『入所者が問題行動をやめられないのなら、それは、職員や親族の接し方の方が適切じゃないからかもしれない』って言われたらどう反応する? 『職員や親族の努力を蔑ろにするのか!?』みたいに思うなら、それが

今一度言うよ。


『入所者が問題行動をやめられないのなら、それは、職員や親族の接し方の方が適切じゃないからかもしれない』


って言われたらどう反応する?


『職員や親族の努力を蔑ろにするのか!?』


みたいに思うなら、それが、


<タブーに触れようとする者への反応>


そのものじゃないの?


<家族の愛情>とか<職員の努力>とか、そういう、<綺麗事>の裏に隠されたものに触れないで、何が、


『タブーに切り込む』


よ。ちゃんちゃらおかしいわ。


<家族の愛情>とか<職員の努力>とかが尊いってのは分かる。確かに私もそう思う。でもね、


『綺麗で尊いものは常に正しい』


とは限らないんだよ。


『綺麗で尊くても適切じゃない』


ってことはあんの。そういう<綺麗事の裏に隠されたもの>に目を瞑って、


『命の選別というタブーに切り込む俺カッコイーッ!』


とか、マジ茶番だから。


認知症で日常生活送れなくなって常識とかも分からなくなったからって、別に、常にキレ倒して暴れてるわけじゃないんでしょ? おとなしくしてる時だってあるんでしょ? 中にはそういう『常にキレ倒してる』事例もあるとしても、別にすべてがそうだってわけじゃないじゃん。その、


<キレ倒してる状態>


と、


<おとなしくしてる状態>


がなぜ生じてるのか、<キレるスイッチ>がどこにあるのか、本気で突き止めようとしたことあんの? 一日二日様子見ただけで『分からない』とか言ってたりするんじゃないの? それで『努力した』とか、仕事で言ってたら鼻で笑われたりしない?


<親族の愛情>とかだってそうだよ。『分かってるつもり』で実は分かってなかったってこと、あるんじゃないの? そもそもその<愛情>は、本心からのもの? 世間体を気にした<愛してるフリ>じゃないというのを、どうやって証明すんの?


正直、私は、自分の両親については、認知症にでもなったらとっとと死んでほしいと思ってる。それは嘘偽りない気持ち。私にとって実の両親は、そういう存在だから。あの人達は私を人間として扱わなかった。そんな人らを愛するなんて、私にはできない。


だけど、ダンナについては、私は本気で愛してる。万が一、ダンナが認知症を患おうが、植物状態になろうが、『死んでほしい』とは思わない。ダンナの心臓が鼓動を刻むのを諦めるその瞬間まで、<奇跡>を信じたいと思ってしまうだろうな。諦めきれないよ。


私にとってダンナは、そういう存在。実の両親とは違う。


私にとっては実の両親もダンナもまぎれもなく<家族>だけど、家族でさえ、相手によって対応が違ってしまったりする。


もし、私の実の両親が認知症を患ったら、私は、両親を、


<ひたすらキレ倒す問題入所者>


にしてしまう自信があるよ。


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