第三十五話 探偵と警察

 一瞬だけど、そのオールバックスタイルの髪型が、バーテンダーの男性と似ていたので見間違えたかと思ったが、薄いグレーに見えるカラーレンズメガネの奥、鋭い切れ長の眼光は、港西警察署で見た時のあの渡辺二瓶に間違いなかった。


「藤堂さん、隣に座らせていただいても構いませんかね?」


 私はまるで、飼い猫の若造が知らない人が部屋に入ってきた時のように、渡辺を見てただ警戒心を抱いて固まっているだけ。体毛があったら全身逆だっているかも知れなかった。そんな私に構わず、渡辺は右隣りのカウンター席に座った。


「君、すまないがもう一杯」と、渡辺がバーテンダーにウィスキーを注がせた。


「……あの、どちら様ですか?」


 知っていてもそう恍けるしかない。できるだけ表情も平静に、今初めて会ったかのようにしなくては――。渡辺はそのグラスを手に、一口軽く飲んでから、私に目線を合わせ口角を少し引き上げた。


「あれ? 私を知らないはずはないでしょう? 藤堂海来探偵社の社長さん」


 と言われても素直にうんとは言えない。私の事が渡辺に知られているのは分かるが、渡辺は、私が渡辺を知っている、ということは知らない筈。渡辺のことを知ったのは仲西麗華から聞いたからだし、港西警察署の玄関前で渡辺を見たのだって、あんなに遠くからじゃ渡辺に気付かれているわけもない。


「いえ、全く存じておりませんけど? 何処かでお会いしましたっけ?」

「そうですね……、確かにこうしてお会いするのは初めてだが、さっき私が藤堂さんを呼びかけた時の表情、あなたは目を丸くされておられたように見えましたが?」


 ……しまった。だって、バーのカウンター席にまさか渡辺二瓶がいるだなんて、予想など出来ようはずもない。恍けるしかない、が、渡辺二瓶の表情はどう見ても余裕たっぷりだ。


「いえ、ここで誰かに声を掛けられるだなんて初めてだったもので。もう一度お伺いしますが、あなたのお名前は?」


 しかし、渡辺の口角は相変わらず上がっている。


「……まぁいいでしょう。港西警察署の警察官、渡辺二瓶です。誤解なさらないで下さいね、今は勤務外ですからね」

「はぁ……、その渡辺さんが私に何か?」

「ええ、実はこれをお返ししようと――」


 そう言って、渡辺は着ているスーツのポケットからゴソゴソと何かを取り出して、テーブルの上に置いた。


「それは?」

「漆原麟太郎さんの財布とスマホですよ」


 えっ? ……確かに、財布はともかく、そのスマホのケースは見たことがあり、多分間違いなく漆原のものだ。監禁時に奪われたものだろう。しかしそれを渡辺が私に見せるということは、渡辺が漆原の拉致監禁に関係していると私に証明するようなものじゃないか? 一体どういうつもりだ?


「どうしました? それは藤堂さんもよくご存知のはずの、漆原さんのものでしょう?」

「……いや、あの、これをどこで?」


 これが精一杯の私の恍け……。渡辺の考えがさっぱり分からない。


「……ふふふ。あなたは正直な方ですね」

「えっ?」

「さっき私は自分を警察官と名乗りましたよ? 警察は遺失物を取り扱いますからね。まぁ普通は、警察に引き取りに来てもらうんですが」


 あっ、しまった。やられた――。そうか、私自身が漆原の監禁に渡辺が関わっていると知っている、ということを認めさせるための誘導尋問だったのか。くそっ。


「いいんですよ、別に。私も探偵さんを舐めてるわけじゃありません。ただ、こちらも一応警察官の端くれです。舐めないで頂きたい。あなた方が一体何を嗅ぎ回っておられるのか、そんな事はわかってますよ。ともかく、これはそちらにお渡しします」


 と言って、渡辺はテーブルの上に置いた財布とスマホを、私の前までぐいっと押し出した。私はそれを受け取らざるを得なかった。しかし、渡辺、何という度胸だ、要するに自分が売春組織という悪事を働いていることを暗に認めているのだ。渡辺らに売春させられている仲西麗華を尾行し、仲西麗華の売春相手だった村川太郎を尾行したのを、渡辺は知っていると、そう言っているわけなんだから。


「藤堂さん、あなたも私もそんなに歳は違わない。それに探偵と警察もやってることは似たようなものだ。探偵が浮気している人間の心理を読んでその証拠を掴むのと同様に、我々警察は犯罪者の心理を読んで犯罪者を逮捕する。そこまではそんなに違わない。だから、ある意味似た者同士だし、我々警察用語で言う捜査のプロだから、事実や真相を暴く力にそんなに差はないと思いますよ。というよりも、あなた方の行動は大したものだ。しかしですね、探偵と警察では決定的に異なる部分がある、それはなんだかおわかりですか?」


 そう言うと、漆原はスーツの内ポケットからタバコとライターを取り出して、タバコに火をつけた。


「……ああ、申し訳ない。藤堂さんに一言断るべきでしたね。普段は吸わないのですが、バーのようなところに来ると癖でね」

「いえ、別に……、何が仰っしゃりたいのかよくわかりませんので」

「そうですね、あらゆる質問には意図がありますからね。例えば、警察と探偵の違いは公務員かそうでないか、だったり、仕事の領域がまるで違う、なんてのも正解といえば正解ですしね。しかし私の質問意図はそうじゃない。あなたには出来ないが私には出来ることがあるって話ですよ。あなたになくて私にあるもの――、おわかりですね?」


 ああ、そんな事はわかってる。お前らは圧倒的に強い。


「ですからね、無駄なんです。無駄なことはお止めになった方がいい。そうは思われませんか?」


 渡辺は半分も吸っていないタバコを灰皿で潰すと、ウィスキーグラスをすべて飲み干し、椅子から立ち上がった。


「今日は楽しいお話が出来ましたね。では、失礼します」


 依然として口角をいやらしく上げた表情のまま、渡辺は私に軽く一礼し、そのまま店の出入り口まで歩き、店員に精算してコートと鞄を受け取ると、こちらに再び振り向いてそのまま戻ってきた。


「すみませんね、これもお渡ししないと。では」と、私のいたテーブルの上に大型封筒を無造作に置くと、渡辺は足早に店を出ていった。


「はぁーっ」と大きな溜息が思わず出る。それが聞こえたのかバーテンダーが私を一瞥した。


 渡辺がいなくなって張り詰めていた緊張の糸が切れたような感覚。ふと膝の上に置いていた自分の左手を見ると、握ったままの拳が震えている。知らなかった、私が怖がっていたなんて……。あの眼鏡の奥からこちらを見据える鋭い眼光はずっと変わらなかったし、余裕たっぷりのあの口元。いつもならそんな上から目線の相手は心の中で馬鹿にしてきたのに、それが全く出来なかった。あんな相手は初めてだ。


 それに、この店で渡辺に声を掛けられるまで全く気付かなかった。事務所からか、それとも最寄り駅からか、ここに私が来ることは予想出来たわけはないのだから尾行してきたに違いないのだけど、プロの探偵の私に尾行を全く気付かせないなんて……。


 しかし、一体どうして、渡辺が私のところに直接……。多分、脅しに来たのだろう、チョロチョロ嗅ぎ回るのをやめろ、と。確かに、奴らは既に二回も、家宅捜索に漆原の拉致監禁と、実力行使に出ている。こちらの存在も当然知られてしまった。渡辺らがやろうと思えば、私の会社のような貧乏会社、捻り潰すくらいわけないだろう。もう一度家宅捜索して、次は適当に証拠を捏造してしまえば、最大で半年間営業停止。貧乏会社だからそれで一巻の終わり。警察は法を自在に行使できる権力を持つのだ。私達にそんな力はない――。でも。


 仲西麗華は、三年もの間に渡って、強制的に売春行為をさせられ、一人の極悪な性犯罪者としか思えない男に無理やり妊娠までさせられて苦しんでいる。他にも大勢の同様な被害者がいるに違いない、そんな事案が目の前にぶら下がっていて、ある程度の事実も掴みかけてきたのに、それを諦めるなんて私にはとても出来ない。証拠さえ掴めば……。


 ふとスマホを見ると、カンナからのメッセージ。


〈明日、日本に帰るけど、夜会える?〉


 カンナ……、私、一体どうすれば。でもカンナは多分、私が絶対に諦めないことを知っているから、自分を信じて行動しなさいと言うに決まってる。私にはそれしか出来ない。私は漫画や小説の名探偵などではなく、猪突猛進で行動する、それしか脳のない一人のごく平凡な人間に過ぎない。でもほんとにそれでいいのか……。


〈うん、会えるよ。空港についたらメッセージ頂戴〉


 そう返事をすると、私は席を立って、店の出入り口付近のレジで精算しようとしたら……。


「お客様、これお忘れではありませんか?」


 と、カウンターにいたバーテンダーが声を掛けた。それはさっき、渡辺が帰りがけに私にと、置いていった大型封筒だった。その封筒を受け取って、中身が気になったものの、その場で中身を見ようとは思わず、そのまま自分のバッグに入れて店を後にした――。



 途中のファミレスで一人、夕食を取り、自宅に戻ったのは十時過ぎ。いつものように玄関で出迎えてくれた若造を抱き上げてそのまま逃げられ、リビングに入ってバッグから渡辺が私に渡した大型封筒を後で見ようとソファーの前のローテーブルに投げ、パジャマに着替えていたら、自宅の電話が鳴った。着信表示をみると母からだと知り、出たくないなぁと……。


「はい、私」

〈海来、元気にしてる?〉


 半年ぶりの電話だからなぁ。母さんって今年何歳だっけ? どうでもいいけど。


「普通よ。母さんは?」

〈最近、腰痛が酷くてね。それに時々不整脈もあるらしくって――〉


 と、最初の挨拶だけで私のことなどちっとも心配などしていないのだ。で、毎度の如く、自分のことばかりべらべら十分以上喋る。さっさと言いたいことあれば言えばいいのにと思うのだけど、こっちがきつく言うといつも不機嫌になるからほんとに母さんは扱いづらい。どーせ、金の無心に決まってるのに。


〈――それでね、クレジットカードの決済日間違えちゃってて、今月だけ足りなくなっちゃったのよ。二十万程融通してもらえないかな?〉


 ったく、自分の娘のことを何だと思ってるんだろう? 前に一度、お金貸すのを渋ったら、散々「お前を苦労して女手一人で育てたのは誰だと思ってるんだ?」と文句タラタラだったから、貸さないとまた言われるんだろうけど。あんたが新しい旦那さんにお金で信用されてないから財布渡してもらえないんだよ。ほんといい加減にして欲しい。いっつも金返せって、私、母さんの旦那さんに頭下げてお願いしてんのよ? ったくもう……。


「分かったよ。そっちの口座に明日振り込んどくからさ」

〈ありがとう、いつも助かるわ。あたしってホント歳食ってすぐ忘れちゃうから……〉


 母さんとの電話がバカバカしくなって、電話子機を顎と首に挟むと、ローテーブルの上に置いていた渡辺から貰った封筒の底を持って、バサッと中の資料をローテーブルの上に落とした。その表紙に書かれたタイトルに、私の目は一瞬で釘付けになった。


『平成十年 東京都〇〇区◯◯町で発生した児童性的虐待による過失致死事件捜査概要』


 これって、まさか、私の――。



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