吉行淳之介の文体模写
(ブログネタ タイムマシンがあったら行きたい年月日)
私自身は既に老人といっていい境涯であり、人生にも或る程度達観していて、こういう軽薄なブログなどを書いていることにも内心では忸怩たる思いやら葛藤があって…
しかし、それは個人的な事情であるのでさておくとして。
三島由紀夫は「人(他人)は私が演技しているとそれを地だと思い、本当の自分でいると、それを演技だと思う」というような趣旨の発言をしていた。そういう記憶があるが、確かではない。
パラドックスではあるが、人生というものがそもそもパラドックスなのではないか、そう考えると何となくこの矛盾したテーゼにも説明が付くような気がする。
死ぬために生まれる。生きていればいつかは死ぬ。
この不可避的な運命もそもそもが逆説的である…
生きていることはもとより苦しみの連続であるので、「タイム・マシン」で、生年月日まで遡って、自分の存在自体を抹消できたら。
そう考える一種のペシミズムも、仏教的な達観、生老病死とかの観念的なものとはまた別に、アプリオリに普遍的に存在しうる、有島武夫風に言うと「生まれ出ずる悩み」であろうか。
しかし、おそらくは天文学的な数字、その天文学をも凌駕するほどの偶然が積み重なった果てに、この「私」は存在している。
天文学的なスケールからすると微々たる数字かもしれないが、後何年かはその「存在」を続ける。そこにどういう「意味」があるのか?哲学やら宗教やらには門外漢の無頼漢である私には見当すらつかないような、途方も無い「難問」である。
嘗ては東大の哲学科に在籍していた私だが(笑)古今東西のあらゆる哲学書を渉猟してみても、そうした、本当に根源的に自分にとって、或いはこの世に生を享けたあらゆる存在にとっても、根本的に自らをも覆しかねない、究極的な疑問なるものについては、人間というものの存在自体に内在する限界が邪魔をして?結局は納得のいく回答など得られはしまい、そう高を括って、今日も街に出て、酒を呷る。ひと時の慰安を、造化の神の作りたもうたるアフロディーテの如き、“プロスティチュート”たちから得る。
そういう生き方しか、所詮、私というこの有機体?には生き様は他に有り得ないのだ…
それが幸福か、不幸か、そこにそういう疑念やテーゼを差し挟もうとは思わない。
そうしたテーゼはそうした現実の中ではナンセンスな愚昧なものでしかない…
しかし、私は人生そのものが無意味だとは思わない。
(それほど不幸ではない、ということに過ぎないかもしれないが)
無意味というには、存在しないことが前提条件になろう。
とにかく存在しているからには無意味では無い。…
死は避けられないことは知悉している…つもりであるにしても、である。
(2016.2.9)
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