第3話 野良猫一座
電車に揺られて何時間経っただろうか。
私がいる第9車両の乗客はまばらになっていた。珍妙な客を横目に私はスマホに目を落した。充電は徐々に減っているが電波は『圏外』のままだ。よくある都市伝説の類だとかそんな気がして調べてみようとしたけど、繋がったとしても、状況を聞きだせる相手などいない。私は充電を切って鞄に仕舞う。
この車両は不思議なことにとても温かい。それでも足元は寂しい。
私はなんとなく、学校のロッカーに置きざりにされているブランケットを思い出す。
スカートの丈を短くしているくせに足が冷えるからとわざわざ家から持ってくる行為も巻き付けることもださいと思えたし理解できなかったけど、あれば便利なのだろうなと思っていた。
手間や校則を気にして、持参する事は意地でもなかったけど。
かたんと頭を硝子にもたれかかる。ひんやりと冷たい硝子の向こうは派手な電子板や蛍光灯の外灯がざんばらに列をなして踊っていた。繁華街じみた景色は見たことがあるようで奇妙な世界だ。走る速度がそこそこ早いもので、それらが街並みなのかすら分からない。
私は誰もいない車内で横になることにする。車掌さんに怒られるかもしれないが、長時間座ったままはさすがにお尻が痛い。
チャコールグレーのマフラーに顔をうずめて、私はすこしの間だけでも寝ようとした。
『次は――駅。到着です』
しばらく目をつむっていると、また電車の速度がゆるやかになり停車したようだ。
いくつか無数の足音がする。
「ありゃ。お嬢さん、こんなところで寝ない方がいいですよ」
目をつむったまま新しい乗客を無視しようとした私に、ふいに誰かが声を掛けた。
目を開いて私はすこし驚く。
声を掛けてきたのはすこしふくよかな三毛猫だった。オレンジと黒のまだら模様の毛並みに草色のリュックを背負った、人間の様に足だけで立った猫はわたしを覗いていた。
その猫一匹ではない。手や背中にはアコーディオンや大太鼓や革鞄を乗せて、または風呂敷を手に、色も種類も様々な猫の一行がぞろぞろと車両に乗車していた。どれもがしゃんと二足歩行している。
私に声を掛けてきた三毛猫は荷物役なのか一人でやたらたくさんの荷物を抱えていた。
「そっか」
そうは言っても眠い。目を擦り起き上がる私に、猫は言う。
「あれでしたらホラ。あっちの寝床を借りましょうや」
そういえば車掌がそんなことを言っていた。手元の地図を見る前に、三毛猫はふくよかな手で私の手を掴んだ。
「あっしらも今からいくんです。早いほうがいい、席埋まりますよ」
どういう仕組みかは分からないが、深く考えてもそんなことは意味がない。私はされるがまま三毛猫に手を引かれていく。三毛猫とその一行は第八車両への扉――の手前に見える入口から螺旋階段を上がっていく。出口の先に見えたのはまずちいさなカウンターだ。
そこにい番台らしき人物に猫の中でも一際大きい猫が代表して声を掛けた。
「よお」
「騒がしいと思えば一座じゃねえか。巡業はどうだ」
「この時期はとんと寒いばかりよ旦那。今日は6人分だ」
「6人分…?」
番人は不思議そうな顔をしてから、私に気付くとあからさまに怪訝そうな顔をして見せた。
「ああ……ね、あんたが車掌殿が言ってた小娘か」
「あ、はい」
「事情は聴いてるが生憎今日は席が埋まってる。5人分しか空いてない」
どうやら私はあまり歓迎されていないらしい。
「あ、わかりました。じゃあ私は車両で構わないです」
動じない私の態度に主人は一瞬驚いた気がした。
昨日の一件や車掌さんの態度を見る限りそれはそうだ、私はこの乗客の中では『生きた人間』だから部外者だ。私が同じように乗客は私とは視線を合わせないし、あまり関わりたくない現状としては煙たがれるくらいがちょうどいい。施設を利用するにあたって邪険にされるのは厄介な事だけど、それなら適当に過ごす。
こういう扱いは慣れている。
階段を降りようとした私を三毛猫はがしりと引き留めた。
「ええ、そんなこというなよ、オイラたちと同じ席でいいじゃないか」
「いや、でも」
「どうせオイラたちはくっついて寝るからひとつふたついつも余るんだ、気にすんな分かってて旦那、そんな意地悪言うなよお」
「あたしゃどっちでもいいよ。いいから早くしとくれ、今日は疲れてんだ」
後ろから綺麗な白い猫が堪忍切れたように綺麗な声で文句を垂れると、番人はやれやれと頭を掻きながら私をこまねきする。カウンター前に近づくとぐいと私の腕を引き寄せ、手の甲にレジでよく見かけるバーコードリーダーを充てた。ピピっと音がして、カウンター内の機械から『認証シマシタ、人間(メス/イキモノ)。ナオ、ワリビキ対象外』とくぐもった自動音声が流れた。
なるほど面白い。
どうやら車掌さんに押されたこのスタンプはバーコードの役割を担っているらしい。
カウンターから離れた玄関らしき広間には横長の絨毯があり、猫たちはそこで足を拭いたり荷物の滑車を引っ込める。
「靴脱いでね、上履き汚れは拭って持って」
「はい」
「ほら、さっさとしな。後ろ詰まってんだ」
言われるまま私は倣って靴の汚れを取る。ずいぶん使っているものだから汚れはひどく、念入りに拭く前に置いてけぼりになりそうなので靴の底を互いに合わせて持っていく。
私は猫たちに列なり、通路を歩いていく。こういうのは夜間列車というのだろうか。一本の通路に向き合う形で二階建ての木製寝台の列がずらっと続いている。どこまで続いているのか、通路はやたら長く次の車両までの扉はずうっと先に、ねずみ専用の扉ほどにちいさく見えていた。寝台は臙脂色と藍色のカーテンで交互に仕切られていて、もう閉じているところもあれば開いたまま何か作業している者たちもいる。ちいさな子豚と黒い狐が上下で話し込んでいたり、臙脂色のカーテンが開いたまま二階では白塗りの学生たちが三人アルプス一万脈をしている。その下の段ではカーテンを閉じたまま大きないびきを掻く足だけが見える。その横で見兼ねた隣の者がカーテンを開けうんざりと目を覚ました。
そんな寝床に就く者たちを横目に通り抜け、猫たちの足取りはとまった。
二段重ねのベッドが二組向き合って配置され、その中央を挟むように支えられた柱には「13番」と書かれた部屋番号のような札と、その下に小ぶりな棚と備え付けてある。
「上使え」
鋭い目をした灰色のネコがちらりと私に振り向き、そう言った。
私は頷いて、お邪魔しますと借りることにした。
短い階段はぎしり、と大きく軋む。
藍色のカーテンがついた寝台の天井は低く、私が中腰に屈んで頭がつかないくらい。そして天使たちが戯れている空を描かれたヴィンテージな絵が描かれていた。動画で見たフランスかどこかの教会を思い出した。地獄絵図よりはましだろう。
色褪せた天使の頬を指でなぞると、埃が指についた。
寝台は音こそしないもののいつ崩れてもおかしくない古びた作りで、私は不安げに下に声を掛ける。
「これって猫用じゃないの?私でも大丈夫かな」
「ルイが落ちたら団長らぺっしゃんこで、おいらたちは食い倒れだな」
「猫の死骸が下敷きか」
三毛猫に便乗してミント色の猫がそんなことを言った。
笑えない話だ。
向かい側の寝台は、下にメスのネコと座長、その上は三毛猫と黒猫が。各自で寝台下の収納棚や備え付けの棚によっこらせよっこいしょと荷物を押し込めたり、中身を整理しはじめる。私もネイビーのコートを脱ぎ、マフラーと共に畳んで枕元に置く。鞄の行き場がなく見渡すと、ぼろぼろの壁にフックが刺さっていたのでそこを借りる。誰が使った跡か分からないが、ありがたい。さくさくと終わったところで、いつの間にかいなくなっていた藤色の猫が風呂敷から大きな紙袋を持って通路から帰ってきた。
「ではでは満月堂のカレーパンをいただこうかしら」
その声に待ってました、とばかりに猫たちが押し寄せる。
娘がなだめながら茶色い紙袋から各自に手渡したのは握りこぶしより二回り大きいくらいのカレーパン。まだ揚げたてのほかほか湯気を出したそれは私にも手渡された。かさかさの薄いホイル紙に包まれたカレーパンを手に停止する私の周りで、猫たちはベッドに座ったままパンに被りついている。
「どうした」
「夜にしょっぱい菓子パンって、あんまりなくて」
「へえ、さすが人間様々だな」
「これ、うんめーぞ」
「なんでも食わねえと。おまえさん顔、まっさおだぞお。死人より死人みてえだ」
灰色の猫の嫌味を三毛猫が流して食べるよう促す。私は頷き、ひとくち噛んだ。
かりっと固い表面が音を立て、ふわふわの真っ白な生地からじわりと中身が溢れ出る。すこし辛口のカレーはまだ熱く、火傷しないようにはふはふと急ぎ口に運んだ。
たしかに美味しい。
「こんなのどこで買うの?」
「駅ナカにたまに売り子がいるのさ。車両の食事は食堂しかない」
「食堂のカレーはうんめえよ」
「カレー、すきなの?」
「うん。あとあれ、森みてえな名前の」
「……?えーと、もしかしてハヤシライスのこと」
「ああ、そうそう。第ニ車両に入るとシェフが専属でつくんだ。そのハヤシライスが美味しいのよ」
「へえ」
ベッドの上で食事するなんて、それもパンを夜中に食べるなんて。なんだか悪いことをしているような、でも悪い気分じゃない。
たまにはこういうのも、いいかもしれない。
私が小さい頃に布団の上でお菓子を食べていたときは、お行儀悪いとそれはこっぴどく叱れた覚えがある。その時の母の顔があまりにも怖くて、それでも何度かやってしまって、言いつけを守るようになって――買い替えたベッドの上で、小腹にキットカットやカロリーメイトを食べても咎められなくなったのは、いつからだろう。
マグカップに各々の茶を注ぎ、ベッドにいた私にも手渡された頃、改めて自己紹介を受ける。
といってもそもそも私に興味はない様子の各猫たちは疲れ寝ているので、三毛猫が私がいるベッドの横で勝手にぺちゃくちゃ個人情報を流しているだけだが。
"みーちゃん"と名乗った三毛猫はやたら私にひっつき、仲間を紹介した。
普段は猫には懐かれないことが多いのだが。
「あすこにいるまっしろな猫が、雪ちゃん」
「綺麗な猫ね」
「な、べっぴんさんやろ。で、あの気取ったロシアンブルーの雄猫がファッジ」
「カッコいい名前」
聞こえていたのかいないのか、まんざらでもない顔をして灰色の猫はツンと外を見ている。
温かい渋みのお茶をいただいている間、みーちゃんは自分の素性は語らず死に際をすんなり説明した。
ちなみにおばあさんがくれたレモネードは猫たちに好評で、パンを配ってくれた猫が温めてみんなに配ったらすぐになくなった。私はあまり飲まなかったし、喜んでくれたことで関係がすこしだけ円滑に進んだから結果、よかった。おばさんには感謝だ。
「おらたちはノラだ。猫は本来自然に生きることに特化していないだろう。狼や犬とはワケが違う、狩れる獲物なんて限られてるし寒さには弱い。飯も寝床が無ければあっという間にしぬさ。捨て猫だったり産み落とされたり、轢かれたりはまだいいもんよ。趣味の悪い人間に猫としても扱われなかった可哀想なやつもいるな。おれは寒い冬の頃に、駅で捨てられて目を閉じて気づけばまた駅にいた。それだけだ」
ああ、かなしい話だ。
寒いねと笑いながら手袋を嵌めた手で温かいお茶やココアを手に電車を待つ駅の傍らで、裸身ひとつのみーちゃんはしんだのだ。
みーちゃんがひとしきり話終わったあと、ファッジはすっくと立ちあがりベッドの上でアコギを弾きはじめる。
私はただの同情だけで、じっとみーちゃんのまるい背中を見て、そしてあらためてすやすやと寝る猫たちを眺めた。
ミント色の猫は排水溝の中で産み落とされたのかもしれない。品のあるファッジは歓楽街の売店で格安で売られてろくでもない主人に買われ、稼ぎがないからとあっけなく捨てられたのかしれない。ひょっとしたらあの雪は春を待つ前に。
どこかでありふれた光景に、誰もがそっと気づかないように目を伏せる。
同情していたらきりがないとある歳を境にあきらめている。
きっと私も、そのうちのひとりだ。
窓の外はすっかり暗い。
私のコートより深いネイビー色の澄んだ空にはきらきらと銀の星が瞬いている。
まったく同じ空を見上げる私の家の外で、彼らは寒い中命を落としたのだろう。
夜の帳に、ファッジの奏でるたどたどしい旋律が流れていく。
名は知らないけれど、知っているような曲だった。
*
瞼の裏をくすぐる気配と、首元を撫でる冷たい空気に私はふと目を開ける。
すこし前に眠っていた私の寝台の傍らに、真っ白な男が立っていた。
見ればそれは帽子を脱いで一服する、車掌さんだった。
音もなく佇む車掌さんに猫たちは気づかず、深く眠りについている。
寒さに起きた私を除いては。
「寒い。閉めてよ」
「換気中だ悪いな」
「職務中じゃないの」
「休憩中だ」
よりによって乗客の寝床でタバコを吸う車掌などいるだろうか。
勤務中に悠々と一服する黒づくめの蹴りたくなる背中を睨みながら、もそもそと深めに布団に潜り込みなんとか暖をとる。厚さだけはある掛布団はやたら冷たくて、嫌いだった修学旅行や野外学習の外泊を思い出した。
私は神経質だ。
幽霊みたいにすぐ近くに誰かの気配がしたまま眠りにつくことはできない。
そもそも、なぜわざわざこんなところで吸うのか疑問だ。
まだいいのが煙の匂いは風に流れこちらには被ってこないことだけど。
すう、と灰色の煙が暗闇へ流れていく。
こうやって包まっているとき、私はたまにあることを思い出す。
据わった目で夜空を見上げ一服する車掌さんの姿は、初めて人間臭い気がして私は思わずぽつりと口にした。
「猫って、駅に多いのかな」
車掌さんはちらりと私を見てから、またすぐ夜空に視線を戻したまま口を開いた。
「さあな。まあ大概野良猫は人の多い場所で屯して餌を待つからな。……それがどうした」
「ずっと昔、廃墟みたいな無人駅にね。一匹の猫がいたの。生成り色にすこしくすんだ、すごく上品な猫でね。長くて太い尻尾に、毛並みはふっさふさで。野良猫とは思えないくらい綺麗で、絶対鳴かなくて。王さま?女王様?そんな雰囲気だった」
「その駅のボスか」
「学校からはあまり電車に乗らないんだけど出かける時はしょっちゅういて、逢う度嬉しかった」
「それで?」
「……もしかして、その子もここにいるのかと思って」
「さあな。どうだか」
「車掌さんは乗客名簿持ってるんでしょう?わかるんじゃないの」
空の色と同化した詰襟をぐいとのばして、「ああ寒い」とぼやきながらも車掌さんは持ち場に戻ろうとせず、ポッケから二本目を取りだした。
「コンプライアンス」
ジッポをかしゃんと胸ポケットに仕舞い、車掌さんは適当にあしらう。
ひゅうひゅうと風が攫う白い雪のように綺麗な白髪は、ゆらゆらと月明りに煌めいてどこか眩しい。 素っ気ない物言いにまた言い返そうとしたけれど、どうしても聞きたかったことが先に頭を過ぎった。
「私は、しんだの?」
「『身元不明人』てのは、生前の記憶、つまり乗車駅までの経由記憶がない者を指す。おまえは乗車したあの駅の前に、どこにいて、なにをしていた?」
「……わからない」
しばらくして状況が飲み込めてから、私はようやく自分のある事に気付いた。
私は乗る前の、あの無人駅の前までの、記憶がさっぱりない。
それどころかどうやって生きていたかが定かではない。
ところどころの断片的な記憶が、たまに甦るくらいだ。
杉本瑠衣という名前は憶えているが、それ以外の自分自身のことが、曖昧だった。
「おまえはおそらく、断片的にしか記憶を所持していないだろ。記憶は罪状であり素性、記憶は切符だ。つまり乗客は記憶を渡し賃に、降りていく。切符がないものは延々と旅するだけだ――俺の様にな」
気まずさと、冷え切る空気に唇を動かすのすらわずらわしくてやめる。
寂しい後姿に、私はそれ以上質問できなかった。
横向きにごろりと戻り、正面を向くとあのアンティークな天井絵がまた目に入った。
外の光で、天使たちもまたわずかに光ってみえた。
微睡につつまれ、天使たちはぼんやりと滲んでいく。
布団の中でちいさく蹲る、みーちゃんを抱き寄せて、眠った。
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