第三十六話 慶一郎

 ◇◇◇


 は、二十年くらい前に自分の中に引き込もった筈だった。彼女が思い出したくもないであろう忌まわしい記憶を一手に引き受けて、自分の中に眠りにつく、それでいいと思っていた。酷い思いをしたのは私ではないし、私は彼女よりはサバサバした性格で、過去のことは過去のことと切って捨てるべきだと思っているから、都合の良い話でもあった。


 私は彼女に同情はしない。自分だけが苦しみを抱いていると思うのは傲慢な考え方だと思うし、あなたよりももっと辛く苦しい思いをして行きている人はいくらだっている、とすら言いたい。だけど、強くない人だっているのも事実だし、私はそういう意味では強いから、その辛い過去くらいは無償で背負ってやってもいいかと。但し、人生の主役は私じゃなく彼女だと、取引を成立させてもらった。自堕落な方が私には合っていたし。


 それでも、最初のうちは私も活躍を迫られた。世間は大騒ぎだったからどうしたって気にしないで暮らすわけにも行かず、また長い間児童養護施設で暮らしたが為に自身を宿している身体に起こった出来事に対して、彼女を守るためにはどうしても表に出ざるを得なかった。彼女に死なれでもしたら私が困るし、実際に、彼女は頻繁に自傷行為をした。それは止めて欲しかったけど、彼女は私ではないからどうすることも出来ず、やむを得ず私が表に出ることも多かった。


 でも、母が施設から私を引き取って二人で暮らし始めると、そのうちに上手い具合に彼女自身からは辛い過去が消え去っていき、私の出る幕は殆どなくなった。もちろん自分たちで完璧にコントロール出来たわけでもないから、今現在もたまに私が表に出てしまうことはある。覚醒時にそれに気づく人はいなかったと思うけど、寝ている時は境界があやふやになってしまうのか、記憶が共有状態になってしまうことはよくあって、どうやらたまに彼女が悪夢として記憶を蘇らせているということは私も知っていた。ただ、幸運だったのは、彼女はもはや私のことすらも記憶にないということだった。


 何れにしても、彼女が自分の過去に苦しめられるのは、その程度のことに過ぎなかったろうし、自傷行為も数年もすればしなくなって、あれから約二十年、彼女を忌まわしい記憶で苦しめないという私の役割ももう必要となることはないだろうと。そんなわけで、死んではいなかったけど、ずっと眠っていたようなものだし、このまま、誰にも、彼女自身にすらも気付かれずに消えてしまってもいいとさえ思っていた。


 まさかそれが、こんな風に突然、私の出番が必要になるとは思いもよらなかった。しかも不幸なことに、今や彼女は自身の中にもう一人、私がいることさえ知らない。いくら彼女が、自らの仕事で酷い性犯罪的行為を扱っていたとしても、彼女自身が経験した忌まわしい記憶を引き受けることは大人になった今でも無理だ、彼女は彼女、子供の頃と何も変わっていやしない。だから、海来、その表紙を捲るなら、せめて、どうにかして私を呼び覚ませ――。



 ◇◇◇



『平成十年 東京都〇〇区◯◯町で発生した児童性的虐待による過失致死事件捜査概要』


 あまり積極的には思い出そうとしなかったこの事件。どうしてこんなものを、渡辺二瓶が私に……。警察の内部資料だし、部外秘の判も押してある。警察内部のデータベースで私の名前を検索すればこの事件がヒットするということまでは推測できるけど。でももうあれから約二十年か……。取り敢えず読んで――。


〈……海来? 私の話を聞いてるの?〉

「ああ、ごめんごめん。だから明日、きっちり二十万振り込んでおくから」

〈じゃぁ悪いけど、お願いね。おやすみなさい〉

「はいはい、おやすみ」


 これで後何ヶ月かは母と話さなくていいと思うと、取り敢えずホッとする。一旦、その警察捜査資料のコピー冊子をローテーブルの上に置いて、電話子機をカウンターキッチンのテーブル隅の充電台に置くと、キッチンに回ってお湯を沸かし、インスタントコーヒーをマグカップに作りながら、猫用の水飲み用の皿に蛇口から水を継ぎ足してキッチンの下に置く。すると、若造がすぐに水を飲みにやってきた。


 マグカップを一口啜って、ローテーブルに置き、ソファーに腰を落とす。そのローテーブルに置いてある捜査資料……。自分でもよくわからないのだけど、どうしても積極的に読もうという気が起きない。と言うよりも、自分自身の記憶はもうほとんどなかったけど、それとは別に、知識として事件のことは知っているわけだし。


 平成十年三月三日。私の四歳年上の姉、藤堂雛乃ひなのは、よりによって自分の名前でもある雛祭りのその日に死んだ。母、藤堂亜希子あきこの二番目の夫であり、姉と私の義理の父、藤堂万寿夫ますおによる繰り返される性的暴行に耐えかねた姉が、包丁を持ち出して万寿夫が性行為に及ぼうとした時にその包丁で刺そうとしたら揉み合いになり、逆にその包丁で姉が刺殺された、という事件だ。しかし、万寿夫には殺意は認められないことと、正当防衛を認めると無罪になり得ることから、過失致死傷罪で起訴され、高裁まで争われた。過失致死では懲役刑がなく罰金刑のみであったが、結果的には性的虐待、つまり強姦罪(現行法では強制性交罪)で懲役三年の有期刑となった。義父と母は勾留中に離婚が成立、その後は音信不通だ。当時は、あまりに罪が軽過ぎるということで、マスメディアを中心にかなり騒がれた事件でもあった。


 私も、性的暴行こそなかったが、義父と母に殴られたり蹴られたり、食事を取らせてもらえなかったり、ベランダに一日中立たされたりといった虐待は受けていた。母も義父にDVを受けており、母の子供への虐待は義父の洗脳に近かった。姉への暴行が酷く、体中に傷跡があり、私と一緒に何度も児童養護施設に一時預かりになっている。でも、姉はすごく私に優しかった。私への虐待で怪我をしたら治療をしてくれたのはいつも姉だったし、食事を取らせてもらえなかった時でも姉がご飯をこっそりわけてくれたし、しょっちゅう私をかばってくれた。今でも姉のあの優しい顔を忘れたことは一度もないし、月に一度は必ずお墓参りに行っている。


 ただ、実のところを言えば、姉が私にすごく優しかったという以外は、思い出す姉の顔も亡くなった後に見た写真の記憶だったし、私が受けた虐待暴行にしても、後で聞かされた内容に基づくものばかりで、自分自身の記憶には微かにしか残っていない。当時、私を担当した医師によれば、酷い虐待を受けた子供の中には、虐待時の記憶をなくしてしまう人がいるのも珍しくないそうで、私もそうらしい。


 私が母を嫌いなのは、そもそもはそんな酷い義父と結婚したことが大きい。実父の安西重仁と離婚したのは私が五歳の時、母が義父と不倫したからだ。尤もその不倫の要因となったのは、実父の方が先に不倫していたからなのだけど、その不倫はともかくとして、仕事ばかりで家にあまり帰らない人だった。母と実父は結婚後すぐに仲が悪くなって喧嘩ばかりしていたらしいけど、そんな事は子供には関係のない話。実父は私が児童養護施設から母の元に戻ってすぐ、家に来て私の前で土下座して詫びた、父が助けていたらこんな事にならなかったって。だけど、私にしてみれば、父は母と離婚して子供を捨てたも同然だったから、そんな父に助けて欲しいなんて思ったはずはない。だから、土下座した父の気持ちは全くわからなかった。それでも、大学卒業まで生活費や学費を援助して貰って今では感謝している。


 ――その事件資料を手に取って一ページも捲らないまま、そんな事を連々と考えていたら、いつの間にかコーヒーは冷めていた。渡辺がこの資料を私に渡した意味がさっぱりわからないけど、取り敢えず、読んでみるかと、表紙を捲ったところで、突然目眩がした。


 ……読むな……


 頭の中にそんな声が何処からともなく響く。いったい、どうしたんだ? 私は。聞いたことのあるような、それでいて全然知らない人の声。幻聴? ふと、点けっぱなしにしていたテレビが視界に。……テレビだな。集中出来ないからテレビを消す。ともかくその一ページ目は、『本件事案の現認日時』から始まって、場所や被疑者、被害者等の氏名・性別・年齢等々の情報がズラッと手書きで縦書きに記載されている。それらの情報は当然、私自身が知っていることばかりだし、警察関係者以外の登場人物も全て家族、唯一、通報者が当時済んでいたアパートの隣人だということを知らなかったくらいだ。


 そして、事件概要事実を文章で記載している五ページ目を見ようとしたら……。


 ……そこから先は駄目だ! 絶対に読んじゃ駄目!……


 あまりにもクリアに脳内に響く声。それは確実に男の声だ。どうなっているんだ? この部屋に誰かいるのか? まさかと思って辺りを見渡すも、誰がいる筈もない。念の為と思って、ソファーから立って玄関のドアのロックを調べ、ベランダに通じる窓も調べ、その外も確認、部屋に戻って寝室やトイレまで見たけど、私と若造以外の生き物がいるわけはなかった。


 仕事で疲れて、あるいは仲西麗華の案件にあまりに悩みすぎたのか、体調でもおかしいのだろうか? もう一度、ソファーに座り直して耳を澄ませるも、部屋の外から響いてくる近くの道路の交通騒音くらいしか聞こえない。やっぱ、体調なのかな……。よしっ、次のページを――。


 ……俺の言うことを聞くんだ! 君は真実を知るべきじゃないんだから……


 もはや疑いの余地なく、明瞭に私に話しかける男の声だ。テレパシーなんか信じないけど、そうとでも考える他はない。


「誰? 一体あなた誰なの?」

 ……慶一郎けいいちろうだよ。思い出すのは大変かもしれないけど、よく思い出してごらん……

「慶一郎? そんな人は知らないわ」

 ……いや、君は知っている。ただすっかり忘れてしまっただけなんだ。僕だって君に忘れられていたかったけど、それは絶対に君が見てはいけないものだ。でもどうしても読むのなら、僕の助けが必要なんだ……

「言っていることがさっぱりわからない」

 ……いいから、黙って何回か深呼吸して、よく思い出してごらん。さぁ……

「思い出せって……」

 ……ほら、深呼吸くらい出来るだろ?……


 仕方なく、ソファーに座ったまま、その慶一郎という男の声に従って私は三回、背筋を伸ばしてからゆっくり深呼吸した。そして、じっくりと頭の中の記憶を辿る。


 ……どう? なにか思い出したかい?……


 慶一郎、懐かしいその名前は確かに記憶の隅に残っていた――。

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