結局さ、他人が思う曖昧な価値観に迎合しようとするから人によって言うことが違うし、『じゃあ、どうすりゃいいんだよ!?』ってなるんじゃないの? 『男らしい』とか『女らしい』なんてその最たるものじゃん

結局さ、他人が思う曖昧な価値観に迎合しようとするから人によって言うことが違うし、


『じゃあ、どうすりゃいいんだよ!?』


ってなるんじゃないの? 『男らしい』とか『女らしい』なんてその最たるものじゃん。


改めて問うけど、『男らしさ』ってなに? どんなのを『男らしい』って言うの?


『女らしさ』ってなに? どんなのを『女らしい』って言うの?


これを問われた人が、全員、ほぼ同じ答じゃなきゃ、それは、


<普遍的な価値>


とは言えないと思うけど? 個々人で全然違ってる『男らしさ』『女らしさ』に振り回される価値がホントにあるっての?


まあ、だからって、


『自分らしさって、なに?』


って話になるんだろうけどさ。ただ、


『自分が思う男らしさ』


『自分が思う女らしさ』


ってのに拘ってそれを追い求めるのなら、それはもう『自分らしさ』なんじゃないかな。


ただし、『自分が思う男らしさ』『自分が思う女らしさ』を追い求めた結果がどうなろうと、自分でその責任を負うならっていう前提での話だけどさ。


でも、『自分らしさ』を貫くってのはそういうことなんじゃないの? 逆に、自分で自分に責任を持てないのなら、そんなものは『自分らしさ』とは言えないと思う。


私は、自分らしくあろうとした結果が今の家庭だから、それに対して責任を負う覚悟は持ってるよ。




ああそれと、話は変わるけど、


<子供ガチャ>


って言葉使うのいるじゃん? 私、あれって、


『自分は、何もかも運任せで生きてます。自分では何も努力しません』


って宣言してるようにしか聞こえないんだよね。自分で子供を生んで育ててる経験から言わせてもらえば、百パーセント、親の在り様が子供の人間性を決めるって断言するよ。


子供がニートになろうが犯罪者になろうが、その道筋を作ったのは紛れもなく<親>だってね。私の子供達がどんなのになっても、そこに至る道筋を作ったのは私とダンナだって分かるよ。


確かに、私とダンナ以外が何らかの影響を与えることもあるとは思う。思うけど、与えられた影響の中でどう進むかっていう決断の根底にあるものは、結局、私とダンナがもたらしたものなんだ。そもそもそれがなきゃ、子供達も決断なんかできないしさ。


大きな挫折をして心が折れて、そこから立ち直れるか、それとも立ち直れないか、その手掛かり足掛かりになるものを子供に与えたのは、他でもない親だよ。


現実に向き合えるか向き合えないかは、親が子供の前で見せてきた<姿勢>がものをいう。


現実に向き合えない親の姿を見て育った子供は、<現実に向き合う姿勢>ってものを学んできてないからね。


まあ、他の誰かが教えてくれてたらワンチャンあるとしても、その、


『他の誰かが教えてくれてたら』


ってのを期待するような親って、自慢できるようなことじゃないよね?


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