私と読書

何か書く練習を地道にコツコツとでも持続していたほうがベターかと思い、

今日からまたブログを再開します。その時々のメモがわりにもなるし・・・

さて、本題ですが、自分の読書遍歴というものを振り返ってみると、

小学校、中学校の頃はお金で本を買うということがあまりなくて、

もっぱら図書館の本を読みあさっていた。

ファーブル昆虫記とかシートン動物記とか非常に感銘を受けたのだと思う。

親戚に本がたくさんある家があって、「星の王子様」とか借りて読んだが、

勿論?よくわからなかった。大人の童話なのだと思うが、未だによくわからないワラ

中学校に入ってからモームの「月と六ペンス」、ヴェルヌの「80日間世界一周」などを

借りて読んで、全然忘れているのだが、読み返すと、「あっここのところの文章覚えている!」

という部分があって、人間の記憶は不思議だなとか思う。

そうしてほぼ乱読状態で、芥川や宮沢賢治なども読んだ。家に日本近代文学全集

もあったので、それを風邪ひいた時などによく読んだ。やらしい部分を探して読んだりした。

性の目覚めですね?

父の蔵書というのはあんまりなくて、大藪春彦とか西村寿行とかそういう

ハードボイルドが少しあるだけだった。本をためこむ趣味はないみたいで、

いつも週刊誌と小説雑誌を読んでいた。

高校に入ると、図書館が規模も内容も一気に充実するので読書傾向も変わり、

また、書店で自分で本を買うようになった。

初めて借りた本はツルゲーネフの「初恋・父と子」、「猟人日記」で、

なぜか題名とかムードに惹かれたのだと思うが、内容は全く忘れている。

が、これも読み返すと面白いレミニサンス?が生じるかも知れない・・・

(疲れたので続きはまた明日にします)

この記事11分・・・

(承前)

高校校に入って最初の英語の授業で先生が「この頃はあまり皆難しい本は読まなくて、

例えば庄司薫とかを読むよな」とかいう趣旨の話をして、

それで書店で庄司薫を早速買って読んだのだが、クラスメートの他の人たちも

同じ行動に走っていたらしい。「庄司薫」は饒舌体の軽薄な感じの青春小説で

それなりに面白かったが、僕は同じ作者が18歳の時に書いたという「喪失」の方が

好きだった。今はこの人は全く筆を折っているみたいだなあ。

で、その頃ブームになっていた作家が「筒井康隆」で、この人の本、SF小説らしいのだが、

には非常に傾倒した。大げさでなくてそのせいで人生が根本からひっくり返るほどに偏執的に

繰り返し読み返したので今だに一節一節が事あるごとに念頭に上ってくる。

いってみればバイブルみたいな本群なのである。

同年代にはそういう熱狂的なファンの人が多かったみたいである。

なぜそんなに人気を博したかといってよくわからないが、

当時の社会はまだ元気があって、保守的で理性的な一般的な読み物よりも

ラジカルでかなり異質で狂気の産物としか思えないような?想像力が羽目を

外しすぎているようなナンセンスな変わった小説とかでもその活字のサーカス?を

受け入れて享受する余裕があったということかもしれない。

もちろん作者の並外れた文才あってのことだろうが・・・

(作者の身上であるオーサカ的なブラックなユーモアやグロテスクなジョークなども

昔はあまり規制を受けなかったりした?)

「SF御三家」というのが当時あって、その後の二人、小松左京と星新一も

かなり読んだ。

今、SF小説界というのはよくわからないがどうなっているのだろうか?

懐かしいそういう名前はほとんど鬼籍に入り(古いか)

筒井さんだけが未だにテレビに出て頑張っているが皆若い人は「この人誰?」

と訝っているのかもしれない・・・今昔の感がある?

(つづく)(承前)

この間、遠藤周作さんのエッセーを読んでいたら、「最近は日本人は猫も杓子も俳優や歌手になりたがる。昔は誰も彼も作家になりたがった・・・」という文意のくだりがあったので、さもありなん、と思った。しかし、言われてみないと案外気が付きにくい事実かも。

歌手や俳優になりたがるのは一部の人?と何となく思い込んでいた、

自分の偏見というか謬見を正してもらったわけで、こういうことが例えば読書の効用である。

日ごろ他人と会話をするということが極端に少ない人物なので、

なにか読んで蒙を啓いて貰わないと、ボケた頭の頑迷固陋な誤謬ばかりが意識野に横溢して

狭い迷路で堂々巡りの仕儀と相成る。

コペルニクス的転回、などというが、短いセンテンスで、今まで囚われていた観念の呪縛から解放される、読書をしているとそういうことの連続で、それが一番の醍醐味かも知れない。

メールのやり取りでもそういうことはある。だから、やはり一般に、

コミュニケーションによって人間は賢くなり、成長していくわけで、

「高度情報化社会」や、「スマホ」などという言葉には、

コミュニケーションがどんどん密になっていく結果どんどん人間がつまらない偏見から解放されて賢くなっていく、そういうイメージが抱懐されているのだと思う。

しかし、現実にそうなっているかというとちょっと心許ないのではないか・・・

(つづく)徒らに駄弁を弄することが諸悪の根源ではないか?と思い立ったが

そうするとこのブログなどは書かないほうがいいことになるので困っていますw

成人するまでの読書遍歴を振り返りましたが、成人して以降には

図書館に通うことでさまざまな出会いが?ありました。

仕事をしている時にはあまり本を読まずに、フランス書院時代、というのがあったが、それから自分にとっての暗黒時代があって、その時期には本もゲームも何もできずに鬱々と日々を過ごしていた。90年代後半です。

で、21世紀に入って、なんだか心機一転という感じでいろいろ活動できるようになり、年間200冊、というノルマを決めて図書館に繁く通い始めたりした。

その頃読んだ本は全てメモっているのですが、もう百花繚乱というかマンガン色というかすごい濫読なのですが、そのせいで視野が広がったというところがあります。

日本近代文学やら、七田右脳やらカールセーガンやら、ヨーガやら仏教やら司馬遼やら中島らもやら、ごたまぜに読んで脳内革命みたいになったです。

またちょっと話を面白くしようと脚色してるカナ?

仕事に挫折したと言ってそれでもうあかんと人生を諦めるみたいなところがあったですがそういう固定観念はナンセンスで、くだらんような仕事にかまけているよりも

たくさん本を読むほうがあるいは女の人と遊興のひと時を過ごす方が?

余程人生に裨益するところは大きいかも知れない。

仕事やアルバイトの体験は確かにインパクトは強いですがそういう体験は

僕のパーソナリティーにはちょっと刺激が強すぎる、というだけかもしれない。

つまり無理をしていた?・・・

行動療法とか考えて無理からに人中へ入っていったりするのももしかしたら

時間の無駄で、アスペルガーはひきこもってアスペルなりの人生設計を模索していたほうが最初からそうしていたほうがよかったのかもな?とか

考える今日このごろです・・・読書の遍歴について縷々と語ってきましたが、

読書の効用というのはつまるところ、カンニング?ではないかと思う。

虎の巻、とかいう言葉があるが、実人生では苦労して体験を積まないと理解できないことが読書をすることで先読みというか模範解答だけがエッセンスだけ

美味しくチクチクっと理解できてしまう。

そのことの弊害もあるとは思いますが、物分りがいい人だと、非常にエコロジカルに人生というものを他人に先駆けて深く理解できる、そういうカンニングのような、魔法の書物を読むような、そういうところが読書の醍醐味ではないか?

もちろん読むのは大変ですが、他人に先駆けてお手軽に人生というものを、

その秘訣や深奥にあるものを知的に理解したい場合、読書に勝るアイテムは存在しないのではないか?

そういうふうに思います。

ミクロコスモス、マクロコスモス、とかいいますが、どんな安っぽいような文庫本にもそれぞれにそれこそミクロコスモスが蔵されている。著者の人生が内蔵されていて、それはもちろん唯一無二のものだ・・・

何も御大層なベストセラーでなくても心血を削って書かれた、彫心鏤骨の書物であれば300円の古本であっても人生を根本から変えてしまうような力を持っている、

それが読書の素晴らしいところ、同時に怖いところでもあると思います。

この世界は全て偶然の産物だ、それは怖い認識ですが、真理なのでしょう。

偶然世界・・・しかし降参するわけには行かない。勝利を勝ち取るための戦略というのはあって、それを裏書してくれる心強いアイテム、その最もコスパのいいものが本、読書なのではないかと思うのです。パチパチパチ・・・

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