第2話 銀髪の車掌
スマホの時計が10時半頃を差した時。
誰もいない車両に、ひとりの男性が入ってきた。
駅員さん、いやこの場合は車掌さんだ。
首まですっぽりと覆った黒い詰襟服の丈は長く、銀色のダブルボタンと縁取りの装飾だけが施された上着に、下は同じく黒のスラックスに黒の革靴を履いている。そして肩から小ぶりな鞄を下げていた。白い手袋を嵌めた手以外と頭以外は、全身黒づくめ。
そしておかしな点がひとつあった。
その車掌さんの頭髪は雪のように真っ白だった。
冬らしいな、とか、今は規則は緩いのだろうか、なんてことをぼんやりと考える。
体は疲れていた。いまにでも寝そうで、うとうとしていた。
黒づくめの車掌さんは私の前でぴたりと止まると、じろりと私を一瞥して言った。
「なんだ、また学生か」
ぶっきらぼうな口調に、私の肩はすこし竦む。
別に騒いでいるわけでもないし、優先席に座っているわけでもない。
比較的端の席におとなしく座っているだけの模範的な乗客なのに、車掌はどこか怪訝そうな冷たい視線を向けたまま、もごもごと口を開いた。
「ご乗車ですか」
低い声でそれだけ呟き、私はこくりと頷く。
「切符を」
怪しい車掌は顔色ひとつ変えず、手袋を嵌めた手を差し出した。
「持っているだろう、乗車切符だ」
「あ、はい」
冷たい口調で催促され、私は慌てて鞄から取りだした定期ケースから電子乗車券を提示した。いつも利用しているパスモを見るなり、車掌さんは顔をしかめた。
「なんだそれは」
「何って、パスモですけど。いつも使ってる定期券です」
「なに……?」
当たり障りのない返答に、車掌さんの表情は急に曇る。
電子乗車券の期限は切れてない。
駅員は「失礼」と定期券の裏に挿入してある学生用の身分証明書を確認し始めた。
私は車掌さんの顔を見た。
帽子を深く被っているが、30歳前後のわりと若い男性にみえる。
けれど、その両目は深い瑠璃色だった。
澄んだ冬の夜空。深い青色の瞳。クォーターか、ハーフの方だろうか。
でも鼻筋はとおっているが、顔は日本人そのものだ。
よくみて見ればなんとなく制服のデザインも、制服というより軍服のようなどことなく古びた印象を見受ける。独特な雰囲気を持つ車掌さんがすっかり気になり、提示した定期券を入念に確認している車掌さんから私は目が離せなかった。
やがて車掌さんは重く口を開いた。
「これでは乗れない」
「え?」
「切符がないならこの電車には乗車できない。ここは君が乗るような場所じゃない」
パスモを私に押し返し、駅員は冷たく言い放つ。
ずいぶん勝手な言い草だ。 どういう権限でそんな決定をするのだろうか。
まがなりにも私は電車代を払って乗車したひとりの客であり、従業員が乗客に向ける言葉ではない。
「料金は払ってます。キセルなんてしてません」
「関係ない。そんなものは役立たずだ、切符がなければ乗車できない」
「どういう理屈ですか?」
「理屈じゃない。規則だ」
「じゃあ、お金なら窓口で最後に精算します」
「次の駅で降りるといい、そこで乗り換えろ。いいか、次の駅だ」
車掌さんは険しい表情を向けて、ぴしゃりと声を張る。
迫力のある凄みに私は気圧され、大人しく席に座り込む。
さっさと最後尾の運転席へと消えた。
「なんなの」
勝手な言い分に私は車掌さんの消えた運転室をただ睨み、腕を組んだ。
もしかしてこの電車は私が降りる駅で止まらないのだろうか。
でも思い出してみても、電子版に「急行」の表示はされていなかった。速度も安定していて、早さも感じない。
そもそも車掌さんがこの車内を周ることなんてあるのだろうか、と私は違和感に首を傾げる。
よく中高年向けに放送している旅番組で出てくる古い列車や新幹線のグリーン車だったりでは切符を確認する巡回の様子を見たことがあるが、幼い頃から何度も乗っているこの電車にはそんな風景一度たりとも見たことない。特急の電車でもない。
考えてみればこの電車はずっと無音だ。客は私以外誰もいないし、各駅でも乗り込んでこない。それこそ停車してもアナウンスは流れない。
そしてそう間もなく、電車は私が降りる駅から一つ前の駅で一度停車した。
「……」
『次の駅だ』――冷たくそう言い放った車掌さんの言葉が繰り返し頭を遮る。
少し躊躇ったけれども、私はやっぱり見送ることにする。だってここで下車して乗り換えたらまた学校方面へ戻ってしまうだけだ。駅員の理屈はまったく理解できない。
開いた扉はすぐ閉じて、また発進する。
私が降りる駅にそろそろ到着する気配がしても、まだ車内アナウンスはない。
ほどなくして、電車はゆるやかに停車した。
真っ暗な暗闇だけが支配している自動扉の外を確認すれば、当然の如くいつも降りている駅名がぼんやりと照らされた外灯に浮かび上がっていた。
「なんだ、とまるじゃない」
私はほっとして立ち上がる。
扉はすぐに開き、ひどく冷たい空気がひんやりと脚をなでる。
この感覚はいつも慣れない。そして妙に、今日は寒く感じる。
さっさと帰ろう。
すぐに下車しようとした、その時。
「――おい、待て」
唐突に後ろから聞こえたその声に、びくりと私の足は竦む。
そのまま無視すればよかったのだが。背後の気配につい振り向けば、いつの間にかさっきの黒づくめの車掌さんが険しい表情で私を強く睨んでいた。
「な、なんですか?」
「私は次の駅で降りるようにと言ったはずだが?」
私は心底あきれた。
職務中だと言うのにわざわざ私が降りることを見張っていたのだろうか。
巡回ならともかく、だとしたら気分が悪い、というか気味悪い。
もう家までは下車すれば歩いてすぐだ。
まだ閉まらないままの扉を目の前に、私は苛立ちを露わに早口で捲し立てる。
「だから、ここが私の降りる駅なんですってば。ここを過ぎたらまた折り返さなきゃいけないの」
「無理だ。もう乗り換えることはできない」
「さっきからなに言ってるんですか?」
だめだ、話が通じない。
「もう、なによ一体」
噛みあわない話を放棄しようと、私はその場を無理矢理振り切ろうとする。
それでも降りようとした私の左腕を車掌さんはぐいと強く掴んで引き留めた。
「――もう!なんだってのよ!」
私が車掌さんを突き飛ばそうとした手を、ぐいと車掌さんは強く掴んだ。
星のような銀髪から覗いた、瑠璃色の瞳は私をまっすぐ見据えていた。
腕が、痛い。
「本気で、ここから降りる気か?」
その言葉に私は一瞬、躊躇った。
けれど既に左足は駅のホームへ踏み出していた――筈、だった。
踏むはずのコンクリートの感触が、ない。
ふと見下せば、私が知っているコンクリートのホームはそこにはない。
足元に広がるのは混沌とした底なしの暗闇。
「ここが本当におまえの降りるべき駅なのか」
「な、にこれ……」
深い黒から吹きつける強い風が、びゅうびゅうとスカートを腿に叩きつける。
宙ぶらりんになった足は、恐怖に引っ込んだ。
私は震える足で数歩後ろへ下がり、ずるずると座り込む。
扉は開いたままだ。
間もなく。
聞いたこともない妙な奇怪な出発音が流れる。
そして――-車内にぞわりぞわりと何かが次々と雪崩こんでくる。
押し寄せるそれらは人の波ではない。
異形なモノの、波。
狼のような頭をした者、死人のように顔が白塗りの学生、魚の頭部だけの者。はたまたスライムのような液状のものが滑って、ゴスロリ服の女の子は傘をたたんで優雅に、体が透けた幼児は走り込み、顔面が泥のように溶けた軍人は端の席へ。
得体の知れない奇怪なモノたちが私を押し通り、あるいは体を透り抜け、そして足元を掻い潜ったり這い上がりながら、次々と車内に乗り込んでくる。
言葉もなく入り口前にいる私の足に、その内の誰かが思い切りぶつかる。
「いったいね、そんなとこで座ってんじゃないよ」
「あんたジャマさね」
「す、すみません……」
奇妙な乗客たちに鬱陶しがられて、私はつい反射的に謝った。
気づけば最後尾の車両内は、人間ではないモノで満員になっていた。
私はのろまな動きで立ち上がり、声も出ず、隅の手すりにもたれかかった。
そんな私を見下して、まだ後ろにいた車掌さんは淡々とした口ぶりで私に言った。
「俺はさっき『次の駅で必ず降りろ』と忠告したはずだ。だがおまえは無視してそれを逃した。今日で最期の、乗り換えをな」
「最後って……」
「この電車に終電はない。おまえは乗っては行けない現世の箱舟に載ってしまったんだ」
「――うつしよの、はこ、ぶね――?」
「この電車、もとい列車は死者の船。おまえはもう、帰れない」
また妙な奇怪な出発音が流れていく。
硝子越しの暗闇を隔てて、目の前の扉がふたたび閉まる。
車掌さんは懐から取りだした機械からくぐもったアナウンスを告げる。
『長らくのご乗車ありがとうございます、この電車は終電無し、✖✖行きでございます――』
茫然として動けない私に背を向けて、車掌さんはその場を去っていく。
車掌さんの低い声が、満員電車にしずかに響いた。
*
「あら、どうしたのお嬢さん。気分でも悪いのかい」
座り込んでいた私がふと優しい声に顔をあげると、おばあさんが私を心配そうに覗きこんでいた。花柄のワンピースの上にワイン色のカーディガンを着込んだなかなかおしゃれなおばあさんは、にこりと微笑んだ。
「顔が真っ青よ、どこかに座りましょう」
「あ……はい」
私は傍らの手すりを頼りに、よろよろとおぼつかない足取りで立ち上がる。おばあさんは私の手を引いて神様をわき分け次の車両へと進んでいく。
不思議なことに車両が変わると雰囲気ががらりと変わった。
ほんのりと明るく、温かかい。オレンジのランプが車内を優しく照らしている。くすんだ臙脂色の向い席が並び、私が知る電車と違っていた。
「ごめんなさいね、この子ちょっと具合悪いみたいで。失礼するわね」
前列の赤いソファー席の前に辿り着くと、おばあさんは腰に手をあてて先に座っていた面妖なモノにやんわりと注意する。
「具合が悪くないなら、いいかな。そちらは優先席だよ」
「……!」
優先席に座っていたネズミたちがざっと散らばる。
「どうぞ」
おばあさんは優しく微笑み、先に私を座るように促す。親切心に素直に従い、私はおずおずと座った。おばあさんもまた隣によっこいしょと小柄な体を紅いソファーに預けた。
「冬は体が冷えるねえ」
そう言っておばあさんが取りだしたのはほんのり桜色をしたステンレス製のマグ。
おばあさんじゃ桜柄が描かれた水筒をの蓋をぽんと中身を開け、付属のカップにとくとくと中身を注ぐ。なみなみとたっぷり、透き通ったレモン色のそれをおばあさんは私に差し出した。
「どうぞ。このお茶、なかなかおいしいのよ」
おばあさんがせっかく淹れてくれたのだけれど、私はあきらかに怪訝そうな目をむけてしまう。とりあえず受け取りはするが、得体の知れないレモン色の液体をじっと私は見下ろす。
私の手中でわずかに揺れるそれを素直に口に運ぶ気分はなれない。
「生姜ですか?私、こういうの苦手で……」
それは適当な嘘だった。
私は単純に他人から淹れてもらったお茶だとか、他の母親が作ったおにぎりとか、親戚のおばさんのおはぎとか漬物、煮物とかの総菜やカレーとか。「他の家庭」の味がするものが苦手なのだ。手作りを称するものよりコンビニの冷たい弁当とか携帯食品とか無機質なものでいい。
「これはレモネードだから、そんなに苦くないわよ」
けれどそれと同じくらい純真な愛想笑いにも弱い私は、にこにこと微笑むおばあさんの誠意を無下にもできず、しぶしぶと口に運ぶことにした。
「……いただきます」
かさついた唇を、白い湯気が濡らす。
ゆっくりと口づけた、途端――。すっきりとした爽やかな香りが鼻から吹き抜け、あとに引くほんのり酸っぱい甘みが口の中に広がった。すっと喉から胸へと優しく降りて、緩やかに体の奥へ染み込むような感覚。包み込むような優しさに、ほう、感嘆の吐息がこぼれた。
「どう?お口にあうといいんだけども」
「悪くない……あ、おいしい、です」
「ふふ、無理しなくていいのよ。身体を温めてほしかっただけだから、あとは残してかまわないわ」
その言葉は不思議だったが、なんとなく理解した。
ひとくちだけ飲んだはずなのに、生姜風味のレモネードは私の体を急速に温めていく。
喉が渇いていたこともあり、最初は躊躇っていたそれを徐々に口づけながら私は何気なく向かいの席に視線を移す。乗客の一人とふっと目があった気がして、私は慌てて目を逸らした。
わりかし物分かりのいい私だが、これが現実なのだという実感はまるで沸かない。
狐につままれたというのだろうか、落ち着かない。悪寒と苛立ちと焦りと、いろんな感情が身体をぞわぞわと支配していく。
「ヘンな、夢」
そうだ、夢なのだと自分に言い聞かせる。
それでもまたひどく震えてきた手が、ふっと柔らかな感覚と温かさに包み込まれた。
おばあさんはにこにこと微笑んだまま、私の手を「大丈夫よ」と握った。
それでも状況が呑み込めないでいる私に、おばあさんから話を振る。
「ところでお嬢さん、なかなか可愛い人だけど。あなたみたいな若い子は最近多いね」
「え……そうなんですか?でも私はダメって、駅員さんに言われました」
「もしかして、あなた……あらいけない!!まだ生きてるじゃないの」
私の違和感に気づいた様子のおばあさんは、大袈裟に口元に手をあてた。
「そうですね。死んだ覚えはないです」
私は素直に頷く。
「あらまあ、驚いたわあ。そう、あなた間違えちゃったのね」
「間違えた、というと?」
「この電車はね、ふつうは生きた人間は入ってこれないのよ」
「あの、要するにこの電車はなんですか?」
「ここは神様列車よ。すべてをあちらさんへ、神様側へ運ぶ、渡り船」
「神様、列車……」
聞きなれない言葉を私は繰り返し口にする。
「つまり、ここに乗っているお客さんは人じゃないってことですか」
「そうなるわね。私も最初乗ったときはそりゃ腰が抜けたものよ」
そう言っておばあさんは乗客に穏やかな視線を向ける。
私も泳がしていた視線をおそるおそる、そして今度はしっかりと見据えた。
人間と定義するにも化け物と偏に片づけるにも難しい者たちが、紅いソファでそれぞれくつろいでいる。
目の前には牛蛙ほどの大きさがある雨蛙の親子たちが窓に張り付き、その横で白塗りと狐面の男女の学生が二人読書をしている。そしてぼうと窓の外を眺めるのは、丸い球体を頭部にしたサラリーマンらしき者と、横には白金の髪をしたキャスケットの少年が。おばあさんの目の前には体の透けた子供たちが、真っ黒なゴスロリ服に身を包んだお姫様のような女の子がうとうと居眠りしている。
「ここに乗ってるひとたちって、なんなんですか……?」
「あなたには、どう見える?」
「どうって、おばけとか、昔の人……とか」
車内の様子を見渡して、私は口籠る。
これが分かりやすい幽霊とか妖怪とかだったらまだ受け入れやすいかもしれないけど、乗客どれもが統一性のなく、個性が強く、なんというかふざけた容姿をしている。
「どんな者であろうと死んでからの行き先は別よ。ここでは人も人でないものも、まとめて一緒に神様側へ運ばれるのよ」
ふむ、と私は頷く。
神様列車――つまり人であろうとなかろうと、既に死を迎えたモノたちをあの世へ運ぶ電車に私は乗ってしまったというわけだ。私はようやく事態を飲み込みはじめる。
だかまだこれが現実に起きていることだとは到底思えない。
そもそも私が乗車したときはいつも乗る電車だったのだ。
だとしたら、何を間違えて神様列車に乗ってしまったのだろう。身に覚えなどない。
そもそも、私は。
なぜ――あの駅にいたんだっけ。
「どうしたの?顔が真っ青だわ、もっと飲みなさい」
「はい……」
天井にはうつくしい夜空が描かれている。
神様列車はふざけた絵本の中の世界みたいで、何度も見たことのある夢のようで、言い表せない虚無感と、懐かしさと――おぞましくて、不気味だ。
「最近はね、若い子もほら、多いから。私ってば勘違いしちゃったわ」
「私みたいな学生が多いって、どういうことですか」
「……そうねえ」
私の質問に、おばあさんは哀しいような難しい顔をしてから、ぽんと私の肩を叩いた。
「大丈夫、きっと帰れるわよ」
やがて電車はいつのまにか真っ黒なトンネルへと突入した。
するとトンネルの中だというのに大きな鳥居が見えてくる。何度も何度も鳥居を潜って、がらんどうのトンネルの中にぽつりと赤い光が見えた。電車は停車した。そこはヘンな駅だった。辿り着いたの真っ黒なトンネルの中にぽっかり空いた穴からぞろぞろと狗や鶏の頭をした人たちが電車へと乗車した。
その内のやたら体格のいい茶色い犬の一人が私をじろりと睨んだ。
「けっ、なんだまーた人間がいるじゃねえか。どいつもこいつも地味ったれたツラしやがって」
威圧的な視線に肩が竦むが、おばあさんはやんわりと私に言った。
「ここは一番後ろの車両だからね。いろんな乗客がいるんだよ、気にすることはないからね」
「はい、ありがとうございます」
けれど犬はなぜか私たちの前にずいと立って、吊革を掴んだまま見下ろしていった。
「おい人間共。てめえらはその席を遣う価値なんてねえ。さっさと立て」
その時だ、後ろから誰かが近づく気配がした。
「お客様。車内の乱暴行為は禁じています」
低いアナウンスが車内に響いた。
見れば別車両から巡回に来ていた車掌さんがこちらに向かって来ていた。
「この電車は人も神も等しき渡り船。そして優先席は昔から一つに年の功順、二つに病人と決まっています」
「てめえ人間の癖に」
「私はこの船を担う車掌さんです、あなたを卸す権限も全てこの私にあります。規則違反を起こすなら、あなたはここから降りていただきます。最後尾車両の化け狗程度、私が始末してもお上は何も咎めません」
「ちっ……あーあ、この車両に居ると人間臭いのが移るぜ」
犬たちを追い払われ、私はほっと胸を撫でおろす。同級生たちに絡まれることは慣れているが、ああいった得体の知れない物に絡まれるなんて今までない。
車掌さんはさらりと辛辣な言葉を述べた。
「巡回に来てみれば早々野良犬なんぞに絡まれやがって、厄介毎を起こすな」
「な、私はなにもしてないんですけど」
「目つきが悪いんじゃないか、おまえ。あまりそう陰気な顔してると喧嘩を買う。用心しろ」
「ずいぶんな言い方しますけど……なんか、あなたにだけは言われたくないです」
上からの物言いに思わずそんな悪態が口から出たが、車掌さんは「手」と一言指示した。
私が不思議そうに左手を差し出すと、車掌さんは腰下げ鞄から取りだした判子を私の手の甲にぐいっと推し込んだ。手の甲にはよく分からない魔法陣のような真っ黒な朱印が押されていた。
「なんですか、これ」
「人間用の札だ。目印になるよう交付する義務がある。おまえみたいな奴は狙われやすいからな、これも所持品に付けておけ」
「よく分からないけど、ありがとうございます」
マタニティーシールみたいなものだろうか。車掌さんの口ぶりからして身につけておくことが適当なのだろう、私は車掌さんが手渡したシールをしぶしぶと鞄に付ける。鞄はシンプルがいいのだけど。
確認した車掌さんは次に、すっとおばあさんの前に屈んで膝をつき、穏やかな口調で告げた。
「お客様、切符の確認です」
「おやおや、もうそんな時間かい。あれだけ長い乗り換えもこれで最期かと思うと寂しいねえ」
「まだまだ、これからですよ」
車掌さんの言葉におばあさんは微笑み、車掌さんに手をゆだね立ち上がる。
車掌さんはゆっくりと丁寧におばあさんを扉前まで誘導する。
私にはずいぶんな塩対応だった癖に、おばあさんに向ける目は別人のように優しいもので、実に紳士的で物腰柔らかい。私はなんだかすこし拍子抜けする。おばあさんは私の手を握って、別れを伝えた。
私もなんとなく、扉まで近づくとおばあさんは嬉しそうに笑った。
「あなたとはもう少し話したかったわ、残念ね」
「そうですか」
「お嬢さんの名前は?」
「私はルイです。杉本瑠衣」
「そう、綺麗な名前ね。ルイちゃん、きっと帰れるからね、大丈夫」
「はい……ありがとうございます」
「これはあなたにあげるから」
「え、でも」
「いいのよ。私にはもういらないから」
おばあさんは私に水筒を預け、風呂敷を手にすると車掌さんが差し出した手をひき、よっこいしょと腰を起こす。
「何かあればこの車掌さんを頼るんだよ」
おばあさんは彼は信頼できるからね、と耳打ちしてホームに出ると、私に手を振った。
発車の合図が鳴り、がたがたとすこし不格好に扉は閉まる。
おばあさんは硝子越しに優しい微笑みを残し、私もすこしはにかみ返した。
うまく笑えてないな、と自分でよくわかった。
それでも、たった一瞬の出逢いだったけれど、その別れを惜しむ自分がいた。最初はあれだけ他人を毛嫌いしていた癖に、いざ離れるとなると嫌だなんて。ずるいな、と自分で情けなさに無償に泣きたくなる。
自分でも驚くほど冷静だけれど、結局不安なんだ。
おばあさんの姿はみるみる小さくなる。
まだそばにいた車掌さんは次に私に何か古びた書類を二枚渡した。
「ああ、そうだ。ついでにこれを渡しておく」
「なんですか、これ」
「車内の見取り図と時刻表だ。従業員専用で本来は客に配布する義務はないが、上に報告したところおまえが第ニ車両から立ち入らないようにとの配慮で特例で渡すように命じられた。トイレの場所や寝床の確認をしておくといい」
「この電車眠れる場所が、あるんですか」
「古い夜行列車だからな、寝台を伴った車両が六番車両だ。詳しくは番台に聞け」
見たことのないような車両の見取り図をまじまじと眺める私に、車掌さんは冷静に説明した。
「もう一度言うが、おまえは停車した駅はホームを越えてどれも降りてはいけない。どんなに見覚えのある景色でも、何回も降りたことある駅でも、だ。同じに見えてもそれはまったく別の現世だ。人間のおまえにこの世界は異次元でしかない。改札口を超えたら最後、俺の管轄外になる。電車を降りて時刻を過ぎれば電車は発車するし、俺の電車はきっちり時間厳守だ。分かったな」
「……はい、わかりました。ありがとうございます」
あいかわらず高圧的な態度だけど、それは私が監視下であろうからだろうか。
業務内容とはいえ、説明はありがたい。
「……あの、名前って」
私はちらりと車掌さんの名札を見るが、名札には「車掌」としかなかった。
「俺に名はない。俺は『車掌』だ、この電車を取り締まるのは俺一人だ」
「……車掌、さん」
「他に質問があれば俺を尋ねろ。俺はいつでも最後尾の奥にいる」
「はい」
「よし」
先生のように頷くと、車掌さんはまた別車両へと向かっていった。
まだ水筒は温かい。
左手に残るほのかな温もりを握りしめ、私は夢心地で、流れゆく暗闇を茫然と眺めていた。
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