み、やがて彼女の元を訪れた神が授けようとした秘蹟を拒んだ。秘蹟を得て、神の使者として人間を守護することを、彼女は望まなかったのだ。代わりに魔女は、神に対等な契約を求めた。人間に脅かされない居場所を私に与えてくれ。その代わり、私もあなたの願いを一つ聞こう、と。


 契約を受け入れた神は、彼女に空を与えた。空に浮かぶ美しい森を。

 そして、神は魔女にこう願った。


『この森から世界を見守り、私の愛した薔薇たちが相争うことがあれば、それを、神に属さぬあなたが調停してやってくれ』、と。


「『空の森の魔女』なんて、そんなの、強い力を持った薔薇たちをいさめるためのお伽話だと思ってたけど……本当に存在してたんだな」

「そうだな。私もそう思っていた。実際に、呪いが我が子にふりかかるまでは、な」


 ふてくされたように母は言う。負けず嫌いな母だ、たとえ伝説の魔女にでも、屈したのは悔しいのだろう。

 母を横目で見たノアは、そこで抱いた疑問を口に出した。


「ねえ、母さん。いきさつはわかったけど、どうして魔女は性別を変えるなんて変な呪いを僕にかけたのさ? 嫌がらせ以上の意味あるの、それに?」


 細かいことに頓着しない母だ。たとえ娘が息子になろうが、元気に生きてりゃ問題ないとか考えそうなものだが、どうして屈したのだろうか。


「意味なら大いにある。性別が変わるということは、本人の属性そのものが変化するということだ。お前も白薔薇の後継者も、生まれながらに大輪の蕾を持っているが、性別の変わったお前たちを蕾は主と認識しなかった。つまり魔法も使えず、秘蹟を継ぐこともできなくなってしまったんだ。薔薇家にとっては死活問題だ」


 不機嫌に答えた母は、そこでふっと息を吐き、めずらしく自嘲するように笑った。


「だが、当時は逆に、チャンスだとも思った。白薔薇に先んじてお前の呪いを解けば、手を汚さずして奴を排除できる、とな。あっちもそう思ったんだろう、お互いに六年粘った。だが、神の許しを得て行使された魔女の魔法は私達には解けず、薔薇家を束ねる銀薔薇の圧力もあって、和議を結ぶことになった。魔女がお前たちの魔法に敷いた理――用意した鍵は、『子供を元に戻してほしければ仲直りすること』、だったからな」

「ああ、なんかいきなり結婚とかいうから何だと思ったけど、そういうことね……」


 納得して肩を落としたノアだったが、まてよ、と思い直して顔を上げた。母の話によると、ノアに呪いがかかって男になったのは六年前のはずだ。それはちょっと、時系列がおかしくないか。だって。


「母さん、僕、生まれてこの方、女の子だった覚えがないんだけど……?」

「いや、六年前までお前の体は女の子だったよ。男として育ててたけど」

「な、なんで!?」


 あっさり答えた母に思わず席を立って詰め寄る。それを座席に押し戻しながら、母は面倒そうに言った。


「お前、小さい頃からそんな風に落ち着きのないバカな子だったからね。うちの子が女の子って白薔薇は知ってたから、誘拐でもされたら困るなあと思って男の子の格好させてたんだよ。したらお前、すっかり自分が男だって思い込んじゃって、なんかそのまま」

「適当だな! そこは最初に教えとこうよ、ちゃんと!」


 ノアのもっともな抗議に、母は小娘のように口を尖らせた。


「えーだって、お前、ほんとにバカなんだもん。説明したって分かんないかなって。世間知らずなせいもあったんだろうが、自分が女だってことも十歳過ぎても気付かないしさ」

「だ、だったら余計に説明してよ! なんで十六まで言わないの!? おかげさまで今頃になって大混乱だよ! どうすんの僕これから!?」

「いやちょっと落ち着け、親の襟首つかむんじゃありません。親心だよ、親心」


 ノアの腕を掴んで引き剥がした母は、そのままの体勢でため息まじりにこう言った。


「性別のことは、魔女が来るまえにちゃんと一度は教えたよ。当時のお前も今みたいになってたけど、なんか、魔女の呪いの影響で忘れちゃったみたいでさ。教え直してまたショック受けるの見るのも親としては忍びなかったし、それにやっぱお前バカだから『実は女の子だったんだけど呪いで体は男になっちゃったんだけど女だからそういうつもりで生きていくように』なんてややっこしいこと理解できないだろうなーって思って」

「そうやって何でも僕がバカなせいって言えばいいと思ってないか!? ていうか説明が面倒くさかっただけだろ!? そういうのどうかと思う、どうかと!」

「どう思おうがこう思おうが、これがお前を取り巻く真実であり、現実だ。潔く受け入れろ、ノア・アドニス・ロゼ」

「……っ!?」


 掴んだままだったノアの腕をぐっと引き寄せ、近い距離、低い声で、母は言う。


「性別はどうあれ、お前の役目は変わらない。白薔薇の後継者、エルネス・アイスバーグ・ロゼと共に〈ロゼ家〉を築き、大輪の蕾を持つ後継者を成す。それがお前の使命だ。わかったな。わかったら返事をしろ」

「…………」


 ぎらりとした目で命じられ、ノアはしぶしぶ頷いた。こうなった母には逆らえない。無言なのがせめてもの抵抗だ。


 よし、と頷いた母がノアを解放したと同時に、馬車が静かに停車した。閉じたままだったカーテンを開き、外を覗いた母は明るい声に戻って、黙り込んだノアに言う。


「さて、着いたようだぞ。お前の新居だ、ピッカピカだぞー」

「…………」


 むっつりと目を伏せたまま、外を見ようとしないノアに苦笑した母は、ノアの明るい赤色の髪を乱暴に撫でた。


「ま、色々言ったが、とにかく結婚おめでとう、ノア。白薔薇はハゲだが、お前の夫はいい奴そうだ。仲良くやれよ。特に今夜な」

「……うん、わかっ……て、え? 今夜、って……?」


 わずかにしんみりした気配を覗かせた母に、へそを曲げるのはやめて頷いたノアはしかし、最後に聞こえた単語にきょとんと瞬いた。それを見た母はにやりと笑う。


「最初の子が女の子だったらうちの、男の子だったらあっちの後継として育てるって、協定を結んだんだ。だから母さん、最初は女の子がいいな! ってことでがんばれよ、初・夜!」


 ぐっ、と品のない仕草で親指を立てた母は、ぽかんと口を開けたノアを馬車からぽいと放り出し、砂埃と共に元きた道を戻っていった。それもすぐに見えなくなる。


「……しょ……や? え? 何、そ、れ? え?」


 取り残され、混乱したまま佇むノアの背後で軋んだ音がする。

 緩慢に振り返ると、開いた門の奥から、薄茶の髪を高い位置で二つに結った若いメイドが手を振って駆け寄ってくるのが見えた。


「ノアー、やっと来た! 待ちくたびれたよー! 結婚式どうだった? お婿さんどうだった? かっこよかった? ちゅーはした? ねえ、ねえねえ!」


 ノアに飛びついたメイドは、好奇心に目を輝かせ、急き込んで尋ねてくる。

 頬にあたるふかりとした胸の感触は心地いいが、今のノアにそれを喜んでいる余裕はなかった。それどころか、変わり果てたノアを見て驚きもせずに『婿』の様子をたずねるメイドに、ふつふつと怒りがこみ上げる。


「テール、お前、お前もやっぱ、知ってたんだよな……? ぼ、僕が、僕が……っ」

「え? ノアが女の子って? そりゃ知ってたよー、ていうかノア以外は大体みんな知ってたよ、赤薔薇の屋敷の人は。むしろよく気付かなかったよねえ、十六年も」


 あっさりと頷いたテールに、いろいろと積もり積もった混乱や悲しみや怒りが爆発したノアは、テールの腕を振りきって叫んだ。


「……ふっ、ざけんな! やってられっか—————!」

「あ、ちょっと、ノア、待ってよ! お館は逆だよー!」


 半泣きで走り去ろうとしたノアだが、冷静な指摘をしながら追いかけてきたテールに間を置かず捕まり、引きずられるようにして、真新しい館の内部へ連行された。




 竣工が済んだばかりらしいロゼの館は美しかった。


 整えられた前庭の奥には、中央の塔を挟んで、対になった棟が二つ建っている。片方をノアが、もう片方を白薔薇の後継者が使用するらしい。食堂やホール、その他もろもろの共用スペースは、両側の棟より頭の飛び出した中央塔に備えられていて、三つの棟はそれぞれ渡り廊下で繋がっているという構造のようだった。


「どこもかしこもピッカピカだけど、特に中央塔の屋上はいいよー。庭園になっててね、あと祭壇と、舞台もあったなあ。お婿さんと散歩するといいよ、ロマンチックだよ!」


 テールもたしか今日訪れたばかりのはずだが、すでに探索はすんでいるようだ。手の早いメイドにため息をつき、そんな彼女に腕を引かれたノアは、周囲の壁を落ち着かない気持ちで眺めながら言った。


「ロマンとかはおいといて……新しいのと造形がいいのはわかったけどさあ。でも、どうして色がことごとくピンクなの、この館」


 美しい館は外壁も中の壁紙も、そろいもそろってピンクで統一されていた。内装はわりと落ち着いた薄い色味ではあるのだが、妙に少女趣味で落ち着かない。考え過ぎかもしれないが、何かを強いられている気もする。


「赤薔薇と白薔薇の中間、ロゼの館だからね。色も中間のピンクにしてみたんだって。可愛いよね、ちょっと色っぽい気もするし」


(やっぱり何か強いられている……!)


 ぎくりと体をすくませたノアに気付いているのかいないのか、奥まった一室の前で足を止めたテールは、赤く塗られたドアを開き、そこにノアを押し込んだ。


「ここが今日からノアの部屋だよー! そこが居間で、こっちが寝室、奥にはお風呂もあるんだよ。いいお部屋でしょ。ベッドもふかふかだよ!」


 はしゃいだ様子のテールに引きずられ寝室へ行き、そこにでかでかと鎮座するベッドを見たノアは、肩を震わせて低く呻いた。


「……なんかもうピンクは突っ込む気しないけど、このさあ、ベッドにさあ、これみよがしに枕並べるのとか、二枚のバスローブとかさあ、止めてくんないかな! もうほんと僕帰る! 家出する男に戻る! 無理! こういうのほんと無理!」

「ちょっとノア、落ち着いてよ。男に戻るもなにも、ノアはやっと女の子に戻ったばっかりじゃない!」

「うわあっ」


 出口に走ろうとしたノアを、テールは見事に背負い投げた。

 小さな体は弧を描き、ぽすりとベッドに埋まる。目を白黒させたノアを覆うようにシーツに手をついたテールは、めずらしい赤色の目で、じっとノアを見つめて言った。


「私、ノアが女の子に戻るの、ずっと待ってたんだよ? ノアがどっかの女の子に恋したり手を出したりしたらどうしようって心配しながら、ずっと。それでやっと元の姿に戻れたのに、どうしてノアはまた、男に戻りたいなんて言うの?」


 いきなり真面目に責められてたじろぎながらも、ノアは何とか反論する。


「ど、どうして、って……だって、僕は十六年、ずっと自分を男だと思って生きてきたんだぞ!? 戻りたいのは当然だろ、僕の心は女の子じゃないんだから!」

「ノアは女の子だよ! 私は知ってるもん!」

「だ・か・ら、心の話だよ、僕が今してるのは!」

「私だってそうだもん! なんでわからないの? ノアのバカ!」


 むきになったようなテールの支離滅裂な主張と罵倒に、ノアの頭にも血が上った。


「……ああ、そうかよ。どいつもこいつも、そうやって、人をバカにしやがって!」


 絞りだすように叫んだとたん、目からぼろっと涙が落ちた。


「ノ、ノア? どうしたの、何も泣くこと……」

「泣きたくもなるだろ! おまえ、お前とか母さんとかは、僕を単細胞なバカだと思ってるんだろうけど、実際バカかもしんないけどさ、でも、僕だって、そこまで単純じゃないんだよ! い、いきなり女でしたって言われて結婚とかさせられて、しかもこどもとか初夜とか言われたって、そんな、はいそうですかって納得できるわけ、ないだろっ!」


 焦ったように顔を寄せてくるテールの視線を避けるように転がって横向きになり、涙に湿った声をつまらせながらも、ノアは一息に言った。


「ノア……ごめんね。私が怒っちゃだめだったね」


 言い過ぎたと思ったのか、体を起こしたテールは、ノアの震える背中を撫でながらしゅんとした声で謝った。ず、と鼻をすすったノアに、エプロンから出したハンカチを差し出してくれる。それを受け取って涙と鼻水をふいたノアは、のろのろと起き上がった。テールと二人、ベッドに並んで座った体勢になる。


(女の子とベッドに二人……。昨日までなら、この状況も素直に喜べたのに……)


 そう思い、また悲しくなって、一旦止まった涙が浮かぶ。

 まださっきの言い争いのせいと思っているらしいテールは、よしよし、とノアの頭を撫でてくれながら、でも、と口を開いた。


「ノア、エルと結婚するの、そんなに嫌だったの? 結婚するのも、その目的も、当主ちゃん、最初から説明してたじゃない。適当だったけど」


 会ったこともないくせに白薔薇の後継者を勝手な愛称で呼ぶテールに呆れながら、ノアはくぐもった声で答えた。


「……だから、結婚が嫌って言ってるんじゃなくて、『女』として、その……そういうことに臨むってのが無理だって言ってるんだよ、僕は」

「えー? そうかなあ。同じでしょ、やることは」


 あえて言葉をぼかしたノアの気遣いも無視して、不思議そうに首を傾げたテールは身も蓋もないことを言った。ノアは思わずむきになる。


「同じじゃないんだよ! 根本的に全然違うことだろ、自分が女じゃ人知れず集めたあれやこれやの予備知識も全部パーなんだよ、上下が入れ替わるってことは、天と地がひっくり返るほどに違うことなんだよ!」

「そうなの? ノアはノアだし、エルはエルだし、おんなじだと思うけどなあ」

「お前、恋愛小説好きなくせに鈍いっていうか、そういう機微はわかんないのな……」


 嘆息しうなだれると、テールは頬をふくらませてベッドを降りた。


「どうせ私は鈍いですよーぅ。いいもん、そういう風に言うなら、鈍感なテールちゃんはノアの気持ちなんて知らないもん。若い二人の成就をとことん応援しちゃうもん!」

「おい、テール、お前、何するつもり……!」


 焦って身を乗り出したノアの眼前にびしりと指を突き出したテールは、腰に手を当てて、ぱちっと可愛らしく片目をつぶった。そして高らかに宣言する。


「もちろん、いま館に着いたばっかりのお婿さんの援護だよ! きっちりノアの魅力をアピールしてあげるから心配しないで! 大丈夫、かっこいい男の子が目の前に居ればノアの乙女心も花開くはずだから!」

「へ!? いや余計なことすんな、待て……っ!?」


 ノアの制止もきかず、黒いスカートをひるがえしたテールはさっさと部屋を出て行ってしまった。ドアの閉まる音に遅れて、ベッドの横、バルコニーに面した広い窓から、ヒヒン、という馬の嘶きと蹄の音が聞こえる。テールの言うとおり、別の馬車で館へ向かっていた白薔薇の後継者が到着したらしい。


「…………と、とりあえず、そうだな。………………寝よう」


 ノアと同じく当事者である彼の到着により、またテールの暴走によりこれから何が起こるのかを考えたくなくなったノアは、もそもそとベッドに潜り込み、布団を頭まで被って目を閉じた。完全に、現実逃避だった。





□□□

 ぼそぼそと抑えた話し声に、ノアは閉じていた瞼を緩慢に持ち上げた。


「んー……よ、る……? あれ、僕、なんで寝て……?」


 目をこすりながら体を起こす。寝起きのぼやけた目では周囲の様子はよくわからなかったが、部屋はすっかり暗かった。


(昼寝しちゃったのか、でも何で――)


 そこまで考えて、ノアはここが実家の自室ではないことと、自分の置かれた悪い夢のような現実を思い出した。とたんに、心がずんと重くなる。


(そうだ、僕、女の子に――そして貞操の危機に瀕してたんだった。でも、まだ無事、だよな……?)


 だいぶはっきりしてきた目で自分の様子を伺うが、婚礼の時から着ている白いローブに寝ていたから以上の乱れはなく、隣に誰が居るということもなかった。眠っていたおかげで、今日のところは何事もなくやり過ごせたようだ。


 ほっとしたとたんに空腹を思い出し、腹がくう、と鳴った。そういえば、朝に軽食をとったきり、何も食べてない。


 さっきは気付かなかったが、寝室と居間の間にはドアがついていた。今は閉じられているその隙間からは、細く明かりが漏れている。テールが控えているのだろう。


「テール、僕、お腹すいたんだけど、何か食べるものもらって――」


 乱れた髪をかきながら、無造作にドアを開いたノアはしかし、その先に居た思いがけない人物にぎくりと動きを止めた。ぱちぱちと、目だけがせわしなく瞬く。


「あ、おはよう。ちょうどよかった。今並べ終えたとこなんだ」


 驚いた風もなく、彼は――白薔薇の後継者は、湯気の立つ料理の並んだテーブルを示し、硬直し続けるノアに柔らかく笑いかけた。しかしノアは動けない。じわり、と額に汗が浮かぶ。敵に追い詰められた兵士のように、ノアはこう思っていた。


(動いたら……やられる……っ!)


 戦場に身を置いたことなどないが、ノアは今初めて、本能的に危機を察知していた。別に彼がなにか特別アレな空気を出していたとかいうわけではないが、結婚初日、夜、妻の部屋に、夫。この項目に全て当てはまる以上、身の危険を感じるには充分だった。


「冷める前に食えよ、味はテールさんの保証付き――って、ノアちゃん? どうし……」

「く、来るな!」


 動かないノアに首を傾げた彼は、無造作にノアに歩み寄ってきた。とたんに身をすくませて扉の裏に隠れたノアに、きょとんと瞬く。


「……なんで? 腹へってるんだろ。別に毒なんて入ってないぜ?」

「そ、そんな物騒な心配はしてない、けど……っ、ていうかお前、その髪どうした!?」


 混乱したノアは、とっさに目に付いた彼の髪を指さして叫んだ。


「ああ、これ? 切った。長いの邪魔だったし、男に戻ったら長髪似合わなかったし。 似合うか? かっこいい?」


 短くなった髪をつまんで、照れたように笑う。


 彼の言うとおり、昼間は長かった彼の白金の髪は、ばっさりと短くなっていた。おそらく自分で切ったのだろう、長さが少し不揃いで、毛先も跳ねている。装いも、白のシャツに紐タイ、黒のズボンという、ごく普通の男のものになっていた。女の時には神秘さすら感じさせる美貌だったが、短い髪であっけらかんと笑う彼は、まあ格好いいはいいのだろうが、年相応の、元気そうな青年にしか見えない。


(髪が長けりゃまだ自分を騙せたかもしれないのに――これはもう、完全にごまかしが、きかない……っ!)


 美少女の面影すらなくなってしまった『夫』になおさら打ちひしがれるノアの心中も知らず、彼はついにノアの隠れるドアまで歩んできた。すっかり縮んでしまったノアよりも、彼の背は頭一つ分は高い。そこからノアを見下ろした彼は、不意に手を伸ばし、ぴくりと肩を揺らしたノアの髪を一房とった。そして、これだけは変わらない、虹彩の大きな空色の目をふわりと細める。


「ノアちゃんは男の時も長いの似合ったけど……今のほうがずっと似合うな。やっぱり、かわいい」

「ひ……っ!?」


 ひどく嬉しそうに笑った彼は、言うなりノアの髪に自然な動作で口付けた。

 隠しようのない悲鳴を上げたノアは、髪に触れた手を反射的に振り払った。乾いた音が部屋に響く。


「……ノアちゃん?」


 振り払われたことを怒るでもなく、どちらかと言えば心配そうに顔を覗きこんでくる青い目を、逃げそうになる体を抑えて強く睨み上げた。不思議そうな顔をした彼が何か言う前に、叫ぶようにまくしたてる。


「た、食べ物で釣ろうったってそうはいかないからな! 僕は、僕はたしかに女でお前の妻になっちゃったらしいけど、でも、違うからな! 僕の心は男だから、だからその、しょ、初夜とかそういうのは、無理だからっ! だから、もう、出てけっ! 出てかないと、えっと、その、えっと……お、怒るぞ!」


 いい脅し文句が浮かばなかったが、とりあえず言い切って肩で息をする。

 唐突に怒鳴られて面食らった顔をしていた彼は、しばらくしてから何かに納得したようにそういうことか、と呟いた。空色の目をいたずらっぽく光らせて、薄い唇に弧を描く。顔が、再び近付いた。


「怒った顔も嫌いじゃないけどね、って言ったらどうする?」

「……っ、じゃ、じゃあ、な、泣くぞ!? ギャン泣きするぞ!」


 意地というよりはもう、硬直して動けないノアはほとんど半泣きで、だからどうしたという脅しを投げる。


 じゃあ泣けば、とでも言うかと思ったが、彼は今度は困ったように眉を寄せて、苦笑じみた表情を浮かべて体を引いた。


「それはちょっと、困るかな。君の泣き顔は好きじゃないしね」


 ノアの頭をぽんとなだめるように叩いて、彼はくるりと踵を返した。ぱちぱちと瞬くノアを戸口で振り返り、口調を少し改めて言う。


「今夜は単に君に飯を食ってほしかっただけなんだ。怖がらせたならごめん。大人しく帰るから安心してよ」

「え……そ、そう……なの? いいのか、それで? こ、こども、とか……」


 あっさり引かれ、かえって不安になったノアは墓穴を掘るようなことを聞いてしまう。聞いた後にしまったと思ったが、彼は「じゃあやっぱり」とは言わず、混乱するノアを安心させるように笑っただけだった。


「そりゃまあ、いつまでもってわけにはいかないけど。でも、君が自分を男だと思ってたなら、気持ちを整理する時間は必要だろ。焦らなくていいよ。俺も、どうやったら君に受け入れてもらえるか、考えておくから」


 赤いドアを開いた彼は、きょとんと佇むノアに、思い出したように言い足した。


「そうだ、自己紹介がまだだったな。俺はエル。よろしくな、ノアちゃん」

「……う、ん……?」

「じゃ、また明日。――あ、テールさん。悪いけど食べ終わったら食器は厨房に持って来といてな。じゃあ、おやすみ」


 曖昧に頷くことしかできないノアに、それでも嬉しそうに笑ったエルは小さく手を振って、今度こそ部屋を出て行った。


「おやすみ……って、テール……?」


 ぱたんとドアを閉めたエルがノア越しに部屋に投げた言葉にもしやと思い、ギギギと首を後ろに巡らせる。思った通り、視線の先で備え付けのクローゼットの戸がパコンと開き、中からテールがよっこらせと這い出てきた。


「ふー、狭かった!」

「『ふー』、じゃ、ないだろっ! 何やってんだお前は!?」


 詰め寄ると、うーんと体を伸ばしたテールは、逆にノアを睨んできた。


「何やってるはノアの方でしょー。何で追い返しちゃうかなあー、もう!」

「そりゃ追い返すだろ!お前だな、お前があいつを招き入れたんだな!?」


 憤るノアだが、テールに反省の色は微塵もない。むしろ開き直って頬を膨らませる。


「そうだよ。だってせっかくエルがご飯作ってくれたんだから、おもてなししなきゃ失礼でしょ?」

「作った……って、これ、あいつが作ったの?」


 テーブルの上には、湯気を立てるスープとパンとサラダと、鶏を香草で焼いたものだろう料理がきれいに配膳されていた。男が、それも白薔薇の後継者が、料理とは。


 怒りを忘れて瞬くと、何故かテールが得意そうに胸を張った。


「うん、そうだよ! 今、この館にはノアとエルと私しか居ないもの。もうちょっとしたら、王様たちに報告に行ってる騎士さん達も帰ってくるけど、秘蹟の継承の儀まで他の使用人さんは来ないよー。何をするってわけじゃないけど、一応、禊の期間だからね。外界との接触は最小限に、ってことなんだって」

「だったらお前の役目なんじゃないのか、ご飯とかは……」


 もっともな指摘に、テールは何を今更、と唇を尖らせた。


「テールちゃん、ご飯なんて作れないもん。ノアも知ってるでしょー」

「知ってるけどさ……じゃあお前なんのために居るんだよ、ここに……」

「そんなことより、ほら、ご飯はやく食べなよ、冷めちゃうよ」


 がくりと項垂れたノアの手を取り、椅子に座らせるテールはたしかにメイド然としているが、どうにも謎の多い使用人だった。ノアにもノアの父にも、当主である母にもこのような友達じみた態度を取り、かつ誰もそれを咎めない。仕事も気が向いたときにそれっぽいことをしたり、稀に母の付き人のようなことをしているだけで、大抵はノアの遊び相手しかしない。何か理由のある親類の娘なのかなあ、と漠然と思っているが、本人に聞いても「秘密」と笑うだけなので真相は謎だ。


(僕が物心つく前からうちに居るし、見た目は化物みたいに変わらないけど、いい年なのは確かなのにな。改めて考えるとやっぱり謎だな、こいつ……)


 謎のメイドの正体に思いを馳せつつも、促されるままスプーンを取り、まずはスープに口をつける。まだ暖かったそれは優しい味で、疲れた心と胃にしみる。美味しかった。


 それが呼び水となり、空腹を思い出したノアはもくもくと食事を続ける。その様子を嬉しげに見守っていたテールは、ノアがひと通りの食事を終えた頃合いを見計らうように、淹れた紅茶を差し出してくれながら言った。


「ねえ、ノア。エル、かっこいいし、優しくて……いい子だね?」

「……まあ、嫌な奴では、なさそうだったけど」


 熱い紅茶を吹きながらしぶしぶ同意すると、隣に座ったテールはぱっと顔を輝かせてノアの方へ身を乗り出した。


「だよねー! もうこれは、あれだね! 恋だね! 恋するしかないよね、花も恥じらう乙女としては!」

「誰が乙女だ、そうやって自分の趣味を人に押し付けるなよ! 恋したいならお前がしろ、何なら協力してやるから」


 恋愛小説や他人の恋話が大好物なわりに、テール自身の浮いた話は聞いたことがない。テールがエルの相手を引き受けてくれるなら、応援するのは吝かではなかった。しかし、ノアの妙案に渋面を作ったテールは、呆れたように首を振る。


「何言ってるの、エルの相手は私じゃないでしょ? あなた達が恋をしないと、なんの意味もないじゃない」


 たしかに、赤薔薇と白薔薇の後継者同士でなければ、この婚姻に意味はない。テールの説教はもっともなのだが、だがしかし、割り切れないノアは深く肩を落とす。


「だって、だってさー……あいつ髪も切っちゃうしさー……綺麗な髪だったのに。顔も、今まで見たことないくらい、きれいでかわいくてさー……。なのに……なのになんっで男なんだよ! おかしいだろ!」

「ノアはほんとに女の子が好きだねえ……」


 ノアの嘆きに、テールは気のない相槌を打つ。それを振り仰いで、むきになったノアは叫んだ。


「だって可愛かったんだ、ほんと運命かと思ったんだよ! あの子になら永遠の愛を誓えると思った! なのにさー……男ってさー……二重にショックだよ……。僕の運命はどこ行っちゃったんだ……」


 最後でまた脱力したノアに、テールはきょとんと数回瞬いた後で、ふふっと笑った。テーブルに突っ伏したノアの赤毛をよしよし、と撫でる。その手は、どうしてかとても優しい。


「大丈夫だよ。ノアもエルも優しい、いい子だもの。運命だと思ったら、また誓えばいいよ。何度だって、運命は来るよ」

「テール……?」


 暗示めいた言葉を不思議に思い、ノアは顔をあげる。

 だが、テールはすぐに元の調子で明るく笑った。


「でも、運命は自分で引き寄せないとね! とりあえず、この部屋の鍵、エルにあげてもいーい? いいよね? 受け身な女なんて、今時はやらないもんね!」

「い・い・わ・け・あるか—————っ! 待て、ほんと止めろ、こら—————っ!」


 ノアの制止も聞かず、テールは空いた食器を手早くまとめると、踊るように軽やかな足取りで部屋を出て行ってしまった。


(あいつ、本気だ……っ! 自分の身は自分で守らなきゃ今度こそ、やられる……っ!)


 取り残されたノアは、守るように自分の肩を抱き、ごくり、と喉を鳴らす。

 しばしそうして考えた末、ノアは、部屋の家具を小さな体で必死で運んでドア前に積み、バリケード作りを始めた。




□□□

 そして、婚礼の日から数えて三日が経過した。


「ねえ、ノアー。今日こそ部屋から出ようよー、いいお天気だよー?」

「いやだ」


 ベッドのカーテンを捲り、機嫌を取るように声をかけてくるテールに背を向けたまま、ノアはきっぱりと答える。呆れたように息をついたテールは、「ノーアー」と彼女にしては低い声で言いながらベッドに乗り上げ、無理やりに顔を覗きこんできた。


「確かに私もはしゃぎすぎたけど、でも、そうやってふてくされてたってしょうがないじゃない。いつまでもそんな態度ばっかとってると、ほんとにエルに鍵渡しちゃうよ?」


 なだめても無駄と思ったのだろう。今度は脅しをかけてくるテールに、ノアはフン、と鼻を鳴らす。


 初日、テールの暴走に恐れを抱いたノアがバリケードを築き籠城しかけたことで、エルにも諌められたらしいテールは、ひとまずはノアの意を汲みそっとしておくことを約束した。だが、三日たち、親睦を深めるどころか部屋から出もしないノアに、ついにしびれを切らしたようだ。しかし、ノアは応じない。


「そしたらまたバリケード作るし、ご飯だって食べないし」

「もう、ノアったらー……」


 降参、というように肩をすくめて体を起こしたテールはもう一度、はああ、とさっきよりも大きくため息をついた。


「……とりあえず、ご飯持ってくるね。エル、作ってくれてるから」


 しょんぼりと言い置いたテールが部屋を出たのを確かめてから、ノアはのそりと布団から出て、ベッドを降りた。窓を開きバルコニーに出て、うーん、と大きく伸びをする。


「三日も寝てばっかだと、さすがに体が痛いなぁ」


 実際のところ、こうして部屋に引きこもることに、ノア自身も飽き始めていた。外に出るのは難しいにしろ、館や庭の探索くらいしたいし、テールの言っていた屋上庭園も見てみたい。


「なんかもう、あいつを警戒するのも馬鹿らしくなってはきてるし、テールの言うとおり、潮時なのかもしれないけどさ……」


 美しく彫刻のほどこされた手すりに肘をつき、素朴な花の咲く花壇を見下ろしながら呟く。テールが食事を取りにいったということは、そろそろあそこに、エルが来る。


 ノアの胸中を慮ってくれているのか、この三日間、エルは部屋には来ていない。ただ、テールの運んでくる彼の作った食事には、小さな花束とカードが添えられるようになった。カードに記されている言葉は『自信作!』だの『甘すぎたかも?』だの『猫は好き? 厨房にネズミが出る前に飼おうと思う』だのといった他愛のないものだった。口説き文句でも書いてあれば破り捨てるところだが、これでは腹の立てようもない。むしろ、変に警戒している自分が悪いような気にすらなってくる。


「でも、いまさら外に出るのもなんかなぁ」


 ため息をついた時、館からエルが出てきた。早足で花壇へ駆け寄り、少しだけ考えてから、花を手早く何輪か摘む。


 花を摘み終わった彼がこの窓を振り返ることをノアはもう知っていたので、見つかる前に慌てて部屋に戻った。窓を閉じてカーテンを引き、元のようにベッドへもぐる。


(お前が嫌な奴じゃないことはわかったけどさ。……でも、まだとても、そういうのは無理なんだよ)


 言い訳するように胸中で呟いて、ため息をつく。

 何となく、ほだされかけている自覚はある。だからこそ、部屋から出るということは、彼を受け入れることと同義な気がして、ノアは決心がつかないでいた。




 その日の夜、バルコニーから聞こえた微かな音で、ノアはふと目を覚ました。

 ほとんど一日中をベッドで過ごしていると、眠くはなくても何となく眠ってしまう。その代わり、眠りは浅く、小さな物音でもすぐに目覚めるようになってしまった。


(……風の音かな?)


 緩慢に体を起こしてベッドを降りようとしたノアの目の前で、バルコニーに面した窓が唐突に大きく開いた。流れ込んだ夜風に、ぶわっ、と薄いカーテンが舞う。その影から現れた人物に大きく目を見開いたノアは、慌ててベッドに乗り上げた。端に寄り、守るように身を固め、混乱に震える声で問いかける。


「お、おま、おまえっ……ど、どうしてここに……っ!?」

「ノアちゃんが全然部屋から出てこないから、さすがにちょっと心配になってさ」


 月光を背に、軽い足音を立てて部屋に入ってきたのは、エルだった。


「こ、ここ、三階なんだけど!?」

「おかげで登るの大変だったけど、やればできるもんだな。あ、方法は企業秘密ね」


 怯えるノアに気付いていないはずもないのに、エルは悪びれた様子もなく、すたすたとベッドに歩み寄ってくる。


「こんな真似しなくても、テールさんに頼めば鍵は開けてもらえたんだろうけど……君とちゃんと、二人で話をしたくてさ」


 ベッドにたどり着いたエルは、その端に腰をかがめて手をついた。きしり、と軋んだ音に、ノアの額に汗が浮かぶ。やばい。これはなんだか本当に、やばい。


「は、話って、なんだ、よ……っ」


 時間を稼ごうと、もつれる舌で絞り出すように問いを発したノアに、エルは涼しい顔で笑った。


「俺も、考えたんだよ。俺が男で君が女の子なのは、もう変えようのない事実だ。君がそれを簡単に受け入れられないのは分かるけど、俺たちには課せられた役割がある。時間も実は、あまりない」


 ぎしり、と、さっきよりも深い音が鳴った。エルが完全にベッドに乗り上げたせいだ。


 ――エルの言っていることは分かる。この婚姻は、あくまでも呪いを解くための暫定的な手段だ。一刻も早く次代の後継者を授かり、目に見える形で家が存続する証がほしいというのが母の、そしてエルの父や一族の者の本音だろう。ノアにだってそれは分かる。薔薇家に生まれた者として、秘蹟を継いでいかねばならないという、なけなしの責任感もある。だが、それでも、今はまだ無理だった。エルもそれを分かってくれたと思っていた。だからこそ、こんな夜這いじみた真似をされたことがショックで、我知らず視界が滲む。


「だ、だからって……こんな……っ」

「うわ、泣くなって! 違うんだ、最後まで聞いてくれよ、ノアちゃん」


 声を震わせたノアに焦ったように、エルは大きく手を振った。


「無理強いはしたくないし、俺だってこないだまで女だった身だ、君が怖がるのも分かる。……でも、それは、君が俺を受け入れなきゃいけないって考えるからだろ? だったら、考え方を逆にしてみれば怖くなくなるんじゃないか?」

「つ……つまり……?」


 言わんとすることが分からず問い返すと、エルはどうしてか自信に満ちた顔で、胸に手を当てて高らかに言った。



「つまりはそう――君が俺に身を捧げるんじゃない。

 俺が君に童貞を捧げるんだ! みたいに考えてみればどうだろうか!」



「……………………………………………………………………ど……っ」


 ものすごく長い沈黙の末に、ノアはやっと声を絞り出した。今までの恐怖もショックも忘れ、目の前のバカの襟首を力一杯ひっつかんで叫ぶ。


「『どうだろうか』、じゃ、ねぇええええええええええ—————!!!」

「まあ、そう遠慮せず」

「してねえ! いらねえ! うわ、ちょっ、来るな、ほんと来るな……っ!?」


 襟を掴みあげた手を逆に取られ、背中がぽすりと枕に沈められる。仕草は優しかった。衝撃もほとんどない。それなのに、エルの力は強く、抗えなかった。


「……っ」

「ノア」


 低く名前を呼ばれたノアは、せめてもの抵抗に、近い距離にあるエルの顔を睨もうとした。けれど、それは上手くいかない。婚礼の日と同じ衝撃がノアを襲ったからだ。


 開いた窓から漏れる月明かりに照らされたエルの表情は静かで、短い髪は月光と同じ色にきらめいていた。闇の中にあってなお、虹彩の大きな瞳は青空の色を宿し続けている。長い睫毛は、なめらかな頬に濃く影を落としていた。


(やっぱりこいつ……きれい、だ)


 見間違いようもなく男なのに、しかもたった今、相当のバカであるとわかってしまったのにも関わらず、それでもノアは、月明かりの中で自分を見つめるエルに見とれた。睨むことも出来ず、ただエルを凝視するノアに何を思ったのか、エルはノアの腕を離し、その手でそっと、顔に纏わりついた柔らかい赤毛を払った。あらわになった頬に手が添えられる。しんと冷えた指は細く長く、けれど女のものではありえない力強さをもっていた。


(やばい、振り払わないと、逃げないと……っ)


 そう思うのに、ノアの体は縫い止められたように動かない。


 ゆっくりと、エルの顔が近付いてくる。避けることもできず、混乱したノアは、ただぎゅっと強く目を閉じた。そこで、時は止まる。


「…………???」


 目を閉じたまま、一秒、十秒、一分が経過した。何も、起こらない。


 不思議に思い、おそるおそる目を開ける。するとそこには、顔をそむけてぶるぶると肩を震わせているエルが居た。


「……な、なに……? 何で笑って……」


 状況が分からずきょとんとするノアの上からよろよろと退いたエルは、ベッドの縁で背中を丸めて、本格的に声を上げて笑い始める。


「っ、いや、ごめん、冗談、冗談だからそんな、本気で……あははは!」

「……じょう、だ……ん……!? お前、僕をからかって……!?」


 かっと腹を立てたノアにも気付かぬように、エルは更に大きく笑って言った。


「あっはっは、もう、ノア、ノアちゃん、ほんとかわいいな! やばい! これはやばい! 性癖に刺さる!」


 涙まで浮かべて笑われ、腹が立つやら情けないやら恥ずかしいやらで居たたまれなくなったノアは、手近にあった枕を投げつけながら半泣きで叫んだ。


「……おっ、お前もう、出てけっ! いや、いい、僕が出てくっ!」

「っ、おい、ノアちゃん!」


 さすがにからかい過ぎたと思ったのか、今更に笑いをおさめて追ってくるエルから逃げるように身を翻し、三日ぶりに赤いドアをくぐったノアは、部屋の外へ駆け出した。



「ノアちゃん、ごめん、俺が悪かった悪ふざけがすぎた、謝る、謝るから!」

「うるっさい! もうついてくるな、お前なんか嫌いだ、バカ!」


 慌てた声を上げて追ってくるエルから、ノアは全速力で逃げ続けた。


 初日に入口から部屋までを歩いただけの館の構造はよくわからないため、ただただ目の前だけを見て走る。角があれば曲がり、渡り廊下があれば渡り、階段があれば降りたり上ったりを幾度も繰り返した。そうしてあっちこっちを行ったり来たりした末に、目の前に大きな両開きの扉が現れる。鍵はかかっていなかった扉をバンと開いて中へ飛び込むと、とたんに澄んだ空気がノアを包んだ。


「……うわっ! あ、そっか、ここ、屋上……」


 止まったとたんに心臓が強く脈打ち、息が上がる。久しぶりに激しい運動をしたおかげで足もふらふらだっだが、それでもノアは、中央の開けた場所までまた走った。そして空を見上げる。近い距離に、満天の星が見えた。


「……や、っと追いついた……っ。ノ、ノアちゃん、見た目によらず体力あるな……」


 不意に現れた星空に見とれていると、ぜえぜえと肩で息をしたエルが追いついてきた。そういえば逃げてたんだ、と思い出した時にはすでに、エルはノアの隣に並んでいた。


「ノアちゃん、ごめん。謝る。調子に乗りすぎた」

「…………」


 神妙に頭を下げたエルは、窺うようにこちらを見てくる。まだ腹が立っていたノアは、それを無視した。そのまましばらく沈黙が落ちる。空を見たまま、視線すら向けないでいると、エルは気まずい沈黙を誤魔化すように、ええと、と話しかけてきた。


「ここ、中央塔の屋上な。綺麗だろ。明るければ、花とかもきれいなんだ」

「…………」

「け、けっこう広くて、奥には祭壇もあるし、小さい東屋もあるんだよ。それで、あっちは舞台も――あ、そうだ、もっと高いとこで見たくないか、星?」

「…………もっと高い、ところ?」


 無視を決め込んでいたノアだがしかし、苦し紛れに話し続けるエルが最後に言った単語に、つい反応してしまう。やっぱバカだからかなあ、と母によく笑われたのであまり公言するつもりはないが、ノアは高いところが好きだった。


「ああ、うん、そう! こっちならもっと綺麗に見える! と思う!」

「え? おい、ひっぱるなって!」


 やっと反応を返したノアに勢い込んで頷いたエルは、ノアの手をとり有無を言わさず屋上の右手奥へと誘った。屋上には月以外の明かりはなく、足元は少し怪しい。たまに躓くノアをその度に軽く支えながら走り、エルがノアを連れて至ったのは、さっき言っていた舞台の上だった。


「どう? さっきのとこより高いだろ?」

「うーん……思ったより変わらない」


 数段の階段を上り、半円型の舞台に立つと、たしかに空は少しだけ近くなった。だが、劇的に風景が変わる、というほどのものでもない。


 正直に答えると、エルはえっと、と困ったように視線を宙に巡らせた。少しの間の後、思いついたようにそうだ、と呟き、唐突にしゃがみ込む。そして、ノアの体をひょいと肩に担ぎあげた。


「うわっ!?」

「これでどうだ! 変わったか? 近くなったか? 空」


 目を白黒させて上ずった悲鳴を上げたノアを見上げて、エルは笑う。


 その笑顔はいっそ無邪気で、怒りを削がれたノアはただ肩を落としてため息をついた。そしてまた正直に言う。


「……やっぱり、あんまり変わらない」

「えー……そう、か? ごめん……」


 小さく謝り、ノアを降ろしてうなだれたエルは本気でがっかりしているように見えた。

 子どもじみた様子に気が抜けて、思わずふっと息をもらして笑う。それを耳ざとく聞いたらしい。ばっと顔を上げたエルも、ほっとしたように笑った。


 やっと和んだ空気の中、しばらく並んで星空を眺めていると、不意にエルが口を開いた。視線は空に向けたまま、静かな声で言う。


「さっきはごめん。もうあんな真似はしないから、許してくれ」

「……明日の食事のデザート、大盛りにしてくれるんなら、許す」

「おやすいご用だ、張り切って作るよ」


 しぶしぶ謝罪を受けると、エルは嬉しそうに笑った。舞台の床に腰をついた彼は、少し考えるようにした後で、ノアを見上げてこう言った。


「ついでにお願いっていうか、これが本題なんだけど。そろそろ部屋から出てこないか? 閉じこもっててもつまらないだろ。俺も、君と会えないとつまらない」

「……なんで?」

「何でって、それは……」


 きょとんと首を傾げたノアに、エルの声に少しだけ、照れたような響きがこもった。けれど口ごもることはなく、意外なほどにきっぱりと言い放つ。


「俺が、君を好きだからだよ」

「…………へ??? だって僕ら、会ったばっかりなのに?」


 またからかっているのだろうかと眉を寄せたノアに、エルはただ静かに笑った。冗談を言っている顔には見えなかった。ますます不思議に思い、ノアは彼の真意を探ろうと、弧を描いて細まった青い瞳をじっと見つめる。そこには、当然ながら、彼を見つめるノアが映っている。その、まだ見慣れない『女』に戻った自分を見て、ノアはああ、そっか、と内心で手を打った。


(一目惚れってやつか。たしかに、今の僕は不本意ながら美少女だもんな。惚れちゃうのも分からんでもない)


 何も言わないエルに、そう結論付けて納得する。

 ノアだって、エルを最初に見た時は、愛を誓いかけたほどにドキッとしたのだ。最初から自分を男と知っていたエルが、ノアを見て同じ事を思ったとしても不思議はない。


 エルに合わせてぺたりと座り、同じ高さで彼の目を見て、ノアは口を開いた。彼が明確な好意をノアに抱いているのであれば、まずはきちんと言っておかねばならないと思ったからだ。


「往生際が悪くて申し訳ないけど、僕はまだやっぱり女じゃないっていうか……エルの気持ちには応えられないと思う。それでもいいの? ぶっちゃけて言うと、初夜とか夜這いとか無理なんだけど」

「いいよ、そんなの。君の嫌がることはしない。俺はただ、君とこうやって話したり、飯を食ったり、そういうことがしたいんだ」

「……それなら、わかった。明日からはちゃんと、部屋を出る」

「うん。……ありがとう」


 ふわりと笑ったエルは、そのままそっとノアの手を取り、キスをした。

 あまりに自然だったのでつい見守ってしまったノアの頬がかっと赤くなったのは、彼が唇を離した後だった。


「お、お前、何もしないって今……っ」

「今のは挨拶、感謝の印だよ」


 しれっと答えるエルに、ノアは肩を震わせる。


「お前、ほんとに分かってるか!? ものすっごく信用ならないぞ!?」

「まあまあ、信用してよ。今だけでいいからさ」


 掴みかかるノアの指を逆に取って立ち上がり、促すようにつないだ手を引く。


「じゃ、そろそろ戻ろうか。部屋まで送るよ、お姫様」

「……中には入れないからな、王子様」


 怒るのにも疲れたノアがため息混じりに応じると、エルは楽しげな声を上げて笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る