自分の醜さについて
自分が醜いということについて悩みだしたのは思春期前半から後半にかけてで、人生の大半の問題はその「醜さ」と絡み合っている。
不即不離に意識に顕現する、喫緊の課題なのです。
世の中には美青年や美少女というものがあって、これは勿論、羨望の対象なのですが、中身がないそういう単なる美貌というものに値打ちがあるのかというと少し疑問だという、そういう認識には歳をとって変わってきた。
極端に言うと白痴美というのもあるから基本的に単なる美貌というのは無意味だと思う。が、美貌の方が醜貌より何かと自由であるだろうとは思う。美貌の人は美貌が普通だという顔をしているから、醜貌で何かと公的な、他人と行き合わなければならない場合の苦労とか想像がつかないのではないか?と情けなくなる。
醜貌の人はショップとかのパブリックな場所に赴くときは真夏であっても常にマスクをしているし、仕事中にもマスクをしているというので仕事をクビになったりする。(ヽ´ω`)トホホ・・
真正面から一分見続けられるかというと難しいような顔なのです。
(まあそいう醜さについてはテレビで持続的日常的に散々からかわれ続けているので
周知の事実かと思うが)
それから、ある種の障碍ゆえの容貌への違和感、という発想もあって、これは最近芽生えたものですが、ケースバイケースではあるものの、かなり普遍的な現象という気もする。人生への不適応が容貌を歪める、とそういう発想である・・・
こんなことを書くのはどうかとも思うが、パラリンピックに出ている人だとやはりオリンピックに出ている人とは何だか容貌的に多少の?違いがあるのは誰しも感じてしまうところだろうと思う。そういう風な感覚の話である。
要するに性的なパートナーに恵まれないのも容貌の醜さ故で、そうなると何だか身も蓋もない救われないくだらないような話になるが、セックスとかの男女関係においてはやはり容貌の占める要因の割合は大きいのであろう。
僕の容貌はというと大体がまず「放送禁止」という感じで、で、顔立ちよりも肌の汚さの要素が大きい。これも思春期からのニキビ、アトピーゆえで、匿名でブログとか書いていると何だか覆面レスラーみたいで恥ずかしいようなブサイクなのです。(それでもう、遅蒔きながら本名にしました)
ブログに写真を載せたことも何度かあるが、写真だと肌の悪さがごまかせるというのでまだ見れるわけです。醜いということはもう人生を変えてしまっている宿痾みたいなもので、金を貯めて整形したいということは昔からの宿願なわけです・・・(この項続く)
(2017.2.10)
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