第三十七話 解離性同一性障害

「確か、もう出てこないって言ってなかったっけ?」

 ……当然だ。君はとてもめんどくさいし、言うことはなかなか聞いてくれないし、かと言って交代するもの嫌だし……

「そう、そんな感じだった。私の知っている慶一郎という人は、私をちっとも助けてくれない無価値な人間」

 ……だろ? 僕だって君から離れたかったさ。でも、それが無理だから、姿を消していただけだ……


 少しずつぼんやりとだけど思い出してきた。その姿の見えない頭の中にだけ話しかけてくる慶一郎には、中学生になるまでの二年程だと思うけど、随分悩まされたような気がする。私の頭の中に話しかけてくるのに、私は自分の頭の中で慶一郎には話しかけられないのだ。ちょうど今のように自分で声を出さなければいけなかった。だから、周りの人に変に見られたこともあったし……。


「だったら、ずっと姿を消してくれていればいいのに、何故?」

 ……姿を消すと言ったって、ただ黙って無視していただけさ。僕だって離れたいのにどうやっても君から離れられないから……

「そうね、それで昔は何度も喧嘩したよね?」

 ……大分と思い出してきたようだね。僕は君を忘れたことは一度もなかったけどさ、正直うんざりだったよ……


 あの頃はまだ私は思春期真っ盛りの年齢だったし、見えない人が頭に話しかけてくるようなことって、他の人にも普通にあるのかなぁ……、程度にしか思ってなかったけど、この年齢になるとこれが異常だと判断するくらいの分別はある。多分、これは精神病だ。


「分かったわ、私病院に行くから。そしたらあなたも消えると思うし」

 ……それは君の自由だけど、僕は既に知ってるよ。そもそもは君も知ってた筈なんだけど、君はあの頃酷かったからね。自分自身を受け入れられなかった……

「酷かった? ちょっと待ってよ、どうして私が知らないのに私のことをあなたの方がよく知っているような口ぶりなの?」

 ……ああ、またそれか……、まったく昔とちっとも変わらないね。少しは成長したのかと思ってたけど。いいかい? よく聞いて。君の身体は君だけのものじゃなく、僕のものでもあるからさ……

「分かってるわよ、要するにこれは人格分裂症、でしょう?」

 ……おや? 分かってるじゃん。そう、正確には多重人格障害や解離性同一障害と呼ばれているものだよ。だって、君はとっくの昔にそう診断されているんだから……


 精神病にはあまり知識はなかったので当てずっぽうを言っただけだった。正直自分が精神病などという自覚はないのだけど、もしそうならば、慶一郎という名の存在は単なる病状でしかなく、真面目に相手にすべきではないのかも知れないと思えてきた。要は病院へ行けばいいだけの話だ。


「とにかくさ、病院へ行けば分かる話じゃん」

 ……その必要はないよ。君は今手に持っている冊子の最後のページを見てご覧……


 えっ? 最後のページ?


「どうして最後のページなの? 私自身もまだ見ていないのに」

 ……僕はちらっと見えたよ。君がその冊子を封筒からテーブルに落とした時にね。とにかく最後のページを見て……


 そんなバカな、私にはそのページを見たという記憶はないのに。とにかく、慶一郎の言っていることが何なのかと、私はその捜査資料冊子の最後のページを開いた。……診断書? ……ええっ? そんな事って――。


「患者氏名は藤堂海来、年齢が十二歳で、……診断名が多重人格障害、って」

 ……分かったろう? もう十八年も前に、君は多重人格障害だとしっかり診断されてるのさ。ただ、そこにも併記して書いてあるとおり、心的外傷後ストレス障害、いわゆるPTSDの方が遥かに酷くて、当時の治療は主にPTSDのみについて行われたんだ。それくらい事件の後遺症は酷かったからね。君は覚えていないかも知れないけど、高校生になるまでずっと自殺未遂を何度も繰り返したくらいだから……


 記憶にないこともない。今はもう消え去ったけど、二十歳になるくらいまではずっとリスカ跡が残っていて、自殺未遂をしたからだという程度には知っていた。ただ、過去の酷い虐待のことと同様に、自分が自殺行為をしたということ自体を記憶していないだけだと。


「でもそんな……、私が多重人格障害だなんて、誰も教えてくれなかったわ?」

 ……当たり前さ。さっきも言ったとおりPTSD治療しかしなかったし、何より僕は自分が殺されるのが嫌だったからさ、医者を騙したんだ……

「騙したって……」

 ……僕は頭がいいからね、下手に治療でもされたら君じゃなくて僕が殺されると思ったんだよ。僕は男だから身体に合わないしさ。だから、僕は表に出た時は君のふりをした、つまり自然治癒したと医者に誤解させたんだよ。それで誰も多重人格を問題にしなかったわけだし、それを君にわざわざ教えるはずもなかったってこと……

「でもどうして、この診断書が捜査資料に付け加えられているの?」

 ……さぁ、さすがの僕でもそこまでは分からない。ただ、想像だけど、君も知っている通り、その事件は結局、懲役三年という軽い刑で決着した。しかし何も警察や検察は軽い刑で済ませようとしたわけじゃない。それが当時の法律の限界だったって事なんだけど、可能な限り重い処罰にしようと努力したんだ。それが、その診断書を付け加えた理由なのかも知れない。藤堂万寿夫が君にしたことはあまりにも残酷過ぎるものだったから……

「私に? だって裁かれたのはお姉ちゃんが殺されたことでしょう? 私も虐待を受けたけど、お姉ちゃんほど酷くはなかったわけだし」

 ……だけど、本当の事実はそうじゃない。そしてそのことが捜査資料には書かれているに違いない。そしてそれは、もう一人の君であるこの僕がしっかり今も覚えている真実に近いものだろう。そして君はそれを何も覚えていない……


 慶一郎は何を言っているんだ? 私が覚えていないのに、どうしてもう一人の私の人格であるという慶一郎が真実を知っている?


「ちょっと待って。あなたは私のもう一人の人格、ってややこしくてよくわからないけど、あなたが覚えていて私が覚えてないだなんて、わけがわからないわ。だってあなたは、私でもあるわけでしょう?」

 ……当時、僕と君が取引したからさ。嫌な記憶は全部僕が引き受ける代わりに、これから以降の生活は出来るだけ君だけでやって欲しいってさ……


 そうだ、思い出したぞ。だから私と慶一郎はしょっちゅう喧嘩したんだ。こいつ、あの頃とちっとも変わってない。


「慶一郎さぁ、何かっこつけてんのよ。二度と出てくんなって言ったのは私でしょう? あんたなんか必要ないって、私、言ってたじゃん。思い出したわよ?」

 ……うっ。どうしてそんなことだけは思い出すんだ? 嫌な女だな。でも結果的にそうなったじゃないか? 君は過去の記憶に苦しめられてないんだぞ?……

「ふざけないでよ。あ、そうだ、また思い出したわよ。あんたさぁ、あの児童養護施設で女の子に何した? 都合よく忘れたって言わせないわよ? ねぇ、何したの? 言ってみなさいよ。私が知らないとでも思ってんの?」

 ……い、いや、あれはその、だって俺、男だからさ、でも身体っつーか見た目は女だから……

「ったく、一緒に風呂に入った女の子を触りまくって、一緒に寝た時は抱きついてキスまでして、あんたねぇ、その後どうなったか知ってんの? あたし変態呼ばわりされて――」

 ……ごめんごめん、でももう昔の話だし。言われたとおり、ずっと出てこなかったじゃんか。流石にそれは許してくれよな……

「許すも許さないも、だから私は男が嫌いになったんだよ! あんたの責任だよ? まぁいいけどさ。とにかく、なんでいちいちまた出てくるわけ?」

 ……出てこないと、君が自殺しかねないからさ。もういまさら表には出たくはないけど、僕はまだ死にたくないんだよ……

「自殺? あたしが?」

 ……そうだよ。その捜査資料には君が知るべきじゃないことが書いてあると思う。でも、君の好奇心はもう止められないだろう。僕は表に出る方法を忘れちゃったし、君もそうだろうし。どうする? 海来……


 知るべきじゃない事って。たしかさっき慶一郎は本当の事実はあたしが知っていることとは違う、と言ったな。そもそも私は事件の事実をどうやって知ったんだろう? 確か、自分の母やカウンセラーの先生に――。そう言えば、ニュース記事のような報道には一切接したことはない。母も、自宅であの事件のニュースが流れた時にテレビのチャンネルを急に変えていたような記憶もある。ということはもしかして、嘘だったり隠したりされてたってこと? まさか、そんな――。


「そうね、慶一郎の言う通り、もう好奇心は止められないわ。でも、慶一郎は事実を私が知ってしまうと、そのショックに耐えられないかも知れないと、そう言いたいわけね?」

 ……そうだよ……

「じゃぁ、あなたには結局、何も出来ないじゃない。私を止めて、自分が表に出ることも出来ないわけだし」

 ……まぁ、そうなるね……

「ほんとに慶一郎って昔と変わらず約立たずね」

 ……約立たず、って程でもないよ。少しは役に立てると思ったから出てきたんだし……

「どういう意味?」

 ……事実を知ったからと言って、全ての真実を知ることにはならない。僕はその捜査資料に書いていないことも知っている。それを君に伝えることは出来る。多分、事実を知ったら君は僕が引き受けている過去の記憶を思い出してしまうと思うけど、全部を思い出せるとは限らない。もし一番大切な事を思い出せなかったら、それは僕が伝えることが出来るってわけさ。そしてそれが君を救うかも知れないし、僕も死ななくて済む……


 私は、両手に持っていた捜査資料を眺めながら、唇を噛み締めつつ、何度か唾をごくりと飲み込んだ。私は本当の事実を知らない。それはどうも確からしい。慶一郎は私と取引したと言ったけど、微かな記憶で、慶一郎とほんとに取引したような気もする。私が知るべきではない事実。でも――。


 私はさっき読みかけていた五ページ目を開いた。頭の中の慶一郎はそれに黙っていた。そしてすぐに、確かに私の知っている事実とは全く違う記述がそこにはあった。


〈藤堂万寿夫の長女、藤堂雛乃の胸部を包丁で刺した次女藤堂海来は――〉





注)本作品内で扱う解離性同一性障害の状態は、作者が空想したものであり、現実にこのような状態があるということではありません。

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