私と自分を構成したモノ

@Kosen

私と自分とを形作る要素

 「彼」は私にとって特別な、ある種異質ともとれる存在だ。「彼」が何に興味を持ち(どんな嗜好で)、何を考えるのか(どんな思考をするのか)、その一端を垣間見える度に、自分のそれとは全てが異なる事が解る。

 それが私にとって不思議で、興味深くて、とても好ましかった。


 私は自分が嫌いだ。そうあれと育ち、またそれに逆らわず、それに従って生きてきた自分が、そうやって積み重なり、積み重なられて出来上がってきた自分が、私は嫌いだ。


 私が他人を嫌う瞬間というのは、他人に「自分」を見出す時だ。例えば決断できない、優柔不断な自分。或いは深く考えずに行動する、浅はかな自分。すべき事をせず他に責を負わせる、みっともない自分。そういった「私」を形作っている「自分」の要素を、自己嫌悪しかないソレを目前に見せつけられているようだからだ。それはあくまでも「他人」の要素であるにも関わらずだ。


 だから、そういう、私がマイナスと思っている要素を持つ人間が嫌いだ。

 ならば、最も嫌いな人物とは。それは他の誰でもない「自分」だ。私が嫌う要素を全て兼ね備えている唯一の人物だからだ。

 しかし私というのは自己の要素の塊であり、その集合によって生じた私であるはずなのに。おかしな話だ。イコールの答えである私が前提の計算式を否定しているのだ。


―では私とは何か。


 それ自分という要素とは実はニアリーイコールの存在で、私が生まれ落ちた時から存在する―もしかしたらそれ以前から存在していて、それが肉体を持つことによって初めて認知できているだけなのかもしれない―要素なのだろう。それは他者によって、ましてや私自身にですら決定する事の出来ない、「心」という要素だ。心とは感性、感情だ。生きていくうちに喜びや悲しみ、笑うことや泣くこと、好き嫌い、肯定や否定。そういったものを育むものが心だ。「自分」という要素、性質とは違う独立した要素なのだ。それが育っていき、私になるのだ。そして私プラス自分のイコールは、意識として成立するのだ。

 だから私は自分を嫌悪するし、他者がもつ自分も嫌悪する。しかしそうでない人も存在する。

 それが彼だ。私が嫌う自分の要素が無い(いやまぁ、一つもないわけではないが)、自分とは全く違う要素の自分、イコール自己で構成された男だ。心だって違う。

 思えば今まで友達や親友、意中の異性などはいたが、個人の、それを形作っている要素に興味を持ったのは初めてだ。きっと自分というのは多くの人にある、普遍的でありふれた要素ばかりだったから、私も深く興味を持たず、単純に嫌ったり好いていたりしたのだろう。

 その一方で、私は彼を理解しようと彼と話したり、彼が興味を持つものに触れたりした。

 私は他者に影響を受けたのだ。私達は少なからず殆どの他者から影響を受ける。しかし受動的に影響されるのと、能動的に影響されるのでは大きく異なる。意識が変化されるのではなく、自身を変化させようと意識がはたらきかけているのだ。

 それはとても面白い体験だ。彼を形作ったものに触れたとき、私の一部が私でなくなったような、まるで彼と僅かでも意識が共有したように感じられた。はたからみればただの思い込みでイタいかもしれない。しかし他人を理解するというのはこういう事なのかもしれない。

 それでも心が影響に対して返す答は各々で違う。答が出てこない事もある。それこそが個人―私であり、彼との違いだ。互いに尊重すべき部分だろう。


 そういうわけで、私は彼と出会うことで、初めて能動的に変化を起こすことが出来たように思う。私にとっては好ましい変化だと自覚している。

 だから、この貴重な体験を、彼と出会えた事を大事にしたい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私と自分を構成したモノ @Kosen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る