第三十九話 逃避行

 本当なのかどうかは知らないが、カフェインが二日酔いに良いといつの頃からか、どこから知ったのかも覚えていないけど、こういう時はコーヒーをがぶ飲みする習慣がある。これで三杯目だ。空きっ腹にコーヒーは胃に悪いとは思ったが、そんなの気にしてはいられなかった。


 十時過ぎにベットから出て、iPadの検索窓に「事件 児童虐待 殺傷 東京都〇〇区 平成10年」と入力して得られた結果をずっと調べていた。当時、マスコミを中心に多少は騒がれた事件だからか件数にして数千件の記事がヒットし、そのうち記事として表示可能なものが数十件あった。古い事件だからか、一般の人が作成したブログやWebサイトにしか記事はなく、被害者の姉の名前も犯人となる「藤堂万寿夫」の名前も出てこなかったし、事件の固有名称すらない。


 おそらくは、図書館ででも新聞記事データベースでも当たれば当時のニュースにもっと詳しく当たれるのだろうけど、ネット検索で見つかったそれらの記事からも概ねの報道された情報の雰囲気は掴める。というのは、どの記事を見ても、私が姉を刺したなどという記事は一つも出てこないのである。すべての記事が、「姉が刺そうとして父と揉み合いになり包丁が姉の胸に刺さった」だった。


 これが嘘であることは、私自身の記憶だから間違いない。渡辺二瓶が私に渡した、今この手元にある事件捜査概要のコピー冊子がほぼ事実である。何故報道された事実が嘘なのか、その理由はわからないけど、母や他の大人が私に教えてくれた事実はそれら報道された事実と一致するもので、大人は私に嘘を教えたわけではなかったのかも知れない。今更あの母に尋ねようとは思わないけど、多分そうなのだろう。だって、私も母に自分が何をしたのか喋った記憶はない。事件直後、当時私が警察の人に尋ねられて細かいことは話した記憶は、ほんとに微かにあるけど、それ以外の人には話していない。


 渡辺二瓶がこの事件捜査概要を私に渡したのは、私の過去を知っている、という程度の脅しに過ぎないのだろう。もしかしたら、そうした世間では知られていないことだって知っているぞ、ということなのかも知れない。ただ、私が約二十年もその記憶がなかっただなんて渡辺は知らない筈だし、ここまでショックを受けてしまうだなんて、渡辺の想定を遥かに超える私への攻撃だろう。


 今やはっきり思い出している。あの時――。


〈海来、一番悪いのは誰? ちゃんと答えないとどうなるか分かっているよな?〉


 と延々同じ言葉を私に言い続けたあの酷い男。そしてそれを望み通りに答えると、


〈その悪人はどうしたら良いんだ?〉


 と同様にあの男が望んだ言葉を答えるまで延々と私に言い続けた。そして私はその望み通りに従ってしまった――。


 あいつに言葉巧みに誘導されて、洗脳されたんだと、大人になった私だから理屈でわからないわけじゃない。……でも、あの時私は、……私は、絶対にやっちゃ駄目だって分かってたんだ。


 でも、怖くて、怖くて、怖くて、そこから逃げたくて、やっちゃ駄目なのに、自分の意志で、お姉ちゃんに取り返しのつかない酷いことを……。分かっていたんだ。私はあの時、あいつに操られたんじゃないんだ――。だからあの時、最後にはこう言ったんだ、


「お姉ちゃんごめんなさい!」


 って。そしたら柱に縛られて動けないお姉ちゃんは、包丁を持った私に優しい笑顔で笑ったんだよ? こんな残酷な記憶がどうして頭の中に残っていたの? どうして今になって……。


 ……でも、きっと、……もしかすると、それが私への罰であり、罪なのかも知れない。多重人格になって、脳の中のその残酷な記憶領域を慶一郎という新しい人格に譲り渡して、海来という私はのうのうと三十歳まで生き続けたんだ。本当はずっしりと重い罪を背負って、償い続けなければならなかったのに。


 自殺しようとして失敗ばかりだったのも自分への言い訳だ。私はそんな辛い思いをしたんだって周囲に示したかっただけなんだ。お姉ちゃんみたいな人を一人でも多く救いたかったから探偵会社を始めただなんて、それも自分を正当化するという道へ逃げただけじゃないか。多分、記憶がなかったなんて嘘だろうし、ほんとは思い出さなかっただけで、逃げ続けていただけなんだ、きっと。


 もう、涙も出やしない。涙なんて流す資格もない。私は最低だ――。


 ふと、ソファーに座っていた私の両太腿に沈んでいた若造が、じっと私の顔を見つめて子猫の頃のように愛くるしい声で泣いているのに気がついた。そう言えば、若造って、この近くの道端で、最初は二匹だったんだよね。もう一匹のぶち猫は名前を付ける前に天国に行っちゃったけど。


 可愛くなって思わず抱き上げると、不思議なことに若造は逃げなかった。あんなに抱っこされるのを嫌がったのに。……もしかして、若造は私の心を読んだのかな。……そんなわけないよね、猫は気まぐれ、いつだって自分の思いのままだもんね。でも、若造をこうしてギューしてると、何故だか笑顔も出る。ほんとに私って最低……。


「若造、もう会社、今日休んじゃおうかな?」


 ミャァウ……、だなんてその返事がはいなのかいいえなのか、私次第でしかないよね。なんだかんだ考えてるだけで、もうお昼十二時か……。と、カウンターテーブルの上にあったスマホが震えていた。若造を退けて、テーブルまでスマホを取りに立つと、カンナだった。あれ? まだ飛行機の中なんじゃなかったっけ? と、その着信に出る。


「もしもし?」

〈よう! もう空港着いちゃった。直行便に空きがあってさ、変えてもらったの。どう? 海来はまだ仕事中?〉


 その途端だった。目から大粒の涙が溢れた。全身から力が抜け落ちてそのまま床に崩れるようにして落ちた。声だって――。


「うわぁぁぁぁぁ!」

〈ちょっと、海来、どうしたの?〉

「カンナぁぁぁ!」

〈海来……〉


 一分だろうか、二分だろうか、私は嗚咽を続け、カンナは沈黙――。カンナの前で泣いたことはあったけど、理性まで失ったことはなかったのに、最早自分では止めようがなかった。たまたま、カンナのいるその空港の何処かで、カンナの背後から外国人が何かカンナに話しかけているような声がして、どうにか少し落ち着きを取り戻した。


「……ごめん、せっかく帰ってきたのにね」

〈いいけど、大丈夫……、じゃないよね。すぐそっちに行くね、まだ自宅でしょ?〉


 その言葉に、一瞬で目を輝かせたと自分では思ったのに――。


「駄目、来ないで」

〈どうして? その理由話さないと私行くからね〉

「駄目……、私が行くから。……それでさ、その空港から、二人でどっか他の国に行こうよ」


 パスポートの有効期限切れで更新してなかったのも知ってたし、無理なことも分かってたのに、突然の閃きだったけど私は本気だった。こうなったら、何処までも逃げて逃げて逃げまくって、どこまでも最低の人間になってしまえばいいのだと。


〈馬鹿なこと言ってないで。今からそっちに行くから。返事はいらない。このまま電源切っちゃうからね〉……ブツ。


 ……はあ。またカンナに負けちゃったか。


 カンナには絶対に、そう思っちゃ駄目だと自分に言い聞かせてきた。カンナは私の大切な恋人であって、パートナーになるかも知れない人なんだから、絶対にどんなことがあっても、お姉ちゃんの代わりだなんて思ってはいけないって。だから、私の過去は絶対にカンナには話さなかった。だから私もカンナの過去を必要以上には聞かなかったんだ。それは全て、カンナを姉だと思ってはいけないって、ずっとそう言い聞かせてきたからだ。


 だけど、自分のことは自分がよく知っていた。私が姉を求めないなんて、あり得なかったんだ。ずっとずっと、私が寂しかったのは、お姉ちゃんがいなかったからだ。それだけはほんとに認めなくなかったけど、認めざるを得ない事実だったんだ。私は何も必要としてはいけない存在にならなきゃいけないのに、カンナが現れて、そこにお姉ちゃんを求めてしまったんだ。


 もう、カンナにも会えない。


 そう思うと、私は急いでシャワーを浴びて、身支度を整えつつ、思いつくままにキャリーバッグに着替えや必要なものを放り込むと、若造もペット用キャリーバッグに入れ、それら荷物を持って自宅を飛び出るようにして後にした――。



 自宅を出て、タクシーを捕まえると、一体何処へ行けばいいのかもよく分からなかったので、東京駅に行くように言った。八重洲口か丸の内かと聞いてきたので、確か新幹線は八重洲だよなと思ったからそう答えた。タクシーが走り出してすぐ、流石に三島に何の連絡もなしにするのは困るだろうと思って、電話を掛けた。


「もしもし、三島くん、今お昼かな?」

〈いえ、まだ会社にいますけど、体調どうですか?〉

「うん……、それがさぁあんまり良くなくって、悪いんだけど今日は休みにするけどいいかな?」

〈ああ、それは……、いいんですけど、だったらお知らせしておきたいことがありまして〉

「何かな?」

〈実は、今朝、警視庁の辻川さんという方から社長の方に電話がありまして〉

「警視庁の辻川?」

〈はい、社長は辻川さんをご存知ですか?〉

「いや……、警視庁に知り合いなんていないよ? 辻川なんて名前も知らないし。それってイタズラかなんかじゃないの? うち探偵社だからさぁ、変なの時々あるじゃんか」

〈いえ、警視庁で間違いありません。掛かってきた電話番号は警視庁のものですし。でも変なんですよ〉

「変、って何が?」

〈所属部署を聞いても、それは言えないって仰って教えてくれないんですよ〉

「何だそれ? で、要件は何だったの?」

〈いえ、社長はいないって伝えたら、じゃぁまた今度掛け直すと言って切られました〉

「そっか。何なんだろうね?」

〈さぁ? それだけです。じゃぁ、お大事に〉

「ありがとう、ごめんね。電話とかLINEはしてくれていいから」


 警視庁の辻川? でもなんか、どっかで聞いたことのあるようなないような――。




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