第160話 信念に対するは覚悟のみ



 ビショップ博物館。

 歴史や科学などを扱い展示する、アメリカ合衆国国家歴史登録財にも登録されている施設。

 オアフ島観光名所の一つでもあるこの博物館が見える道路の真ん中。


 凍雲の前には彼と対峙する三人の姿があった。

 

 一人はジャック。

 権力者を憎み、十四名の政治家、そしてその護衛ら関係者総勢二〇一名を殺害した殺人鬼。

 自然格:霧の紋章の使い手であり、紋章の拡大解釈によって霧に包まれた者の記憶にさえ干渉し、目撃者のエピソード記憶や監視カメラの映像記録に霧をかけることで犯行を隠蔽し、長らく正体を掴ませずいた曲者だ。


 もう一人は釘咲くぎさき慎護しんご

 紋章覚醒の折、偉人格:ヴラド三世の吸血鬼としての側面であるドラクリア公に精神を乗っ取られたことで、二四五245名もの一般市民を吸血してグールと呼ばれる怪物へと変異させた怪人だ。


 最後の一人は氷室七夜ひむろななや

 自然格:氷の紋章者であり、中学一年生であった当時、超克を用いない一切の攻撃を受け流す自然格特有の全能性に飲まれた結果、能力の試運転と称して学校内にいた教員生徒含めた総員四三一431名を殺害した凶悪な少年犯罪者。

 現在は高校生程度にまで成長しており、彼に秘められた類稀なる才能は獄中のイメージトレーニングのみで超克の体得を可能とさせた。

 

 いずれも脱獄囚であり、全員が懸賞金一〇億を越えるレート6最上位に位置する猛者だ。


 

 しかし、そんな彼らでも相手にさえならなかった。

 凍雲の身には傷一つ見当たらず、眼前の彼らは物言わぬ氷像へと変えられていた。


 記憶にさえ干渉する霧の紋章者であろうが。

 不死の肉体を持つ吸血鬼であろうが。

 氷そのものである氷の紋章者であろうが関係ない。

 

 レート6最上位程度の紋章者など、本来彼の相手にはならないのだから。



 凍雲冬真という男は過去、ザンドに敗北してからこれまで全霊で戦えたことなど、蘆屋道満をおいて他にいない。

 

 故に、彼があの敗北を乗り越えて積み重ねてきた研鑽の成果が世に出る機会はこれまでなかった。

 

 故に、彼は蘆屋道満との戦いを鑑みて、暫定でレート7上位クラス相当の実力者であると認知されていた。


 しかし、それは誤った評価であった。

 

 彼は確かに蘆屋道満との戦闘では全霊を賭して戦った。

 その実力の全てを発揮した。

 けれど、その真価はあの時あの場所に意識を保って存在していた蘆屋道満と八神紫姫以外にいない。

 

 凍雲がその真価を発揮した瞬間、周囲の空間全てが凍結し、光さえ凍結してしまったが故に方舟の観測でさえ、途中で映像が途切れ、戦いが終わるその瞬間まで記録を残すことは叶わなかったのだ。


 故に、蘆屋道満との凍結された時空間で繰り広げた激闘を適切に評価するするならば、彼の真の実力は特務課班長クラス、レート7でも最上位に位置する領域へと届きつつある。


「これで脱獄囚の捕縛は残すところレイモンドと……ヤツのみか」


 ザンド。

 かつての相棒であり、師であり、友でもあった因縁の敵。

 その実力は先の事件で戦った蘆屋道満にさえ匹敵するかもしれないほどだ。


「……だが、ことは最早それだけに留まらない……か」


 ザンドは己が正義に基づいて悪を誅罰するが、それは脱獄囚のような明確な犯罪者だけではない。

 誹謗中傷を繰り返す者、他者を慮らず驕り昂り傷つける者、己を正義と信じて多数で少数を虐げる者。

 そういった罰することが難しい民間に潜む悪にさえその牙を剥く。

 法に反してなくとも誅罰する以上、民間に被害が出ぬとは言いきれないのだ。


 だが、凍雲の眼前にはそれと匹敵し得るほどの脅威が生まれていた。


 それは、ドス黒い靄であった。

 世界を侵食するかのような闇。

 ソロモンが世界中に魔神を解き放って監視と封印を繰り返していた世界を蝕む謎の現象。

 

 しかし、眼前のそれは報告で見聞きしたものとは少し異なった。


 報告ではそれの見た目は空間に滲み出す黒い靄。

 性質は以下の通り。

 ①触れた者の精神を乱してトラウマを引きずり出す。疑心暗鬼に陥れる。他人に悪感情を抱きやすくなるという諸症状を引き起こす。

 ②触れた感触はなく、質量もエネルギー反応も検知できなかった。

 ③物理的作用では変化は見られないが、概念的作用であれば干渉は可能。

 しかし、弾くことはできても、打ち消すといったことは意味をなさない。

 ⑤打ち消した場合、およそ三秒後に滲み出すようにまた同量、同規模の黒い靄が現れる。


 といったものだった。


 けれど、眼前に生まれたその闇は黒い靄から光の一切を吸収する漆黒の穴へと変貌し、そこからタールのような黒泥を吐き出し始めたのだ。


「…………(これが班長の報告にあった怪奇現象か。……いや、コレは自然現象の類ではない。その性質は、呪詛に近いものか……?)」


 凍雲は黒い穴から放出される黒泥を即座に凍結させた後、それから発せられていたエネルギーからその正体について考察する。

 

 そんな時だ。

 どこからともなく脳内に言葉が響いてきた。


『凍雲さん! 早くその黒泥を凍らせて……ってもう凍ってますね。ごめんなさい。流石です早すぎます』


 声の正体は方舟から通信を飛ばした糸魚川いといがわのものだった。

 方舟からの観測映像をもとに凍雲へ即座に通信を繋いで黒泥の対処を頼んだは良いものの、それよりも早く対処されてしまって気まずいやら尊敬の念やらで複雑な気持ちになる糸魚川いといがわであった。


 彼の声を聞いて内心、無事なことに安堵する一方で、思考は眼前の怪奇現象へと向ける。


「アレはなんだ?」


 汚泥を即座に凍らせるという適切な指示を下した糸魚川ならばその正体に心当たりがある。

 そう踏んだ凍雲は糸魚川へ問いかけた。


『魔獣アンリマユが顕現する兆候です。どうやら恐怖や悲しみ、怒りといった負の情念と莫大な魔力がこのオアフ島に満ちたせいで、アレが顕現する土台ができてしまったようです』


 それこそが、糸魚川いといがわがソロモンの報告書とザンドよりもたらされた情報の二点から分析したこの現象に対する解であった。

 かつて、神々の敵対心を煽ることで神々のラグナ黄昏ロク巨神大戦ティタノマキアを引き起こして神代を終焉へと導いた存在。

 その存在については蘆屋道満が風早へ語り聞かせた際の映像報告から知っていた。

 それ故に合点が入った。


「となると、アトランティスや狂嗤うクレセント・道化クラウンがハワイ地下大監獄から受刑者を解き放った目的はこのオアフ島に魔獣が顕現する土台を築くため……か」

『恐らくは……。これまでの情報を整理するにあたり、狂嗤うクレセント・道化クラウンは魔獣の力に魅せられた謂わば眷属のような存在であることはまず間違いありません』


 世界を一新することで次の時代を担う霊長を生み出し、生態系のサイクルを回す“世界システム”を尊重。

 そのシステムを破壊し得る可能性を秘めた八神を殺害しようと企む。

 なにより、これまでの言動全てを統合すれば彼らが魔獣の眷属であることは疑いようのない事実であろう。


『ただ、アトランティスに関してはそれだけが目的ではないように見えます。その内の一つではあるでしょうがね』


 アトランティスが脱獄囚を解き放った理由はオアフ島に悲劇を撒き散らして魔獣顕現の土台を築くこともその一つで間違いない。

 だが、マシュが考察していた“オアフ島を惨劇の舞台とすることで、世論に悪感情を抱かせて内圧をかけると共に日本とアメリカの国交関係を悪化させる”というものもあるだろう。


 けれど、それだけではない。


 それだけならば態々オアフ島へオリュンポス十二機神の内の二機を送り込むだけでなく、更に追加投入する意味などない。

 

『彼らの三つ目の目的は我々の共通の敵となることで、アトランティスという脅威を世界に示すこと。全世界の共通悪となることです』

「…………そうか、アトランティス本土をあえて戦場とすることで、魔獣の顕現ないし何かしらの土台を築こうと考えているということか」

『恐らくは』


 世界の共通的な悪となることなど、本来はデメリットしかない。

 しかし、共通の敵となったとしてもなお勝算があるとしたら?

 このオアフ島の悲劇がただの検証実験であったとしたら?

 アトランティス首魁の目的の為には莫大な魔力が満ちた空間が必要であり、その為にアトランティスが戦場となることを望んでいるとしたら?

 

 そう考えれば、その凶行にもメリットが生まれることとなるのだ。


「アトランティスに狂嗤うクレセント・道化クラウンに魔獣、最後にはザンドもか。まだまだ敵は多いな」

『あ、それに関してなんですが……』

「ザンドは味方になったとでも言うつもりだろうが、今は共同戦線を張っていたとしても最終的には捕えるべく戦う敵に変わりはないぞ」


 ザンドは味方になった。

 そう言おうとした糸魚川の言葉を読んだ凍雲は先んじて返答を返した。

 確かに、現状はアトランティスや魔獣といった共通の敵がいるから手を取り合う選択肢を取れる。

 だが、それが終わればまた敵同士。

 ザンドが法を破った犯罪者である以上、特務課である彼らにはザンドを捕える責務があるのだから。


『そう、ですね……』


 糸魚川はその言葉に理解を示すが、その裏には深い悲しみがあった。

 凍雲にとってザンドはかつて戦場を共にした仲間であり、相棒であった。

 そんな彼らが漸く手を取り合って再び共に戦える状況になったというのに、これが終われば最後には戦う運命にあるなど……。


ひじり、貴様のその想いはヤツへの侮辱だ」


 そんな糸魚川へ凍雲は静かに語り聞かせる。


「ヤツはヤツの信念にのっとって道を外れた。そこには未練も葛藤も合っただろう」


 弱き者が虐げられることのない社会を。

 誤った正義を掲げることのない、真に心強き者が互いを尊重し合える社会を目指す為、ザンドは特務課から離反した。

 

 だが当然、凍雲を始めとした第五班の仲間たちと道を違えることに対する葛藤はあった。

 敵対する道へと進むことに対する迷いはあった。

 仲間との温かな日々を手放す未練はあった。


「奴は、……そんな誰もが想い悩むような普通の感性を抱く優しいやつだった」


 特務課第五班の仲間として、共に任務に就くことが多いバディとして、凍雲はザンドの精神性を理解していた。


「それでも、奴は己が信じる信念を貫き通す為、大切なものを手放してでもその想いを貫く覚悟を決めたんだ」


 全ては、己が信念の先にある理想の社会の為に。


「ならば、俺たちが仲間としてしてやれるのは敵対を悲しむことではなく、もう一度仲間へ戻れる道を期待することでもない」


 信念を貫き通す覚悟に対峙する想いは、悲嘆でも、希望でも、憐憫でも、憤怒でも、怨恨でも、執着でもない。


「真っ向からその信念を受け止め、その上で貴様は手段を間違えたと突きつけてやる覚悟だけだ」


 かつての仲間との共闘。

 それは決して和解の兆しとなるものではなく、そうあってはならないものだ。

 その程度で有耶無耶にして良いものではないのだ。


 ザンドは己の正義を全うする為に多くの人を殺した。

 犯罪者だけではなく、法では裁けぬ悪を為した一般人も虐殺した。

 故に、光の道へ戻るというのならケジメをつけなければならない。


 ザンドの信念を砕き、これまでの行いを清算させ、法の下に正しい正義を強制する。

 そうした己のエゴを押し付ける身勝手な方法でしか糸魚川の望む『仲間として再び並び立つ』未来は掴めない。


 だけど、そんなものは不可能であり、誰も望まない。

 この世に法で裁けぬ悪がいる限り、弱者が虐げられる社会がある限り、ザンドの信念は決して砕くことなどできない。

 糸魚川自身もそのような身勝手な正義を押し付けるような救いは求めていない。


「そう、……ですね」


 だからこそ、その言葉に糸魚川は消えいるような声で頷くしかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る