両手にバラの花束を!

三桁

序章 薔薇家の婚儀

 ノアは「運命の相手」を信じている。


 理由は自分でもわからない。恋に恋する乙女のような心を持っているわけでもない。第一、ノアの性別は男である。


 男であるゆえに、きれいなもの、かわいいもの、ものというかまあ、端的に言えばきれいでかわいい女の子が大好きであるし、できるだけ多くのきれいでかわいい女の子とお近づきになりたいなと、箱入りながらに夢想する日々を送っていた。


 そんなチャラい性分と思考をもって十六年の歳月を生きてきたノアだが、どうしてか、信じているのだ。

 知っている、と言い換えた方がいいかもしれないほどに強く。


 ノアは、この世界のどこかに、自分だけの「運命の相手」がいると、信じていた。





 永遠の愛を誓ってしまうかもしれないと思った。


 それは、天窓の大きくとられた銀薔薇ゆかりの礼拝堂でのことだった。

 礼拝堂の二つの入口から伸びる、祭壇へ交わる細い道。

 誓約を交わす二人を誘うように敷かれた赤い絨毯の上を、その時、ノアはさしたる感慨もなく、教えられた通りにゆっくりと歩いていた。


(赤薔薇家と白薔薇家、双方の存続のため、和睦の証としての婚姻、か。おもしろくもおかしくも、さりとて悲しくもないけど……いや、かわいい子なら嬉しいかな。どうだろ。とりあえず、口うるさい子じゃないといいなあ。僕、遊びたい盛りだし)


 今まさに婚姻を交わそうとしている者としては不届きすぎることを考えながら、ノアは対面から歩んでくる少女を探るように見つめた。ゆったりとした白い、儀礼用のローブを纏い、顔の半分を覆う薄布を頭から被っている彼女の顔は見えない。同じ装いをノアもしている。間もなく夫婦になろうというのに、お互いにお互いの顔は、まだ知らない。


(好きな子でもいたら悲劇なんだろうけど、僕はまだ、恋したことがないしなあ)


 ノアは箱入りで、ほとんど屋敷の外に出たことはない。幼い頃は屋敷の裏手の山や森で遊んでもいたが、いつしかそれも禁じられてしまった。


 そうして、とりあえずは大人と見なされる十六を迎えたノアは、これからはやっと好きなように街を出歩けるとわくわくしていた。きれいでかわいい女の子と数々の浮名を流し、その末に『運命の相手』と巡り会うという未来図を勝手に描き、それを楽しみに、退屈な日々をやりすごしていた。


 だから、赤薔薇の当主である母に「家のために結婚しろ。反論は認めん」と命じられた時は、面白くなかった。ごねたり拗ねたりもしてみたが当然ながら母は折れず、またノア自身にも、家出するとか命がけの説得を試みるとかいうほどの根性はなかった。


 そんなやる気のない気分で、流されるままこの佳き日を迎えたノアの心境が一変したのは、祭壇の前にたどり着いた時。


 少女の顔を隠していた布を、銀薔薇の立会人が取り払った瞬間だった。




「…………」


 思わず息を飲むほどに、白薔薇の後継者は美しかった。


 白くなめらかな頬に落ちかかる、眩いばかりの白金の髪。同じ色のまつげは長く、青空の色をした大きな瞳を柔らかく縁取っている。薄い唇は微かに上に弧を描き、それが、ともすれば冷たく見える作り物のような美貌を、血の通うあたたかなものにしていた。


 ノアは、立会人に自分の頭の布を取られたことにも気付かずに、ただ彼女を凝視する。不躾な視線にたじろぐこともなくノアを見つめ返した少女は、露になったノアの顔を見て、虹彩の大きな瞳をふっと、ひどく嬉しげに細めて見せた。


 その表情の愛らしさに、まだ静かだったノアの心臓は、どくんと強く脈打った。同時に、目の前が白く、チカッと光る。


 ――まるで、雷に打たれたような衝撃。


(……なんだ、これ。こんなの、テールが読んでる恋愛小説みたいじゃないか)


 けれど、実際に衝撃はノアを襲った。たたらを踏むように、少女に向かって数歩よろめく。少女は驚いたようだったが、ノアを避けずに細い指で支えてくれた。その手を、ノアは無意識にとる。初めて見るはずなのに懐かしい気のする青い瞳が、僅かに瞠られる。


「――赤薔薇アドニス家、白薔薇アイスバーグ家。〈大輪の薔薇〉たる両家の恒久なる絆の証として、ここに新たな薔薇、ロゼを咲かせる。創世の神に根源を託されし大輪の主、銀薔薇の立会いのもと、赤と白、両者の誓いをここに」


 滔々と述べる立会人の声は、耳に届いていなかった。

 だが、少女の細い指を強く握ったノアは、熱に浮かされたようにこう言った。


「誓おう」


 ――君に、永遠の愛を。


 意図せず進行に沿う形になったノアの誓いはしかし、最後まで口に乗せることはできなかった。少女の浮かべた、透き通るような笑顔に見惚れたせいだ。


「誓います」


 凛とした声ではっきりと応じた少女は、ノアに握られたままだった手をゆっくりと引き、自分の傍に寄せた。細い指を握ったままのノアの手の甲に、そっと、まるで宝物にするように、口づける。その意外な行動にノアは目を瞠り――……


 そして、世界は暗転する。


「……っ、な、何……? 僕、どうし……?」


 立ちくらみのような感覚の後、一瞬、意識が途切れた。

 今度こそ少女に倒れこんでしまったようで、蹲ったノアの体を、白いローブから覗いた手がしっかりと支えくれている。そう、さっきと同じ、骨ばった指――……が……?


「……って、え……???」


 そこで、ノアは違和感に気付いた。

 ノアの肩に回された腕は思いの外しっかりしていて、暖かいけれども、なんだかやけに固い。ほっそりとした、さっきの少女のものとは思えない。そして、聞こえてきた声も。


「――『初めまして』、赤薔薇の姫。思った通りだ、かわいいな」

「へ……? 君、その、声……?」


 おそるおそる視線を上げる。近い距離に見えたのは虹彩の大きな青い瞳で、それはさきほど愛を誓ったばかりの少女と同じ色だ。ほっとするが、しかし今度は、その瞳に映る自分に違和感を感じる。青い目の中で、少しだけ吊った緑の瞳を瞬かせている、ふわふわとした赤い髪の毛の持ち主は、たしかにノアだ。だが、男にしては小柄で華奢なのが悩みだった体はますます細く小さくなっているし、頬や肩の線は、はっきりとわかるほどに丸く、柔らかくなっている。戸惑いに震える目をした美少女が、そこに居た。


「な、な、な――何!? なんだこれ! こ、これ、僕!?」

「え? ……もしかして、知らなかった、のか?」


 思わず馬鹿でかい声を上げて叫んだノアに、少女がきょとんと問う。


 ――いや、『少女』では、ない。


 見上げた先に居たのは、白金の髪と青い瞳の、ノアと同じ年頃の、『男』、だった。


 たまらずノアはもう一度、更に大きな声で叫ぶ。


「な、な、なんだこれ—————!? な、なん、なんで君が男に、そして僕は女に!? さっきの美少女は、美少年だった僕はどこ行ったんだ!?」

「いや、どこ行ったっていうか、俺らはもともと……」


 一番近いところに居た元美少女の襟首を掴みあげて詰め寄ると、元美少女は困惑したように眉を寄せた。


 その時、礼拝堂に新たな叫び声が響いた。


「やった——やったぞ! やったな白薔薇、やっと我が子らが元の姿に戻ったぞ!」


 声を上げたのは、祭壇前に控えていたノアの母だった。隣に立っていた白薔薇の当主に飛びついて、ノアに負けないほどの大音量で歓声を上げている。


「ぐふっ、や、止めんか赤薔薇! それよりお主、娘の様子がおかしいぞ!? まるで『空の森の魔女』の呪いも本来の自分も、何も知らなかったようではないか!」


 白薔薇の当主は顔をしかめてノアを示すが、興奮した母の耳には入らなかったようだ。母はバシバシと当主の背中を叩いて嬉しげに続ける。


「いやーよかったなあ! お互い折れて妥協して仲直りしたかいがあったってもんだ、なあ、ハゲ! めでたいなあ、ハゲ! これで我らが〈秘蹟〉は安泰だな、ハゲ!」

「誰がハゲだ! まだかろうじて残っとるわ!」


 事情を知っていそうな当主たちはしかし、ノアたちをほったらかしてぎゃあぎゃあと低レベルな喧嘩をはじめてしまった。

 状況についていけず、うなだれたノアは呆然と呟く。


「…………何だ、何なんだよ。ほんとコレどういうことだ……!」

「ええと……あのな、ノアちゃん。心して聞いてくれ。どうして知らなかったのかは分からんが、君は実は」


 低くなった声で、元美少女は言葉を選ぶようにゆっくりと言う。

 だが、それはまたしても途中で遮られた。


「赤薔薇の娘、ノア・アドニス・ロゼ。白薔薇の息子、エルネス・アイスバーグ・ロゼ。両者の誓約はここに成った。――ってことで、私は忙しいんで失礼しますよ。どうぞ、お幸せに」


 無機質な声で言ったのは、事の成り行きを黙って見ていた銀薔薇の立会人だった。

 わめく赤白の当主と、呆然とするノア達を感情の読めない目で一瞥した立会人は、さっさと踵を返して、カーテンで仕切られた祭壇の奥の間へ消えた。


「………………む……娘。僕が、娘。そしてお前は、息子、か。ふ……ふふ……ふ」

「だ、大丈夫か、ノア……ちゃん?」


 取り残されたノアは肩を震わせ、やかましく喚き続ける当主らの声も心配そうな元美少女の声も、突き付けられた現実をも消し去るほどの大声で、叫んだ。


「なっ……んだそりゃあああぁああああ————————!!!!!!」

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