第四十話 熱海にて。
「すみません、ほんとにうっかりしてて……」
旅館に着いて、部屋に案内されるまで若造がずーっと泣き続けてうるさかったので、案内後にキャリーバッグから出してあげたら、そのまま開いていた部屋のドアから飛び出ていってしまったのだ。やむを得ず、旅館の人に協力してもらって捜索。
「いえー、うちもペット可で泊まって頂いてるんでたまにあるんですよ。お気になさらないで下さい」
「ありがとうございます。よかったらこれ使って下さい、大好物なんで」と、チューブ状の袋から少しずつ出して上げるタイプの猫のおやつを渡す。
ほんとに特に何の考えもなく熱海まで来てしまった。熱海を思いついたのは浮気調査の仕事で来たことがあったからだ。その時、調査対象が使った旅館に電話で聞いたら猫を連れていても大丈夫だというので、この新屋旅館という中規模程度の温泉旅館に決めたのだけど、建物も広ければ敷地も広い。一体若造のやつ何処へ……。
泊まっている部屋のある一階廊下を探していると、六十歳くらいの旅館の女将さんと思しき着物姿の女性がロビーから私を手招きする。どうやら見つかった様子なので早足で近付いた。
「お客様、ほらあそこ」と、その女将さんは斜め上を指差した。
「うわぁ、あんな高いところに」
ロビーの天井は場所によっては四メートルくらいはありそうで、若造はロビー奥になるところの壁に施された天井近くの装飾の、ちょっとした棚のようになっているところでうずくまってこちらを見つめていた。ちょうどその辺りも黒っぽくて見ずらいのに、女将さんもよく見つけたなぁ。
「今、別のものに脚立取りに行かせてますのでね、すぐに捕まえますから」
「助かります」
「お名前は?」
「藤堂海来と」
「あ、いえ、あの黒猫ちゃんのお名前ですけど」
「あ、そうでしたね。若造って言います」
「若造ちゃんか。いい名前ですね。よく旅行などで一緒に連れて行かれるんですか?」
「あー、今回始めて、かな? あんまり旅行とかしないんで」
「あら、そう……」
そう、……って、この女将さん私のことじっと見つめてるんだけど、何?
「お客様、何か、お悩みごとでもあるんじゃないですか?」
「は? お悩みごとって……」
すると女将さんは、如何にも失敗したというような表情で舌を出した。
「あたしったらもう、……ごめんなさいね。悪い癖で。私、ここの女将をやりながら、占いもやってましてね、悩み事相談得意なものですから、つい」
「はぁ……」
「お客さんのお顔を拝見していたら、失礼かもしれませんが、かなり深刻なお悩みがあるんじゃないかと。もしよろしかったら、ご相談していただいても構いませんよ?」
「いえ……、特には」
「そうですか? もしあれだったら、いつでもお声掛け下さいね。あ、うちのものが脚立持ってきましたね――」
男性の職員の人が、脚立を登って若造に近付いたら、若造のやつかなり威嚇していて、職員の人が噛まれたり引っかかれたりでちょっと怪我をしてしまったが、どうにか若造を捕まえることに成功した。
「ほんとにすみません、お怪我大丈夫ですか?」
「いえいえ全然、なかなか元気な猫ちゃんで」と、その男性職員さんが若造を私に預けながら、しかし少し痛そう……。
「大丈夫よ、あなた男なんだから」と女将は笑っているが、男だったら怪我していいのだろうか……。
部屋に戻って、若造を旅館から借りたケージの中に入れた。まぁね、お医者さん以外初めての外出だもんね、ずっとお家だからそりゃ怖いよな。
「ごめんねー、急にお外連れ出したりしてさ。私も急に思いついたからだし、放っていくわけにもいかないしさ、あのお家にはいつ戻れるか――」
冷静に考えたら、今日明日の土日を挟んで明後日には帰ってないと駄目なんだけど、もう戻れないかも知れない……。というか、もう元には戻れない。
部屋の中に掛けてあったコートからスマホを取り出すと、何度もカンナから着信が入っていて、 LINEも数回あった。見なくても分かっていたから既読を付けないようにメッセージは通知画面以外は見なかった。死ぬほど私だって会いたいけど、でももうカンナには会えない。心の中でごめんなさいと言うしかない。後で手紙くらい書こうと思うけど……。
時間が経てば経つ程に、過去の記憶がクリアになってくる。思い出したくもないのに、どんどん思い出してしまう。……ほんとに酷かった。性犯罪を扱うことを特徴にした探偵社をやってきたから、色々と酷い事案にも遭遇しているし、それなりに対応出来るように様々な事例を海外も含めて研究的なこともしてきた。大学の桑田先生にも教えてもらった。
個々の事例はほんとに様々だし、単純な比較は出来ないけれど、もし仮に軽重で酷さを判定出来るとすれば、私の姉が経験した性犯罪被害は相当重い方に入るだろう。あの鬼畜のような男は、姉を本当に自分の性奴隷にした。姉だって、素直に従い続けたわけじゃないし、抵抗だって何度もした。だけどあいつはそれすらも楽しんだのだ。姉がアパートを逃げ出した時は、外で捕まえて、そのまま近くの公園のトイレに連れ込んで強姦した。せいぜいまだ小学生中学年程度の私を連れて、私の目の前で、である。
そんな事細かな記憶が、あれもこれもとどんどん頭の中で思い出され、再生されていく。何度も、何度も。宿泊している部屋の中であちこちうろついたり、窓際の椅子に座って、頭を掻きむしって、髪の毛を振り乱してしまうけど、どうにもならない。でも、私のもう一つの人格である慶一郎を呼び出す気にはならなかった。これは私が引き受けなければならない罰だから。
運ばれてきた夕食は、半分を食べるのがせいぜいで、それもビールで無理やり流し込んだ。結局、大半を後になって部屋のトイレで吐いた。でも、それでもまだ苦しみ足りないとさえ思った。もっともっと、私は苦しまなきゃならない。だからもっともっと、過去の記憶よ、甦れ、私を痛めつけろ――。
私は一人部屋の中で、敷かれた布団の上で横になった状態でのたうち回った。あいつが何度も姉にやったこと、それをほんとに当時私が目撃したままのその通りの映像が脳内で映写されていく。私は口に猿ぐつわされてベランダに一人立たされ、姉が犯されている光景を見ながら、やめてやめてと泣き叫ぶ。許してくれ許して下さいと懇願もする。地獄そのものだ。そして遂には――。
「海来? 何処にいるの?」
え? お姉ちゃん? その声に布団から身を起こしても、何処にもいないのに……。
「海来? ねぇ、海来? 何処?」
どこって……、私はここにいるよ? お姉ちゃんこそ何処なの?
「海来……、海来に会いたいよ」
だから、わたしはここにいるって! 姿を見せて!
「海来、あなたは何も悪くないから」
お姉ちゃん……、私、私が、……私が悪いんだよ!
「あなたは悪くない、私が守ってあげるからね」
違う! 違うよ! 私が、お姉ちゃんを守れなかったんだ……。
「海来……、あなたの後ろを見て」
え? 後ろ? 後ろって私の背中の方……、あっ! お姉ちゃん!
「来てあげたよ、さぁ、ほら、こっちへ」
お姉ちゃ……、あっ? 胸から血がいっぱい、溢れて……、痛くないの?
「痛いよ、痛い、痛い、……海来、何てことしてくれたの?」
私? 私は何も……、えっ? 私の手に真っ赤な血のついた包丁が……、私なの?
「そうよ、あなたがやったのよ。海来がお姉ちゃんを殺したの」
そんな……、いや、いや、いやあああああ!
「海来! 起きて! 起きなさい!」
「いや!いや!いや!」
「目を覚ましなさい! 夢から出てくるの! さぁ目を開けて!」
「いや……、え? 誰?」
「やっと目を覚ましたわね、海来」
そんな馬鹿な。どうしてカンナの顔が私の目の前にあるの? だってここは、熱海……、カンナがいる筈――。
「驚いてるようね。とにかく、起きなさい。ほらっ、起きて、これ飲んで」
と、カンナは布団の上に横たわっていた私の胴体を二の腕を掴んで持ち上げるようにして上半身を起こしてくれた。そしてグラスで渡された水を飲む。
「どう? 少しは落ち着いた?」
「う、うん。でも、どうしてここが?」
カンナは着ていた真っ白なフェイクファーのコートの内側からスマホを取り出して、その画面を私の目の前に晒した。
「探偵ごっこよ。優秀な探偵さん、ミスったわね」
「え? まさかGPS? カンナって私のスマホに追跡アプリ仕込んだの?」
「違うわよ、ほら、ドアの方見てご覧なさい」
私はカンナの言われる通り、カンナの背後にあるドアの方に視線をやった。
「なんで? なんでここに三島がいるわけ? それにあれは……、漆原も?」
ちょうど部屋の出入り口ドアのところに、廊下側に経ってドアの端から身体半分ずつ、左には三島、右には漆原が立ってこっちを見ていた。
「ということは……」
「やっと分かった? そうよ、三島くんに聞いてみたらすぐだったわ。社長はスマホ持ってるはずだから、うちのスマホなら日本全国何処にいたって場所はすぐわかるって」
あっちゃー。そっか、これは確かにしくじった。探せないようにスマホの設定弄るのをすっかり忘れてたなぁ。
「なに? 海来ったら罰悪そうな顔して? 見つけられて悔しがってんのか?」
「そ、そうじゃないけどさ。やっぱプロとしては」
「ったくもう、よりによって熱海とは、いったい何考えてんの?」
「……だって」
「まーた、そのタコみたいな膨れっ面。……まぁ、いいわ。見つけられたし。二人も入っておいでよ」と、カンナは三島と漆原を部屋に入らせた。
やたらでかい三島と漆原に、カンナだって大きいから、なんだか私は大人に囲まれた子供みたいだ。
「杏樹さん、大丈夫か?」
「社長、心配しましたよ?」
もう……、いいよ。どんな顔すればいいのかわかんないよ。ていうか……。
「三島は分かるとしても、なんで漆原がいるわけ?」
「たまたま例の業務請負契約書、作って事務所持っていったら、この二人が出ていくところに出くわしたのさ。そんで、俺もついてくって」
「ついてこなくたって――」
「海来! あんたのお悩みはこれでしょ?」
カンナが右手に持っているそれは……、捜査概要の資料?
「どうしてそれをカンナが持ってるわけ?」
「だって、海来のマンションに行くって言ったじゃん、あたし。それで部屋に入って、テーブルの上にそれがあったから何だろう? と思ってさ。申し訳ないなと思ったけど、読んじゃった」
「馬鹿! なんでそんな勝手なことを!」
と私はその資料をカンナから引っ手繰った。そしたらカンナが唐突に立ち上がって、目をカッと開いて、まるで赤鬼のような表情になった。
「馬鹿とは何だよ馬鹿とは! あんな急に泣いたりして、いきなり外国に行くとかいい出して、んで、いきなり行方不明になるし、心配して当然だろ! 聞いたよ、三島に。こんな資料簡単に手に入るようなものじゃないって。そしたら封筒も海来の部屋にあった。港西警察署って書いてあったわ。三島くんはそれでピンときた。もしかして、今やってる案件の相手がこの資料を海来に渡したんじゃないかって。んで、こんな過去の内容、そりゃショックなんじゃないかって。そうなんでしょ? そりゃ私らは他人だから、海来の過去なんて知らない。どれほどショックなのかもわからない。でもさ、これが海来の一番悪い癖だよ? どうして自分ひとりで何でもかんでも抱え込むの? 私だっているし、三島くんだって、漆原さんだってこうやって心配だってここまで来てくれる仲間なのよ? それを一人で苦しんだかなんだか知らないけど、熱海くんだりまで逃げてきたんでしょう? どうして私に言わないの? そんなに私が信用できないの? ねぇ。教えてよ。そんなに私に会いたくなかったの?」
私はもう、身体がガクガク震えて、三人もの大人に囲まれてるのに、恥ずかしげもなく、ボロボロ泣き始めていた。震えが止まらない――。
「だって、だって……、私だって……」
しばらく、私はそのまま、布団の上で座ったまんま、右腕と左腕を交互に使って目から流れる雫を拭い続けた。カンナはともかく、三島や漆原にまで見られながらも、そんなこと構う余裕もなかった。そして、その沈黙を破ったのは漆原だった。
「杏樹さん、俺さ、杏樹さんが好きだから、助けてあげたいと思ったんだ。だからさ、遠慮なく頼って欲しいんだよ。俺だって助けて欲しいこともあるかもだし、お互いにさ、助け合う仲になろうよ。ね? いいでしょ?」
「社長、っていうか海来先輩、僕は部下で一社員だけど、海来先輩がいなかったら何も出来ません。僕は漆原さんやカンナさんみたいに、純粋に好きってわけじゃないですけど、でも大切な存在なんです。僕も精一杯がんばりますから」
漆原……、三島……、私もう……、めっちゃくちゃ嬉しいよ。
「な? 海来、分かったろ? みんな仲間なの。困った時には助け合う。当たり前でしょ? それが仲間なのよ? 分かった? 返事しなさい」
「……うん」
「で、私は? 会いたくなかったの?」
「違う! 会いたかったの!」
そう言った後なのか前なのか、私は立ってるカンナの両足に飛びつくようにして抱きついた。カンナはゆっくりしゃがんで、私を抱きしめてくれた。洪水のように溢れる涙の向こうで、カンナが漆原と三島を手で部屋から出ていくように指示しているのは見逃さなかった――。
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