お願い
「夜叉神さん、トイレを借りてもいいかな?」
「はい、リビングを出て左奥の右手にあります」
「ありがとう」
よほど翠の持ってきたDVDが面白いのか、顔を赤くしながらもしっかりと答えてくれた夜叉神さんにお礼を言いながらリビングから出る。
夜叉神さんに教えてもらった通りに、リビングから出て二部屋ほど進んだ左の右側にトイレのマークのついた扉があった。
「分かりやすいな」
扉を開けると右に男性のマーク、左に女性のマークのついた扉があり、目の前には大きな鏡のついた洗面台があった。
「男女で別れてるトイレって普通の家にあるのか」
そう言えば普通の家じゃなかった、などと思いながら右側の男性マークの扉を開ける。
「うわっ、ひろっ」
そこは俺の家の倍ほどの広さのトイレだった。
一人でいるには寂しすぎるほどの広さのなか、俺はズボンを下ろさずに便座に座る。
「さすがにあの状況だとスマホはいじくれないよなぁ」
ズボンのポケットからスマホを取り出す。
ささっといつも目を通しているSNSを一通りめぐり、トイレから出る。
トイレから出ると反対側、つまり女性用のトイレから、ちょうど香織が出てきた。
「香織もきてたのか」
「うん、ちょうどキリがいいところだったから」
「…………」
大きな鏡の前で会話が途絶える俺たち。
「戻るか」
「うん」
特に話すこともなく、無言でリビングに戻る俺たち。
その先で、笑顔で手を振る遠目からでもわかるブロンドヘアの美人がいた。
「俺たちに手を振ってるんだよな?」
「私と和くんしかいないからそうだと思う」
小さく会話をしながらどうしようかと考えていると、とうとうブロンドヘアの女性の方から話しかけてきた。
「こんにちは」
すっと心のなかに響く凛とした声だ。
「「こんにちは」」
「あなたたちが千華の言っていたお友達?」
「はい、今日は友達と一緒に遊びに来ました」
「そう……ねぇ、少しお話ししない?」
突然の申し出に少し慌てる。
隣の香織と目が合い、コクりとうなずいた。
「分かりました」
「ありがとう、さっ、こっちへどうぞ」
そう言って一番近くの部屋の戸を開け、なかに入っていった。
◇ ◇ ◇
「ふふっ、本当に少しお話をするだけだからそんなにかしこまらなくてもいいわよ」
入った部屋の中には、豪奢な飾りのテーブルとソファーがあった。
「好きなところに座って」と言われたので、俺と香織は片方のソファーにならんで座る。
そして、その横で三人分の紅茶を淹れるブロンドヘアの女性。
「はい、紅茶は飲める?」
「はい」
「ありがとうございます」
俺も香織も、突然のことに戸惑っているのか声がうまく出せない。
「自己紹介がまだだったわね。私は夜叉神やしゃじん千鶴ちづる。千華の母親よ。一方的に呼んでおいてなんだけど、貴方たちは?」
「私は今川香織です」
「木村和希です。夜しゃ……千華さんとあと、ここにいない二人で帰ったりしてます」
「そうなのね。あなた達のおかげで千華は最近表情豊かになったわ」
心底嬉しそうな顔をしながら、紅茶を飲む千鶴さん。
「確かに最初の頃とは違って、最近はよくちー……千華ちゃんは笑いますよ。」
「おいっ」
さすがに親の前でそれを言ったらだめだろう、と訴えるために言ったが、千鶴さんに手で制された。
「そうなのよっ。あの子昔から頭がよくてあの容姿だから、友達なんていなかったの」
「そうなんですか。話してみればちーちゃん優しいのに……あっ」
「いいのよ。それより、千華はちーちゃんって呼ばれてるのね。良いあだ名をつけてもらったわね」
「それで、失礼ですがお話と言うのは……」
だんだん居心地が悪くなってきてしまい、つい本音で聞いてしまった。
失敗したな、と思ったが千鶴さんは嫌な顔ひとつしなかった。
「大したことじゃないわよ。『これからも千華と友達でいてあげてね』と、ただそれだけ言いたかったの」
「そうですか。よ、よかった」
「まさか、『今すぐ千華と縁を切りなさい』とでも言うと思ったの?」
クスクス笑いながら面白そうに聞いてくる千鶴さん。
少しだけ翠を相手にしているような感覚だ。
「正直に言うとそうです。あんなに可愛くて優しいのに、今まで友達がいなかったなんて信じられなくて」
「ふふっ、可愛い、ね」
ニヤリと笑う千鶴さん。嫌な予感がする。
「ねぇ、和希君?」
「は、はい」
「別に千華と付き合っても良いのよ? なんなら結婚しても」
「はへぇ!?」
俺が声を出す前に、香織が声をあげていた。
「冗談よ、香織ちゃんが拗ねてしまいそうだから」
言われて香織を見ようとしたが、サッと腕で顔を隠してしまった。
「でも、本当に付き合ってしまってもいいのよ?」
「そっ、そろそろ戻らないと! 翠やちーちゃんたちが待っているので」
ガタッとソファーから立ちあがり、しかし最後に一礼をして香織は部屋から出ていった。
そのときにちらっと見えた顔はほんのりと赤くなっていた。
その顔の赤さの原因が、俺と夜叉神さんが付き合うことに対しての嫉妬からだったら良いな、と少し思った。
最初に飲んだときは熱かった紅茶も、今ではすっかりぬるくなっていた。
最後にそのぬるい紅茶を飲み干して、ソファーから立ち上がる。
「付き合ってくれてありがとう、さっきも言ったけど千華のことをよろしくね」
「はい、こちらがまかされることもあると思いますが、分かりました」
最後にペコリとお辞儀をして、細かい装飾のされた扉を開け、廊下に出ると、一気に緊張がとけた。
「すっげぇ、緊張した」
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