第三十八話 パンドラの箱

 ◇◇◇



〈……本件事案は、被疑者藤堂万寿夫が、妻藤堂亜希子の前夫であった安西重仁との実子である長女藤堂雛乃及び次女藤堂海来に対し、数年に渡る虐待の末に生じたものである。その詳細については後述する。事件は平成十年三月三日、概略、以下のようにして起こった〉


 その日は雪のちらつく寒い一日で、立て付けの悪いガラス窓がガタガタとうるさくなるほど強い風が吹いていたのを覚えている。長野オリンピックが終わってまだ十日程だったから、テレビのワイドショーに大活躍したスキー選手が出ていた。私は真っ昼間、その前に立たされていた。私というか海来というか――。


 いつ頃から始まったのかはよく覚えていない。でも、本当の父親と離婚してすぐ、義父の万寿夫と母が結婚して最初の頃はおもちゃを買ってくれたり、あちこち旅行して楽しい記憶もあったように思う。でもその事件の起きる三年か四年くらい前からおかしくなった。義父が経営者だった会社が倒産したからだと思う。


 最初は、普通の暴力だけだった。といっても、親が怒って平手で叩くレベルじゃない。万寿夫は怒るといきなりブチギレて本気で殴りつける、物を投げる、蹴飛ばすという、今にして思えば常軌を逸しているとしか思えないものだった。但し、それだけならただの乱暴者なのだろうけど、万寿夫が悪質なのは、そうした暴力の後、言葉巧みに家族を洗脳するのだ。


 ほとんどの場合大した理由なく怒る。例えば、万寿夫と家族みんなでどこかに楽しく出かけて、今日は楽しかったなと思って家に帰ってくると、突然怒り始める。覚えているのは、レストランに入る順番が万寿夫が一番ではなく、母が最初に入ったという理由で怒ったことだ。それまでみんな笑顔だったのに、自宅アパートに戻るなり、母を殴り倒した。そしてたったそれだけで何時間も母を正座させ、延々と説教するのだ。その上さらに必ず最後は、怒りすぎたと言って自分で謝り優しい態度を見せて、家族から反感を抱かせなくするのである。


 そんな暴力と洗脳の日々が続いた。そして母の仕事が忙しくなり、万寿夫はほとんど仕事をしないので家にばかりいる日が続くと、母のいない間に、いつの頃からかとうとう姉に性暴力をするようになった。万寿夫は姉に性教育をするとか何とか言っていたらしいけど、そんなのは小学生高学年の姉は最初から見抜いていたし、ただただ万寿夫が怖いのと、万寿夫の性暴力が私に向かないようにする姉の優しさで応じるしかなかったのだ。


 姉は、万寿夫に逆らうと酷いことになることを知っていたから、母にさえそれを黙っていた。もちろん万寿夫は口止めもしっかりしていた。だけど、ある頃から私が姉に酷いことをしていると知って、万寿夫に抗議すると、万寿夫は怒って私をベランダに出して窓に鍵を締め、私が反抗するからと言って、もっと酷いことをすると言い出し、とうとう、それまでさすがの万寿夫もしていなかったセックスそのものを姉にしたのだ。当時姉はまだ中学生になったばかりだった。


 私と海来の人格が分裂したと言うか、私が出来たと言うか、どう言えばいいのか自分でもわからないけど、多分その頃のような気がする。人格が分裂したなんて、診断を受けるまで全く思わなかったけど、いつ頃からかと言えばその頃だろう。幼い私は本当に馬鹿で、ドラえもんのぬいぐるみを抱いて、ずっとお願いしていた、助けて、助けて、と。でも、助かったと言えば助かったのかも知れない、多重人格という逃げ場を作ってくれたのかも知れないから。


 だから耐えられたのだと思うけど、万寿夫は私が悪いのだと言っては、それを口実に姉にセックスを繰り返し繰り返し強要するようになった。海来と別人格な私は多分、どこかにほんとに神様がいて、このあまりに残酷な仕打ちを耐えることが出来るように生み出されたのだと、思わざるを得ない気がするくらいだ。私は海来とは違って、どうしようもないのなら耐えるしかない、何れ過去のものとなると思う性格だから。


 だけど、何れにしても、海来にとってはあまりに残酷過ぎる。姉は「海来のせいじゃない」と私を宥め続けたけど、それが却って海来に罪の意識を蓄積させてしまう。姉は海来にあまりに優しすぎたから、そんな優しい姉に何も出来ない海来にとって、それがどれほどの苦痛だったか。その苦痛を感じない私ではあるけど、理性で十分理解できるものだった。


 母にも言ったことはあるのだけど、母が万寿夫に問い質したところで結局万寿夫の方が強くて狡猾だったので、言いくるめられてしまい母は万寿夫の性暴力を信じようとしなかった。でもそれは責められない。流石に性暴力以外の暴力的虐待は何度か児童相談所に発覚したけど、その都度、万寿夫が教育が行き過ぎたものだと反省したふりをするので、児童相談所職員ですらも騙されてしまう有様だったから。


 しかし、多重人格になってどうにか逃げ延びた私と海来でさえも、とうとう耐えられなくなる時が来てしまった。万寿夫は私を責めて姉とセックスすることに飽きてきて、その毒牙を私に向け始めたからだ。姉は何度も繰り返し万寿夫にそれだけは止めて欲しいと懇願していたけど、いずれその願いも破られるに違いないと、恐怖と絶望が襲うようになった。そして――。


〈……藤堂万寿夫が、長女藤堂雛乃に対して性行為している最中に、次女藤堂海来は刃渡り20センチの出刃包丁を用い藤堂万寿夫に近付いて刺そうとした。ところがそれに気付いた藤堂万寿夫はその出刃包丁を奪い取った。そしてすぐに藤堂万寿夫は次女藤堂海来の顔面を右拳で殴りつけて制圧した。その後、数十分に渡って藤堂万寿夫は次女藤堂海来、並びに長女藤堂雛乃に対し右行為について説教をし続け、遂には再び次女藤堂海来に同包丁を持たせたのである。そして藤堂万寿夫は次女藤堂海来に「雛乃の胸をその包丁で刺せ」と命令するに至ったのである。その動機については、藤堂万寿夫は、日頃から長女藤堂雛乃がこのまま成長すると、何れ藤堂万寿夫自身が告発される日が来ると恐れていたので殺意を抱くようになったものであると、藤堂万寿夫の自供等により推察される。にもかかわらず、藤堂万寿夫は自身では実行しようとしなかったのは、自身の殺害実行行為の罪を免れようとしたからに他ならず、犯罪行為の問われない年齢である次女藤堂海来に実行させようと考えたからである。このようにして、次女藤堂海来により長女藤堂雛乃の胸部に包丁が刺されたため、その切っ先が心臓に達し死亡するに至ったのである。藤堂万寿夫の長女、藤堂雛乃の胸部を包丁で刺した次女藤堂海来は……〉


 ◇◇◇


 知らないよ、そんな。私がお姉ちゃんを刺し殺した? あの男の命令に素直に従って? そんなわけあるはずない! あの優しくて私のために必死だったお姉ちゃんを私が……。


「慶一郎、これ、……、嘘でしょう?」

 ……そうだったらいいけど、記憶に嘘はつけないさ。海来と僕は取引して記憶は僕が受け持ったから、今はあまり海来は思い出さないと思うけど、何れ海来自身が思い出すと思うしね……

「そんな……、じゃぁここに書かれていることは事実だって言うの?」

 ……残念ながらね。細かい食い違いはある。あの男は「刺せ」だなんて言わなかったんだ。あいつは恐ろしく狡猾だから、殺人教唆でさえ免れようと考えたんだろうね。だから私というか、海来にそう言わせるようにうまく話を持っていったのさ。だけど大して違わない……

「だからって、あいつに私が従うなんて、お姉ちゃんを刺し殺すなんてあり得ない!」

 ……でも、事実なんだ。まずはそれをしっかり思い出さなきゃならない。知ってしまった以上は、海来自身が記憶を取り戻さないと……

「いやだ! そんなの絶対ない! ないったらない!」

 ……海来、もうそれしかないんだ……

「うるさい! 黙れ! もう引っ込め! しばらく私を一人にして!」

 ……分かった。でも僕は言ったよね? そこには書いてない真実があるって……

「いいから! 出てくるなって言ったろ! もう黙れ黙れ黙れ!」

 ……分かったよ……


 そんな馬鹿な話があるか。だって、母だったか誰だったか覚えてないけど、言ったじゃん、あの男がお姉ちゃんを刺したんだって。だから私は、義父を憎んで、そこから立ち直って、お姉ちゃんみたいな被害者を出さないようにって……。


 お姉ちゃんを助けられなかったから辛くて、何度も自殺しようとしたけど、それでも耐えて、お姉ちゃんの死を無駄にしちゃいけないって強く思って、今の仕事をしようって、頑張ってきたのに。


 それが、私がお姉ちゃんを殺した?


 そんな事絶対にあるはずない!


 ――でも、私、記憶が少しずつ……。


 いやだ! 思い出したくない! 駄目だ絶対そんなの! 嘘だよ! あり得ないってば!


 止めて……、お願いだから……。どうか、お願い……。


 誰か、私を……、助けて……。


 ――あの時、私は怖くて……。


 やめるんだ! 海来! 思い出すな! 記憶なんてないんだ! 慶一郎なんていない! 全部幻だ!


 こんな馬鹿なことって……。絶対にあってはならない。今の私が全部否定されてしまうじゃないか。


 ねぇ、お姉ちゃん……、違うんでしょう? ……私、じゃないよね?


 ――でも確か、私が血の着いた包丁を持って……。


「止めて! 記憶なんていらない! 嘘だそんなの!」



 その後、私は昔の記憶を思い出したくなくて、ワインボトルを二本も空けて泥酔して寝てしまったのだろう。起きたら、頭が割れるくらいにほんとに痛くて、ベッドから起き上がることが出来なかった。時間を見たら既に始業時間は過ぎていて、三島からLINEが入っていたので、午後から出社すると返事しておいた。


 自己否定は何度もした。会社って悩むことや辛いことが多い。前向きに生きてきたけど、逃げたくなることは何度もあった。だから、私はその度に逃げないことで強くなってきたと思い込んでいた。


 でもこれは地獄だ。私が姉を殺したのは間違いない。だって私自身の記憶にあるんだから。そんな事を今になって思い出すなんて。


 一体どうして、あの男は私の悪夢のような記憶を呼び覚まそうとしたんだ? 渡辺二瓶は悪魔だ――。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る