第6話 ラーメン

 今日も今日とて、平穏な部活の日々だ。

 凛太郎にとって去年までは退屈な意味のない時間だったが、今は違う。目の前の白川詩春がこの無色の時間に彩を持ってきてくれたのだ。

 そのおかげで凛太郎は少しだけ部活が楽しみになった。

 いつものように本を読んでいる詩春から言葉が飛んでくる。


「先輩、大事な話があります」

「なんだ?」


 どうせまた意味の分からないことでも言うのだろう、と凛太郎は適当に聞き流す気満々で返事をする。

 今ちょうどスマホでパズルゲームをやっており、いいところなので早めに言ってもらいたい。


「私……」

「ん」

「……ラーメンを食べたことがないんです」


 ぴたりと凛太郎の手が止まった。まるで妖怪でも見るかのように目を見開いて、そろりと顔を詩春に向けた。


「それは流石に嘘だよな?」

「……」


 詩春の表情は相も変わらず真剣そのものだ。ジョークなのか本当なのか判断しづらい。だが、嘘にしてはあまり嘘過ぎる。

 真相を探るのに凛太郎の沈黙は数十秒と続いた。


「ラーメンとは美味しいのですか」


 なんてこった。これはマジのパターンだ。

 凛太郎は身構えるために椅子を少し引く。


「ラーメンは美味いぞ」


 こればっかりは凛太郎も真剣に、事の重大さを受け止めて答えた。


「俺は豚骨ラーメンが好きだ。こってりとした油がスープを覆うように浮いている。その幕を破るように箸を入れて麺を抜き出すんだ。鼻にこびり付く強烈な臭いは空腹を誘い、欲望のままに麺を啜る。脳はジャンキーな味に痺れて、気がつけば椀からラーメンは消え、スープの一滴すら残っていない。それがラーメンだ」

「私はラーメンを食べることができますか」

「当然だ。一緒に食べに行こう。今日、食べに行こう。俺が美味いラーメン屋を教えてやる」

「私、それを食べたらもう後戻りできなくなりそうです」

「ああ、後戻りなんてできないさ」

「先輩、責任をちゃんと取ってくださいね」


 この日、詩春がラーメンを食べたくなったら一緒に食べにいく、という変な契約が成立してしまった。

 二人はすぐさま部室から出て行った。戸締りをして、鍵を職員室に返しに行く。


「ん? まだ時間があるだろ? どうしたんだ?」


 名前を忘れた男性教師がそう訊ねてきた。


「先生、訊かないでください。俺は詩春にこの世の素晴らしさを教えてやりたいんです」

「……そ、そうか。頑張れよ?」

「はい。全力を尽くします」


 凛太郎は職員室を出て行く。ポカーンと男性教師は立ち尽くしたままだった。

 学校を出て、凛太郎の帰路を二人は歩き出す。


「ラーメン屋は俺の家の近くにあるんだ。よく家族でも食べに行くし、俺は一人でも何回も食べに行っている」

「なるほど。先輩のお墨付き……楽しみです」


 するとちょうど夕飯の買い出し帰りだろう。買い物袋を抱えた主婦が通りかかった。さらに仕事帰りのサラリーマン三人組も後方にいる。


「あの人たちもこれからご飯を作ったり、食べに行ったりするのでしょうか」

「だろうな」

「私たちはラーメンを食べに行こうとしているのも知らずに……。可愛そうな人たちです。なぜなら私たちは今日、誰よりも美味しい夕飯を頂くことになるのですから」

「間違いないな」


 凛太郎もテンションが上がっているせいで、つい同調してしまう。

 しばらく歩き、ついにラーメン屋に辿り着いた。


「ここ、ですか」

「ああ。ここだ」


 どこか詩春も緊張した面持ちを見せる。


「入るぞ」

「はい」


 ここは凛太郎が扉を開けてエスコートする。


「いらっしゃい!」

「大将。いつものを二つ」


 このラーメン屋の定番であり、一番人気のメニュー「豚骨醤油ラーメン」のことだ。だが、凛太郎が言う「いつもの」というのは少し違う。

 裏看板メニューと言うべきか。ここに通い続け、知る人ぞ知る隠されたメニューの一つ。それが「特製出汁、豚骨醤油ラーメン、ニンニクマックス」なのだ。


「へい、お待ち!」


 二つのラーメンが出揃った。


「いただきます」

「……いただきます」


 詩春もしっかりと両手を合わせる。そして凛太郎を見ると、凛太郎はあえて我慢し、詩春が一口食べるのを見守っていた。

 小さく頷き、割りばしで麺を掴む。湯気の昇る麺は小さな口に中へとあっという間に吸い込まれた。

 数回の咀嚼。ごくりと詩春の喉が鳴る。


「美味しいです」

「良かった」


 安堵に浸りながら凛太郎も麺とスープを食い貪る。

 最高の満足感と優越感に浸りながら二人は出てきた。


「どうだった?」

「最高でした。私はまた一つ、先輩の彼女として成長できたみたいです」

「でも、なんでラーメンを食べたことがないんだ? 確かコンビニに入った時は真っ先にカップ麺コーナーに行っただろ」

「はい。ですが、私はパスタや焼きそばを好んでよく買うのです。ラーメンは少し敬遠してしまってて」

「そうだったのか。じゃあ、また一緒に来ような」

「はい」


果たして恋人同士でラーメン屋に通うのはありなのか。

いや、これから先も詩春以外の女子と恋仲になることはないだろう。だからまた二人でラーメン屋に行くのは全然ありだ。

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先輩は後輩のことがよく分からない。 花枯 @hanakare

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