第二十三話 スーパーリアリズム
妊娠届出書ってなんだ? 知識がないのでよくわかんないけど、妊娠した事実をどこかに提出する用紙なのかな? ともあれそれは後でググって調べるとして、あの二人何を話してるのかもさっぱりわからないし、そもそも男の顔もまるで見えない。ともかくも、探偵の基本、スマホで写真を撮ることにした。当然無音シャッターカメラのアプリで。後ろ向きでしか撮れないし、目立たないようにしないといけないので、きちっと撮れてるかどうかもよくわからないが、何枚も撮った。
「お客様、そろそろ閉店時間なので申し訳ありませんがー」と、店員が告げた。
客は私とあの二人しかいないけど、先に出るか後で出るか……、お金払うにはレジのあるカウンターに向かないといけないから、あの二人が出るのを待ってからにするか。帽子とメガネとマスクで顔隠して、背中向けて地味に存在感消しておけば何とかなる。存在感消すのはプロだからな……。
そして夜9時ちょうど、男の方が支払って、二人共店を出ていった。多分気付かれていないだろう。その二人の後を尾行するために私も急いで支払いを済ませて、店を出る。二人は、地下街をまっすぐ駅の方へ歩くと、地上に上がって駅前ロータリーからタクシーに乗った。私も当然、別のタクシーでそれを追うように指示。タクシー運転手が上手い具合に探偵による尾行経験者で、見失うことなく目的地まで尾行することが出来た。
そこは郊外のホテル街。二人はその中の一軒のホテルに入っていった。やはり、今日は売春行為の日だったわけか。組織的にやっていると思われる売春だから、そのまま張り込みをすれば見つかる危険性もあると判断し、その日は退散することにした。万が一見つかればそれでお終いである。仲西麗華をすぐにでも救ってやりたいが、こればかりは慎重に行動せざるを得ない。彼女はあのホテルで望みもしない相手と、と思うと、ほんとに後ろ髪惹かれる気分になり、自己嫌悪にすら陥りそうだったが――。
そのホテル街からほど近い駅から電車に乗る。時刻は午後九時五十分。ガラガラの電車の中で、気になっていた妊娠届出書についてスマホで調べると、やはり推定したとおり、妊娠の事実がわかった時に母子手帳や妊婦健診などのサービスを受けるためにその妊娠の事実を自治体へ届け出る用紙だった。一体その用紙をあの二人がどう使うのかはよくわからないけど、今日の売春相手に彼女がそれを見せていたという事実は、あの男が彼女を妊娠させた可能性が高いということか……。
まったく、ほんとに吐き気がする話だが、要するに男性が女性とセックスする時に、避妊をしたがらず、いわゆる中出しをする男性がかなりいるのだけども、それをさらに超えて、実際に意図して妊娠までさせてしまうという性癖、あるいは犯罪がある。私はそれを大学時代の恩師である桑田教授の仕事を手伝うことで知った。実際に「孕ませる」という性癖についてはググれば簡単に出てくるし、それを特に非難もせず推奨にすら見える書き方をしているサイトすらある。創作物の中ならまだしも、だ。
他、犯罪的な実例としては、例えば自身の子供と近親相姦して子供を産ませる例や、海外では多くの女性を誘拐して、それらの女性を強姦、あるいは強制的に売春させ、妊娠させて生まれた子供を売り飛ばすなどという筆舌に尽くしがたい残酷な犯罪を行う組織まであるらしい。
性犯罪には厳密に言えば、法律上の定義に依って裁かれるもの以外にはなく、無理やり妊娠させてしまう行為を裁く法律はない。しかし、他の性犯罪行為とは次元が違って、望まない妊娠を無理やりさせるだなんて、あまりに異常過ぎる上に、被害者の身体的・心理的被害は計り知れない。強制売春でそこまで異常な性癖に応じさせるだなんて信じ難いのではあるけれど。
但し、仲西麗華の場合は、可能性としては少ないものの、まだ本人同士の合意の上での妊娠という可能性もないこともないので、そこはどうにかして確かめなければならないが、もし中絶が必要と判断されるならば、せめて中絶可能な期間内でどうにかしてやらないと、あまりに悲惨だ。でも一体どうすれば?
仲西麗華自身にやはり直接聞くべきだろうか? しかし、聞けたとしても、妊娠自体も脅迫を受けていて、彼女がそれを拒否できないとするならば、聞けたとしても意味がない。打つ手が無いと知れば、絶望感をさらに増すかもしれない。ならば、事件そのものの解決を一刻も早く進めるべきなのであろうけど、それもまだ未知数。だからといって、手をこまねいていては、中絶可能な期間の問題がある。従って、どうにかして妊娠の問題だけでも一刻も早くなんとかしないといけない。――しかし、これでは八方塞がりだ。
延々と考え続けていたら、二回の乗換駅共に乗り過ごしてしまった。自宅に帰ったのは日付が変わる直前だった。そう言えば、夕食を取っていなかったなと自宅に帰って気付いた。いつもなら途中のスーパーかコンビニで買ってくるのに、まるで気が付かなかったなぁ……。何かなかったかなと冷蔵庫を開けると、八分の一になったキャベツと、ピーマンが一個、玉ねぎが半分だけあったので、適当に切って塩コショウとごま油で炒める。肉が欲しかったがないものはしょうがない。それをオカズにジップロックで保存していたご飯を電子レンジで温め、ミャーミャー鳴いてうるさく私のそばから離れない飼い猫の若造に缶詰の餌を与えて、一緒に夜食する。
一体どうすれば――。そればかり考えて箸が進まない。野菜炒めを四分の一、ご飯を半分残して、テーブルに頬杖付いて全く頭に入りもしないのにテレビをボケーっと見ていたら、傍に置いていたiPadのFaceTimeへカンナから着信。
〈今日はかなりお疲れのようね〉
「うん、今、こっちじゃ夜中十二時過ぎなんだけど、さっき帰ったばかりでさ、今ご飯食べてんの。そっちは何時なの?」
〈夕方五時半よ〉
「あれ? なんか時間差がこの前と違わない?」
〈昨日からパリに来てるからさ。どう? この髪型?〉
「あ、そうだね。カンナ、ベリベリショートになってるね」
〈……ねぇねぇ、ほんとにどうしたの?〉
どうしたの、って言われてもさぁ、カンナの髪型の変化に気付かないくらい悩んじゃってるんだけどね。でもなぁ、カンナに相談したところで何の解決方法が出るわけもないし……。
「あたしってば、ほんとにビジネスはビジネスって割り切れないのが良くないね」
〈それって、ちょっと前にあの魔女の宅急便の店で私が言ったことじゃん〉
だからね、カンナ、それはイタリアじゃなくてスウェーデンのゴットランド島ヴィスビーってところなんだよ。あたしあの後ちょい詳しく調べたんだ。でもなんだかそれを聞いて、私は少しクスッと笑ってしまった。
〈笑える元気は残ってるみたいだね。安心したわ。あんまり考え込まない方がいいんじゃない? 仕事のことなら明日、三島くんに相談してみるとかさ。海来は自分で抱え込むことが多いから〉
「それはそうなんだけどさ……、ってあれ? 今気がついたけど、カンナ髪型変えたって……、なんか元に戻ってない?」
〈気がつくの遅すぎ。さっきのは絵だよ〉
「あっ、そうだったんだ。へー、もっかい見せて」
〈いいよ〉
カンナはそう言うと、かなり大きなキャンバスに描かれた、ショートカットになったカンナの顔がそこにあった。ほんとにボケっとしていて、iPadの画面に見えていた、その絵と実物が変わったのに気付かないほどだったのだけど、それにしても超リアルな絵だな……。
「それはやっぱりパリのどっかで描いてもらったわけ? めちゃくちゃリアルなんだけど」
〈うん、パリに写真みたいにリアルに絵を書く人がいてね、スーパーリアリズムって呼ばれる分野だそうだけど。それでちょっと私も描いてもらおうかなと思ってさ、スペインにいる時に私の写真を撮ってその人に送ってお願いしておいたんだ。それでね、パリでモデルのオーディション受けようと思ってて、それならいっそイメージ変えて髪型だけショートに描けないかって。応募資料に今の私の写真とイメージ違うのもあったら印象も変わるかなと思ってさ。そしたらそういう風に描いてもらえたってわけ〉
「へー、なるほど。上手いこと考えたわね。それなら髪を切らなくっても済むってわけね」
〈うん、いまどき写真でも髪型くらい加工すれば出来るんだろうけど、自画像が欲しかったし〉
「そうなんだ。髪型を変えずに……、あっ!」
そうか! そんな方法があったんだ! それならなんとかなるかもしれない。
〈何々? 海来も自画像欲しいの?〉
「あー、ううん別に。でもそれ、仕事の凄いヒントになった!」
〈そうなの? よくわかんないけど、海来の表情が変わったね。私いいこと言ったのかな?〉
「うん、めちゃくちゃいいこと言った! やっぱカンナ大好き!」
私は嬉しくて、カンナの顔がでかでかと写っているそのiPadの画面に勢い、ブチュっとやってしまった。
〈こらっ、またその意味不明なキスをする! こっちは海来のおでこでカメラ塞がれて真っ暗なだけなんだぞ〉
「うふふ、ごめんごめん。じゃぁカメラに」
〈そっちのほうがもっとキモいからやめて。じゃぁ海来元気になったみたいだし、悩まずに眠れるかな?〉
「うん、大丈夫。じゃぁ、カンナもお出かけみたいだし、私は寝るね。おやすみなさい」
〈おやすみー〉
やっぱカンナは、私にとって大切な存在だなー。カンナと話してるだけで、私は生き生きしてくる。カンナもそうだったらいいのにな。……おっと、ご飯残さず食べなきゃ――。
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