三島由紀夫の文体模写
ひとえに、大日本帝国の愛国少年、そして殉じられなかったその夢たる瞼の祖国への思慕が、その思慕のみがレーゾンデートルたる我が悲痛なる運命の帰結が、愛国少年としての生を全うできなかったが故の、自決が、戦後日本の「日常」への呪詛と、同義であったことは言を俟たない。今、奥津城の彼方からこうして、現代日本を俯瞰すると、かつての凛々しかった若々しい国の相貌は夢と消え去り、ただ、片々たる人生の残骸、日常の澱、そうしたものが、やがてくる老人社会、末期の水を求めて喘ぎ叫ぶ老人の群れを、柔弱な、ひよわい若者達が、額に汗して労働する
ことに慣れていない、虚弱な若者、いやばか者達が、老いらくの世代のへヴィーバードゥンを支えかねて、辟易し、しかしこの今や放射能の坩堝と化した禍々しい不吉な島の中で、青息吐息に歩いていく・・・そうした惨憺たる未来図が幻視されるのみ。
マックナゲットだのからあげくんだのという日常への逃避は所詮たわごと、表面的だけでなく、祖国の日常的な油まみれの、ぶよぶよの、アメリカ文化の植民地的発想の、末端、ターミネーターも活躍しようの無い恐ろしいばかりの能天気の副産物、放射能を恐れるあまり祖国にいるのも辛い蛆虫のような新庄某すらはだしで逃げるばか振りであろう。私、三島の運命的なオブセッション、愛国、憂国、祖国の喪失、アイデンティティの喪失と、それを希求しつつ得られないという、永久の不幸、そうしたアプリオリであると錯覚すら覚えるほど強固なる固定観念を氷解させうるのは、自衛隊の蜂起を鼓舞し、それがならない場合の恐らくはばか者達には滑稽な道化としか映らないであろう、パロディ・ショーのごとき自決の演出であり、なしえたこと自体にはいささかの葛藤も後悔も、ましてや挫折感などありえないし、人生はそこでは完全なアポロ的円環として成就しきっている。
しかし、わが祖国の現在と今後を遠い銀河の彼方に浮遊する一片のエクトプラズームとして渺するとき、我が憂国の情は、我が秀抜なる理知をも凌駕するほどに、
号泣して憚らないのである・・・
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